44 / 57
第三章 咆哮の日々
14.兄弟
しおりを挟む
「ジャン、大丈夫? ずいぶん痩せたみたいだけど」
まぶたの裏で、彼は語る。
「なんだか、僕みたいだね」
優美に笑う、弟。
確かにこの手で殺めた、愛しく、妬ましく、輝いていた存在。
「……どうしたの? ジャン。疲れた顔をして」
壁にもたれた「ジャン」の頬に、蒼白い手が触れる。
「ジャン、残念だよ。……まさか、君が死んでしまうなんて」
違う。死んだのは、殺されたのは、ジョゼフだ。
ジャンはそれに成り代わり、目的を果たそうとした卑劣な青年だ。……そのはずだ、と、自分に言い聞かせる。
「君は僕よりずっと真面目で、ずっと他人のことを思いやれる人だった」
亡霊が耳元で囁く。
「ごめんね、気づけなくて。……だから、安心して。君の憂いは僕が受け持つよ」
甘美な、生暖かい響きで、
「君の意志は僕が引き継いであげる。安心して、用済みになりなよ」
彼は、そんな人物だっただろうか。
もう分からない。思い描けない。
……そもそも、自分はどんな人間だっただろうか……?
「……おい、何居眠りしてやがんだ」
「うわぁっ!?」
頭を叩かれ、はね起きる。
大袈裟だな……と、目を丸くする赤毛の友人。
出会って2年ほど経つが、ジョゼフはまだ本名を知らない。
「うなされてたぜ、嫌な夢でも見たか?」
「…………うん、最悪な夢をね」
にこりと笑って立ち上がる。
未だ背筋にまとわりつく、罪の記憶。
「……なぁ、お前」
ふと、金色が煌めいた。
「エドガーっておっさん知ってる?」
「…………父様が、どうしたの?」
じっとりと、「ジャン」の背中に嫌な汗がまとわりつく。
──ジョゼフ、あの日から様子がおかしいのは分かっているんだ。……私とて、酷いことを言ったと思っている。済まなかったね。
酷いのは、惨いのは、息子の見分けすらつかないところだ……と、叫びだしそうになるのを堪えたあの日。
「父親」の今際を看取った日が、きりきりと「ジョゼフ」の頭を締め付けてくる。
「いや、昔馴染みがエドガー・アンドレアって貴族に拾われたっぽくてよ。金か何かたかろうと思ってわざわざこっちまで来たってのに門前払いされちまって。……つっても、何年も前の話だが」
その、昔馴染みは、まさか、
愕然と見開かれた、灰褐色の瞳を思い出す。
伸ばした手が空を切り、崖の底へと消えていった黄昏刻。
もう後戻りはできないのだと、己に言い聞かせた忌まわしい過去が蘇っていく。
「父様は、去年亡くなったよ」
「へぇ。そりゃまた何で……」
「……養子になった子が思ったよりしっかりした子でね。これなら……と妹の婚約者に決めた途端、気が抜けたのかな。そのまま体を壊したんだ」
一刻も早く逃げたかったんだろう、と、恨み言のように言葉が零れる。
「……へぇ。貴族の婚約者ねぇ。目当ては産まれるガキか?」
「元から手頃な中継ぎに決まっているよ。よっぽど僕のことが気に食わなかったらしい」
「それだよ、それ」
金の瞳が狙うのは、金目のもの。
彼にとって糧と引き換えになるものは、形のあるものでは無い。
「なんで?お前、実子なんだろ?」
貪欲な、猛禽類の目が情報を漁る。
「…………僕は、」
立ちすくんだまま、「ジョゼフ」の視界が霞み、目の前の赤髪が揺らいでいく。
──ジャン、お兄様には会ってあげないの?
──あいつに迷惑だ。貴族として生きていけた方が楽に決まってる
──ふぅん。僕がわざわざ抜けて来たのに、そういうこと言うんだ
──ッ!?お、おい、驚かせるな!!
