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外伝 ある異形の告解

後編 血の接吻

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 ハインリッヒ神父が司祭から司教に昇進し、私も彼の口添えでどうにか司祭の資格を得ることができた頃、司教となった恩人は、やたらと世の中に警鐘を鳴らすことが増えていた。

 ──このままでは多くの血が流れる! 屍を積み上げてまで、何を成すと言うのか!

 ……奇しくも、その言葉は私達が流した血によって証明された。
 粗暴な男達は見せしめのように「公開処刑」を行った。十中八九、金で雇われたならず者たちだ。司教様は講演会まで企画し、しきりに帝国主義に疑問をていしていたため、教会内の誰もが……おそらくは街の群衆ですらも、帝国の差し金であると考えていただろう。
 私は石畳の上に倒れ伏したまま、引きずられていく司教様を見つめることしかできなかった。

 悲鳴と怒号が飛び交う中、私は臓物のこぼれ落ちそうな腹を押さえ、救援を待っていた。
 多くの血を失い、意識が朦朧とする中、ロザリオを握り締めて祈った。

 祈りは虚しく、薄汚い手が私に迫り──



「神父様! 神父様!」

 肩を揺すられ、ハッと現実に呼び戻される。
 短い亜麻色の髪と、大きな傷のある顔が視界に映る。

「大丈夫ですか、神父様! 様子を見に来たら倒れてんですもん……ビビったぁ……」

 茶色の瞳が、私を見つめている。
 数多の血を浴びたのにも関わらず、その瞳はどこか純粋で、あまりに真っ直ぐで……
 歪んだ私と違い、彼の笑みは、出会った頃と何一つ変わらない。



 ──ヴィル、貴方は心根の清い方です。貴方にはきっと、奪う以外の道が存在する。……私は、そう信じています
 ──……そっか。あんがとな、神父様!

 ……ヴィル。
 おまえが無邪気に「神父様」と慕ってくれたことで、私がどれほど救われていたか。
 盗みをせねば生きられなかったおまえが次第に文字を覚え、使える語彙を増やし、私と問答をするようになったことを、どれほど歓んだか。
 ……今も、私に手を差し伸べてくれたことに……変わらず「神父様」と笑みを向けてくれることに、どれほど救われているか。
 きっと、おまえは想像だにしていまい。

 ヴィルの救援により辛うじて生き延びたものの、吸血鬼と化した私は祖父のように「処刑」される運命だった。……司教様はお亡くなりになっていたし、もちろん、ダールマン家の助力など見込めない。
 兄からの手紙には「情けないことだが、私はお前を見捨てる他ない。……すまない」と記されていた。
 牢からはどうにか逃げ出せたものの、行く宛てもなく途方も暮れ、私はかつての教会を訪れた。
 その時に、再びヴィルと出会った。

 ──大丈夫です。オレが護りますから!

 彼は私の手を引き、そう、笑ってくれた。
 私のために多くを犠牲にする道だと言うのに、愚かにも、朗らかに笑っていた。



「……気にせずともいい」
「いやいやいや! 心配ですよ。倒れるってよっぽどでしょ……?」

 ヴィルは私とさほど歳が変わらないだろう顔立ちで、私より少し背丈は低く、体格はたくましい。いくら忠告しても無精髭がいつの間にか伸びており、その手には血の臭いが染み付いている……。
 それでも彼の眼差しは少年のように清く、美しい。……この青年はきっと、別の生き方さえ選べたのなら、間違いを犯すことなどなかったのだろう。

「大したことはない」
「血、要ります? あ、ちょうど朝なんで、アッチの方も出せますよ」
「…………ケダモノが」

 下品で粗暴ではあるが、彼は「吸血鬼」となった私を疎まない。……そればかりか、懸命に尽くし、時折愛の言葉すらも口にする。

「つか、こんなとこ居たらまた肌が腫れちまいます。早く地下に戻りましょ!」
「……その前に、食事を作らねばなるまい」
「ダメっすよ、しんどいなら休まなきゃ。この前ので子供ができてるかもしれねぇし……」
「い、いや、流石にそれはなかろう」
「神父様なら有り得ますって。オレならそこら辺でウサギかなんか捕まえて食っときますし、神父様はオレの血飲んだらどうにかなるじゃないすか」

