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エレーヌ・アルノーの追憶
第十話 そしてわたしは何かに導かれるよう、彼の首を絞めた
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分かっていたわ。
触れ合ったところで、この溝は埋まらない。
どれほど惹かれあっても、わたしたちは分かり合えない。
それでもわたしは、あなたが欲しかった。
……あなたの一番になりたかった。
けれど、あなたからの愛を欲しがることそのものが、あなたが欲する「わたし」からかけ離れている。
どこまで愛を注いでも、どれほど美を磨いても、わたしは彼の芸術に勝てやしない。
惜しみない愛を捧げ、そうして生み出す美の結晶に、わたしは決して敵わない。
それでも縋りたかった。
わたしは、あなたの……
トクベツに、なりたかった。
***
「ぼくに相談なんて、きみらしくないね」
ポールはコーヒーを啜りつつ、古い新聞に目を通している。このカフェのコーヒーはわたしも好きだけど、今は、ひと口も飲む気になれない。
向こうはびっしりと中国語が書かれた新聞をうんうんと頷きながら読んでいるけど、おそらく内容は分かっていない。わたしと付き合っていた時から、そういう男だ。
「わたしらしさなんて、もうとっくに消え失せてるわ」
「そうかもしれないなぁ」
ポールはへらへらと笑うけど、こっちはそれどころじゃない。
ノエルに相談しようかとも考えはした。でも、正直なところ、彼女とは二度と関わりたくなかった。
「カミーユについて、聞きたいことがあるの」
でも、わたしがそう切り出すと、ポールは新聞をしまってわたしの方に向き直った。
……カミーユも、せめてこれくらいはわたしを見てくれるなら、何か違ったのかしらね。
「ぼくに答えられるかは、保証できないよ?」
「それならそれでいいわ」
「じゃ、どうぞ」
「……わたし、カミーユの一番になりたいの。彼にとって、トクベツな──」
すべてを言い切ることもできず、
「無理だね」
非情な結論に、幻想が打ち砕かれる。
「あいつの一番はもう決まってる。それは、誰の目にも明らかだ」
「……芸術家だものね」
「そうとも。……それは、きみが悪いとかあいつが悪いとか、そういう話じゃない。生き方の違いだ」
ポールはあくまで冷静に、諭すように話しかけてくるけど、そこに情があるのは理解できる。
「本音を言うとね、ぼくは、きみにもカミーユにも不幸になって欲しくない」
「……。不幸って、何かしら」
わたしの呟きに、ポールは言葉を詰まらせた。
相手にもわかっているのかもしれない。
わたしにとって一番の不幸は、カミーユが手に入らないことだって。
初めて知った激しい執着に、妥協できる「落とし所」が見つからない。そんなものがあるのなら、とっくに先へ進めている。
わたしが愛するのはカミーユでなければならないし、カミーユが愛するのもわたしでなくてはならない。……それが叶わない未来を考えたくないほど、彼の存在が焼き付いて離れない。
「どうして、そこまで執着するんだい?」
かつてのわたしとポールは、恋愛の楽しみ方という時点でよく似ていた。
だから、きっと、ポールは今のわたしを理解できない。
グリーンの瞳が、興味深そうにこちらを見ている。わたしの痛みも、苦しみも、糧にしようと輝く、貪欲な瞳。
……芸術家の瞳。
「美しかったの」
「……作品が? それとも、本人が?」
「どちらもよ。……どちらもカミーユじゃない……」
会話が止まる。
皮肉なものね。わたしが彼を愛した原因が、今度はわたしが彼に愛されない理由になるなんて。
「エレーヌ、えーと……ううん、どう言えばいいのかなぁ」
ポールの焦った声が遠くなる。
会いたい。会いたい。会いたい。……愛されたい。
あの美が、あの繊細な情熱が欲しい。あの執心をわたしに向けて欲しい。
──君の愛は、所有欲でしょ
掠れた怨嗟が蘇る。
ポールの唇が、動いては声を出さずに止まるのが見える。
それでも、わずかな音だけ聞き取れた。
「もう、あきらめなよ」
拒絶するよう、背を向ける。
わたしだってわかっている。それが最善で、最も幸福に繋がる道だって……わからないほどバカじゃない。
それでも、わかっているのに割り切れない。どうしたって逃れられない激しい欲望が、わたしを内側から破壊し続けている。
「えっ!? 待っ、いったいどこに──」
呼び止める言葉を振り払い、走り出した。
わたしは何も、トクベツなものなんて持っていない。平凡で、つまらない女。
わたしに溢れんばかりの才能や、天性の美貌があれば、彼を惹き付けられた? 目を離せないくらい、夢中にさせられた?
