2 / 19
年下将軍に側室として求められて(2)
しおりを挟む
その夜、芭乃は父の部屋を訪れた。
幼い頃は毎日のように父の周りにまとわりつくようにしていたのに、ここ数年は仕事のとき以外に口を利くことも減ってしまった。
父のほうも、あえて芭乃とは距離をとっているように見えることもある。
父子ではあっても、この足利家においては父は芭乃の上官に当たる。だから家中の者たちに対して、そのけじめをつけているのかもしれない。
それは父親っ子の芭乃にとっては寂しいことでもあったが、同時にこの家での父の立場も理解できる年齢になりつつあった。
「お父様、芭乃です。入ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、入りなさい」
襖の向こうから静かな声で返答があったので、芭乃は襖を開けて部屋に入った。
自分のような娘がいる年齢にも関わらず、相変わらず、父は若々しく、凛々しい。
この御所でも、女房たちが父を見ては頬を赤らめたり、ひそひそと何事か話しているのを、芭乃は何度も見てきている。
芭乃にとっては、いつまで経っても眩しい存在だった。
いつか自分もここを出て嫁ぐ日が来るのだろうが、願わくば、父のような殿方と結ばれたい……そんな夢を芭乃は描いたりしている。
自分でその相手を選ぶことは出来ないけど、せめて父が選んでくれた相手が、父に似た理知的で素敵な人だったら……そういう願掛けは、未婚の娘らしく毎朝毎夜、忘れることなくしていた。
「お前が私の部屋に来るなんて、珍しいな。ひょっとして、菊童丸様に何かあったのか?」
「あ、ええと……」
実は芭乃は菊童丸の外出について、許可をもらおうと思ってやって来たのだった。
坂本の町に出かけるだけなら、変装するなりして大げさな従者などはつけず、自由に町歩きをすることも可能ではないか。かつて芭乃がそうしてうきうきとした気分を味わったように、その気持ちを菊童丸にも味わって欲しいと思ったのだ。
将軍になれば、たとえ変装をしても、もうそういうことは許されない。今のうちなら、何とかぎりぎり許してもらえるのではないか。芭乃はそう考えたのだったきっと父なら分かってくれるはず……芭乃はそう思い、勇気を出して父の元を訪れた。
でも、いざとなると、言葉がなかなか出てこなかった。
もしもここで父の反対にあったら、菊童丸との約束を守れなくなってしまう。
やっぱり黙って出かけるべきだろうか……。それとも、やはり菊童丸に町歩きをさせるのは、諦めるべきだろうか……そんなことを考えて口を閉ざしていると、父のほうから話しかけてきた。
「お前もそろそろ良い年だ。もしも菊童丸様からお伽の命を受けたら、慌てず騒がず、謹んでお受けするように」
「えっ? お、お伽っ!?」
芭乃が言おうとしていた言葉は、お伽というその父の口から発せられた言葉によって、すべてぶっ飛んでしまった。
お伽がどういうことをさすのか、芭乃だって当然その知識ぐらいはある。それはつまり、菊童丸の閨に入り、男女の営みをするということだ。
だけど、父が言うように、それを菊童丸に命じられる日が来るというのは、想像もつかなかった。
すっかり慌てふためき、動揺を隠せない芭乃を見て、父は呆れたようにため息をつく。
「何を慌てているんだ? 将軍家に仕える女子ならば、お伽の命を受けることほどの光栄はないのだぞ? お前もそれは当然承知していると思っていたのだがな」
「え、あ、そ、それはそう……でしょうけど……」
他の女房たちのことならば、そうですね、と素直に頷ける。だけど自分がその役目を……というのは、どうしても現実味が湧かない。
そんな芭乃の様子に一抹の不安を抱いたのか、晴舎は部屋の奥からなにやら書物を取り出してきた。
「お前もそろそろこういうものを読んでおきなさい。いざという時に慌てないために」
父が芭乃に差し出してきたのは、いわゆる春画と呼ばれているものだ。生々しく男女が絡み合う絵が、鮮やかな色をつけて描かれている。
芭乃の顔はかーっと赤くなってしまった。
「本来なら、こういうことを教えるのは母親の役目だ。しかし、お前の母親はもうこの世にはいないからな。私が教えておかなくてはならない」
