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凡夫
娼館の調査に向かった場合(1)
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「……返事は……少しだけ、待ってもらって良いですかい」
盗賊が出るのは事実で、娼館の経営方針自体がきな臭いのも事実。……ゲオルクにとって、簡単に答えが出せる問題ではなかった。
「分かったよ。……できれば、いい返事が聞きたいねぇ」
支配人は澱んだ目を怪しく光らせ、のそのそと立ち去った。
気の抜けきったビールを飲み干し、ゲオルクは席を立つ。
その足で、ほとんど通ったことのない娼館へと向かった。
***
無気力に生きてきたゲオルクにとって、盗賊退治の依頼は寝耳に水だった。
だからこそ、普段やらないようなことをしてみようと思えたのかもしれない。
「……盗賊? さぁ、何のことだか……」
ゲオルクに尋ねられた娼婦は、怪訝そうに首をひねった。
栄養状態が良くないのか、やつれた顔にはクマのようなものも見える。
化粧でどうにか隠そうとしているのは感じ取れるが、支配人に感じた胡散臭さは大方当たりだと考えて良さそうだった。
「ここの支配人が、盗賊が出るって言っていたんだが」
「……ああ。そんな話、してたかもしれないね。別にどうでもいいけど……」
娼婦の瞳には生気がなく、声にも覇気がない。
抱く気はない、とゲオルクが告げた時から、空元気すらも姿を消していた。
ゲオルクと同じように、彼女も惰性で死んだように生きているのかもしれない。
「……他に、知ってそうな子は……」
ゲオルクが切り出した途端、天井が揺れ、呻き声とも泣き声とも叫び声ともつかない声が響く。
コホン、と気まずそうに咳払いをし、ゲオルクは再び口を開こうと……
「この野郎! また忍び込みやがったな! 」
……して、廊下からの怒号に思わず肩を跳ねさせた。
「ツケも払ってねぇってのに……!」
「うへぇ、許してくださいよ旦那! ちゃぁんと払いますから! この通り!」
話していた相手に断りを入れ、ゲオルクは建付けの悪い扉から首だけを覗かせる。
酒場でよく見かける若者が、支配人に怒鳴りつけられていた。
「その台詞はもう聞き飽きた!」
「うう……そんなぁ……」
「……だが、そうだな……仕事を受けてくれるのなら、特別に見逃してもいい」
「仕事? 何の?」
「なぁに。あんた、元曲芸師なんだろう? 猛獣を相手にしてたなら、造作もない仕事だ」
……ゲオルクに依頼したように、支配人は若者に「盗賊退治」を持ちかけていた。
「……人手に困ってんのかねぇ」
ぼやくゲオルクに、娼婦は吐き捨てるように告げた。
「金をケチってるんだよ。どうせ、私腹を肥やすのに忙しいんだろう」
廊下に繋がる扉を閉じ、ゲオルクは思案する。
予想した通り、娼館は悪辣な経営を行っていた。盗賊から娼館を守ったところで、彼女らの待遇が良くなる訳でもない。……とはいえ、経営が傾き閉鎖にまで至ってしまえば、娼婦達は路頭に迷ってしまうのではないだろうか。
「ダメ!!!」
……と、その思考を中断するかのように、若い女の声が響いた。
「ダメだよヨハン! そんな仕事、受けちゃダメ!!」
「うわっ!? ど、どうしたんだよマリアンネ!?」
「なんだ? 商品の分際で口出しか? よっぽど折檻されたいらしいな!」
どうやら、揉め事が起こったらしい。
ゲオルクは再び、扉を開いて廊下の方を覗いた。
若い娘が、支配人の前に立ち塞がっている。
「あたしに折檻なら、いくらでもどうぞ! ……でも、ヨハンに危険な仕事をさせるのはやめてください!」
「な、何言ってんだよマリアンネ……!」
ヨハン。