──そんなに驚くなんてね!俳優なら、僕の方が向いているかもしれないよ?
僕は、俺は、……僕、は
──話したかったんじゃないの?ジャン
──へぇ、そうなのかい?
──何をニヤニヤと笑ってるんだ……!
──楽しそうだね、劇って
──……なら、いつかお前も見に来い
──……退屈そうだな……
──おい……!
ぼくは、どっちだ?
おれは、俺はジャンだ。
──ラルフとうまくやってるらしいな。今度、劇でも見に来たらどうだ?会場なら案内する
──劇かぁ……。うん、初めて懐かれたしね。たまには兄らしいことしようかな
うらやましい
ねたましい
くやしい
……だが、俺には責任がある。
──ジャン、聞いて!
──コルネーユか。血相を変えてどうした?
──エドガーがあんたを殺すつもりらしい……!
──……何だって?
──……どうしたらいいの……?あんたが、そんな……そんなのってない……!
どうして
俺が殺されなければいけない。
うらめしい
俺にはやるべきことがあるのに。
にくらしい
この場所だけは、守らないと。
くやしい
俺は、座長だ。このまま死ねない。
ねたましい
……あいつは、そんなことすら考えなくて済むのか。
うらやましい
──悪い。今日の公演は中止になった。……主演が食事を抜き過ぎて、役に合わなくなったんだ
──えっ、そうなのかい?なら、ラルフにも……
──……それなら、さっき俺が伝えた
──ふぅん……。ところでジャン、なんだか痩せた?
あいつは、今ものうのうと楽をしている。
俺の屍の上でも、きっとヘラヘラと笑える。
やるしかない
生きるために
やるしかない
劇団のために
やるしかない
殺したくない
やるしかない
殺すしかない
やるしかない
殺さなければ
やるしかない
逃げられない
やるしかない
それしかない
やるしかない
だから、俺は、
──ソフィ、ジョゼフを呼んでこい。……あいつのことだから、勝手に来るだろうけどな
──……ッ、まさか……!
僕は、
もう、そうするしかなかった。
──ジャン、どういうつもりだよ! ラルフに怪我なんかさせ……て…………?
なんで、どうして、ひどい
ひどいよ、にいさん
──待って!落ち着いてお兄さ……ま?…………お兄様……
──ジャン……ほんと、君って……
ずるいなぁ
「おい、どうした?」
肩を掴まれ、翠の視線が現実に返ってくる。
「……ひでぇ顔色だな」
ばつが悪そうに、目の前の友人は頭をかく。
「……ま、跡継ぎだのなんだのの騒ぎは貴族にゃよくある話だ。そんなに嫌ってんなら聞かねぇよ」
観念したように、傷だらけ、豆だらけの指が引っ込んだ。
「……君は、人を殺したことがある?」
「あ? ……あるよ、そんくらい」
蒼白な面持ちで、青年は語る。
笑顔の仮面にぼんやりと浮かぶ、翠色。
「初めて殺した時って、眠れなくなったりした?」
縋るように、救いを求めるように、翠の瞳が見開かれていく。
「……ああ、まあ……その通りだ」
金の瞳が、逃れるよう揺らぎ、さまよう。
「…………なぁんだ。はったりか」
ギクリ、と賊の肩が跳ねる。
唾を嚥下した喉から、繕うように溢れる言の葉。
「ティグなら殺れるぜ。アイツはそこんとこなんも分かっちゃいねぇ。首を折って終いだ」
「君が手を下したことは?」
「……っ、しつけぇな。ねぇよ。……ねぇけど、結局同じだろ。見殺しだろうが殺しは殺しだっつの」
気圧され、後ずさる。
のらりくらりと生きてきた詐欺師には初めてのことだった。
ふっ、と、乾いた嘲笑が、秘められた安堵が、張り付けた笑顔を崩した。