そんなことを冷静に、眉ひとつ動かさずに言ってしまう父とは対照的に、芭乃はすっかり目をきょろきょろとさせてしまっている。
確かに、芭乃には母親はいない。芭乃を産んで間もなく、死んでしまったからだ。芭乃は父が母親の役割もしながら育てたといっても過言ではない。
「で、で、でも……私と菊童丸様がそのようなことになるとはとても考えられません……っ……」
「今はそうでも、菊童丸様もふた月後には将軍位につかれ、それと同時に元服される。そうすれば、一人前の男子として、将軍として、世継ぎをもうけることは急務となる」
「は、はぁ……た、確かに……そうかもしれませんが……」
父の言うことはもっともだ。
だけど、やっぱり芭乃にはいくら考えてみても、自分がその役目につくということの実感は湧いてこなかった。
「まあ、今はそれでいい。だが、これからもそれでは困る。公方様のもとに侍る女子には、いつでもお伽の役目を果たす覚悟を持っていてもらわなくてはならない。いいね?」
「……はい」
芭乃はとりあえずうな垂れるように頷いた。
結局、芭乃は父に明日の菊童丸の外出を言い出すことが出来ず、父の部屋を後にした。
芭乃の気持ちも、菊童丸の外出どころではなくなってしまっていた。
「はぁ……」
部屋に戻ってから、芭乃はため息ばかりついている。
文机の上には、父から預かってきた春画が並べてある。直視は出来ないものの、ぺらぺらとめくりながら、横目でそれを眺めている。
「こんなことを……私とお菊様が?」
どう考えても、無理だと思う。春画に出てくる殿方は、どの人も逞しく、背丈だって女よりも大きい。それに比べて今の菊童丸は、芭乃の胸までも背丈はない。
それに線だって細すぎるほどだし、春画に出てくる殿方とは大違いだ。
「どうせなら……お父様のような方がいいのに……」
想像してみると、じわりと股の合間が熱くなってくるのを感じた。
父も線は細いほうだけれど、知性があって、背も高く、その腕は幼い頃には芭乃を簡単に抱き上げてしまうほどに逞しかった。
今は芭乃もそれなりに成長したので、さすがに抱き上げるのは無理かもしれないけれど。
父の意向としては、いずれ芭乃が菊童丸のお手付きになることを願っているように思えた。
芭乃も菊童丸のことは、自分の主として愛おしいし、弟がいるならばこんな子なのかなと思ったりもする。
おしめを取り替えるところだって何度も見ているし、芭乃もその手伝いをしたことがあるのだ。
そんな彼と閨を共にするなど、本当に想像もできそうになかった。
「こんなに……大きくなかったしね……」
おしめを取り替える時に見た菊童丸の股間のものは、とうてい春画に出てくる殿方のものと比べようもなかった。まるで親指のような小さなもので、それだけに愛らしさは感じたが、それだけだった。
今はそれなりに成長しているんだろうか……そう考えかけて、何だかとても無礼なことを考えている気がして、芭乃は慌てて首を横にぶんぶんと振った。
「もう寝よう。明日も朝が早いのだし……」
芭乃は欠伸をしつつ、布団の中に潜り込んだ。
家中の者たちには少し近くに散歩に行って来ると告げ、女装した菊童丸の手を引いて芭乃は御所の門を出た。
菊童丸のことは、女房の子供ということで、門番たちには説明しておいた。もちろん、芭乃の言葉を疑う者など誰もいない。
「すげえな、本当に止められなかった」
すんなりと門を抜けることが出来たことに、菊童丸自身が驚いているようだった。
「あまり長くは無理ですよ。ばれてしまいますから」
「分かってるって。ありがとうな、芭乃。本当に嬉しい!」
菊童丸は女童の顔で本当に嬉しそうに笑う。
「お菊様って、お顔立ちが整っているから、本当に女の子に見えますよね」
「い、言うなって。死ぬほど恥ずかしいんだからな」
「でも、お似合いですよ?」
「そんなこと言われても嬉しくね~!」
「女の子はそんなに乱暴な言葉使いをしちゃいけません」
「う……」
芭乃の言い分に言い返すことが出来なくなった菊童丸は、言葉を飲み込んで唸っている。
「ほら、お菊様。あれが市ですよ。今日は各地から行商の者たちが集まってきているんです」
芭乃はこの市を菊童丸に見せてやりたかったのだ。