 ……流石は幼い頃に孤児になっただけはある。たくましい。
 しかし私も男である以上孕むことはないのだが、何度伝えれば理解するのだろうな、こいつは。

「いつ追手が来るかわかんないし、休める時に休んでください。まぁ来てもオレがぶっ殺すんだけど」
「悔い改めろ」
「えっ、なんでいきなり冷たくなんの!?」
「……愚か者が」

 分かっている。
 ヴィルは、私のために罪を犯している。……私でなく、他の……それこそ私が師と仰いだ司教様であれば違った生き方も示せただろうに、未だに私などを慕い、愚かにも罪を重ねている。

 けれど、私はもはや、ヴィルに縋らねば生きてはいけない。
 肉体の生死の話ではない。傍らに彼がいなければ、私の魂は音を立てて崩れ落ちていくだろう。
 ……そして、血に狂い、怒りと憎しみに身を任せ、本物の「怪物」と成り果てるのだ。

 いや、だからこそ……これ以上ヴィルが手を汚す前に、解き放ってやらねばなるまい。
 ヴィルには、奪う以外の生き方が存在するはずだ。……それなのに、私がその道を閉ざしてしまっている。

 手を汚しているのはヴィルだが、汚させているのは……私だ。

「私とて戦える。次こそは、私がとどめを刺す」
「まあ、確かに神父様はオレより強いですけど……この前、返り血ついただけで吐いたじゃないすか……」
「…………そ、それは……慣れれば問題なかろう」
「えー……無理すんなって言ってんじゃん……」

 しびれを切らしたヴィルに手を引かれ、地下室へと連れ戻される。
 振り払うことも可能だが、大人しくついて行った。

「なんか……このままじゃ埒あかなさそうなんで。口、開けてください?」

 武骨な手を差し出し、私の口の前へと差し出す。
 以前つけた牙の痕が見え、思わず躊躇った。

「……んっ」

 私が噛みつかないと判断したのか、ヴィルは半ば強引に私の唇を奪った。
 舌で私の唇をこじ開け、牙にあえて触れに来る。口内に血の味が広がり、私の喉はそれを待っていたかのように飲み下して体内へと取り込み始めた。

「せっかく良い身体してんですし、ちゃんと栄養とってください」

 唇を離し、ヴィルは明るく笑う。
 どさくさに紛れて腰を撫で回されていたので、バシッと叩いておいた。

「いてっ」
「……本当に品のない男だ」
「ううー……すんません。つい……」

 涙目で手をさするヴィルから、そっと顔を逸らす。
 弱った顔は、あまり見られたくない。

 私はもう、神父などではない。血を欲する怪物と化した時、その資格を失った。
 だが……ヴィル。おまえがそう呼んでくれるなら。おまえが私を「神父様」と慕ってくれるのなら、私は「神父」としてここに在ろう。
 それが例え、空虚な偽の安寧だとしても……憎しみと怒りを封じ、まだヒトとして生きられるのであれば……今は、この光に縋っていたい。

 神罰は下らない。
 神はまだ、私をお赦しになっている。
 こうしてヴィルと共に過ごすことを、咎めないでいてくださる。

「……神父様?」

 優しく抱き締められ、意識がゆっくりと闇に沈んでいく。
 温もりに抱かれ、深い眠りに誘われる。悪夢の向こう側へと静かに堕ちていく。

「おやすみ、神父様。ゆっくり休んでくれな」

 ……ヴィル。おまえに愛していると言えないことを、どうか、許して欲しい。

 私はまだ、「神父コンラート」の虚像を捨てられずにいる。
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