「……ああ、きっと、お前には殺せない」
そこで青年……ジャンの糸は切れた。ぐらりと倒れ込む体を、ミゲルが咄嗟に受け止める。
「っとぉ!? ……ね、寝てやがる……」
ミゲルは知らない。
腕の中で穏やかに、深い寝息を立てる姿が、久方ぶりのものだったことを。
***
鉢植えで咲き誇る赤色を慈しむ視線が、やがて、伏せられる。
「ルディ、もう……帰ってこないのか」
あれからラルフが幾度薔薇を咲かせても、ルディが帰ってくることはなかった。
「……弱音なんか吐いてられないな」
ラルフが伯爵家の末弟、ルイ=フランソワの補佐役として任命されたのは、エドガーの役割を引き継いでのことだった。
もっとも、ルイは伯爵家の人間とはいえ真っ当な知識すら与えられていない傀儡。補佐とは名ばかりの、使用人にも等しい扱いだ。
世間知らずな御曹司の子守など、爵位にしては随分と格の落ちた役回りとも言えるが、とうの昔に偽物子爵と呼ばれている以上仕方はない。
エドガーの祖父が革命のどさくさに紛れて纏っためっきは、ラルフのことがなくとも既に中身を露呈していた。
エドガーが苦し紛れにでっち上げた、どこぞの落とし胤をソフィの婚約者に迎えた……というエピソードも、信じられているかどうか……。
あまりにも効率の悪い采配。ジョゼフの言う通り、エドガーのつまらない意地が招いたとしか思えなかった。
そのせいか、ジョゼフが放蕩のために跡を継げなくなった……と、そんな噂もまことしやかに流れている。
「……兄……か……」
ふと、ラルフは立て続けに亡くなったルイの親族を思う。
領主となり日も浅いまま、最後に残った兄も心労の末に倒れた。
もはや革命家の運動は、容易く領主の息の根を止めるのだ。
「どうして……誰も先のことを考えないんだ……」
北の島国では、めざましい勢いで技術が発展していると聞く。
あのままイングランドにいれば……という義父の台詞が脳裏に浮かび、ちりりと右眼に痛みが走った。
昨年、エドガーの葬儀で久方ぶりに出会った「ジョゼフ」は……予想通り、ジョゼフではなく……。
「…………ルイ様、起きて来ないな。……また俺が起こすのかな……そうだよな……」
溜息混じりに、ラルフは新たな領主となる上司を起こしに向かった。
「私はいずれ領主となるかもしれん。そう思えば、この役目もそう悪くはあるまい」
館を訪れた時、長身の彼はラルフを見下ろして堂々と語った。
威厳に満ちた気位の高さに感銘を受けたものの、その評価はすぐに撤回することになる。
「ねぇ、君。エドガーがドイツで拾った子なんだって? 僕に教えてくれない? 君がいた国のこと」
私室でのその変わりようを、簡単に忘れられるわけもない。
「あ、そうそう、先言っとく。どれだけ偉くなっても領主様とか、伯爵とか堅苦しい呼び方はやだ。ルイって呼んで」
……だからこそ、物語のプロローグには、その場面がある。
「……承知しました。……えー……ルイ様……?」
「……うん。よろしくね、ラルフ」
数年がかりで作法や礼儀を身につけたのはいったい誰だ……?と、ラルフは自分自身に睨まれた気がした。
だが、気に入られなくてはならなかったのだ。
時代を憂いたラルフが、民草を救うためにはそうするほかなかった。……そのために、前領主の暗殺計画も知りつつ見過ごしたのだから。
ルイ=フランソワ・フィリップ。伯爵家の末弟として生まれるが、相次ぐ肉親の死により伯爵領最後の領主となる。
『咲いた花、そして空の鳥へ捧ぐ物語』の登場人物、ハーリス・フェニメリルのモデルであり、物語の発案者でもある。