普段の町もそれなりに活気があって楽しいが、坂本のような田舎の町だと、たまに立つ市の日が特に楽しい。
案の定、菊童丸は初めて芭乃が市を見たときと同じように目を見開いて、市の賑わいを眺めている。
「すげー……何か分からねえけど、すごいな、芭乃!」
「はい。たぶんこの活気が、すごいんだと思います」
物を売る人の熱気、そして物を買う人の熱気。そんなものを御所の中で見る機会はまずない。
「芭乃、馬がいる! あれも売り物なのか?」
「ええ。馬もああして売られるんです。武士たちはこうした市で掘り出し物の貴重な子馬を買い求めるそうですよ」
「へええ……」
「ほら、あちらには南蛮の商品が並んでいるみたいですね。行って見ましょう」
芭乃は菊童丸の手を引き、ひときわ賑わうその露店を覗き込む。南蛮渡来のものは、各地の大名たちが献上品として将軍家に持ち込んだりするから、菊童丸にとってはさほど珍しくもないかもしれない。
だけど市には庶民が買い求めやすい商品が集められている。将軍家に献上されるような高価なものとはまた別の物が並べられているのだ。
ちらりと菊童丸を見ると、やはり珍しそうに目を輝かせて品物を見つめている。
やはり連れてきて良かった……菊童丸の子供らしい好奇心に満ち溢れた目を見ながら、芭乃は心からそう思った。
「楽しかったな~。もっと見ていたいぐらいだった」
「お気持ちは分かりますが、芭乃に出来るのはこれが精一杯です」
「分かってるって。芭乃がどれだけの危険をおかして俺を連れ出してくれたか。俺、今日のことは一生忘れないよ」
「お菊様……」
「何か……心配掛けたみたいだな。気を遣ってくれたんだろ、芭乃?」
「そんなことはありません。ただ、私はお菊様の笑顔が好きなんです。だから、今日はたくさんその笑顔が見れて、実は私が一番満足しています」
「お前は嘘が下手だな」
まるで芭乃の気持ちなど見透かしたように、菊童丸は笑う。ときどき、菊童丸はびっくりするぐらい大人びた目をする。今もその目をしている。
「だけど、そういうお前の嘘のつけないところが、俺は好きだ」
菊童丸のその言葉に、芭乃は思わず苦笑する。
「ありがとうございます……と言えばいいのかしら? 何だか複雑な気分です」
「それにしても……」
と、菊童丸が芭乃を見上げてくる。
「追いつけないなぁ……」
「何がです?」
「なかなか背丈は思うように伸びないんだなと思ってさ」
どうやら菊童丸は自分の背丈と芭乃の背丈の差を気にしているらしい。
「お菊様は男子であられるのですから、すぐに私なんて追い越してしまいますよ。それまではこうして、お菊様を上から眺める特権を味わっておきますね」
「くそう……」
菊童丸が本気で悔しがるので、芭乃はおかしくなって思わず声をあげて笑ってしまった。
「さあ、早く御所へ戻りましょう。そしてその髪もお化粧も、ちゃんと元に戻してお菊様に戻っていただかないと」
今日の菊童丸は部屋で勉強をしているということになっている。集中しているので邪魔をするなと。
けれども、緊急の用件などがあれば、そんなことはおかまいなしに部屋を開けられるに違いない。
「あっ……」
少し驚いたような菊童丸の声に、芭乃は緊張を覚える。菊童丸の視線の先には、見覚えのある姿が。
「お父様……」
まるで氷のように冷たい目をした父が、芭乃と菊童丸を見据えていた。
幼い頃は毎日のように父の周りにまとわりつくようにしていたのに、ここ数年は仕事のとき以外に口を利くことも減ってしまった。
父のほうも、あえて芭乃とは距離をとっているように見えることもある。
父子ではあっても、この足利家においては父は芭乃の上官に当たる。だから家中の者たちに対して、そのけじめをつけているのかもしれない。
それは父親っ子の芭乃にとっては寂しいことでもあったが、同時にこの家での父の立場も理解できる年齢になりつつあった。
「お父様、芭乃です。入ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、入りなさい」
襖の向こうから静かな声で返答があったので、芭乃は襖を開けて部屋に入った。
自分のような娘がいる年齢にも関わらず、相変わらず、父は若々しく、凛々しい。
