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Die Geschichte des Vampirs3 ― Zwiespältiger Winter ―

第2話 Schwankende Emotionen

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 珍しく、悪夢でない夢を見た。
 節くれだった手が私の肌をなぞり、唇に触れる。

 恐怖はない。不快感もない。
 むしろ、私はその手に安らぎを感じている。

「神父様」

 優しく、甘い囁きが私を呼ぶ。
 罪深い誘惑が、疲弊した魂に沁みる。
 温かい手が、刻まれた傷痕を撫ぜ、癒していく。

「愛してます」

 熱い昂りが、私を貫く。
 与えられる快楽と糧が、ひび割れた私の魂を満たし、慰める。

 嗚呼……その愛に応えられたなら、どれほど幸福なことだろう。
 忘れさせてくれ。すべて。
 どうか、私を……

 私を、おまえの手で堕としてくれないか。



 ***



「ん……」

 目を開けると、眩い光が眼球を突き刺す。

「あ、大丈夫すか? 寝てていいんすよ」

 ……ヴィルに声を掛けられ、肩が跳ねそうになったがこらえた。
 何という夢を見ているのだ。私は。
 今は、そんな場合ではないというのに……。

「……降りる駅が過ぎてしまっては困る」

 眠い目を擦り、赤くなった顔を誤魔化そうと外を眺める。
 ……と、ももの方に妙な感触を感じた。
 くすぐったいというのか……生暖かいというのか……

 這うような感触は次第に内腿の方に移動し、思わず口を押さえる。
 寝ぼけていた意識がようやく覚醒し、触られているのだと気付いた。

「……おい」
「ん? 何すか」
「なんだ、この手は」
「……あっ」

 何が「あっ」なのだ。何が。
 まさか、無意識に触っていたのか……?

「こ、この前弾を取ったじゃないすか。大丈夫かなって……」
「……」

 ヴィルはだらだらと冷や汗をかき、視線を逸らしている。
 なるほど、妙な夢を見たのはそのせいか……

「あまりベタベタ触るな。どうしても撫で回したければ、一言声をかけろ」
「す、すんません。じゃあ、今聞きます。腰とかケツ触っていいすか」
「窓から投げ捨てられたいか」
「すんません……」

 ああ、まったく、くだらない。
 とはいえ、少々気が紛れたのは事実だ。
 ……反省はしてもらいたいものだがな。



 ***



「で、ここが目的地っすか?」
「いや、今はプファルツとバーデンの間だ。ヘッセンの方角に向かうには乗り換えがいる。ここから東……シュトゥットガルト方面に向かい、更に北へ……」
「……了解っす!」

 ヴィルは、しばし目を左右に泳がせていたが、最終的には元気よく返事を返した。
 ……後で地図を見せておくか。

「……汽車の時間によっては、この辺りで宿に泊まる必要があるな」

 空模様を見ると、少し日が傾いていた。
 私としては日が落ちた方が動きやすいが、夜は人目に付きにくくなる。
 ……つまりは、戦闘になる可能性が高くなってしまう。

「てか、結構金持ってるんすね」
「今までの生活では滅多に使わなかったからな」

 ほぼ人と関わることを断っていたため、当然ながら金銭のやり取りは少なかった。
 だが、それだけではない。

「……それと、刺客が持っていた分もある」

 ……罪深いことだとは、私とて理解している。

「あー……でも、仕方ねぇっすよ。使えるもんは使わなきゃ」

 ヴィルはそう言ってくれる。
 彼も、そうやって生き長らえてきたのだろう。……いいや、そうやってしか、生きる術がなかったのか。

「……神よ、お赦しを……」

 小さく独りごちる。
 罪を重ねて歩む先に、果たして救いがあるのだろうか。
 奪わずとも生きられる道を、見つけることができるだろうか……。

「……あ?」

 物思いにふけっていると、ヴィルが怪訝そうな声を上げる。
 かと思えば、次の瞬間には誰かの手を掴み上げていた。

「あっ!?」

 人混みの中から、痩せぎすの少年が引っ張り出される。まだ小さな手には、ナイフが握られていた。

「……それで隠れたつもりか? 見え見えだぜクソガキ」

 大衆は途端にざわめき、私達の周りに空間が広がる。……実に、居心地が悪い。
 要は、この少年が盗みか何かを働こうとしたのだろう。
 そして、「同業者とうぞく」の目はそれを見逃さなかった、と。

「神父様ぁ、どうします?」

 ヴィルは険しい顔をしつつ、尋ねてくる。盗みどうこうではなく、「私を傷つけようとしたこと」が、彼の中では大きいのだろう。
 周りの視線が痛い。
 私としては、何かを盗まれたわけでもなければ、ナイフで切りつけられたわけでもない。
 わざわざ大事おおごとにするまでもなかろう。第一、この状況はいささか気まずい。

「逃がしてやれ」……と、言おうとした瞬間、

「盗賊が出やがったのか!!」

 誰かの怒号に、思わず息が止まった。
 背筋に悪寒が走る。……嗚呼……いやな空気だ。

「とっととつまみだせ! ぶっ殺してやる!」

 男の怒声を合図にし、群衆の視線が一斉に少年を見る。
 少年は怯えきった表情で、私を見上げた。
 救いを求めるような瞳が、胸に突き刺さる。

「……っ」
「見捨てましょ。いちいち憐れんでちゃキリがないです」

 ヴィルが耳元で囁く。
 ……そうやって。
 そうやって、おまえも見捨てられてきたのか?
 悲しむでもなく、憤るでもなく、当たり前に思うほど……

「そのガキを渡せ! 腕を切り落として川に投げ込むぞ!」

 人混みをかき分けてきた男が、ヴィルの腕から少年を奪う。男はそれなりに値が張りそうなコートを着ており、黒い髪は綺麗に撫でつけられている。
 身なりのしっかりした紳士だ。おそらく、普段はこのような口調で話してはいないだろう。