「……ルイ様は今、格好の手駒になっている。……彼を守り抜いて……。……俺は、少しでも実権を得る」
部屋を立ち去るラルフの背後。
薔薇を目印にしたかのように、1羽のツバメが窓に降り立った。
まぶたの裏で、彼は語る。
「なんだか、僕みたいだね」
優美に笑う、弟。
確かにこの手で殺めた、愛しく、妬ましく、輝いていた存在。
「……どうしたの? ジャン。疲れた顔をして」
壁にもたれた「ジャン」の頬に、蒼白い手が触れる。
「ジャン、残念だよ。……まさか、君が死んでしまうなんて」
違う。死んだのは、殺されたのは、ジョゼフだ。
ジャンはそれに成り代わり、目的を果たそうとした卑劣な青年だ。……そのはずだ、と、自分に言い聞かせる。
「君は僕よりずっと真面目で、ずっと他人のことを思いやれる人だった」
亡霊が耳元で囁く。
「ごめんね、気づけなくて。……だから、安心して。君の憂いは僕が受け持つよ」
甘美な、生暖かい響きで、
「君の意志は僕が引き継いであげる。安心して、用済みになりなよ」
彼は、そんな人物だっただろうか。
もう分からない。思い描けない。
……そもそも、自分はどんな人間だっただろうか……?
「……おい、何居眠りしてやがんだ」
「うわぁっ!?」
頭を叩かれ、はね起きる。
大袈裟だな……と、目を丸くする赤毛の友人。
出会って2年ほど経つが、ジョゼフはまだ本名を知らない。
「うなされてたぜ、嫌な夢でも見たか?」
「…………うん、最悪な夢をね」
にこりと笑って立ち上がる。
未だ背筋にまとわりつく、罪の記憶。
「……なぁ、お前」
ふと、金色が煌めいた。
「エドガーっておっさん知ってる?」
「…………父様が、どうしたの?」
じっとりと、「ジャン」の背中に嫌な汗がまとわりつく。
──ジョゼフ、あの日から様子がおかしいのは分かっているんだ。……私とて、酷いことを言ったと思っている。済まなかったね。
酷いのは、惨いのは、息子の見分けすらつかないところだ……と、叫びだしそうになるのを堪えたあの日。
「父親」の今際を看取った日が、きりきりと「ジョゼフ」の頭を締め付けてくる。
「いや、昔馴染みがエドガー・アンドレアって貴族に拾われたっぽくてよ。金か何かたかろうと思ってわざわざこっちまで来たってのに門前払いされちまって。……つっても、何年も前の話だが」
その、昔馴染みは、まさか、
愕然と見開かれた、灰褐色の瞳を思い出す。
伸ばした手が空を切り、崖の底へと消えていった黄昏刻。
もう後戻りはできないのだと、己に言い聞かせた忌まわしい過去が蘇っていく。
「父様は、去年亡くなったよ」
「へぇ。そりゃまた何で……」
「……養子になった子が思ったよりしっかりした子でね。これなら……と妹の婚約者に決めた途端、気が抜けたのかな。そのまま体を壊したんだ」
一刻も早く逃げたかったんだろう、と、恨み言のように言葉が零れる。
「……へぇ。貴族の婚約者ねぇ。目当ては産まれるガキか?」
「元から手頃な中継ぎに決まっているよ。よっぽど僕のことが気に食わなかったらしい」
「それだよ、それ」
金の瞳が狙うのは、金目のもの。
彼にとって糧と引き換えになるものは、形のあるものでは無い。
「なんで?お前、実子なんだろ?」
貪欲な、猛禽類の目が情報を漁る。
「…………僕は、」
立ちすくんだまま、「ジョゼフ」の視界が霞み、目の前の赤髪が揺らいでいく。
──ジャン、お兄様には会ってあげないの?
──あいつに迷惑だ。貴族として生きていけた方が楽に決まってる
──ふぅん。僕がわざわざ抜けて来たのに、そういうこと言うんだ
──ッ!?お、おい、驚かせるな!!
