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年下将軍に側室として求められて(10)
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その夜以降、義藤は以前のように芭乃に話しかけてくれるようになった。
閨の場だけではなく、芭乃が部屋で退屈そうにしていると庭に連れ出してくれたり、双六の相手をしてくれたりする。
ただ、まだ懐妊のきざしは一向似ないものの、懐妊の可能性がある以上、武芸の稽古は禁止されたままだった。
芭乃としてはずっと剣を握っていないから、その腕が鈍ってしまう心配もあったが、周囲の言うことも納得できるので、おとなしく従っている。
塚原卜山が義藤のために稽古をつけている間も、芭乃は見学することは許されたが、剣を持つことは許されなかった。
「それでも……前よりはまし、なのかな……?」
卜山と義藤の稽古の様子をぼんやりと眺めながら、芭乃は呟く。
一時期は普通の会話さえまったくなかったのが、今は義藤がそれに応じてくれるので、かなり気分が楽になった。
何だかんだいっても、やはり義藤の気立ては優しいし、その人柄もよく知っているので、話を始めるとお互いに止まらなくなったりする。
赤ん坊の頃から傍で見てきたから当たり前のように分かっているつもりだったけど、こうして夫婦になって傍にいることで、また義藤のことを知ったような気がしていた。
「芭乃、ちょっと来いよ」
義藤が手招きするので、芭乃はその近くまで歩み寄る。
「そこに立って。そうそう、そのまま」
芭乃を立たせると、義藤もそれに背中合わせの形になって立つ。
「な、何なんですか、義藤様?」
「いいから、いいから。ほら先生、ちょっと見てみてくれよ」
二人の合間に、卜山が歩み寄り、ふうむと唸った。
「仰るとおり、公方様のほうが二寸ほど高くなっておりますな」
「やった!」
「あ、また背くらべですか?」
ようやく義藤の行動の意図を理解して、芭乃は言った。
「ああ。もうとっくに芭乃を抜いてるって言っても、先生は信じてくれないんだから」
「ふははは。これは儂が悪かった。成長しましたな、公方様」
卜山の言葉に、義藤はまるで勝ち誇ったような笑みを浮かべている。その笑顔はまるきり少年のものだ。
「芭乃に子が生まれるまでには、もう少し大きくなりたいものだな。このぐらい……いや、このぐらい」
義藤は自分の頭の上に手をかざし、理想の背丈に想像をめぐらせている。とても天下の将軍の仕草とは思えない。
「剣術ももっと強くなって、逞しい父親にならなくてはな、芭乃?」
「え? あ、はい、そうですね」
「何だ、他人事じゃないんだぞ。お前が、俺の子を産むんだからな」
「あ、大丈夫です。分かってます」
「本当かなぁ」
義藤は首をかしげるけど、確かに義藤の杞憂は当たっている。
義藤が父親だとか、芭乃が義藤の子を生むなどということは、今はまだとても想像がつかない。でも、子を作る行為をしているのだから、そのうちにそういうことになるのだろうとは思うけれど。
「それにしても、ここへ来るたびに、公方様は大人になられていきますな。次に来るときには、この老いぼれにぜひ可愛い赤ん坊の顔を見せてくだされ」
「ああ、そうだな。ぜひ先生には見ていただきたいな。そのために俺も頑張るけど、先生も頑張って生きてもらわないと」
義藤がそんなことを言うと、卜山は嬉しそうに破顔して笑った。
あの時、卜山にはあんなことを言っていたけれど、実際には義藤が生き続けることのほうが難しいような状況が続いていた。
義晴の死の翌月、義藤は父義晴の京制圧の念願を叶えるため、京の中尾城へと居を移した。義藤は今度の三好家との戦を、父義晴の弔い合戦と位置づけていた。
しかし、今の京は実質的に幕敵である三好長慶の支配下にある。
拠点となる中尾城は完成していたものの、幕臣や諸大名たちは、時期尚早だと義藤に反対した。
しかし義藤は、三好長慶によって失脚させられた細川晴元、さらには近江南部の六角氏の協力により上洛する。
二年前の江口の戦いで義藤らが京を去った後、三好氏らは京での基盤を固めていったようだった。
しかし、義藤の上洛により、京は再び戦乱に巻き込まれていった。中尾城近辺や三好長慶の居城である山城の周辺では、連日小競り合いのような戦が続いた。義藤が自ら兵を率いることも少なくはない。
今もその義藤の出陣のための準備を、芭乃は手伝っていた。
将軍が自ら戦に出なくても……と周囲の者たちは反対するし、芭乃も出来れば出て欲しくないと思ったが、義藤は自分の決めた戦だからと城中で待つことを拒んだ。
「今日の戦は激しくなるかも知れぬ」
「はい」
義藤の言葉に答えながら、芭乃は着物を調え、陣羽織を羽織らせ、具足をつけさせる。本来なら小姓が担うこの役割を、義藤はあえて芭乃にやらせた。
「芭乃、お前は俺の妻だ」
「はい」
「この城の留守は任せたぞ」
「はい。しっかりとお守りします」
「家中の者たちにとって、俺が留守の間はお前が俺の代わりだ。戦況を聞いて不安に思う者もいるだろう。そういう時はお前が励ましてやれ」
「はい」
「お前なら大丈夫だと俺は思っている」
「ありがとうございます」
まるで何かの儀式のようなその問答は、二人が部屋に二人きりになった時に行なわれた。
芭乃はその両肩に、義藤がいない間の足利将軍家を預かることが出来るような器量はないと思っている。けれども、義藤の妻なのだから、器量があろうとなかろうと、芭乃にはそういう役割が課せられてしまう。周りもそういう目で見るし、そういうふうに扱う。
芭乃としても、腹をくくる以外になかった。
(出来なくても……やるしかない)
ひょっとすると、義藤もこれまでそんな気持ちで将軍という仕事をして来たのだろうか。芭乃はふとそんなふうに思った。
どんな事態になっても義藤は将軍としての仕事から逃げたことがない。むしろ挑んでいくようにも見えた。
だから後見人である大御所の父を亡くした後も、まだ見た目は少年にしか見えない将軍に対し、各地の大名たちも礼を尽くして接しているのだろうと思う。
義藤は近年の将軍家では稀に見る名君となるはずだ……そういう声を芭乃もいくつも聞いてきた。
義藤が周りからそういうふうに認められるのは、きっと義藤が将軍であろうとし続けているからだ。だったら自分も、将軍の妻であり続けよう。芭乃はそう思った。
「義藤様、どのような事態になろうとも、私のことはご案じなさらないでください。私も武門の家に生まれた娘。いざという時には義藤様の恥にならぬように潔く死ぬ覚悟です。どうか後方の憂いを気にすることなく、お勤めをお果たしください」
当然のようにそう決意を告げる芭乃を、義藤は少し困ったように見つめてくる。
「俺はお前に死んでで欲しくない」
「義藤様……?」
芭乃としては、武士の嫁として当然のことを言ったつもりだったのに、義藤の反応は芭乃が思っていたものとは違っていた。
幼い頃から武家の娘はいざという時には潔く死ねと教えられて育てられる。敵に捕まり、辱めを受けるぐらいなら、自分の命が夫の迷いに繋がるぐらいなら、自ら命を絶つことが誉れとされている。
けれども、義藤はそうは思ってはいないようだ。
「お俺は……お前が死ぬぐらいなら、この将軍の地位と引き換えに、その命を救ってくれといってしまうかもしれない」
「そんな……」
「こんなことを言ったら、きっと他の臣たちは呆れて俺を見捨てるかもな」
確かに、これから戦に向かう他の兵や臣たちには絶対に聞かせられない話だ。そんなことを言えば、きっと幕軍の士気は一気に下がってしまうだろう。
「でも、本当に心からそう思っている。俺は芭乃に死んで欲しくない。そのために俺の命を差し出せと言われるなら迷わずそうする。俺にとってお前以上に大切なものはないんだ」
「…………」
まっすぐに偽りのない双眸が芭乃を見つめる。芭乃はどう答えていいか分からなかった。義藤の気持ちはとても嬉しいし、幸せな気持ちにもなれる。だけど、それと同時に罪悪感も感じてしまう。
「芭乃。俺はそう簡単には死なない。だからお前も死ぬな。たとえ一時は生き恥を晒そうとも、絶対に死ぬなよ」
真剣な目が芭乃を見据える。
芭乃はその言葉にしっかりと頷いた。
「分かりました。私もそう簡単に死にません。だから義藤様も……」
「ははは。俺はこう見えて往生際が悪いからな。これまでだって、父上とともに何度も京を追われ、刺客を送られても生き延びてきた。だから大丈夫だ」
「はい」
「必ず生きてまた会おう。約束してくれ」
「はい、約束します」