見覚えのある家が近づいてくる。
あなたがわたしを一番に愛してくれないなら、もっともっと大切な何かにうつつを抜かすっていうのなら、そんな、そんなあなたは──
触れ合ったところで、この溝は埋まらない。
どれほど惹かれあっても、わたしたちは分かり合えない。
それでもわたしは、あなたが欲しかった。
……あなたの一番になりたかった。
けれど、あなたからの愛を欲しがることそのものが、あなたが欲する「わたし」からかけ離れている。
どこまで愛を注いでも、どれほど美を磨いても、わたしは彼の芸術に勝てやしない。
惜しみない愛を捧げ、そうして生み出す美の結晶に、わたしは決して敵わない。
それでも縋りたかった。
わたしは、あなたの……
トクベツに、なりたかった。
***
「ぼくに相談なんて、きみらしくないね」
ポールはコーヒーを啜りつつ、古い新聞に目を通している。このカフェのコーヒーはわたしも好きだけど、今は、ひと口も飲む気になれない。
向こうはびっしりと中国語が書かれた新聞をうんうんと頷きながら読んでいるけど、おそらく内容は分かっていない。わたしと付き合っていた時から、そういう男だ。
「わたしらしさなんて、もうとっくに消え失せてるわ」
「そうかもしれないなぁ」
ポールはへらへらと笑うけど、こっちはそれどころじゃない。
ノエルに相談しようかとも考えはした。でも、正直なところ、彼女とは二度と関わりたくなかった。
「カミーユについて、聞きたいことがあるの」
でも、わたしがそう切り出すと、ポールは新聞をしまってわたしの方に向き直った。
……カミーユも、せめてこれくらいはわたしを見てくれるなら、何か違ったのかしらね。
「ぼくに答えられるかは、保証できないよ?」
「それならそれでいいわ」
「じゃ、どうぞ」
「……わたし、カミーユの一番になりたいの。彼にとって、トクベツな──」
すべてを言い切ることもできず、
「無理だね」
非情な結論に、幻想が打ち砕かれる。
「あいつの一番はもう決まってる。それは、誰の目にも明らかだ」
「……芸術家だものね」
「そうとも。……それは、きみが悪いとかあいつが悪いとか、そういう話じゃない。生き方の違いだ」
ポールはあくまで冷静に、諭すように話しかけてくるけど、そこに情があるのは理解できる。
「本音を言うとね、ぼくは、きみにもカミーユにも不幸になって欲しくない」
「……。不幸って、何かしら」
わたしの呟きに、ポールは言葉を詰まらせた。
相手にもわかっているのかもしれない。
わたしにとって一番の不幸は、カミーユが手に入らないことだって。
初めて知った激しい執着に、妥協できる「落とし所」が見つからない。そんなものがあるのなら、とっくに先へ進めている。
わたしが愛するのはカミーユでなければならないし、カミーユが愛するのもわたしでなくてはならない。……それが叶わない未来を考えたくないほど、彼の存在が焼き付いて離れない。
「どうして、そこまで執着するんだい?」
かつてのわたしとポールは、恋愛の楽しみ方という時点でよく似ていた。
だから、きっと、ポールは今のわたしを理解できない。
グリーンの瞳が、興味深そうにこちらを見ている。わたしの痛みも、苦しみも、糧にしようと輝く、貪欲な瞳。
……芸術家の瞳。
「美しかったの」
「……作品が? それとも、本人が?」
「どちらもよ。……どちらもカミーユじゃない……」
会話が止まる。
皮肉なものね。わたしが彼を愛した原因が、今度はわたしが彼に愛されない理由になるなんて。
「エレーヌ、えーと……ううん、どう言えばいいのかなぁ」
ポールの焦った声が遠くなる。
会いたい。会いたい。会いたい。……愛されたい。
あの美が、あの繊細な情熱が欲しい。あの執心をわたしに向けて欲しい。
──君の愛は、所有欲でしょ
掠れた怨嗟が蘇る。
ポールの唇が、動いては声を出さずに止まるのが見える。
それでも、わずかな音だけ聞き取れた。
「もう、あきらめなよ」
拒絶するよう、背を向ける。
わたしだってわかっている。それが最善で、最も幸福に繋がる道だって……わからないほどバカじゃない。
それでも、わかっているのに割り切れない。どうしたって逃れられない激しい欲望が、わたしを内側から破壊し続けている。
「えっ!? 待っ、いったいどこに──」
呼び止める言葉を振り払い、走り出した。
わたしは何も、トクベツなものなんて持っていない。平凡で、つまらない女。
わたしに溢れんばかりの才能や、天性の美貌があれば、彼を惹き付けられた? 目を離せないくらい、夢中にさせられた?
見覚えのある家が近づいてくる。
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