若者の名前だろう。酒場でよく見かける程度の仲でしかなかったが、その名前が、ゲオルクの胸に感傷を呼び覚ました。
──アンタ。絶対に、帰って来なよ
ゲオルクの妻の名は、ヨハンナと言った。
飛び抜けて美人というわけでもないが、明るく笑う女性で、ゲオルクとは幼い頃からの馴染みだった。
とうの昔に失った、愛する人の名だ。
「大丈夫だよマリアンネ。おれが、絶対に守ってやるからさ」
「だ……ダメ。本当にダメなんだよ、ヨハン……! こんなの……こんなのってないよ……!」
……おそらく、マリアンネとヨハンは、客と娼婦を超えた間柄なのだろう。
「……この……ッ」
「待っ……!? 殴るならおれを……!」
ヨハンの懇願も聞かず、支配人は泣き崩れたマリアンネの赤茶けた髪を引っ掴み、手を振り上げる。
「あー……あの……」
ゲオルクがすかさず声をかけると、支配人はハッと振り返った。
気の抜けた声ではあったが、聞こえはしたらしい。
「……! マイヤーさんじゃないか」
折檻の現場を見られることが気まずかったのか、支配人はばつの悪そうな顔でマリアンネの髪から手を離す。
「例の依頼なんですけどねぇ……受けさせてもらっても、良いですかい?」
「盗賊退治」をする気になったわけではない。
……だが、どうしても重ねてしまったのだ。
女のために死地に向かう男と、男のため危険な場所で待ち続ける女。かつての自分と、亡き妻ヨハンナ。……そして、目の前のヨハンとマリアンネ……。
***
「……いやぁ、すみません。情けねぇとこ見せちまいましたね」
別室にて、ヨハンは苦笑しつつポリポリと頬をかいた。ゲオルクが金を出し、既に呼んでいた娼婦とマリアンネを交代させたのだ。
ヨハンは頬をかいている方とは逆の手で、クルクルとナイフを回して弄んでいる。
「……ああ、これ? 実はね、緊張するとこうやって手遊びを始めちまうんです。舞台に立ってた頃の癖ですかねぇ」
ゲオルクの視線に気付き、ヨハンは自らの癖を説明する。
マリアンネは俯いたまま、じっと押し黙っていた。
「……盗賊が出るってのは、本当みたいだな」
ゲオルクの問いに、マリアンネは泣き腫らした顔で頷く。
危険を悟っているからこそ、ヨハンに依頼を受けさせたくなかったのだろう。
「あたし達……兄妹みたいに育ったんです。でも、一座が潰れてしまって、路頭に迷って……座長に売られてしまったあたしに、ヨハンは笑ってついてきてくれました。酒場で大道芸をやるだけじゃお金にならないから、給仕や皿洗い、料理の仕込み、色々やって、他の人にあたしを買わせないように頑張ってくれて……」
マリアンネは涙ながらに、ヨハンとの関係性を語る。
ヨハンは照れくさそうに蜂蜜色の髪をいじりつつ、「まあ……全然足りなくて忍び込む羽目になっちまってるんですが 」と苦笑気味に付け加えた。
「でもなぁ。盗賊が出るって言うなら、もっと早く相談してくれても良かったのに」
「…………」
ヨハンが盗賊の話題を切り出すと、マリアンネは再び口をつぐむ。
「何か……心当たりが?」
ゲオルクがじっと見つめると、マリアンネは肩を震わせ、スカートをぎゅっと握った。
長い沈黙が、その場に流れる。
「……ヨハンは、本気で盗賊退治に行くつもりだぞ。好きな子が危ない目に遭うのは、辛いだろうから」
「やだなぁ。マリアンネはおれの妹みたいなもんですよ」
ゲオルクが宥めるように言うと、ヨハンの方から呑気な声が上がる。
「兄貴分ならきっちり守ってやれって、昔、先輩にきつく言われちまったんです」
その言葉に、マリアンネの瞳から再びポロポロと涙が溢れ出す。
「ごめんなさい……あたし、もう、黙ってられない……!」
明らかにゲオルクやヨハンに向けてでは無い懺悔が、嗚咽とともに零れる。
ゲオルクは厄介事の気配を感じながらも、静かに耳を傾けた。