──そんなに驚くなんてね!俳優なら、僕の方が向いているかもしれないよ?
僕は、俺は、……僕、は
──話したかったんじゃないの?ジャン
──へぇ、そうなのかい?
──何をニヤニヤと笑ってるんだ……!
──楽しそうだね、劇って
──……なら、いつかお前も見に来い
──……退屈そうだな……
──おい……!
ぼくは、どっちだ?
おれは、俺はジャンだ。
──ラルフとうまくやってるらしいな。今度、劇でも見に来たらどうだ?会場なら案内する
──劇かぁ……。うん、初めて懐かれたしね。たまには兄らしいことしようかな
うらやましい
ねたましい
くやしい
……だが、俺には責任がある。
──ジャン、聞いて!
──コルネーユか。血相を変えてどうした?
──エドガーがあんたを殺すつもりらしい……!
──……何だって?
──……どうしたらいいの……?あんたが、そんな……そんなのってない……!
どうして
俺が殺されなければいけない。
うらめしい
俺にはやるべきことがあるのに。
にくらしい
この場所だけは、守らないと。
くやしい
俺は、座長だ。このまま死ねない。
ねたましい
……あいつは、そんなことすら考えなくて済むのか。
うらやましい
──悪い。今日の公演は中止になった。……主演が食事を抜き過ぎて、役に合わなくなったんだ
──えっ、そうなのかい?なら、ラルフにも……
──……それなら、さっき俺が伝えた
──ふぅん……。ところでジャン、なんだか痩せた?
あいつは、今ものうのうと楽をしている。
俺の屍の上でも、きっとヘラヘラと笑える。
やるしかない
生きるために
やるしかない
劇団のために
やるしかない
殺したくない
やるしかない
殺すしかない
やるしかない
殺さなければ
やるしかない
逃げられない
やるしかない
それしかない
やるしかない
だから、俺は、
──ソフィ、ジョゼフを呼んでこい。……あいつのことだから、勝手に来るだろうけどな
──……ッ、まさか……!
僕は、
もう、そうするしかなかった。
──ジャン、どういうつもりだよ! ラルフに怪我なんかさせ……て…………?
なんで、どうして、ひどい
ひどいよ、にいさん
──待って!落ち着いてお兄さ……ま?…………お兄様……
──ジャン……ほんと、君って……
ずるいなぁ
「おい、どうした?」
肩を掴まれ、翠の視線が現実に返ってくる。
「……ひでぇ顔色だな」
ばつが悪そうに、目の前の友人は頭をかく。
「……ま、跡継ぎだのなんだのの騒ぎは貴族にゃよくある話だ。そんなに嫌ってんなら聞かねぇよ」
観念したように、傷だらけ、豆だらけの指が引っ込んだ。
「……君は、人を殺したことがある?」
「あ? ……あるよ、そんくらい」
蒼白な面持ちで、青年は語る。
笑顔の仮面にぼんやりと浮かぶ、翠色。
「初めて殺した時って、眠れなくなったりした?」
縋るように、救いを求めるように、翠の瞳が見開かれていく。
「……ああ、まあ……その通りだ」
金の瞳が、逃れるよう揺らぎ、さまよう。
「…………なぁんだ。はったりか」
ギクリ、と賊の肩が跳ねる。
唾を嚥下した喉から、繕うように溢れる言の葉。
「ティグなら殺れるぜ。アイツはそこんとこなんも分かっちゃいねぇ。首を折って終いだ」
「君が手を下したことは?」
「……っ、しつけぇな。ねぇよ。……ねぇけど、結局同じだろ。見殺しだろうが殺しは殺しだっつの」
気圧され、後ずさる。
のらりくらりと生きてきた詐欺師には初めてのことだった。
ふっ、と、乾いた嘲笑が、秘められた安堵が、張り付けた笑顔を崩した。
「……ああ、きっと、お前には殺せない」
そこで青年……ジャンの糸は切れた。ぐらりと倒れ込む体を、ミゲルが咄嗟に受け止める。
「っとぉ!? ……ね、寝てやがる……」
ミゲルは知らない。
腕の中で穏やかに、深い寝息を立てる姿が、久方ぶりのものだったことを。
***
鉢植えで咲き誇る赤色を慈しむ視線が、やがて、伏せられる。
「ルディ、もう……帰ってこないのか」
あれからラルフが幾度薔薇を咲かせても、ルディが帰ってくることはなかった。
「……弱音なんか吐いてられないな」
ラルフが伯爵家の末弟、ルイ=フランソワの補佐役として任命されたのは、エドガーの役割を引き継いでのことだった。
もっとも、ルイは伯爵家の人間とはいえ真っ当な知識すら与えられていない傀儡。補佐とは名ばかりの、使用人にも等しい扱いだ。
世間知らずな御曹司の子守など、爵位にしては随分と格の落ちた役回りとも言えるが、とうの昔に偽物子爵と呼ばれている以上仕方はない。
エドガーの祖父が革命のどさくさに紛れて纏っためっきは、ラルフのことがなくとも既に中身を露呈していた。
エドガーが苦し紛れにでっち上げた、どこぞの落とし胤をソフィの婚約者に迎えた……というエピソードも、信じられているかどうか……。
あまりにも効率の悪い采配。ジョゼフの言う通り、エドガーのつまらない意地が招いたとしか思えなかった。
そのせいか、ジョゼフが放蕩のために跡を継げなくなった……と、そんな噂もまことしやかに流れている。
「……兄……か……」
ふと、ラルフは立て続けに亡くなったルイの親族を思う。
領主となり日も浅いまま、最後に残った兄も心労の末に倒れた。
もはや革命家の運動は、容易く領主の息の根を止めるのだ。
「どうして……誰も先のことを考えないんだ……」
北の島国では、めざましい勢いで技術が発展していると聞く。
あのままイングランドにいれば……という義父の台詞が脳裏に浮かび、ちりりと右眼に痛みが走った。
昨年、エドガーの葬儀で久方ぶりに出会った「ジョゼフ」は……予想通り、ジョゼフではなく……。
「…………ルイ様、起きて来ないな。……また俺が起こすのかな……そうだよな……」
溜息混じりに、ラルフは新たな領主となる上司を起こしに向かった。
「私はいずれ領主となるかもしれん。そう思えば、この役目もそう悪くはあるまい」
館を訪れた時、長身の彼はラルフを見下ろして堂々と語った。
威厳に満ちた気位の高さに感銘を受けたものの、その評価はすぐに撤回することになる。
「ねぇ、君。エドガーがドイツで拾った子なんだって? 僕に教えてくれない? 君がいた国のこと」
私室でのその変わりようを、簡単に忘れられるわけもない。
「あ、そうそう、先言っとく。どれだけ偉くなっても領主様とか、伯爵とか堅苦しい呼び方はやだ。ルイって呼んで」
……だからこそ、物語のプロローグには、その場面がある。
「……承知しました。……えー……ルイ様……?」
「……うん。よろしくね、ラルフ」
数年がかりで作法や礼儀を身につけたのはいったい誰だ……?と、ラルフは自分自身に睨まれた気がした。
だが、気に入られなくてはならなかったのだ。
時代を憂いたラルフが、民草を救うためにはそうするほかなかった。……そのために、前領主の暗殺計画も知りつつ見過ごしたのだから。
ルイ=フランソワ・フィリップ。伯爵家の末弟として生まれるが、相次ぐ肉親の死により伯爵領最後の領主となる。
『咲いた花、そして空の鳥へ捧ぐ物語』の登場人物、ハーリス・フェニメリルのモデルであり、物語の発案者でもある。
「……ルイ様は今、格好の手駒になっている。……彼を守り抜いて……。……俺は、少しでも実権を得る」
部屋を立ち去るラルフの背後。
薔薇を目印にしたかのように、1羽のツバメが窓に降り立った。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
国王のチャンピオン
桐崎惹句
歴史・時代
一六八九年、名誉革命と呼ばれる政変で英国王に即位したウィリアム三世とメアリ二世。
その戴冠式後の大祝宴で、事件は起こった。
史上初、国王の即位に対する異議申立。
若き国王の守護闘士サー・チャールズ・ダイモークは、時代に翻弄される誇りを貫き通すことができるのか?
