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外伝「つばめ」

前編「少年の日々」

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 息ができない。
 胸をかきむしるほどの激しい苦しみが、「あの日」を思い起こさせる。

「おい、しっかりしろ! もうすぐだから……!」

 腕の中に抱えられ、揺さぶられながら、私を呼ぶ声を聞く。

「フェルド……!!」

 ああ。
 私はこの声を、知っている。

 ずっと、ずっと、待ちわびていた声だ。

「……ジュゼッ、ペ……?」

 私の言葉に、たくましい腕がぴくりと震えた。

「あの日」……地獄のような苦痛の中でさえ、私の手を握るものは誰一人としていなかった。
 失われた愛に……過去の幼い恋に思いを馳せ、伸ばした手も虚しく空を切る。
 意識が混濁こんだくすると共に、古い記憶は次第に離散した。辛く、厳しい思い出も、懐かしく、かけがえのない思い出も、等しくかき消えた……はずだった。

「あの日」に失われたはずの記憶が、今、走馬灯のように蘇る。
 金髪の少年が、まばゆい笑顔をこちらに向け、手を差し伸べる。

 ああ、そうだ。
 君は、僕の心の支えだった──



 ***



 生まれた時、僕の背には小さな羽があったらしい。

 貴族の間ではよくある話だ。兄も、片目が変形して生まれたと聞く。
 アリネーラは、つばめにカラス、多くの「黒い鳥」がよく目撃されることからその名がついた。だから、僕が生まれた時、家中のものは繁栄はんえいの証かと色めきたったという。

 期待をかけられていた……と言えば、聞こえはいい。
 生まれ落ちたその時から、僕に求められたのは、名門貴族の男子にふさわしい振る舞いや能力、地位、名声だった。
 羽を切り墜とされた僕は、狭い「家」に縛り付けられ、自由を失った。……いや、そんなものは元から持っていなかった……と、言うべきなのかもしれない。

 僕は、常に優秀でなくてはならなかった。
 早々に「離脱」した兄への侮蔑ぶべつや罵倒を聞かされながら、優秀であれば「次もこうであれ」もしくは「次は更に上を目指せ」と言われ、少しでも意に沿わない部分があれば折檻せっかんされた。
 僕が優秀であるのは「当たり前」でなくてはならなかった。……そうでなければ、価値がないとされていた。


 あれは、確か13歳ぐらいの頃。
 屋敷の軒先のきさきに、つばめが巣を作ったことがある。何となく気になって見ていたが、数日後、まだ幼い雛が巣の下に落ちて鳴いていた。

「拾っちゃいけませんよ。坊ちゃん」

 庭師の男が背後から、僕に声をかける。

「人間の匂いがついたら、親鳥は余計に近寄らなくなります」
「でも、このままじゃ……」
「……まあ……十中八九、そのまんまでしょうね。でも、人間が触らないうちはまだ可能性もあるんです」

 髭面の男は淡々と言って聞かせる。
 か細い声で啼く雛をじっと見つめながら、自分のようだと思った。
 父は忙しく、顔を合わせるのは用がある時だけだ。……もっと言えば、大抵、悪い時にしか呼ばれない。
 母は、僕が幼い頃に病で死んでしまった。
 僕は母の顔すらよく覚えていないが、たった一言、覚えている言葉がある。

「お前達さえいなければ」

 ……そんな、呪いの言葉だ。
 新しい母のことはよく知らないし、ほとんど話したこともない。

「さて、坊ちゃん、習い事の時間ですよ。遅れたらお父様に叱られますぜ」
「……うん」

 習い事は武道や勉学、そして魔術が主で、追加で音楽に乗馬や狩猟。
 それを週に6日。ちなみに「学校」はまた別枠だ。貴族用の私設学校に週5日。あるいは特別講義で6日。場合によっては7日の日さえある。
 休みの日であっても、自主学習を言い渡された。僕の家は格段に厳しいと、学友の誰かが言っていた気もする。

 庭師の姓はビオンディと言った。息子が一人いて、僕と同じ年齢だとも語っていた。
 その「息子」も父親の手伝いで屋敷に出入りしていたから、顔を合わせることは珍しくなかった。

「おっ、おかえりなさい坊ちゃん! これから習い事ですかい?」
「……ああ。これからフルートの練習だ」
「フルート! そりゃまた、優雅な習い事ですねぇー」

 息子の方は気さくな少年で、仕事の合間によく話しかけてきた。
 父親曰く、同年代がいて嬉しいんだろう、とのことだった。

「ジュゼッペ! 何サボってる! こっちに来い!」
「へーい」

 陽の射した小麦畑のような金髪に、孔雀石くじゃくいしのような深い緑の瞳。それが、ジュゼッペ・ビオンディの容姿だった。
 後に知ったことだが、彼らは本来「庭師」ではなく、もっと重要な仕事を父から依頼されていたらしい。だから、ビオンディもジュゼッペも偽名だ。……彼の本当の名は、もう少し後に知ることになる。

 僕は、歴史や地理、マナー、魔術の知識などはたくさん身につけた。
 だけど、サッカーのルールや友達との遊び方は知らなかった。……サッカーも、かくれんぼナスコンディーノも、買い食いも、親の目を盗んでこっそり抜け出す方法も、キスも、恋も、全部ジュゼッペが教えてくれた。

「薄汚いな」

 仕事中のジュゼッペに声をかける時、僕は大抵嫌味だったり罵倒だったりをぶつけ、彼は決まってそれに「うるせぇ」と返した。
 それが、僕たちの「合図」だった。「後で抜け出そう」……と、伝えるための。
 素直に伝えるのが恥ずかしかったからでもあるけれど、いつの間にか、それが習慣になっていた。

「るっせぇな! こちとら仕事の手伝い中だっつの。貴族様はお気楽で結構なこって」
「野良犬や野良猫でも、今の君に比べればずいぶんマトモに見える。……ほら、これでも使え。顔を拭くぐらいはできるだろう」

 泥だらけの顔を拭いてもらうため、自分のハンカチを差し出す。
 僕は別に汚されても構わなかったのに、ジュゼッペには毎回「そんな上等なもんで拭けるか!」と突っぱねられた。
 その日もハンドサインで「仕舞え」って言われたんだったか。

「ずいぶん生意気な口聞くようになったじゃねーか。お坊ちゃんが」
「君の悪影響だ」

 僕は元々口数が多くなかったけれど、ジュゼッペと話すようになって私語を覚えた。
 社交界での「交流」は腹の探り合いばかりだし、みんな腹黒いことしか言わないから、率直な気持ちをぶつけあえる場所は本当に居心地が良かった。
 ……それをわざわざ口に出すのは、少し、照れ臭かったけれど。

「……なぁ、『庭仕事』の手伝いは……いつ、終わるんだ」
「オヤジが良いって言うまで?」

 本当はどこまでが「庭仕事」でどこまでが「本当の仕事」なのか分からなかったけど、深くは踏み込まなかった。

「そうか。……じゃあ、待っている」
「いつもの公園な。サッカーしようぜサッカー」

 ジュゼッペはやたらとサッカーが好きだった。
「地中海らへんに生まれたらみんな好きだろ」と言われたけど……そういうものなんだろうか。

「僕はかくれんぼナスコンディーノがいい」
「はぁ? またかよ。あんなのガキンチョの遊びだろ」
「そ、そんなはずはない! 僕は君と出会って初めて遊んだ!」

 ……それに、君に見つけてもらえるのが嬉しくて、好きだったんだ。

「へいへーい。後でコイントスでもして決めようぜ」
「……うん」

 ……どうして。
 どうして、こんなに大切なことを、忘れてしまっていたんだろう。

「ありがとう、ジュゼッペ」

 もうずっと、幸せがどんなものか、分からなくなっていた。
 本当は、ずっと前から知っていたのに。
 君に、教えてもらっていたのに……。
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