この御所でも、女房たちが父を見ては頬を赤らめたり、ひそひそと何事か話しているのを、芭乃は何度も見てきている。
芭乃にとっては、いつまで経っても眩しい存在だった。
いつか自分もここを出て嫁ぐ日が来るのだろうが、願わくば、父のような殿方と結ばれたい……そんな夢を芭乃は描いたりしている。
自分でその相手を選ぶことは出来ないけど、せめて父が選んでくれた相手が、父に似た理知的で素敵な人だったら……そういう願掛けは、未婚の娘らしく毎朝毎夜、忘れることなくしていた。
「お前が私の部屋に来るなんて、珍しいな。ひょっとして、菊童丸様に何かあったのか?」
「あ、ええと……」
実は芭乃は菊童丸の外出について、許可をもらおうと思ってやって来たのだった。
坂本の町に出かけるだけなら、変装するなりして大げさな従者などはつけず、自由に町歩きをすることも可能ではないか。かつて芭乃がそうしてうきうきとした気分を味わったように、その気持ちを菊童丸にも味わって欲しいと思ったのだ。
将軍になれば、たとえ変装をしても、もうそういうことは許されない。今のうちなら、何とかぎりぎり許してもらえるのではないか。芭乃はそう考えたのだったきっと父なら分かってくれるはず……芭乃はそう思い、勇気を出して父の元を訪れた。
でも、いざとなると、言葉がなかなか出てこなかった。
もしもここで父の反対にあったら、菊童丸との約束を守れなくなってしまう。
やっぱり黙って出かけるべきだろうか……。それとも、やはり菊童丸に町歩きをさせるのは、諦めるべきだろうか……そんなことを考えて口を閉ざしていると、父のほうから話しかけてきた。
「お前もそろそろ良い年だ。もしも菊童丸様からお伽の命を受けたら、慌てず騒がず、謹んでお受けするように」
「えっ? お、お伽っ!?」
芭乃が言おうとしていた言葉は、お伽というその父の口から発せられた言葉によって、すべてぶっ飛んでしまった。
お伽がどういうことをさすのか、芭乃だって当然その知識ぐらいはある。それはつまり、菊童丸の閨に入り、男女の営みをするということだ。
だけど、父が言うように、それを菊童丸に命じられる日が来るというのは、想像もつかなかった。
すっかり慌てふためき、動揺を隠せない芭乃を見て、父は呆れたようにため息をつく。
「何を慌てているんだ? 将軍家に仕える女子ならば、お伽の命を受けることほどの光栄はないのだぞ? お前もそれは当然承知していると思っていたのだがな」
「え、あ、そ、それはそう……でしょうけど……」
他の女房たちのことならば、そうですね、と素直に頷ける。だけど自分がその役目を……というのは、どうしても現実味が湧かない。
そんな芭乃の様子に一抹の不安を抱いたのか、晴舎は部屋の奥からなにやら書物を取り出してきた。
「お前もそろそろこういうものを読んでおきなさい。いざという時に慌てないために」
父が芭乃に差し出してきたのは、いわゆる春画と呼ばれているものだ。生々しく男女が絡み合う絵が、鮮やかな色をつけて描かれている。
芭乃の顔はかーっと赤くなってしまった。
「本来なら、こういうことを教えるのは母親の役目だ。しかし、お前の母親はもうこの世にはいないからな。私が教えておかなくてはならない」
そんなことを冷静に、眉ひとつ動かさずに言ってしまう父とは対照的に、芭乃はすっかり目をきょろきょろとさせてしまっている。
確かに、芭乃には母親はいない。芭乃を産んで間もなく、死んでしまったからだ。芭乃は父が母親の役割もしながら育てたといっても過言ではない。
「で、で、でも……私と菊童丸様がそのようなことになるとはとても考えられません……っ……」
「今はそうでも、菊童丸様もふた月後には将軍位につかれ、それと同時に元服される。そうすれば、一人前の男子として、将軍として、世継ぎをもうけることは急務となる」
「は、はぁ……た、確かに……そうかもしれませんが……」
父の言うことはもっともだ。
だけど、やっぱり芭乃にはいくら考えてみても、自分がその役目につくということの実感は湧いてこなかった。
「まあ、今はそれでいい。だが、これからもそれでは困る。公方様のもとに侍る女子には、いつでもお伽の役目を果たす覚悟を持っていてもらわなくてはならない。いいね?」
「……はい」
芭乃はとりあえずうな垂れるように頷いた。
結局、芭乃は父に明日の菊童丸の外出を言い出すことが出来ず、父の部屋を後にした。
芭乃の気持ちも、菊童丸の外出どころではなくなってしまっていた。
「はぁ……」
部屋に戻ってから、芭乃はため息ばかりついている。
文机の上には、父から預かってきた春画が並べてある。直視は出来ないものの、ぺらぺらとめくりながら、横目でそれを眺めている。
「こんなことを……私とお菊様が?」
どう考えても、無理だと思う。春画に出てくる殿方は、どの人も逞しく、背丈だって女よりも大きい。それに比べて今の菊童丸は、芭乃の胸までも背丈はない。
それに線だって細すぎるほどだし、春画に出てくる殿方とは大違いだ。
「どうせなら……お父様のような方がいいのに……」
想像してみると、じわりと股の合間が熱くなってくるのを感じた。
父も線は細いほうだけれど、知性があって、背も高く、その腕は幼い頃には芭乃を簡単に抱き上げてしまうほどに逞しかった。
今は芭乃もそれなりに成長したので、さすがに抱き上げるのは無理かもしれないけれど。
父の意向としては、いずれ芭乃が菊童丸のお手付きになることを願っているように思えた。
芭乃も菊童丸のことは、自分の主として愛おしいし、弟がいるならばこんな子なのかなと思ったりもする。
おしめを取り替えるところだって何度も見ているし、芭乃もその手伝いをしたことがあるのだ。
そんな彼と閨を共にするなど、本当に想像もできそうになかった。
「こんなに……大きくなかったしね……」
おしめを取り替える時に見た菊童丸の股間のものは、とうてい春画に出てくる殿方のものと比べようもなかった。まるで親指のような小さなもので、それだけに愛らしさは感じたが、それだけだった。
今はそれなりに成長しているんだろうか……そう考えかけて、何だかとても無礼なことを考えている気がして、芭乃は慌てて首を横にぶんぶんと振った。
「もう寝よう。明日も朝が早いのだし……」
芭乃は欠伸をしつつ、布団の中に潜り込んだ。
家中の者たちには少し近くに散歩に行って来ると告げ、女装した菊童丸の手を引いて芭乃は御所の門を出た。
菊童丸のことは、女房の子供ということで、門番たちには説明しておいた。もちろん、芭乃の言葉を疑う者など誰もいない。
「すげえな、本当に止められなかった」
すんなりと門を抜けることが出来たことに、菊童丸自身が驚いているようだった。
「あまり長くは無理ですよ。ばれてしまいますから」
「分かってるって。ありがとうな、芭乃。本当に嬉しい!」
菊童丸は女童の顔で本当に嬉しそうに笑う。
「お菊様って、お顔立ちが整っているから、本当に女の子に見えますよね」
「い、言うなって。死ぬほど恥ずかしいんだからな」
「でも、お似合いですよ?」
「そんなこと言われても嬉しくね~!」
「女の子はそんなに乱暴な言葉使いをしちゃいけません」
「う……」
芭乃の言い分に言い返すことが出来なくなった菊童丸は、言葉を飲み込んで唸っている。
「ほら、お菊様。あれが市ですよ。今日は各地から行商の者たちが集まってきているんです」
芭乃はこの市を菊童丸に見せてやりたかったのだ。
普段の町もそれなりに活気があって楽しいが、坂本のような田舎の町だと、たまに立つ市の日が特に楽しい。
案の定、菊童丸は初めて芭乃が市を見たときと同じように目を見開いて、市の賑わいを眺めている。
「すげー……何か分からねえけど、すごいな、芭乃!」
「はい。たぶんこの活気が、すごいんだと思います」
物を売る人の熱気、そして物を買う人の熱気。そんなものを御所の中で見る機会はまずない。
「芭乃、馬がいる! あれも売り物なのか?」
「ええ。馬もああして売られるんです。武士たちはこうした市で掘り出し物の貴重な子馬を買い求めるそうですよ」
「へええ……」
「ほら、あちらには南蛮の商品が並んでいるみたいですね。行って見ましょう」
芭乃は菊童丸の手を引き、ひときわ賑わうその露店を覗き込む。南蛮渡来のものは、各地の大名たちが献上品として将軍家に持ち込んだりするから、菊童丸にとってはさほど珍しくもないかもしれない。
だけど市には庶民が買い求めやすい商品が集められている。将軍家に献上されるような高価なものとはまた別の物が並べられているのだ。
ちらりと菊童丸を見ると、やはり珍しそうに目を輝かせて品物を見つめている。
やはり連れてきて良かった……菊童丸の子供らしい好奇心に満ち溢れた目を見ながら、芭乃は心からそう思った。
「楽しかったな~。もっと見ていたいぐらいだった」
「お気持ちは分かりますが、芭乃に出来るのはこれが精一杯です」
「分かってるって。芭乃がどれだけの危険をおかして俺を連れ出してくれたか。俺、今日のことは一生忘れないよ」
「お菊様……」
「何か……心配掛けたみたいだな。気を遣ってくれたんだろ、芭乃?」
「そんなことはありません。ただ、私はお菊様の笑顔が好きなんです。だから、今日はたくさんその笑顔が見れて、実は私が一番満足しています」
「お前は嘘が下手だな」
まるで芭乃の気持ちなど見透かしたように、菊童丸は笑う。ときどき、菊童丸はびっくりするぐらい大人びた目をする。今もその目をしている。
「だけど、そういうお前の嘘のつけないところが、俺は好きだ」
菊童丸のその言葉に、芭乃は思わず苦笑する。
「ありがとうございます……と言えばいいのかしら? 何だか複雑な気分です」
「それにしても……」
と、菊童丸が芭乃を見上げてくる。
「追いつけないなぁ……」
「何がです?」
「なかなか背丈は思うように伸びないんだなと思ってさ」
どうやら菊童丸は自分の背丈と芭乃の背丈の差を気にしているらしい。
「お菊様は男子であられるのですから、すぐに私なんて追い越してしまいますよ。それまではこうして、お菊様を上から眺める特権を味わっておきますね」
「くそう……」
菊童丸が本気で悔しがるので、芭乃はおかしくなって思わず声をあげて笑ってしまった。
「さあ、早く御所へ戻りましょう。そしてその髪もお化粧も、ちゃんと元に戻してお菊様に戻っていただかないと」
今日の菊童丸は部屋で勉強をしているということになっている。集中しているので邪魔をするなと。
けれども、緊急の用件などがあれば、そんなことはおかまいなしに部屋を開けられるに違いない。
「あっ……」
少し驚いたような菊童丸の声に、芭乃は緊張を覚える。菊童丸の視線の先には、見覚えのある姿が。
「お父様……」
まるで氷のように冷たい目をした父が、芭乃と菊童丸を見据えていた。
0
お気に入りに追加
423
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります
真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」
婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。
そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。
脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。
王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。
婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!

【完結】私、殺されちゃったの? 婚約者に懸想した王女に殺された侯爵令嬢は巻き戻った世界で殺されないように策を練る
金峯蓮華
恋愛
侯爵令嬢のベルティーユは婚約者に懸想した王女に嫌がらせをされたあげく殺された。
ちょっと待ってよ。なんで私が殺されなきゃならないの?
お父様、ジェフリー様、私は死にたくないから婚約を解消してって言ったよね。
ジェフリー様、必ず守るから少し待ってほしいって言ったよね。
少し待っている間に殺されちゃったじゃないの。
どうしてくれるのよ。
ちょっと神様! やり直させなさいよ! 何で私が殺されなきゃならないのよ!
腹立つわ〜。
舞台は独自の世界です。
ご都合主義です。
緩いお話なので気楽にお読みいただけると嬉しいです。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる