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年下将軍に側室として求められて(13)
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それからおよそひと月後、とうとう三好軍が動き始たという情報が、義藤のもとに入って来る。
「来たか」
これまでの間、義藤は懸命に外交努力を続けたが、まだ三好の勢力に対抗できるだけの協力を取り付けるところまでは進展していない。
義藤としても、父が並々ならぬ思いを残したこの中尾城を去りがたく、敵地に居座り続けたが、もはや限界が近づいているようだった。
「何とか……ここにいる間に活路を開くことが出来れば良かったんだが。俺の力不足だったな」
義藤は自重気味に笑いながら、城下の様子を眺める。
三好の兵らは中尾城の周囲の町に、次々と火を放った。まるで城が火の海に囲まれたかのようなその光景に、城中の幕府軍の兵たちは慄いた。
「晴元殿へ援軍の要請を行いますか?」
火の海を眺める吉藤に、藤孝が問う。
「いや、いい。どうせ呼んでも来ないだろ」
「しかし、あの軍勢に対抗するには、援軍がなければとても……」
「晴元は援軍にはならない。この事態は幕府軍だけで切り抜ける必要がある」
しかしその幕府軍は、とうてい三好の勢力に対抗できるほどの数も装備もない。
哨戒に出ていた兵たちの報告によると、中尾城を取り囲んだ三好軍の総勢はおよそ二万から三万。正確な数字は分からないものの、とても幕府軍の兵だけでは太刀打ちできない数字だった。
何かを考えるように城下を見据える義藤のもとへ、慌しく駆けてくる足音が聞こえた。
「近江から伝令が! 松永長頼が兵を率い、大津及び松本に火を放ったと」
「なに? それはさすがにまずいな……」
「はい。坂本の仮御所まで敵が攻め入るようなことがあれば、撤退することも叶いません」
「そうだな……」
「どうされますか、義藤様?」
「……撤退する。すぐに準備を」
「はっ。城はどうされますか?」
「城をむざむざ相手にやるような親切心は持ち合わせていないからな。火を放って逃げる」
「城が残っていれば、どうせ三好に利用されてしまうだけですからね」
義藤は複雑な面持ちで火の手が迫る城下を眺める。
「父上……申し訳ありません。今の俺にはこれが精一杯だったようです。中尾城は破棄します」
中尾城は父義晴の残した執念の塊のようなものだった。それを破棄しなくてはならないということは、義藤にとっては断腸の思いだった。
けれども、ここで義藤は城とともに自滅するわけにはいかない。
ひとつ息を吐き、義藤は背後を振り返る。
「撤退にはどれぐらい時間がかかりそうだ?」
「すぐにでも、大丈夫です」
はっきりとした声でそう答えたのは、傍に控えていた芭乃だった。
「ここが戦場になった時には、いつでも逃れることが出来るよう、すべての準備はいつも整えておりました。号令をかければ、すぐにでも出発できます」
芭乃はそう言ってにこりと微笑む。
義藤はそんな芭乃を、呆れたような、それでいて感心したような面持ちで見つめた。
義藤の様子を伺ったり、その話を聞いたりしているうちに、芭乃自身も自分のやるべきことを見つけ、それを着々とこなしていた。
義藤がここで三好軍を迎え撃つのなら、そのための準備も出来ていたし、撤退の判断を下した場合の準備も同時に行なっていた。
芭乃自身、義藤の妻として何が出来るかを考え、行動した結果だった。
「よし、撤退だ。出来るだけ迅速に」
義藤の号令で、中尾城の中は慌しく動き出した。
義藤らは中尾城に火を放つと、敵と交戦しつつ、撤退を開始する。
三好軍との戦闘は苛烈を極めた。
「坂本まで行けば、待機の幕府軍と合流できる! もうすぐだ!」
義藤は兵たちを励ましながら、進む。
さすがに三好軍のほうも撤退の予想はしていなかったようで、退路に兵を集中させることはしなかったようだ。
おかげで進めば進むほどに三好の兵らの数は減っていき、ようやく見慣れた風景が見え始めた。
芭乃ら家中の女房や使用人たちも、幕府軍の兵に守られながら坂本への退路を進んだが、自らも槍や薙刀を持って身を守らなくてはならない場面も何度かあった。
しかし、何とか無事に京を脱し、ようやく近江へとたどり着こうというところまでやって来た。
「芭乃、女房たちに怪我はないか?」
周囲の三好軍を蹴散らし、つかの間の急速の間、義藤は芭乃の様子を見に来た。
「はい、何とか。多少は負傷者も出ておりますが、兵らに守られておりますので、ほとんどの者は無事です」
「そうか。なら良かった。以後はそれほど激しい戦闘はないと思うが、気をつけてついて来いよ」
「はい。義藤様もお気をつけて」
そう言って微笑み合い、義藤が戻ろうとしたそのときだった。
「危ない、芭乃っ!」
義藤の叫ぶような声とともに、衝撃があった。
芭乃は義藤に突き飛ばされていた。何が起こったのか、咄嗟には何もわからなかった。
「うっ……」
突き飛ばされた痛みに呻きながら目を開けると、義藤の体が芭乃の上に覆いかぶさっていた。その背中には数本の矢が深々と刺さっている。
「義藤様っ!」
矢の飛んできたらしい方角を見ると、数名の兵が逃げ出すところだった。
すぐに藤孝ら、義藤側近の幕臣たちが駆け寄ってくる。
「くそ、伏兵がっ!」
藤孝が舌打ちし、襲ってきた兵らを追いかけさせようとしたが、自分の仕事を終えた彼らはあっという間に姿を消してしまった。
「今のは……まさか……?」
逃した兵の顔に藤孝は見覚えがあったような気がした。
すぐにその場で医者が呼ばれ、応急の手当てが行なわれたが、義藤は意識を失ったままだった。
矢創はそれほど深くはないものの、出血が多かったようだ。
一行は先を急ぎ、ようやく坂本の仮御所へとたどり着いたが、そこにも敵兵の影があったので、さらに北へと進み、義藤は堅田へと運ばれた。
「坂本はもう間近だったというのに……油断しました。申し訳ありません」
悔しそうに藤孝が唇をかみ締めながら、芭乃に頭を下げる。もしもあの矢が義藤を狙ったものだったならば、藤孝がすぐに気づいて叩き落していただろう。
けれども、敵が思わぬところを狙ってきたので、それを咄嗟にかばおうとした義藤の動きまで藤孝は予測することは出来なかった。
「私のせいで……」
芭乃も唇をかみ締める。伏兵に自分が狙われていることなど、まったく気づきもしなかった。義藤は気づいていてくれたのに。
「なぜ……私が狙われたのでしょう」
「彼らの狙いは、将軍家の未来だったのかもしれません」
何かを濁すような藤孝の言葉に、芭乃は首を傾げた。
「将軍家の未来?」
芭乃の問いかけに藤孝は迷うように視線を泳がせる。何か芭乃には言いにくい事情があるのかもしれないけれど。
「藤孝殿、聞かせてください。将軍家の未来とは? なぜ私は狙われたのですか? 私は知っておく必要があると思います」
毅然として芭乃がそう言うと、藤孝はためらいつつも話してくれた。
「現在の義藤様にはあなたがただ一人の奥方です。その腹から生まれるはずの子を、彼らは狙ったのでしょう」
「でも、私はまだ……」
芭乃はまだ懐妊していない。その兆候も今のところはない。
「ええ。ですが、いずれはそうなる。そうなってからでは、将軍家を根絶させることが難しくなる。そう考えた輩による謀だと思われます」
藤孝はさらに続ける。
「あの場で義藤様には私を含め、十名以上の警護がついていました。私たちの意識はすべて義藤様にむけられていました。ひょっとすると、最初は義藤様を狙おうとしていたのかもしれません。しかし、それが無理だと判断し、次の標的であるあなたを狙った……そうも考えられます」
藤孝の説明は理路整然としていて、芭乃にも分かりやすかった。
「三好家の者でしょうか?」
芭乃が問いかけると、藤孝はきっぱりと首を横に振った。
「いえ。おそらく違います」
「では、一体誰が?」
「立ち去るときに見たあの兵の顔に、私は見覚えがありました。あれは晴元殿の家臣の一人に間違いありません」
「細川晴元殿? 確かに、援軍を送ってこなかったりということはありましたが、将軍暗殺などという大それたことまで考えていたのですか?」
「表向きは、今も晴元殿と公方様は友好な関係にあります。ですが、それは実情ではありません。あの方は義藤様ではなく、別の者を将軍として擁し、その背後から再び実験を握ろうとしているのです」
そう言って、藤孝は将軍家をめぐる複雑な事情を、芭乃にも分かりやすく話してくれた。義弟の覚慶の存在、それを義藤に代わって将軍位につかせようという動きがあること。
義藤は自分の抱えるすべてのことを芭乃に話してくれているのかと思っていたけれど、実際には芭乃の知らない闇がまだこんなにもあったのだ。
「ともかく……今度のことは私を含む臣の落ち度です。公方様が目覚められましたら、如何様にも罰をお受けしたいと思います」
「きっと義藤様は目覚めても、あなたに罰を与えようなんて思わないと思います。むしろ、心配掛けて悪かったなとか、そんなことを言いそうです」
芭乃のその言葉に藤孝はちらりと笑みを浮かべたが、褥に横たわる顔色を失った義藤の姿を見て、何かを堪えるように目を伏せた。
「大丈夫です。義藤様はきっと良くなります。今はそれを信じて待ちましょう」
「……はい」
義藤が襲撃されてから、数日の日が過ぎた。
義藤の意識はなかなか戻らず、幕臣たちは焦りの色をつのらせていた。義藤が負傷したことは当然伏せられていたが、どこから漏れたのか、義藤が危篤だとかすでに死んだとかいう噂が広がり、それを打ち消すのにさまざまに策を施さなくてはならなかった。
「義藤様……」
芭乃は義藤の額に当てた布を取り替える。
ようやく落ち着いて看病が出来る環境になったものの、そこは寂れた寺の中。坂本の仮御所とは随分と違う。けれども今の義藤にとって、最も近く、安全と思われる場所がここしかなかったのだ。
秋が深まりつつあるこの季節、あちこちから吹く隙間風が、目を覚まさない義藤の体を冷やさないかと芭乃は心配になる。まだ熱が下がらないので、頭は冷やさないといけないけれど、体まで冷えてしまっては困る。
けれども暖をとるために使用できる炭の量にも限りがあり、これから訪れる冬のことを考えると、今はまだあまり使うことも出来なかった。
義藤の意識が戻り、体が落ち着いたら、もう少し環境の整った朽木谷へ移動することになっている。
しかし、傷を負ってからもう三日も経つというのに、義藤は目を覚ます気配がない。
義藤の首筋に触れてみると、想像以上に冷たい。まさか心の臓が止まってしまったのではないかと芭乃は心配になり、その呼吸を確かめるように顔を近づけた。
苦しげではあるが、義藤はちゃんと息をしている。
その顔色は青白く、まるで血色というものがない。医師の話によると、矢傷はそれほど深くなく致命傷にはならなかったものの、その際の出血と傷の炎症による発熱が酷く、このまま意識が戻らなければ命も危うい状態なのだという。
早く意識が戻らなければ、食事を取ることもできず、日に日に義藤の体力は奪われていってしまう。
「目を覚まして……お願い……」
幼い頃の義藤は体が弱く、こうして芭乃が付き添って看病することもたびたびかあった。今の義藤はその頃よりも少し大人びてはいるけれど、まだこの国の武門の棟梁という責任は重過ぎるのではないかと思うほど、あどけない面をしている。
周りは皆、義藤のことを公方様としてしか見ていない。将軍という権威を利用したい大人たちが、大人義藤に重過ぎる荷物を一人で背負わせてしまっているように芭乃には見えてしまう。
義藤も義藤で、その重すぎる荷物をさも軽そうに抱えて見せたりするものだから、周囲はなおさら義藤に期待してしまうのだ。
本当はこんなにも脆くて壊れそうなのに。
布団の上の手にそっと触れてみる。その手はとても冷たくて、芭乃はぎゅっと握り締める。
「私……こんなにも義藤様のこと……好きだったんだ……」
芭乃は自分が思わず口にした言葉にはっとした。
芭乃はようやく自分の気持ちに気づいた。義藤のことが好きで好きで堪らない。失うなんて想像も付かないし、したくもない。
側室だから、妻だからというのではなく、本当に一人の男として義藤のことが好きなのだ。
このままもし義藤が目を覚まさなければ、芭乃はとうとうその気持ちを告げることが永遠に出来なくなってしまう。
「義藤様……好き……大好きです……だから生きて……」
芭乃はそう耳元で囁きながら、その体を撫で続ける。
と、その時――。
「寒……い……」
まるでうわ言のように義藤が呟いた。
目を覚ましたのだろうか……そう思って芭乃は義藤の顔を覗き込んでみたが、どうやら意識が戻ったわけではないようだ。
芭乃は義藤の冷たい手を胸元に入れながら、その布団の中へと潜り込む。炭をもらってきて部屋を暖めるよりも、こうしたほうがきっと義藤の体があったまるような気がしたからだ。
まるで求めるように延びてきた義藤のもう片方の手も、芭乃は自分の懐の中に入れた。義藤の冷たい手が、乳房に触れている。
芭乃は布団の中で義藤の体を包み込むように抱きしめる。外に出ている手や首の辺りは冷たかったのに、その体は体内の熱を外へ放っているかのように熱かった。
「義藤様……生きて……」
芭乃は願うように言いながら、その体を撫でる。時折、額や体の汗を拭いてやりながら、芭乃は義藤の体を温め続けた。
絶対にこの人に死んで欲しくない。生きて欲しい。芭乃は今強くそう思っていた。自分にとって彼がいかにかけがえのない存在なのかということを、芭乃は今思い知らされている。
義藤を失うぐらいなら、自分が犠牲になれば良かった……義藤を失った世界で、これからどうやって生きていけばいいのだろう。
そんなことを考えていると、芭乃の目からはぼろぼろと涙が溢れ出してしまう。
「泣く……な……」
「え……?」
気がつくと、目の前の義藤の目がぼんやりと空いていた。胸元に入れていた自分の手を、芭乃の瞳に添えて、その涙を拭ってくる。
「義藤……様……?」
「ああ……これ、夢……じゃないよな?」
ぼんやりと熱に浮かされた目を向けながら、義藤は聞いてくる。
「ゆ、夢じゃないです。私も夢を見ているわけじゃないですよね?」
「こうしてみれば……分かるか?」
義藤は微かに笑って、芭乃の耳たぶをちょっと引っ張った。
「痛い……夢じゃない……」
「ああ、そうみたいだな……」
義藤は汗で濡れた顔で微笑む。
「すごく……体が重い」
義藤が苦しそうに喘ぐ。
「あっ、す、すぐにお医者様に来ていただきますっ!」
芭乃は思い出したように叫んで、布団から出る。名残惜しそうに義藤がその手を伸ばしたけれど、もう芭乃はとっくに部屋から出て行ってしまった。
「もう少し……眠ったふりしておけば良かったな……」
芭乃が出て行ったほうを見つめながら、義藤は心底から悔しそうに呟いた。
「来たか」
これまでの間、義藤は懸命に外交努力を続けたが、まだ三好の勢力に対抗できるだけの協力を取り付けるところまでは進展していない。
義藤としても、父が並々ならぬ思いを残したこの中尾城を去りがたく、敵地に居座り続けたが、もはや限界が近づいているようだった。
「何とか……ここにいる間に活路を開くことが出来れば良かったんだが。俺の力不足だったな」
義藤は自重気味に笑いながら、城下の様子を眺める。
三好の兵らは中尾城の周囲の町に、次々と火を放った。まるで城が火の海に囲まれたかのようなその光景に、城中の幕府軍の兵たちは慄いた。
「晴元殿へ援軍の要請を行いますか?」
火の海を眺める吉藤に、藤孝が問う。
「いや、いい。どうせ呼んでも来ないだろ」
「しかし、あの軍勢に対抗するには、援軍がなければとても……」
「晴元は援軍にはならない。この事態は幕府軍だけで切り抜ける必要がある」
しかしその幕府軍は、とうてい三好の勢力に対抗できるほどの数も装備もない。
哨戒に出ていた兵たちの報告によると、中尾城を取り囲んだ三好軍の総勢はおよそ二万から三万。正確な数字は分からないものの、とても幕府軍の兵だけでは太刀打ちできない数字だった。
何かを考えるように城下を見据える義藤のもとへ、慌しく駆けてくる足音が聞こえた。
「近江から伝令が! 松永長頼が兵を率い、大津及び松本に火を放ったと」
「なに? それはさすがにまずいな……」
「はい。坂本の仮御所まで敵が攻め入るようなことがあれば、撤退することも叶いません」
「そうだな……」
「どうされますか、義藤様?」
「……撤退する。すぐに準備を」
「はっ。城はどうされますか?」
「城をむざむざ相手にやるような親切心は持ち合わせていないからな。火を放って逃げる」
「城が残っていれば、どうせ三好に利用されてしまうだけですからね」
義藤は複雑な面持ちで火の手が迫る城下を眺める。
「父上……申し訳ありません。今の俺にはこれが精一杯だったようです。中尾城は破棄します」
中尾城は父義晴の残した執念の塊のようなものだった。それを破棄しなくてはならないということは、義藤にとっては断腸の思いだった。
けれども、ここで義藤は城とともに自滅するわけにはいかない。
ひとつ息を吐き、義藤は背後を振り返る。
「撤退にはどれぐらい時間がかかりそうだ?」
「すぐにでも、大丈夫です」
はっきりとした声でそう答えたのは、傍に控えていた芭乃だった。
「ここが戦場になった時には、いつでも逃れることが出来るよう、すべての準備はいつも整えておりました。号令をかければ、すぐにでも出発できます」
芭乃はそう言ってにこりと微笑む。
義藤はそんな芭乃を、呆れたような、それでいて感心したような面持ちで見つめた。
義藤の様子を伺ったり、その話を聞いたりしているうちに、芭乃自身も自分のやるべきことを見つけ、それを着々とこなしていた。
義藤がここで三好軍を迎え撃つのなら、そのための準備も出来ていたし、撤退の判断を下した場合の準備も同時に行なっていた。
芭乃自身、義藤の妻として何が出来るかを考え、行動した結果だった。
「よし、撤退だ。出来るだけ迅速に」
義藤の号令で、中尾城の中は慌しく動き出した。
義藤らは中尾城に火を放つと、敵と交戦しつつ、撤退を開始する。
三好軍との戦闘は苛烈を極めた。
「坂本まで行けば、待機の幕府軍と合流できる! もうすぐだ!」
義藤は兵たちを励ましながら、進む。
さすがに三好軍のほうも撤退の予想はしていなかったようで、退路に兵を集中させることはしなかったようだ。
おかげで進めば進むほどに三好の兵らの数は減っていき、ようやく見慣れた風景が見え始めた。
芭乃ら家中の女房や使用人たちも、幕府軍の兵に守られながら坂本への退路を進んだが、自らも槍や薙刀を持って身を守らなくてはならない場面も何度かあった。
しかし、何とか無事に京を脱し、ようやく近江へとたどり着こうというところまでやって来た。
「芭乃、女房たちに怪我はないか?」
周囲の三好軍を蹴散らし、つかの間の急速の間、義藤は芭乃の様子を見に来た。
「はい、何とか。多少は負傷者も出ておりますが、兵らに守られておりますので、ほとんどの者は無事です」
「そうか。なら良かった。以後はそれほど激しい戦闘はないと思うが、気をつけてついて来いよ」
「はい。義藤様もお気をつけて」
そう言って微笑み合い、義藤が戻ろうとしたそのときだった。
「危ない、芭乃っ!」
義藤の叫ぶような声とともに、衝撃があった。
芭乃は義藤に突き飛ばされていた。何が起こったのか、咄嗟には何もわからなかった。
「うっ……」
突き飛ばされた痛みに呻きながら目を開けると、義藤の体が芭乃の上に覆いかぶさっていた。その背中には数本の矢が深々と刺さっている。
「義藤様っ!」
矢の飛んできたらしい方角を見ると、数名の兵が逃げ出すところだった。
すぐに藤孝ら、義藤側近の幕臣たちが駆け寄ってくる。
「くそ、伏兵がっ!」
藤孝が舌打ちし、襲ってきた兵らを追いかけさせようとしたが、自分の仕事を終えた彼らはあっという間に姿を消してしまった。
「今のは……まさか……?」
逃した兵の顔に藤孝は見覚えがあったような気がした。
すぐにその場で医者が呼ばれ、応急の手当てが行なわれたが、義藤は意識を失ったままだった。
矢創はそれほど深くはないものの、出血が多かったようだ。
一行は先を急ぎ、ようやく坂本の仮御所へとたどり着いたが、そこにも敵兵の影があったので、さらに北へと進み、義藤は堅田へと運ばれた。
「坂本はもう間近だったというのに……油断しました。申し訳ありません」
悔しそうに藤孝が唇をかみ締めながら、芭乃に頭を下げる。もしもあの矢が義藤を狙ったものだったならば、藤孝がすぐに気づいて叩き落していただろう。
けれども、敵が思わぬところを狙ってきたので、それを咄嗟にかばおうとした義藤の動きまで藤孝は予測することは出来なかった。
「私のせいで……」
芭乃も唇をかみ締める。伏兵に自分が狙われていることなど、まったく気づきもしなかった。義藤は気づいていてくれたのに。
「なぜ……私が狙われたのでしょう」
「彼らの狙いは、将軍家の未来だったのかもしれません」
何かを濁すような藤孝の言葉に、芭乃は首を傾げた。
「将軍家の未来?」
芭乃の問いかけに藤孝は迷うように視線を泳がせる。何か芭乃には言いにくい事情があるのかもしれないけれど。
「藤孝殿、聞かせてください。将軍家の未来とは? なぜ私は狙われたのですか? 私は知っておく必要があると思います」
毅然として芭乃がそう言うと、藤孝はためらいつつも話してくれた。
「現在の義藤様にはあなたがただ一人の奥方です。その腹から生まれるはずの子を、彼らは狙ったのでしょう」
「でも、私はまだ……」
芭乃はまだ懐妊していない。その兆候も今のところはない。
「ええ。ですが、いずれはそうなる。そうなってからでは、将軍家を根絶させることが難しくなる。そう考えた輩による謀だと思われます」
藤孝はさらに続ける。
「あの場で義藤様には私を含め、十名以上の警護がついていました。私たちの意識はすべて義藤様にむけられていました。ひょっとすると、最初は義藤様を狙おうとしていたのかもしれません。しかし、それが無理だと判断し、次の標的であるあなたを狙った……そうも考えられます」
藤孝の説明は理路整然としていて、芭乃にも分かりやすかった。
「三好家の者でしょうか?」
芭乃が問いかけると、藤孝はきっぱりと首を横に振った。
「いえ。おそらく違います」
「では、一体誰が?」
「立ち去るときに見たあの兵の顔に、私は見覚えがありました。あれは晴元殿の家臣の一人に間違いありません」
「細川晴元殿? 確かに、援軍を送ってこなかったりということはありましたが、将軍暗殺などという大それたことまで考えていたのですか?」
「表向きは、今も晴元殿と公方様は友好な関係にあります。ですが、それは実情ではありません。あの方は義藤様ではなく、別の者を将軍として擁し、その背後から再び実験を握ろうとしているのです」
そう言って、藤孝は将軍家をめぐる複雑な事情を、芭乃にも分かりやすく話してくれた。義弟の覚慶の存在、それを義藤に代わって将軍位につかせようという動きがあること。
義藤は自分の抱えるすべてのことを芭乃に話してくれているのかと思っていたけれど、実際には芭乃の知らない闇がまだこんなにもあったのだ。
「ともかく……今度のことは私を含む臣の落ち度です。公方様が目覚められましたら、如何様にも罰をお受けしたいと思います」
「きっと義藤様は目覚めても、あなたに罰を与えようなんて思わないと思います。むしろ、心配掛けて悪かったなとか、そんなことを言いそうです」
芭乃のその言葉に藤孝はちらりと笑みを浮かべたが、褥に横たわる顔色を失った義藤の姿を見て、何かを堪えるように目を伏せた。
「大丈夫です。義藤様はきっと良くなります。今はそれを信じて待ちましょう」
「……はい」
義藤が襲撃されてから、数日の日が過ぎた。
義藤の意識はなかなか戻らず、幕臣たちは焦りの色をつのらせていた。義藤が負傷したことは当然伏せられていたが、どこから漏れたのか、義藤が危篤だとかすでに死んだとかいう噂が広がり、それを打ち消すのにさまざまに策を施さなくてはならなかった。
「義藤様……」
芭乃は義藤の額に当てた布を取り替える。
ようやく落ち着いて看病が出来る環境になったものの、そこは寂れた寺の中。坂本の仮御所とは随分と違う。けれども今の義藤にとって、最も近く、安全と思われる場所がここしかなかったのだ。
秋が深まりつつあるこの季節、あちこちから吹く隙間風が、目を覚まさない義藤の体を冷やさないかと芭乃は心配になる。まだ熱が下がらないので、頭は冷やさないといけないけれど、体まで冷えてしまっては困る。
けれども暖をとるために使用できる炭の量にも限りがあり、これから訪れる冬のことを考えると、今はまだあまり使うことも出来なかった。
義藤の意識が戻り、体が落ち着いたら、もう少し環境の整った朽木谷へ移動することになっている。
しかし、傷を負ってからもう三日も経つというのに、義藤は目を覚ます気配がない。
義藤の首筋に触れてみると、想像以上に冷たい。まさか心の臓が止まってしまったのではないかと芭乃は心配になり、その呼吸を確かめるように顔を近づけた。
苦しげではあるが、義藤はちゃんと息をしている。
その顔色は青白く、まるで血色というものがない。医師の話によると、矢傷はそれほど深くなく致命傷にはならなかったものの、その際の出血と傷の炎症による発熱が酷く、このまま意識が戻らなければ命も危うい状態なのだという。
早く意識が戻らなければ、食事を取ることもできず、日に日に義藤の体力は奪われていってしまう。
「目を覚まして……お願い……」
幼い頃の義藤は体が弱く、こうして芭乃が付き添って看病することもたびたびかあった。今の義藤はその頃よりも少し大人びてはいるけれど、まだこの国の武門の棟梁という責任は重過ぎるのではないかと思うほど、あどけない面をしている。
周りは皆、義藤のことを公方様としてしか見ていない。将軍という権威を利用したい大人たちが、大人義藤に重過ぎる荷物を一人で背負わせてしまっているように芭乃には見えてしまう。
義藤も義藤で、その重すぎる荷物をさも軽そうに抱えて見せたりするものだから、周囲はなおさら義藤に期待してしまうのだ。
本当はこんなにも脆くて壊れそうなのに。
布団の上の手にそっと触れてみる。その手はとても冷たくて、芭乃はぎゅっと握り締める。
「私……こんなにも義藤様のこと……好きだったんだ……」
芭乃は自分が思わず口にした言葉にはっとした。
芭乃はようやく自分の気持ちに気づいた。義藤のことが好きで好きで堪らない。失うなんて想像も付かないし、したくもない。
側室だから、妻だからというのではなく、本当に一人の男として義藤のことが好きなのだ。
このままもし義藤が目を覚まさなければ、芭乃はとうとうその気持ちを告げることが永遠に出来なくなってしまう。
「義藤様……好き……大好きです……だから生きて……」
芭乃はそう耳元で囁きながら、その体を撫で続ける。
と、その時――。
「寒……い……」
まるでうわ言のように義藤が呟いた。
目を覚ましたのだろうか……そう思って芭乃は義藤の顔を覗き込んでみたが、どうやら意識が戻ったわけではないようだ。
芭乃は義藤の冷たい手を胸元に入れながら、その布団の中へと潜り込む。炭をもらってきて部屋を暖めるよりも、こうしたほうがきっと義藤の体があったまるような気がしたからだ。
まるで求めるように延びてきた義藤のもう片方の手も、芭乃は自分の懐の中に入れた。義藤の冷たい手が、乳房に触れている。
芭乃は布団の中で義藤の体を包み込むように抱きしめる。外に出ている手や首の辺りは冷たかったのに、その体は体内の熱を外へ放っているかのように熱かった。
「義藤様……生きて……」
芭乃は願うように言いながら、その体を撫でる。時折、額や体の汗を拭いてやりながら、芭乃は義藤の体を温め続けた。
絶対にこの人に死んで欲しくない。生きて欲しい。芭乃は今強くそう思っていた。自分にとって彼がいかにかけがえのない存在なのかということを、芭乃は今思い知らされている。
義藤を失うぐらいなら、自分が犠牲になれば良かった……義藤を失った世界で、これからどうやって生きていけばいいのだろう。
そんなことを考えていると、芭乃の目からはぼろぼろと涙が溢れ出してしまう。
「泣く……な……」
「え……?」
気がつくと、目の前の義藤の目がぼんやりと空いていた。胸元に入れていた自分の手を、芭乃の瞳に添えて、その涙を拭ってくる。
「義藤……様……?」
「ああ……これ、夢……じゃないよな?」
ぼんやりと熱に浮かされた目を向けながら、義藤は聞いてくる。
「ゆ、夢じゃないです。私も夢を見ているわけじゃないですよね?」
「こうしてみれば……分かるか?」
義藤は微かに笑って、芭乃の耳たぶをちょっと引っ張った。
「痛い……夢じゃない……」
「ああ、そうみたいだな……」
義藤は汗で濡れた顔で微笑む。
「すごく……体が重い」
義藤が苦しそうに喘ぐ。
「あっ、す、すぐにお医者様に来ていただきますっ!」
芭乃は思い出したように叫んで、布団から出る。名残惜しそうに義藤がその手を伸ばしたけれど、もう芭乃はとっくに部屋から出て行ってしまった。
「もう少し……眠ったふりしておけば良かったな……」
芭乃が出て行ったほうを見つめながら、義藤は心底から悔しそうに呟いた。
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エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
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