※「カクヨム」様、「小説家になろう」様、「アルファポリス」様、重複投稿となります。
全17話予定 ※18話になりました。
第1話 ダイモーク卿
第2話 マーミオンの血脈 5月2日公開予定
第3話 即位大祝宴の夜 5月3日公開予定
第4話 ジョン・チャーチルと国王 5月4日公開予定
第5話 シュロウズブリ伯爵 5月5日公開予定
第6話 老人と娘 5月6日公開予定
第7話 ティターニア 5月7日公開予定
第8話 レディ・スノーデン 5月8日公開予定
第9話 森の水辺 5月9日公開予定
第10話 彼女の理由 5月10日公開予定
第11話 夏は来たりぬ 5月11日公開予定
第12話 それぞれの誇り(上) 5月12日公開予定
第13話 それぞれの誇り(下) 5月13日公開予定
第14話 ふたたび即位大祝宴の夜 5月14日公開予定
第15話 戦場の剣と守護の剣 5月15日公開予定
第16話 決闘の朝 5月16日公開予定
第17話 旅路の果て 5月17日公開予定
第18話 エピローグ ~ そして今 5月18日公開予定
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河
墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。
三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。
全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。
本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。
おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。
本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。
戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。
歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。
※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。
※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。
炎の稲穂
安東門々
歴史・時代
「おらたちは耐えた! でも限界だ!」
幾多も重なる税金に、不作続きの世の中、私腹を肥やしているのはごく一部の人たちだけだった。
領主は鷹狩りや歌に忙しく、辺境の地であるこの『谷の村』のことなど、一切知る由もない。
ただ、搾取され皆がその日を生き抜くのが精いっぱいだった。
そんなある日、村一番の働き手である 弥彦は 村はずれにある洞窟である箱を見つけた。
そこには、言い伝えでその昔に平家の落ち武者が逃げて隠れていたとされた洞窟で、刃の無い刀がいくつか土に埋まっている。
弥彦は箱を調べ、その場で開けてみると、中にはいくつもの本があった。 彼は字が読めないが村に来ていた旅の僧侶に読み書きを習い、その本を読み解いていく。
そして、時はながれ生活は更に苦しくなった。
弥彦の母は病におかされていた。
看病のかいもなく、他界した母の現場に現れた役人は告げた。
「臭いのぉ…。 悪臭は好かんので、ちと税を払え、皆の迷惑じゃ」
それを聞いた弥彦含め、村人たちの怒りは頂点に達し、どうせ今生きていても死ぬだけだと、自分たちの人生を賭け蜂起を決意した。
そして、村長が指名した村人たちを束ね導く存在に弥彦を。
そんな彼らの想いが駆け巡る。 歴史の中で闇に消えた物語。
水滸拾遺伝~飛燕の脚 青龍の眼~
天 蒸籠
歴史・時代
中国は北宋時代、梁山泊から野に下った少林拳の名手「浪子」燕青は、薊州の山中で偶然少女道士の「祝四娘」と出会い、彼女ら二仙山の道士たちの護衛をすることになる。二人はさまざまなトラブルに遭いながら、青州観山寺に巣くう魔物その他、弱きを助け悪きを挫く旅を続ける。
アユタヤ***続復讐の芽***
夢人
歴史・時代
徳川に追われた茉緒たちは大海を超えて新天地に向かいます。アユタヤに自分たちの住処を作ろうと考えています。これは『復讐の芽***』の続編になっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる