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第四章 流転の日々

22. 埋もれた足跡

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 時は、しばし遡る。

「悪ぃ、ティグ……」

 地に伏せ、呻いた声音を聞いて、ああ、この男も弱ることがあるのだと、ラルフは妙に安堵した。
 幼き日の記憶は薄れつつあった。……けれど、目の前の青年が誰かはすぐにわかった。
 同時に、命を救われた恩を思う。

 頭上を見上げれば、歩兵銃マスケットを構えた男は狼狽え、石造りの窓から身を引いた。
 この土地は坂の勾配の間を縫うように石段が続いており、刺客のいる宿も、その上に鎮座している。……が、狙いを定めるにも遠すぎては届かない。その顔は、ラルフの隻眼にもはっきりと視認できた。
 まだ、偽物子爵と呼ばれて日も浅い頃を思い出す。

 社交界で歓談する者も増えてきた頃、その青年と初めて顔を合わせた。
 食事の席で食器を壁に叩きつけ、毒が入っていると喚き散らし、己の頭をかき抱いてうずくまった。……彼が家督を継いだ時、既にその家には権威も役職もなく、擦り切れた精神は存在しない敵を視線の先に焼き付け続けていた。

 ジベール子爵家の長男は気が触れた……と、囁き合う声がまだ耳に残っている。
 ……ふと、血溜まりに倒れた義兄の姿を思い出す。存在すらも奪われたジョゼフが生きていれば、彼を相手にどう立ち振る舞っただろうか。



「その男に革命の思想などあるものか。その日その日を必死に生き延びるだけの詐欺師に、大層な義などあるまい」
「……ッ、なぜ、なぜそんなことが分かる!! やはり、やはりおまえも僕を殺そうとしていたのだな!! 父の失脚はやはり、アンドレア家の謀略だったのだな……!! そこにいろ、今すぐ殺してや──あ」



 身を乗り出し転げ落ちた屍は、果たして、あの苦痛から解き放たれたのだろうか?
 ……もはや、誰にも確かめる術はない。



 ***



「私に弟子入りなさい。そうすれば話は早い」

 掘っ建て小屋に担ぎ込まれたミゲルに、セルジュはむしろ朗々と告げた。

「その腕や指先は、失うには惜しいですから」

 光をなくした瞳は、何を、どうやって見出したのか。ミゲルにもわかりはしない。
 ……ともかく、熱で朦朧とする意識に、その穏やかな声は心地よかった。

「そうですね……。ミシェル、と名乗りなさい」
「……はぁ!?」

 そう、声を上げたのはミゲルではなくシモン……奏者の「シエル」だった

「似合わねぇ!!!」

 言われなくとも、ミゲルとてそう思った。……が、ソレイユの方はきゃっきゃっと飛び跳ねながら「みしぇる!!」と、幼く澄んだ声を弾ませた。

「似合いませんか?」

 クスクスと笑うセルジュに向けた言葉を、かろうじて飲み込む。
 ……どうして分かった、と。

 ミゲルもミシェルも、大天使ミカエルを由来とする名だ。スペインの名か、フランスの名かというだけの話だ。
 捨て去ろうとした名を突きつけられ、拳を握る。……この男には、何が視えているというのだろう。

「気に入りませんか?」
「ああ、気に食わねぇ。最悪だ」
「では、その名前にするとしましょう。……アナタが唯一、名に関してこだわりを見せたのですから」

 しまった、と告げるわけにもいかず、ミゲルは無言で毛布を被る。

「怪我が良くなれば、演奏を手伝ってもらいますよ。……わが一座は最近、領主の目にも止まっておりまして」

 ……そして、物語に記された日々は、始まりを告げた。



 音楽家セルジュ・グリューベルはフランス・アヴィニョン付近の地方領地をねぐらにした際、赤毛の青年を弟子に迎え入れたという。
 彼は二月革命の後も旅芸人として各地を旅したとされているが……青年のはっきりとした名や、生い立ち、晩年は一切伝えられていない。

 だが、こんな逸話は残されている。
 演奏の後、「お抱え楽師」として引き抜きたいと語る領主の提案を断り、赤毛の青年は「炎を生み出す魔術」を見せたのだと。……それに興味を示した文官が、密かに楽屋へ赴き、再演と引き換えに謝礼を渡したのだと。
 石炭の屑がついた手袋と静電気、摩擦熱を用いた手品であると、1980年代には分析されているが……当時の人間には、「魔術」の類に見えて当然だっただろう。

「……なぁ、ラルフ。お前さん、嫌われてるぜ」

 歴史に残されない生は、何もミゲルに限った話ではない。

「いずれ死ぬ捨て駒に、情などいらん」

 ……だからこそ、彼らは綴った。それぞれの想いを、魂を、物語として刻みつけた。
 その「真実」を記した物語こそ──
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