芭乃がそう答えると、義藤は満足そうに笑った。
芭乃はこのとき、絶対に生きて、もう一度義藤に会いたいと心から思った。
閨の場だけではなく、芭乃が部屋で退屈そうにしていると庭に連れ出してくれたり、双六の相手をしてくれたりする。
ただ、まだ懐妊のきざしは一向似ないものの、懐妊の可能性がある以上、武芸の稽古は禁止されたままだった。
芭乃としてはずっと剣を握っていないから、その腕が鈍ってしまう心配もあったが、周囲の言うことも納得できるので、おとなしく従っている。
塚原卜山が義藤のために稽古をつけている間も、芭乃は見学することは許されたが、剣を持つことは許されなかった。
「それでも……前よりはまし、なのかな……?」
卜山と義藤の稽古の様子をぼんやりと眺めながら、芭乃は呟く。
一時期は普通の会話さえまったくなかったのが、今は義藤がそれに応じてくれるので、かなり気分が楽になった。
何だかんだいっても、やはり義藤の気立ては優しいし、その人柄もよく知っているので、話を始めるとお互いに止まらなくなったりする。
赤ん坊の頃から傍で見てきたから当たり前のように分かっているつもりだったけど、こうして夫婦になって傍にいることで、また義藤のことを知ったような気がしていた。
「芭乃、ちょっと来いよ」
義藤が手招きするので、芭乃はその近くまで歩み寄る。
「そこに立って。そうそう、そのまま」
芭乃を立たせると、義藤もそれに背中合わせの形になって立つ。
「な、何なんですか、義藤様?」
「いいから、いいから。ほら先生、ちょっと見てみてくれよ」
二人の合間に、卜山が歩み寄り、ふうむと唸った。
「仰るとおり、公方様のほうが二寸ほど高くなっておりますな」
「やった!」
「あ、また背くらべですか?」
ようやく義藤の行動の意図を理解して、芭乃は言った。
「ああ。もうとっくに芭乃を抜いてるって言っても、先生は信じてくれないんだから」
「ふははは。これは儂が悪かった。成長しましたな、公方様」
卜山の言葉に、義藤はまるで勝ち誇ったような笑みを浮かべている。その笑顔はまるきり少年のものだ。
「芭乃に子が生まれるまでには、もう少し大きくなりたいものだな。このぐらい……いや、このぐらい」
義藤は自分の頭の上に手をかざし、理想の背丈に想像をめぐらせている。とても天下の将軍の仕草とは思えない。
「剣術ももっと強くなって、逞しい父親にならなくてはな、芭乃?」
「え? あ、はい、そうですね」
「何だ、他人事じゃないんだぞ。お前が、俺の子を産むんだからな」
「あ、大丈夫です。分かってます」
「本当かなぁ」
義藤は首をかしげるけど、確かに義藤の杞憂は当たっている。
義藤が父親だとか、芭乃が義藤の子を生むなどということは、今はまだとても想像がつかない。でも、子を作る行為をしているのだから、そのうちにそういうことになるのだろうとは思うけれど。
「それにしても、ここへ来るたびに、公方様は大人になられていきますな。次に来るときには、この老いぼれにぜひ可愛い赤ん坊の顔を見せてくだされ」
「ああ、そうだな。ぜひ先生には見ていただきたいな。そのために俺も頑張るけど、先生も頑張って生きてもらわないと」
義藤がそんなことを言うと、卜山は嬉しそうに破顔して笑った。
あの時、卜山にはあんなことを言っていたけれど、実際には義藤が生き続けることのほうが難しいような状況が続いていた。
義晴の死の翌月、義藤は父義晴の京制圧の念願を叶えるため、京の中尾城へと居を移した。義藤は今度の三好家との戦を、父義晴の弔い合戦と位置づけていた。
しかし、今の京は実質的に幕敵である三好長慶の支配下にある。
拠点となる中尾城は完成していたものの、幕臣や諸大名たちは、時期尚早だと義藤に反対した。
しかし義藤は、三好長慶によって失脚させられた細川晴元、さらには近江南部の六角氏の協力により上洛する。
二年前の江口の戦いで義藤らが京を去った後、三好氏らは京での基盤を固めていったようだった。
しかし、義藤の上洛により、京は再び戦乱に巻き込まれていった。中尾城近辺や三好長慶の居城である山城の周辺では、連日小競り合いのような戦が続いた。義藤が自ら兵を率いることも少なくはない。
今もその義藤の出陣のための準備を、芭乃は手伝っていた。
将軍が自ら戦に出なくても……と周囲の者たちは反対するし、芭乃も出来れば出て欲しくないと思ったが、義藤は自分の決めた戦だからと城中で待つことを拒んだ。
「今日の戦は激しくなるかも知れぬ」
「はい」
義藤の言葉に答えながら、芭乃は着物を調え、陣羽織を羽織らせ、具足をつけさせる。本来なら小姓が担うこの役割を、義藤はあえて芭乃にやらせた。
「芭乃、お前は俺の妻だ」
「はい」
「この城の留守は任せたぞ」
「はい。しっかりとお守りします」
「家中の者たちにとって、俺が留守の間はお前が俺の代わりだ。戦況を聞いて不安に思う者もいるだろう。そういう時はお前が励ましてやれ」
「はい」
「お前なら大丈夫だと俺は思っている」
「ありがとうございます」
まるで何かの儀式のようなその問答は、二人が部屋に二人きりになった時に行なわれた。
芭乃はその両肩に、義藤がいない間の足利将軍家を預かることが出来るような器量はないと思っている。けれども、義藤の妻なのだから、器量があろうとなかろうと、芭乃にはそういう役割が課せられてしまう。周りもそういう目で見るし、そういうふうに扱う。
芭乃としても、腹をくくる以外になかった。
(出来なくても……やるしかない)
ひょっとすると、義藤もこれまでそんな気持ちで将軍という仕事をして来たのだろうか。芭乃はふとそんなふうに思った。
どんな事態になっても義藤は将軍としての仕事から逃げたことがない。むしろ挑んでいくようにも見えた。
だから後見人である大御所の父を亡くした後も、まだ見た目は少年にしか見えない将軍に対し、各地の大名たちも礼を尽くして接しているのだろうと思う。
義藤は近年の将軍家では稀に見る名君となるはずだ……そういう声を芭乃もいくつも聞いてきた。
義藤が周りからそういうふうに認められるのは、きっと義藤が将軍であろうとし続けているからだ。だったら自分も、将軍の妻であり続けよう。芭乃はそう思った。
「義藤様、どのような事態になろうとも、私のことはご案じなさらないでください。私も武門の家に生まれた娘。いざという時には義藤様の恥にならぬように潔く死ぬ覚悟です。どうか後方の憂いを気にすることなく、お勤めをお果たしください」
当然のようにそう決意を告げる芭乃を、義藤は少し困ったように見つめてくる。
「俺はお前に死んでで欲しくない」
「義藤様……?」
芭乃としては、武士の嫁として当然のことを言ったつもりだったのに、義藤の反応は芭乃が思っていたものとは違っていた。
幼い頃から武家の娘はいざという時には潔く死ねと教えられて育てられる。敵に捕まり、辱めを受けるぐらいなら、自分の命が夫の迷いに繋がるぐらいなら、自ら命を絶つことが誉れとされている。
けれども、義藤はそうは思ってはいないようだ。
「お俺は……お前が死ぬぐらいなら、この将軍の地位と引き換えに、その命を救ってくれといってしまうかもしれない」
「そんな……」
「こんなことを言ったら、きっと他の臣たちは呆れて俺を見捨てるかもな」
確かに、これから戦に向かう他の兵や臣たちには絶対に聞かせられない話だ。そんなことを言えば、きっと幕軍の士気は一気に下がってしまうだろう。
「でも、本当に心からそう思っている。俺は芭乃に死んで欲しくない。そのために俺の命を差し出せと言われるなら迷わずそうする。俺にとってお前以上に大切なものはないんだ」
「…………」
まっすぐに偽りのない双眸が芭乃を見つめる。芭乃はどう答えていいか分からなかった。義藤の気持ちはとても嬉しいし、幸せな気持ちにもなれる。だけど、それと同時に罪悪感も感じてしまう。
「芭乃。俺はそう簡単には死なない。だからお前も死ぬな。たとえ一時は生き恥を晒そうとも、絶対に死ぬなよ」
真剣な目が芭乃を見据える。
芭乃はその言葉にしっかりと頷いた。
「分かりました。私もそう簡単に死にません。だから義藤様も……」
「ははは。俺はこう見えて往生際が悪いからな。これまでだって、父上とともに何度も京を追われ、刺客を送られても生き延びてきた。だから大丈夫だ」
「はい」
「必ず生きてまた会おう。約束してくれ」
「はい、約束します」
芭乃がそう答えると、義藤は満足そうに笑った。
芭乃はこのとき、絶対に生きて、もう一度義藤に会いたいと心から思った。
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