***
マリアンネが言うには、此度の盗賊騒ぎは数名の娼婦たちもグルになっている、ということだった。
件の盗賊の頭が娼婦たちに直接声をかけ、「支配人を殺してやる。協力するなら分け前をやる」と囁いたらしい。
例え、それが嘘八百だったとしても。
劣悪な環境で働かされている娼婦たちが甘言に縋ってしまうのは、無理からぬことと言えた。
「おれ達もグルになっちまいましょうよ」
ややこしい事態に頭を悩ませるゲオルクに対し、ヨハンはあっけらかんと告げた。
「……いや、しかしなぁ」
「どっちのことも利用するんです。どうせ、娼館も盗賊も悪党なんですから」
ヨハンは口元に薄ら笑いを浮かべているが、その視線はいたって真剣だ。
頬に冷や汗が伝っているのを見、ゲオルクは小さくため息をついた。
おそらくは、悪事などほとんど考えたことの無い若者だろうに。妹分の手前、無理をしているのは明らかだった。
「支配人を差し出すっていうのも、手かもしれやせん」
「ヨハン……それって……」
マリアンネは息を飲みつつ、その策を否定はしない。
彼女とて、もう、こんな生活は懲り懲りなのだろう。逃げ出せるのであれば、それに越したことはない……と、考えるのもおかしくはない。
「……よし」
ゲオルクはどうにか知恵をひねり出し、頷いた。
「どさくさに紛れて、二人で逃げな」
「……! でも、自警団がいるのに……」
「あっしが自警団連中を煽るよ。そんで、上手いことみんなで仕事をばっくれるんだ。マリアンネのことは盗賊に攫われたと思わせりゃいい」
ゲオルクの冷静な案に、マリアンネは不安そうな顔をしつつも「いいかもしれない」と頷く。
「逃亡資金はないけど……稼いだお金をかき集めたら、何とか……?」
「足りないなら、あっしがいくらか助けるよ。……どうせ、使い道もないんでな」
「……! そんな! 何でそこまで……!」
目を丸くするヨハンに、ゲオルクは自嘲気味に告げる。
「俺はもう、亡くしちまったからな」
自嘲とはいえ、彼が笑みを浮かべたのは久方ぶりだった。
「二人ともまだ若いんだ。こんなところで使い潰されるよか、別の道を探した方がよっぽどいい」
「……げ、ゲラルトの旦那……!」
「ゲオルクだ」
緑色の瞳を潤ませ、ヨハンはゲオルクの手をがしりと握った。
「この恩は忘れやせん……! いつか必ず、返しに行きやすぜ……!」
ヨハンの緑色の瞳も、マリアンネの琥珀色の瞳も、澱んだ自分の瞳とは違い、澄みきっている。
ゲオルクは茶色の瞳を静かに閉じ、亡き妻の姿を追想した。
小麦畑を駆ける、亜麻色の髪の少女。
やがて少女は自分と同じように歳を経て、大人になり……
……もう、二度と、彼女が歳を取ることはない。
「……ヴィルヘルム……」
腕に抱かれた幼子も、幼子のまま。
二度と、成長することはないのだろう。
***
支配人はやはり人望がなかったらしく、不満を煽ることは難しくなかった。
「だいたいよぉ! オイラは前々から気に食わなかったんだ! あの豚オヤジめ、貧乏人だからって見下しやがって!」
鉱山でよく見かけるもじゃ髭の男は、赤ら顔を更に真っ赤にしてまくし立てる。
「今回の仕事もそうだ! どうせオイラが金に困ってるからって、足元見てやがるに決まってんだ! こっちは命を賭けるってぇのによ、はした金チラつかせたら言うこと聞くと思いやがって……!」
「……でも、依頼は受けたんだろう?」
「当たり前だ! こちとら週明けまでに50マルク、耳を揃えて返さなきゃならねぇんだ!」
彼らが持ち場を離れたと、支配人が気付く頃にはもう手遅れだろう。
ヨハンとマリアンネが無事に逃げおおせていることを祈りつつ、ゲオルクは髭もじゃ男の愚痴を右から左へと聞き流す。
「ペーターさん、もちっと小さい声で喋ってくれ。耳に響く」
「あぁん? オイラの声がでかいってぇのか!?」
「でけぇよ。しかもガンガンする」
「テメェの声がちっちぇえんだよ! いつも辛気臭ぇ顔しやがって! その顔見てたら、こっちまで気持ちが暗くなっちまわぁ!」
「そ、そうかい……」
「ったく……毎日毎日死んだような目をしやがって。何があったか知らねぇが、人間生きてりゃそれで勝ちだ。おい、聞いてんのか!?」
いつの間にか、愚痴の矛先はゲオルクに向かっていた。
ガミガミ声の説教に辟易しながらも、ゲオルクは、娼館の方の騒ぎに意識を割いていた。
盗賊が引き上げたことを確認すれば、ゲオルクの役目はそこで終わりだ。
後は、いつものように日常を続けるだけ。
起きて、石炭を採掘し、運んで、寝る。
時折酒や賭博で気を紛らわせ、また鉱山に登る……そんな、日常を。
***
その後、娼館の支配人が行方不明になり、一人の娼婦が経営者として名乗りを上げた。「いち娼婦なぞに務まるものか」と侮る客も多かったが、彼女はあっさりとその噂を覆してみせ、少なくとも娼婦達の扱いは前支配人とは比べ物にならないほどに良くなった。
ゲオルクは元通り色褪せた日常に戻ったものの、少し、変わったところもあった。
ヨハンとマリアンネの動向を気にしたり、自警団で一緒になった髭もじゃ男の愚痴に付き合わされたりするうち、無気力で無感動だったゲオルクの胸に次第に感傷が芽生えるようになっていった。
それは心配だとか、呆れだとか、……罪悪感だとか、負の感情であることも多かった。
心が動くようになったことで、余計に苦しくなった部分も多い。……だが、酒場で飲むぬるいビールやパサついたヴルストが、次第に美味しく感じるようにはなっていった。
そんなある日、ゲオルクは落盤事故に巻き込まれた。
岩に脚が押し潰され、動けなくなったゲオルクの視界に真っ先に入ったのは、禿げあがった頭にもじゃもじゃの黒い髭……救援に来たペーターだった。
「大丈夫かゲオルク!」
「……あっしのことはいい……。他の奴らを助けに行ってやってくれ」
激痛に顔をしかめるゲオルクに、ペーターは唾を飛ばしながら息巻いた。
「なーに言ってやがる! テメェが死んじまったら、誰もオイラの話を聞いてくれなくなるだろうが!」
鼻息荒くまくし立て、ペーターはゲオルクを穴から引っ張り出す。
他の鉱夫たちの手も借り、ゲオルクはあれよあれよと医者の元へと運ばれた。
「良いか、傷が癒えても油断するんじゃねぇぞ。傷の膿み方によっちゃ、人間ってぇのはあっさり死んじまうんだからな!」
ベッドの上で横たわるゲオルクに対しても、ペーターは変わらず口うるさくまくし立てた。
「足には清潔な布を巻いておけ。『石炭酸』ってのに浸された布ならもっといい。まだ分からねぇヤツだらけだろうから、テメェの頭でキッチリ覚えておけよ。『石炭酸』だ」
「や、やたらと詳しいな……」
「オイラは死にたくなくてどん底を生きてきた。金も知恵もなりふり構わずかき集めて、どうにかこうにか生きてきたんだ」
不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、ペーターはぶつくさと語り続ける。
二度とまともに歩くことの出来なくなった脚を撫で、ゲオルクは小さくため息をついた。
「……とはいえ、これじゃもう働けねぇし、救貧院行きか」
「何ィ!? せっかく助けたってのに、救貧院行きだと!? ああ、ちくしょうめ! そんなら別の野郎に恩を売っておくんだった!」
「何つうか……正直な人だな、あんた……」
呆れつつも、ゲオルクの顔に自然と笑みが宿る。
「今までありがとう。『石炭酸』のこと、覚えておくよ」
「もちろんだ。せっかく教えてやったんだ、無駄にしやがったら許さねぇからな!」
二人の鉱夫はどちらからともなく手を差し出し、握手をする。
友、と呼べるほどの親しみ深さはないが、別れを惜しむくらいの愛着は生まれていた。
盗賊が出るのは事実で、娼館の経営方針自体がきな臭いのも事実。……ゲオルクにとって、簡単に答えが出せる問題ではなかった。
「分かったよ。……できれば、いい返事が聞きたいねぇ」
支配人は澱んだ目を怪しく光らせ、のそのそと立ち去った。
気の抜けきったビールを飲み干し、ゲオルクは席を立つ。
その足で、ほとんど通ったことのない娼館へと向かった。
***
無気力に生きてきたゲオルクにとって、盗賊退治の依頼は寝耳に水だった。
だからこそ、普段やらないようなことをしてみようと思えたのかもしれない。
「……盗賊? さぁ、何のことだか……」
ゲオルクに尋ねられた娼婦は、怪訝そうに首をひねった。
栄養状態が良くないのか、やつれた顔にはクマのようなものも見える。
化粧でどうにか隠そうとしているのは感じ取れるが、支配人に感じた胡散臭さは大方当たりだと考えて良さそうだった。
「ここの支配人が、盗賊が出るって言っていたんだが」
「……ああ。そんな話、してたかもしれないね。別にどうでもいいけど……」
娼婦の瞳には生気がなく、声にも覇気がない。
抱く気はない、とゲオルクが告げた時から、空元気すらも姿を消していた。
ゲオルクと同じように、彼女も惰性で死んだように生きているのかもしれない。
「……他に、知ってそうな子は……」
ゲオルクが切り出した途端、天井が揺れ、呻き声とも泣き声とも叫び声ともつかない声が響く。
コホン、と気まずそうに咳払いをし、ゲオルクは再び口を開こうと……
「この野郎! また忍び込みやがったな! 」
……して、廊下からの怒号に思わず肩を跳ねさせた。
「ツケも払ってねぇってのに……!」
「うへぇ、許してくださいよ旦那! ちゃぁんと払いますから! この通り!」
話していた相手に断りを入れ、ゲオルクは建付けの悪い扉から首だけを覗かせる。
酒場でよく見かける若者が、支配人に怒鳴りつけられていた。
「その台詞はもう聞き飽きた!」
「うう……そんなぁ……」
「……だが、そうだな……仕事を受けてくれるのなら、特別に見逃してもいい」
「仕事? 何の?」
「なぁに。あんた、元曲芸師なんだろう? 猛獣を相手にしてたなら、造作もない仕事だ」
……ゲオルクに依頼したように、支配人は若者に「盗賊退治」を持ちかけていた。
「……人手に困ってんのかねぇ」
ぼやくゲオルクに、娼婦は吐き捨てるように告げた。
「金をケチってるんだよ。どうせ、私腹を肥やすのに忙しいんだろう」
廊下に繋がる扉を閉じ、ゲオルクは思案する。
予想した通り、娼館は悪辣な経営を行っていた。盗賊から娼館を守ったところで、彼女らの待遇が良くなる訳でもない。……とはいえ、経営が傾き閉鎖にまで至ってしまえば、娼婦達は路頭に迷ってしまうのではないだろうか。
「ダメ!!!」
……と、その思考を中断するかのように、若い女の声が響いた。
「ダメだよヨハン! そんな仕事、受けちゃダメ!!」
「うわっ!? ど、どうしたんだよマリアンネ!?」
「なんだ? 商品の分際で口出しか? よっぽど折檻されたいらしいな!」
どうやら、揉め事が起こったらしい。
ゲオルクは再び、扉を開いて廊下の方を覗いた。
若い娘が、支配人の前に立ち塞がっている。
「あたしに折檻なら、いくらでもどうぞ! ……でも、ヨハンに危険な仕事をさせるのはやめてください!」
「な、何言ってんだよマリアンネ……!」
ヨハン。
若者の名前だろう。酒場でよく見かける程度の仲でしかなかったが、その名前が、ゲオルクの胸に感傷を呼び覚ました。
──アンタ。絶対に、帰って来なよ
ゲオルクの妻の名は、ヨハンナと言った。
飛び抜けて美人というわけでもないが、明るく笑う女性で、ゲオルクとは幼い頃からの馴染みだった。
とうの昔に失った、愛する人の名だ。
「大丈夫だよマリアンネ。おれが、絶対に守ってやるからさ」
「だ……ダメ。本当にダメなんだよ、ヨハン……! こんなの……こんなのってないよ……!」
……おそらく、マリアンネとヨハンは、客と娼婦を超えた間柄なのだろう。
「……この……ッ」
「待っ……!? 殴るならおれを……!」
ヨハンの懇願も聞かず、支配人は泣き崩れたマリアンネの赤茶けた髪を引っ掴み、手を振り上げる。
「あー……あの……」
ゲオルクがすかさず声をかけると、支配人はハッと振り返った。
気の抜けた声ではあったが、聞こえはしたらしい。
「……! マイヤーさんじゃないか」
折檻の現場を見られることが気まずかったのか、支配人はばつの悪そうな顔でマリアンネの髪から手を離す。
「例の依頼なんですけどねぇ……受けさせてもらっても、良いですかい?」
「盗賊退治」をする気になったわけではない。
……だが、どうしても重ねてしまったのだ。
女のために死地に向かう男と、男のため危険な場所で待ち続ける女。かつての自分と、亡き妻ヨハンナ。……そして、目の前のヨハンとマリアンネ……。
***
「……いやぁ、すみません。情けねぇとこ見せちまいましたね」
別室にて、ヨハンは苦笑しつつポリポリと頬をかいた。ゲオルクが金を出し、既に呼んでいた娼婦とマリアンネを交代させたのだ。
ヨハンは頬をかいている方とは逆の手で、クルクルとナイフを回して弄んでいる。
「……ああ、これ? 実はね、緊張するとこうやって手遊びを始めちまうんです。舞台に立ってた頃の癖ですかねぇ」
ゲオルクの視線に気付き、ヨハンは自らの癖を説明する。
マリアンネは俯いたまま、じっと押し黙っていた。
「……盗賊が出るってのは、本当みたいだな」
ゲオルクの問いに、マリアンネは泣き腫らした顔で頷く。
危険を悟っているからこそ、ヨハンに依頼を受けさせたくなかったのだろう。
「あたし達……兄妹みたいに育ったんです。でも、一座が潰れてしまって、路頭に迷って……座長に売られてしまったあたしに、ヨハンは笑ってついてきてくれました。酒場で大道芸をやるだけじゃお金にならないから、給仕や皿洗い、料理の仕込み、色々やって、他の人にあたしを買わせないように頑張ってくれて……」
マリアンネは涙ながらに、ヨハンとの関係性を語る。
ヨハンは照れくさそうに蜂蜜色の髪をいじりつつ、「まあ……全然足りなくて忍び込む羽目になっちまってるんですが 」と苦笑気味に付け加えた。
「でもなぁ。盗賊が出るって言うなら、もっと早く相談してくれても良かったのに」
「…………」
ヨハンが盗賊の話題を切り出すと、マリアンネは再び口をつぐむ。
「何か……心当たりが?」
ゲオルクがじっと見つめると、マリアンネは肩を震わせ、スカートをぎゅっと握った。
長い沈黙が、その場に流れる。
「……ヨハンは、本気で盗賊退治に行くつもりだぞ。好きな子が危ない目に遭うのは、辛いだろうから」
「やだなぁ。マリアンネはおれの妹みたいなもんですよ」
ゲオルクが宥めるように言うと、ヨハンの方から呑気な声が上がる。
「兄貴分ならきっちり守ってやれって、昔、先輩にきつく言われちまったんです」
その言葉に、マリアンネの瞳から再びポロポロと涙が溢れ出す。
「ごめんなさい……あたし、もう、黙ってられない……!」
明らかにゲオルクやヨハンに向けてでは無い懺悔が、嗚咽とともに零れる。
ゲオルクは厄介事の気配を感じながらも、静かに耳を傾けた。
***
マリアンネが言うには、此度の盗賊騒ぎは数名の娼婦たちもグルになっている、ということだった。
件の盗賊の頭が娼婦たちに直接声をかけ、「支配人を殺してやる。協力するなら分け前をやる」と囁いたらしい。
例え、それが嘘八百だったとしても。
劣悪な環境で働かされている娼婦たちが甘言に縋ってしまうのは、無理からぬことと言えた。
「おれ達もグルになっちまいましょうよ」
ややこしい事態に頭を悩ませるゲオルクに対し、ヨハンはあっけらかんと告げた。
「……いや、しかしなぁ」
「どっちのことも利用するんです。どうせ、娼館も盗賊も悪党なんですから」
ヨハンは口元に薄ら笑いを浮かべているが、その視線はいたって真剣だ。
頬に冷や汗が伝っているのを見、ゲオルクは小さくため息をついた。
おそらくは、悪事などほとんど考えたことの無い若者だろうに。妹分の手前、無理をしているのは明らかだった。
「支配人を差し出すっていうのも、手かもしれやせん」
「ヨハン……それって……」
マリアンネは息を飲みつつ、その策を否定はしない。
彼女とて、もう、こんな生活は懲り懲りなのだろう。逃げ出せるのであれば、それに越したことはない……と、考えるのもおかしくはない。
「……よし」
ゲオルクはどうにか知恵をひねり出し、頷いた。
「どさくさに紛れて、二人で逃げな」
「……! でも、自警団がいるのに……」
「あっしが自警団連中を煽るよ。そんで、上手いことみんなで仕事をばっくれるんだ。マリアンネのことは盗賊に攫われたと思わせりゃいい」
ゲオルクの冷静な案に、マリアンネは不安そうな顔をしつつも「いいかもしれない」と頷く。
「逃亡資金はないけど……稼いだお金をかき集めたら、何とか……?」
「足りないなら、あっしがいくらか助けるよ。……どうせ、使い道もないんでな」
「……! そんな! 何でそこまで……!」
目を丸くするヨハンに、ゲオルクは自嘲気味に告げる。
「俺はもう、亡くしちまったからな」
自嘲とはいえ、彼が笑みを浮かべたのは久方ぶりだった。
「二人ともまだ若いんだ。こんなところで使い潰されるよか、別の道を探した方がよっぽどいい」
「……げ、ゲラルトの旦那……!」
「ゲオルクだ」
緑色の瞳を潤ませ、ヨハンはゲオルクの手をがしりと握った。
「この恩は忘れやせん……! いつか必ず、返しに行きやすぜ……!」
ヨハンの緑色の瞳も、マリアンネの琥珀色の瞳も、澱んだ自分の瞳とは違い、澄みきっている。
ゲオルクは茶色の瞳を静かに閉じ、亡き妻の姿を追想した。
小麦畑を駆ける、亜麻色の髪の少女。
やがて少女は自分と同じように歳を経て、大人になり……
……もう、二度と、彼女が歳を取ることはない。
「……ヴィルヘルム……」
腕に抱かれた幼子も、幼子のまま。
二度と、成長することはないのだろう。
***
支配人はやはり人望がなかったらしく、不満を煽ることは難しくなかった。
「だいたいよぉ! オイラは前々から気に食わなかったんだ! あの豚オヤジめ、貧乏人だからって見下しやがって!」
鉱山でよく見かけるもじゃ髭の男は、赤ら顔を更に真っ赤にしてまくし立てる。
「今回の仕事もそうだ! どうせオイラが金に困ってるからって、足元見てやがるに決まってんだ! こっちは命を賭けるってぇのによ、はした金チラつかせたら言うこと聞くと思いやがって……!」
「……でも、依頼は受けたんだろう?」
「当たり前だ! こちとら週明けまでに50マルク、耳を揃えて返さなきゃならねぇんだ!」
彼らが持ち場を離れたと、支配人が気付く頃にはもう手遅れだろう。
ヨハンとマリアンネが無事に逃げおおせていることを祈りつつ、ゲオルクは髭もじゃ男の愚痴を右から左へと聞き流す。
「ペーターさん、もちっと小さい声で喋ってくれ。耳に響く」
「あぁん? オイラの声がでかいってぇのか!?」
「でけぇよ。しかもガンガンする」
「テメェの声がちっちぇえんだよ! いつも辛気臭ぇ顔しやがって! その顔見てたら、こっちまで気持ちが暗くなっちまわぁ!」
「そ、そうかい……」
「ったく……毎日毎日死んだような目をしやがって。何があったか知らねぇが、人間生きてりゃそれで勝ちだ。おい、聞いてんのか!?」
いつの間にか、愚痴の矛先はゲオルクに向かっていた。
ガミガミ声の説教に辟易しながらも、ゲオルクは、娼館の方の騒ぎに意識を割いていた。
盗賊が引き上げたことを確認すれば、ゲオルクの役目はそこで終わりだ。
後は、いつものように日常を続けるだけ。
起きて、石炭を採掘し、運んで、寝る。
時折酒や賭博で気を紛らわせ、また鉱山に登る……そんな、日常を。
***
その後、娼館の支配人が行方不明になり、一人の娼婦が経営者として名乗りを上げた。「いち娼婦なぞに務まるものか」と侮る客も多かったが、彼女はあっさりとその噂を覆してみせ、少なくとも娼婦達の扱いは前支配人とは比べ物にならないほどに良くなった。
ゲオルクは元通り色褪せた日常に戻ったものの、少し、変わったところもあった。
ヨハンとマリアンネの動向を気にしたり、自警団で一緒になった髭もじゃ男の愚痴に付き合わされたりするうち、無気力で無感動だったゲオルクの胸に次第に感傷が芽生えるようになっていった。
それは心配だとか、呆れだとか、……罪悪感だとか、負の感情であることも多かった。
心が動くようになったことで、余計に苦しくなった部分も多い。……だが、酒場で飲むぬるいビールやパサついたヴルストが、次第に美味しく感じるようにはなっていった。
そんなある日、ゲオルクは落盤事故に巻き込まれた。
岩に脚が押し潰され、動けなくなったゲオルクの視界に真っ先に入ったのは、禿げあがった頭にもじゃもじゃの黒い髭……救援に来たペーターだった。
「大丈夫かゲオルク!」
「……あっしのことはいい……。他の奴らを助けに行ってやってくれ」
激痛に顔をしかめるゲオルクに、ペーターは唾を飛ばしながら息巻いた。
「なーに言ってやがる! テメェが死んじまったら、誰もオイラの話を聞いてくれなくなるだろうが!」
鼻息荒くまくし立て、ペーターはゲオルクを穴から引っ張り出す。
他の鉱夫たちの手も借り、ゲオルクはあれよあれよと医者の元へと運ばれた。
「良いか、傷が癒えても油断するんじゃねぇぞ。傷の膿み方によっちゃ、人間ってぇのはあっさり死んじまうんだからな!」
ベッドの上で横たわるゲオルクに対しても、ペーターは変わらず口うるさくまくし立てた。
「足には清潔な布を巻いておけ。『石炭酸』ってのに浸された布ならもっといい。まだ分からねぇヤツだらけだろうから、テメェの頭でキッチリ覚えておけよ。『石炭酸』だ」
「や、やたらと詳しいな……」
「オイラは死にたくなくてどん底を生きてきた。金も知恵もなりふり構わずかき集めて、どうにかこうにか生きてきたんだ」
不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、ペーターはぶつくさと語り続ける。
二度とまともに歩くことの出来なくなった脚を撫で、ゲオルクは小さくため息をついた。
「……とはいえ、これじゃもう働けねぇし、救貧院行きか」
「何ィ!? せっかく助けたってのに、救貧院行きだと!? ああ、ちくしょうめ! そんなら別の野郎に恩を売っておくんだった!」
「何つうか……正直な人だな、あんた……」
呆れつつも、ゲオルクの顔に自然と笑みが宿る。
「今までありがとう。『石炭酸』のこと、覚えておくよ」
「もちろんだ。せっかく教えてやったんだ、無駄にしやがったら許さねぇからな!」
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友、と呼べるほどの親しみ深さはないが、別れを惜しむくらいの愛着は生まれていた。
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