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7月

第33話 不吉

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 身体の痛みに顔をしかめつつ、ロベールは座布団から頭を持ち上げた。……何か、嫌な夢を見た気がするが、思い出せない。

「……大丈夫? まだ、傷が痛むのかしら」

 美和に呼びかけられ、ハッと顔を上げる。
「大したことない」と口にしたは良いものの、暗い思考が胸の中を渦巻くばかりで、なかなか晴れていかなかった。

「そーいやさ、美和。ガッコどうだった?」

 奈緒の声は変わらず明るい。……その明るさはロベールにとって眩しくもあるけれど、有難かった。少なくとも、先の見えない今は余計に。

「……シャルちゃんが元気なくって……どうしたのかしら」
「ふーん……? なんか、心配だね……。あ、大上センセは?」
「な、なんでそこで大上先生が出てくるのよ」
「ん? 朝会ったし、遅刻してないかなーって」
「あっ、そ、そういう意味……」

 語り合う美和と奈緒の声を聞きながら、ロベールは再び座布団を枕にする。……と、薄暗くなった空に気が付いた。

「……花野センパイ、良いんですか。僕らがこんな時間までいて……」
「別に、気にしないで。父さんも母さんも、奈緒の家の事情を知っているし……訳がありそうな子に甘いのよ」

 ロベールは美和の説明に「そう」とだけ答えたものの、「奈緒の事情」が少しばかり気になりはした。
 ちらと奈緒の方を見ると、平然とした顔であぐらをかいている。

「ウチ、親居ないようなもんだからねぇ。オヤジは死んじゃったし、おかーさんも全然家帰ってこないし」
「え、そうだったんだ……」

 ロベールには、幼い頃の記憶がぼんやりとしかない。
 顔の焼け爛れた「父」と、心を壊した「母」の姿を……その凄まじさを、漠然と記憶しているのみだ。

「アニキがどっかにいるらしいけど、会ったこともなくってさぁ」
「……僕と、似てるね」

 思わず、呟いてしまったロベール。
 美和は気まずそうに目を伏せるが、奈緒はきょとんと首を傾げた。

「……ん、いい子いい子」

 唐突に、奈緒はロベールの頭に手を伸ばし、撫で始める。

「わわ、な、何すんの!?」

 狼狽うろたえるロベールを、今度はぎゅっと抱き締める。

「さみしそーな顔してたから」

 ロベールが腕の中で真っ赤になっていることを知ってか知らずか、奈緒はへらりと笑った。

「親分なら、たまには優しくしなきゃね!」
「だ、だからさぁ、誰が子分なんだよ、誰が……!!」

 戯れる二人を見つめ、美和の表情にも自然と微笑みが宿る。
 その時だった。
 激しいノックの音が、穏やかな時間の終わりを告げた。

「美和! ちょっと来て!! 紗和が……紗和がっ!!」

 泣き出しそうな母の声にただならぬ予感を感じ、美和も慌てて立ち上がる。

「……二人はここで待ってて」

 そう言い残し、美和はドアの向こうへ消えて行った。

「……サワ、って?」
「たぶん、美和のお姉さん……」

 ロベールと奈緒は顔を見合わせ、美和の帰りを待つ。
 ……15分ほどして、美和は蒼白い顔をして戻ってきた。

「……姉さんが、フランスで亡くなったらしいの」
「……えっ」

 ロベールは美和の姉のことを何一つ知らない。
 それでも……「姉の死」という言葉に、意図せず身を強ばらせた。

「これから……その、お葬式の話とか、するから……。……だから……」
「わ、分かった! ロベールくんはウチに連れてくから、気にしないで!」

 さすがの奈緒も、慌てた様子で帰り支度を始める。ちらちらと美和の方を見ては、励ましの言葉が見つからずに押し黙る奈緒。……それは、ロベールも同じだった。



 ***



 奈緒とロベールが帰った後、美和は姉が書いた本を手に取り、わっと泣き崩れた。

「こんなの、酷いわ。いきなりすぎる……!」

 父と母の話し合う声が、居間の方から聞こえる。

「……だから海外留学には反対だったんだ。あの身体で、一人で生きてくなんて無茶だった……」
「私……ルルドの方や、あちらの聖地にも行ってみるよう手紙に書いたわ。あらゆる神さまに頼ったのに……うう、可哀想な紗和……」

 可哀想。
 何が、気に食わなかったのかわからない。
 何に、そこまで腹が立ったのかわからない。

 けれど、気が付けば外に飛び出していた。

「美和!!」と、父親か母親の声が聞こえた気がする。……それでも、構わず走り出した。



 宛てどもなく走り続ければ、やがて、息は切れる。ふらつく足を休めようと、美和は手近な石段に腰をかけた。
 振り返ると、見覚えのある鳥居が目に入る。石段の上にそびえ立つ鳥居は、夜のせいか妙な圧迫感すら与えてくる。

「……大神神社……」

 美和の呟きに応えるかのように、石段の上から声が降ってきた。

「本来は、大神社おおかみやしろって言うんだけどな」

 いつの間にやら、そこには普段の白衣でなく、黒い和服を身に付けた次郎が立っていた。
 一瞬、美和は「太郎」の方かとも疑ったが……声音も、目付きも、かつて同じ場所で見た「太郎」とは明らかに違った。

「……大上、せん、せい……?」

 運命? ……なんて、馬鹿らしい夢物語が頭によぎる。
 次郎の瞳は金色に輝き、どこか遠くを視ているようでもあった。

「ちょっとした野暮用だ。……それよりも、花野。どうしたんだ? こんな時間に」

 手元の刀が、キラリと夜闇に光る。

「……姉が……亡くなったんです」

 次郎は紗和の家庭教師だった。
 年齢も近いし、それなりに仲良く会話をしていたと記憶している。

「……? それは、夜に出歩くことと関係があるのか?」

 悲しみすら共有できないことは、何となく予感していた。
 それでも、同じ感情を分かちあいたかった。……自分では持て余すほどの心を、理解してもらいたかった。

「じろ兄」

 涙が溢れて止まらない。
 そんな美和の様子に、次郎は狼狽えるばかりだ。

「……困ったな。俺には本当に、分からないんだ」

 一歩ずつ、次郎は石段を降りてくる。
 眉根を寄せた表情は不安げで、美和には、途方に暮れているようにも見えた。

 きっと、
 どれほど言葉を尽くしたって、どれほど態度で示したって、同じことだ。
 ……それでも……それでも、美和は諦めきれない。
 ふらふらと立ち上がり、黒い瞳が金色の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「じろ兄は……姉さんが可哀想だって、言わなかったわよね」
「彼女の何が可哀想なんだ? いつも明るくて、楽しそうで、自分の夢を追いかけていた」

 美和も同じように思っていた。
 姉はいつだって幸福そうだった。……訃報を聞いた今でさえ、そう思う。
 彼女は死ぬまで夢を追い続け、憧れた異邦の地で死んだのだ。……決して、可哀想な人生だとは思えない。いや、思いたくない。

「私……私、姉さんに憧れてた。あんなに輝いてた人、他にはいないわ」

 ぽたぽたと涙が落ちる。眼鏡が曇るのも構わず、美和は感情を吐露し続ける。

「……じろ兄も、姉さんと似てる。二人とも、瞳に自由があるの」
「……ふむ」

 次郎には、美和の感情が理解できない。……けれど、美和が欲している「何か」に関しては理解できた気がした。

「つまり、お前は『自由』が好きなのか」
「……え?」

 次郎の右腕が動いたことに、気が付かなかった。
 美和の脚を薙ぐように、白刃がはしった。

「い……ッ!?」

 悲鳴を上げ、美和は石段を2~3段転げ落ちる。
 アスファルトの地面に尻もちをつき、スカートの下から流れる血に気付く。
 刀は少女の脚を切断するには至らなかったが、赤黒い血がだらだらとふくらはぎを伝って落ちていく。

「…………ああ、のか」

 あくまで冷静に、次郎は語る。

「うーん……確かに、厄介だな」

 勝手に持ち上がろうとする腕を見つめ、次郎は小さくため息をついた。

「花野。大神さまはどうやら、お前が気に食わないらしい」

 何を言われているのか、美和には分からない。
 溢れる血潮が混乱を呼び、心臓が早鐘のように高鳴る。
 本能が警鐘を鳴らす。

「死にたくないなら逃げろ。俺も、教え子を見殺しにしたくはない」

 次郎はあくまで、平然としている。

「……どうして、」

 美和の本能が、「逃げろ」と叫び続ける。
 それでも、美和は次郎を見据え、問いを投げ付けた。

「どうして、何も教えてくれないの……!!」

 泣き叫ぶような、それでいて責めるような声にすら、次郎は首を傾げた。

「知ったところで、お前にはどうもできないぞ?」

 次郎の右腕が、再び刀を持ち上げる。
 思わず、美和はギュッと両眼をつぶった。
 肉を切り裂く音が鼓膜にこびり付く。……だが、美和の身体に痛みはない。
 恐る恐る目を開けると、目の前の地面に、血を流す手首が転がっていた。

「危なかったな! だが、どうにかなったぞ!」

 視線を次郎の方に向けると、晴れやかな笑顔が視界に映る。
 いつの間にやら左手に刀を持ち替え、次郎は爽やかに笑っていた。
 ……手首から先を失った右手から、ボタボタと鮮血を溢れさせたまま。
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