「うわぁっ!?」

 少年は必死にもがくが、男の腕からは抜け出せない。

「た、助けてよ! 兄ちゃん、カミサマに仕えてるんだろ!?」

 まだ、声変わりすらしていない声が救いを求める。
 ……やめろ。そのような目で見るな。

 私は……私は、もう……

「……神のご慈悲は、富める者にも、貧しき者にも平等に注がれます。どうか、穏便に済ませることはできませんか?」
「あァ? 俺のオヤジはな、盗賊に店を荒らされて大損こいてんだ! 許せるもんかよ!」
「……そこを、どうにか……」

 それでもどうにか作り笑いを見せ、説得を試みる。
 ……平等だと?
 本気で言っているのか、私は。
 生きてきた中で、理不尽ばかりを感じてきたというのに?

 よこしまな感情がぐるぐると渦巻く。

「……聖職者気取りが偉そうに」

 その通りだ。
 私はもう、聖職者を「気取る」ことしかできはしない。

「そこまで言うならついて来い。……話し合うにしても、こんな場所じゃやりにくいだろ」

 少年の腕をわし掴んだまま、男は言う。
 ためらったものの、言われた通りその後に続いた。ヴィルも、仕方がないといった様子でついてくる。

 凄まじい敵意と悪意が、男からは感じ取れる。
 私も商家の出である以上、「盗賊」の脅威は理解できる。男が先程語ったことが真実であるならば、恨みに思うのも無理はない。

 嗚呼、だが……私は知っている。
 やり口が、盗賊連中とさほど変わらない「商人」など、山ほどいる。
 男の主張をそのまま信じるつもりはない。
 とはいえ少年の人となりが分からない以上、無意味にそちらに肩入れするつもりもない。彼がかつてのヴィルのように、罪を悔いる心を持っているとは限らないのだから。

 ……ただ、縋りつかれた手を振り払えるわけもなかった。



 ***



 人気のない路地裏に辿り着いたかと思えば、男は少年を地面に引き倒す。
 コートの中から長剣を取り出し、見せ付けるように鞘から抜いた。

「何をするつもりですか」

 突然物騒なものを取り出したのにも驚いたが、それが時代錯誤な武器なのは驚きを通り越して不気味だ。
 男がくっくっと笑う。

「……俺はなァ、『秩序を乱す輩』が大嫌いなんだ。当たり前に罪を犯す賊なんざ、嫌いな人種の筆頭さ」

 よどんだ鳶色とびいろの瞳が、ぎらりと輝いてこちらを睨みつける。
 剣の切っ先を少年の喉元に向け、男は舌なめずりをする。そして……そのままゆっくりと、私の方へ剣先を向けた。

「だが……そんなゴミムシでも役に立つことはあるらしいな。……あんがとよ小僧、おかげで『吸血鬼』を誘い出せたぜ……!」
「はぁ……!?」

 ヴィルが隣で素っ頓狂な声を上げる。
 なるほど、悪魔祓いエクソシストか。人前で戦いにくいのならば、と……。

「……やはり、人前では戦いにくいようですね」
「ハッ、冷静じゃねぇか。血を啜る有害生物バケモノのくせして、人のフリをするのが上手くて結構だ。……ああ……虫唾が走るぜ……ッ!」

 虫唾が走る……か。
 嗚呼、それはこちらの台詞だ。

「少年を利用する外道が、何を言いますか」
「何言ってやがる。こいつもクズだよ。盗みが生業なりわいの、生きてる価値なんざ欠片もねぇゴミクズだ」

 男は嘲笑を浮かべ、少年の頭を踏みつける。
 反吐が出るとはこのことだ。
 貴様に、化け物とそしられるいわれなどない。

「当たり前にルールを守って秩序正しく生きてる一般市民が、どうして危険に晒されなきゃならない? あまりに理不尽だ。許されることじゃねぇ……」
「や、やめてよオットーさん……! おれ、頑張っただろ!? い、いつ殺されるかわかんなくて、ほんとに怖かったよ。なぁ、許してくれよぉ……!」

 震えながら許しを乞う少年を、男は容赦なく踏みつける。

「うるせぇ! 生かしてもらえるだけありがたく思うんだなゴミムシが!」

 少年が罪人だとして、望んでそのような生き方をしているとは限らない。
 正しい生き方がわからないまま、奪うことを選択するしかなかった者もいる。
 ……少なくとも、かつてのヴィルはそうだった。

「この……ッ」

 身体が勝手に動く。
 もう、放ってはおけなかった。

「かかって来いよ吸血鬼ィ! このオットー・シュナイダーが八つ裂きにしてやる……!」

 爪での斬撃を剣で受け止め、オットーと名乗った男はたのしげに笑う。
 ヴィルは黙って様子を見ていたが、私が動いたところで彼も武器を取り出した。


 男の主義主張も、少年の罪の重さも、今はどうでもいい。
 私はこの男を止めねばならない。……それだけは、間違いのない事実だ。
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