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年下将軍に側室として求められて(1)
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天文五年、三月十日、その子供は生まれた。
第十二代室町幕府将軍、足利義晴の子として。
菊童丸と名づけられたその赤子の傍には、一人の女童の姿があった。
父の手をしっかりと握り締め、恐る恐るといった様子で、赤子の顔を覗き込んでいる。
「芭乃、お前の主だ。このお方は、お前の命よりも大切なものだ。分かるね?」
父親のその言葉に、芭乃と呼ばれた女童は神妙な顔つきで、しっかりと頷いた。
――天文十五年、十月。
「お菊様ぁ~」
先ほどから何度呼んでも、姿を現さない。
いつものことではあるが、近頃は周囲が落ち着かないこともあって、少しでも姿が見えないと不安になってしまう。
「お菊様ぁ。どこにいらっしゃるんですかぁ?」
あちらへ向かい、こちらへ向かい、同じ文言を繰り返して叫ぶ。
そうしているうちに、背後からごそごそと音がした。
「うるさいなぁ、もう。芭乃が喧しいから昼寝も出来ないじゃないか」
芭乃が振り返ってみると、そこにはしっかりと寝癖のついた見覚えのある頭が見えた。
どうやら本気の昼寝をしていたようで、眠そうに目を擦りながら菊童丸が面倒くさそうに草むらに身を起こした。
これが芭乃の主、菊童丸だ。
芭乃の父は代々足利将軍家のさまざまな雑務を取り仕切る進士氏の長で、進士晴舎という。
芭乃というのは本名だが、家中においてその名で呼ぶのは菊童丸と父ぐらいのものだった。
小侍従……というのが、足利家における芭乃の呼び名だ。
最近では父でさえもほとんど名では呼んでくれず、小侍従と呼ぶようになった。
だからいつまでも芭乃と呼んでくれるのは、厳密に言うと菊童丸ぐらいのものなのだ。
それが芭乃にとっては嬉しくもあったし、何だか自分だけが菊童丸にとって特別に近い存在である証のような気がして誇らしくもあった。
「もう、また勝手に御所を抜け出して。公方様に叱られても知りませんよ!」
御所といっても、近江坂本の常在寺に設けられた仮御所だ。
室町幕府の管領である細川晴元が、菊童丸の父であり現在の将軍でもある義晴と対立するという事態になった。 本来なら、将軍家を支えるはずの管領の裏切り。しかし情勢は晴元の優勢となり、将軍親子は京を追われる形で近江坂本に亡命しているのだ。
室町幕府将軍といっても、現在の状況はお飾りといったほうが正しいのかもしれない。けれども、現将軍である菊童丸はお飾りに甘んじるつもりはなく、将軍としての権威を取り戻すため、晴元と戦い続けているのだ。たとえ勢力的に劣ろうとも、こうして京を追われ、亡命を続けることになっても。
「抜け出したって人聞きが悪いなぁ。後から芭乃が来るって言ったら、門番が出してくれたんだよ」
「聞きましたよ。私が門番さんに叱られたじゃないですか。すぐに来ると思っていたのに、遅すぎるって」
家中のものが付き添うなら、菊童丸はこの近辺を外出することは出来る。
それにここは御所の外ではあるけれども、完全に外とはいえない場所だ。完全に外に出るためには、さらにもう一つ、門を越えないといけない。そこには出入りを厳しく管理する兵が配置されている。菊童丸がその門を越えるには、さまざまな人の許可が必要だった。
「ついでに、町に連れて行ってよ、芭乃」
悪戯っぽく瞳を輝かせながら、菊童丸は笑う。
「今日はこの後、塚原先生が来られるでしょう? 先生をお待たせする気ですか?」
「塚原先生か。伊勢よりはずっといいな」
「伊勢先生のことを呼び捨てにするんじゃありません」
塚原先生というのは、菊童丸に剣術を教える塚原卜伝のことだ。芭乃も塚原について剣術を学んでいる。いざという時に菊童丸を守るためだ。
伊勢というのは、室町幕府の政所執事である伊勢貞孝のことだ。伊勢家は代々将軍家に礼儀作法や歌などを教える役目を担っている。
菊度丸はその伊勢による講義が嫌いで、しょっちゅう腹が痛いとか頭が痛いとか言って休もうとする。
そのたびに、芭乃が父から叱られたりするものだから、伊勢が来るたびに、芭乃まで気分が重くなったりしていた。
「じゃあ、明日。町に行こうよ」
「明日なら……特に重要な予定はなかったと思いますから大丈夫ですけど。でも、最近は外出が多いですから、許可が出るかどうか分かりませんよ?
「だってさ、ずっと御所の中にこもってばかりいるのって、気が滅入るんだってば」
菊童丸はぷうっと頬を膨らませる。近頃は随分とませたことを言うようになったが、こういう表情をするとまだまだ子供だなと芭乃は思う。
「仕方がありません。今はこういう政情ですし、お菊様の命を狙おうとする輩もいますから」
現に菊童丸は何度か刺客に命を狙われている。
それは菊童丸が数ヶ月後には現象軍義晴のあとを継ぎ、第十三代の将軍となることが決まっているからだ。
この国の武将たちの中には、将軍の存在を良しとしない者たちも多い。そういう者たちによって、菊童丸の命は常に危険に晒されている。
しかし、現在の足利将軍家には十分に将軍親子を守りきれると言い切れるほどの財力も兵力もないのが実情だった。
将軍とは名ばかり……といえば言い過ぎかもしれないが、室町幕府が権勢を振るっていたのはもう昔の話で、今では京の政治の実権はすべて細川晴元が握っている。
その晴元から実権を取り戻そうとして戦い、そして敗れる……近年の足利家はそれを繰り返していた。
本来は武士の棟梁であるはずの将軍が、身を隠すように過ごさねばならないという屈辱。芭乃は物心ついた頃から足利将軍家に仕えているが、理不尽さを感じて仕方がなかった。
かつては将軍というだけで力を持った時代もあった。けれども、今は力があるものが権力を持つ時代に差し掛かり、それは京だけではなく、この国の各地でそのような様相が繰り広げられている。
いわゆる、戦国の世。弱肉強食の時代。それは将軍家とて例外ではない。将軍家もこの時代においては、天下を狙う一勢力の一つという見方も出来るだろう。
ただやはり大名たちの中にも将軍を支えようとしてくれる心のある者はいるもので、現在も六角氏や細川氏といった者たちの助けを借りながら、将軍親子の命は守られている。
「もうじき将軍になられるのですから、少しは自重していただかないと困ります」
芭乃は少し厳しい口調で菊童丸に言った。
けれども菊童丸はぼんやりとした目を山の向こうに向けいて、芭乃の言葉を聞いているのか聞いていないのかも分からない。
ふた月後には父の義晴に代わり、菊童丸は征夷大将軍に任じられることが決まっている。
そうなれば、今のような口の利き方も出来なくなるだろう。
それは芭乃にとっては少し寂しいことではあるけれども、赤ん坊の頃から見守り続けてきた菊童丸がこの国の武門の棟梁になるのだということは、誇らしいことでもあった。
きっと菊童丸ならば、力ある将軍になれると芭乃は信じているし、それは他の家臣たちや大名たちも同じようだった。
菊童丸は聡いし、武芸にも長けている。このように秀でた人材は、久しく足利家からは出ていない、などと言う者たちもいるほどだ。菊童丸に対する内外の期待は、本人が想像している以上に大きい。
「……将軍になんてなりたくない」
ぽつりと呟いた菊童丸の言葉に、芭乃は驚いて目を見開く。
「どうしてそのようなことを仰るのですか?」
これまで菊童丸がそんなことを口にしたことがなかったので、芭乃は思わず聞き返した。
「今だってほとんど檻の中だけど、将軍になったらもう檻から出られない」
「お菊様……」
芭乃は何と声をかけて良いか分からなくなり、口ごもってしまう。それは一人の子供としては当然の気持ちかもしれなかった。
子供というのは自然と自由を好む。芭乃だってそうだ。幼い頃は勝手に町へ出かけては父に叱られたりした。
だけど、菊童丸にはそもそも自由に町を出歩く自由すらない。
芭乃は一人で町を出歩いたときのわくわくするような気持ちを思い出し、それを菊童丸が味わうことは決してないのだと思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。
「ごめん、こんなことを言っても芭乃を困らせるだけだよな」
芭乃の困り果てた顔を見て、菊童丸はにっと笑う。
「分かってるさ。俺に与えられた責任も、それを果たすためには檻の中にいる必要があるってことも」
さっきは子供っぽいと思ってしまった菊童丸の横顔が、今は妙に大人びて見える。菊童丸は普通の大人以上に、自分の責任や立場というものを自覚している。
だからこれまでは自分の立場に対する不満などを口にすることはなかったのだろう。
でも、さっき口にしたことが、きっと菊童丸の本心だ。
芭乃には何となく分かった。
「よし、行くぞ」
「え?」
「先生が来るんだろ? 剣の稽古だ」
「あっ、そ、そうですねっ」
菊童丸はもうさっきみたいな暗い表情は浮かべていない。芭乃はそのことに罪悪感を感じた。
自分は菊童丸の檻の監視人でしかないのだろうか。少なくとも、今はその役割しか果たせていないと。
でも、もっと菊童丸の精神的な支えになれたら……菊童丸がさっきみたいに素直な気持ちを吐き出したとき、何か気の利いたことのいえる大人になれたら。
芭乃は胸の中でそんなことを考えていた。
「若、今日は久々に小侍従と打ち合ってみなされ」
ひと通りの稽古をつけた後、塚原卜伝は菊童丸と芭乃にそう告げる。
「手加減はしないぞ!」
「こちらも、手加減はいたしません」
「そうそう。手加減などこの場では無用のものじゃ。どちらも本気で戦ってみい」
二人の本気のにらみ合いを見て、老剣士は呵呵と笑う。
他の家臣がこの場にいたら、きっと止めにかかっているだろう。けれども、これが卜伝のやりかただし、そのやりかたを菊童丸の父である将軍義晴も、そして菊童丸自身も了解していたし、むしろ賛成だった。
「やぁーっ!」
菊童丸が木刀剣を振り上げ、足を踏み込むと同時に、芭乃はすっと足を一歩下げる。次の瞬間には二人の剣は激しい音を立て、打ち合っていた。
「脇がお甘いですよ、お菊様」
菊童丸の剣を押し戻すと、その体勢が少し崩れる。その隙を芭乃は見逃さなかった。すかさず喉元に木刀剣を突きつけようとしたが、体勢を立て直した菊童丸の剣がそれを受ける。
「ほう……」
二人の立ち合いを眺める卜山が、感心したように嘆息する。
まだ呼吸の乱れていない芭乃に対し、菊童丸のほうの息はかなり乱れている。それでもその目は狙った得物を逃すまいとするかのように、じっと芭乃の動きを見据えていた。
二人は間合いを探るように、ぴくりとも動かない。
やがて、先に動いたのは、やはり菊童丸のほうだった。まるですべての力を剣にこめるかのように、勢い良く踏み込んでくる。その剣を芭乃は何とか受けたが、瞬間、顔をしかめた。
菊童丸はまるでその表情から何かと読み取ったように、さらに激しく打ち込む。芭乃は何とか打ち込まれる剣を受け止めながらも、完全に押され始めていた。
「そこだ――」
菊童丸は目をきらりと輝かせ、無駄のない動きで剣を振りおろすと、芭乃の剣が地面に叩き落された。
「あ……」
芭乃は信じられないものを見るような目で、叩き落された自分の木刀剣を見る。気がつけば、菊童丸の木刀剣が喉元に突きつけられていた。その表情は勝ち誇った笑みを浮かべているが、息は荒く、汗にまみれている。
「参りました」
芭乃は素直にその場に手をつき、叩頭する。
「やったああっ! やっと芭乃に勝てたぞ!」
「随分と精進なさいましたな。若」
「隙を見つけては鍛錬を続けたからな。芭乃に隠れてやるのは大変だった」
「本当にお見事でしたよ、菊童丸様。でも、正直に言ってめちゃくちゃ悔しいです」
「でも、女子の中でお前ほどの使い手もそうそういないだろう。な、先生?」
「そうじゃな。小侍従は儂の教え子の女子の中では、もっとも優れた部類に入るな」
「でも、負けてしまいました」
芭乃はがっくりと肩を落とす。喜んでいる菊童丸の手前、あまり消沈した様子を見せられないにしても、彼に初めて負けたという事実は、受け入れるのに時間がかかりそうだ。
菊童丸はこれから成長期で、力も付いていくだろうし、体も出来ていく。だから、芭乃はどんどん置いてけぼりにされるに違いない。
将軍が自分の身を自分で守れるということは、大きな強みには違いないので、それは菊童丸にとっては良いことなのだろうが。
「芭乃、そんなに落ち込むなって!」
得意げに肩を叩いてくる菊童丸が、今ほど憎たらしいと思ったことはなかった。
「別に落ち込んでません!」
「いや、落ち込んでるだろう?」
「落ち込んでませんから!」
気がつけば、卜山が二人のやり取りを見つめ、声をあげて笑っている。
「あ、す、すみません……」
「悔しいと思う気持ちは、大事じゃ。その気持ちを忘れぬように精進に励め、小侍従。若が油断したときが、好機じゃぞ」
「は、はいっ!」
「俺は絶対に油断なんてしねーからな!」
笑い続ける卜山の顔を見て、芭乃ははっとした。顔は笑っているが、その目は真剣だったからだ。その様子に、菊童丸はどうやら気づいていないようだが。
根が負けず嫌いの菊童丸の扱いを、さすがに卜山はよく心得ていると芭乃は感心する思いだった。
確かに、菊童丸には芭乃を倒した程度で満足してもらっては困る。今の足利家の状況を考えると、さらに精進し、強くなっていかなくては。そのための駒なら、芭乃は多少の悔しさを我慢してもなれると思った。
第十二代室町幕府将軍、足利義晴の子として。
菊童丸と名づけられたその赤子の傍には、一人の女童の姿があった。
父の手をしっかりと握り締め、恐る恐るといった様子で、赤子の顔を覗き込んでいる。
「芭乃、お前の主だ。このお方は、お前の命よりも大切なものだ。分かるね?」
父親のその言葉に、芭乃と呼ばれた女童は神妙な顔つきで、しっかりと頷いた。
――天文十五年、十月。
「お菊様ぁ~」
先ほどから何度呼んでも、姿を現さない。
いつものことではあるが、近頃は周囲が落ち着かないこともあって、少しでも姿が見えないと不安になってしまう。
「お菊様ぁ。どこにいらっしゃるんですかぁ?」
あちらへ向かい、こちらへ向かい、同じ文言を繰り返して叫ぶ。
そうしているうちに、背後からごそごそと音がした。
「うるさいなぁ、もう。芭乃が喧しいから昼寝も出来ないじゃないか」
芭乃が振り返ってみると、そこにはしっかりと寝癖のついた見覚えのある頭が見えた。
どうやら本気の昼寝をしていたようで、眠そうに目を擦りながら菊童丸が面倒くさそうに草むらに身を起こした。
これが芭乃の主、菊童丸だ。
芭乃の父は代々足利将軍家のさまざまな雑務を取り仕切る進士氏の長で、進士晴舎という。
芭乃というのは本名だが、家中においてその名で呼ぶのは菊童丸と父ぐらいのものだった。
小侍従……というのが、足利家における芭乃の呼び名だ。
最近では父でさえもほとんど名では呼んでくれず、小侍従と呼ぶようになった。
だからいつまでも芭乃と呼んでくれるのは、厳密に言うと菊童丸ぐらいのものなのだ。
それが芭乃にとっては嬉しくもあったし、何だか自分だけが菊童丸にとって特別に近い存在である証のような気がして誇らしくもあった。
「もう、また勝手に御所を抜け出して。公方様に叱られても知りませんよ!」
御所といっても、近江坂本の常在寺に設けられた仮御所だ。
室町幕府の管領である細川晴元が、菊童丸の父であり現在の将軍でもある義晴と対立するという事態になった。 本来なら、将軍家を支えるはずの管領の裏切り。しかし情勢は晴元の優勢となり、将軍親子は京を追われる形で近江坂本に亡命しているのだ。
室町幕府将軍といっても、現在の状況はお飾りといったほうが正しいのかもしれない。けれども、現将軍である菊童丸はお飾りに甘んじるつもりはなく、将軍としての権威を取り戻すため、晴元と戦い続けているのだ。たとえ勢力的に劣ろうとも、こうして京を追われ、亡命を続けることになっても。
「抜け出したって人聞きが悪いなぁ。後から芭乃が来るって言ったら、門番が出してくれたんだよ」
「聞きましたよ。私が門番さんに叱られたじゃないですか。すぐに来ると思っていたのに、遅すぎるって」
家中のものが付き添うなら、菊童丸はこの近辺を外出することは出来る。
それにここは御所の外ではあるけれども、完全に外とはいえない場所だ。完全に外に出るためには、さらにもう一つ、門を越えないといけない。そこには出入りを厳しく管理する兵が配置されている。菊童丸がその門を越えるには、さまざまな人の許可が必要だった。
「ついでに、町に連れて行ってよ、芭乃」
悪戯っぽく瞳を輝かせながら、菊童丸は笑う。
「今日はこの後、塚原先生が来られるでしょう? 先生をお待たせする気ですか?」
「塚原先生か。伊勢よりはずっといいな」
「伊勢先生のことを呼び捨てにするんじゃありません」
塚原先生というのは、菊童丸に剣術を教える塚原卜伝のことだ。芭乃も塚原について剣術を学んでいる。いざという時に菊童丸を守るためだ。
伊勢というのは、室町幕府の政所執事である伊勢貞孝のことだ。伊勢家は代々将軍家に礼儀作法や歌などを教える役目を担っている。
菊度丸はその伊勢による講義が嫌いで、しょっちゅう腹が痛いとか頭が痛いとか言って休もうとする。
そのたびに、芭乃が父から叱られたりするものだから、伊勢が来るたびに、芭乃まで気分が重くなったりしていた。
「じゃあ、明日。町に行こうよ」
「明日なら……特に重要な予定はなかったと思いますから大丈夫ですけど。でも、最近は外出が多いですから、許可が出るかどうか分かりませんよ?
「だってさ、ずっと御所の中にこもってばかりいるのって、気が滅入るんだってば」
菊童丸はぷうっと頬を膨らませる。近頃は随分とませたことを言うようになったが、こういう表情をするとまだまだ子供だなと芭乃は思う。
「仕方がありません。今はこういう政情ですし、お菊様の命を狙おうとする輩もいますから」
現に菊童丸は何度か刺客に命を狙われている。
それは菊童丸が数ヶ月後には現象軍義晴のあとを継ぎ、第十三代の将軍となることが決まっているからだ。
この国の武将たちの中には、将軍の存在を良しとしない者たちも多い。そういう者たちによって、菊童丸の命は常に危険に晒されている。
しかし、現在の足利将軍家には十分に将軍親子を守りきれると言い切れるほどの財力も兵力もないのが実情だった。
将軍とは名ばかり……といえば言い過ぎかもしれないが、室町幕府が権勢を振るっていたのはもう昔の話で、今では京の政治の実権はすべて細川晴元が握っている。
その晴元から実権を取り戻そうとして戦い、そして敗れる……近年の足利家はそれを繰り返していた。
本来は武士の棟梁であるはずの将軍が、身を隠すように過ごさねばならないという屈辱。芭乃は物心ついた頃から足利将軍家に仕えているが、理不尽さを感じて仕方がなかった。
かつては将軍というだけで力を持った時代もあった。けれども、今は力があるものが権力を持つ時代に差し掛かり、それは京だけではなく、この国の各地でそのような様相が繰り広げられている。
いわゆる、戦国の世。弱肉強食の時代。それは将軍家とて例外ではない。将軍家もこの時代においては、天下を狙う一勢力の一つという見方も出来るだろう。
ただやはり大名たちの中にも将軍を支えようとしてくれる心のある者はいるもので、現在も六角氏や細川氏といった者たちの助けを借りながら、将軍親子の命は守られている。
「もうじき将軍になられるのですから、少しは自重していただかないと困ります」
芭乃は少し厳しい口調で菊童丸に言った。
けれども菊童丸はぼんやりとした目を山の向こうに向けいて、芭乃の言葉を聞いているのか聞いていないのかも分からない。
ふた月後には父の義晴に代わり、菊童丸は征夷大将軍に任じられることが決まっている。
そうなれば、今のような口の利き方も出来なくなるだろう。
それは芭乃にとっては少し寂しいことではあるけれども、赤ん坊の頃から見守り続けてきた菊童丸がこの国の武門の棟梁になるのだということは、誇らしいことでもあった。
きっと菊童丸ならば、力ある将軍になれると芭乃は信じているし、それは他の家臣たちや大名たちも同じようだった。
菊童丸は聡いし、武芸にも長けている。このように秀でた人材は、久しく足利家からは出ていない、などと言う者たちもいるほどだ。菊童丸に対する内外の期待は、本人が想像している以上に大きい。
「……将軍になんてなりたくない」
ぽつりと呟いた菊童丸の言葉に、芭乃は驚いて目を見開く。
「どうしてそのようなことを仰るのですか?」
これまで菊童丸がそんなことを口にしたことがなかったので、芭乃は思わず聞き返した。
「今だってほとんど檻の中だけど、将軍になったらもう檻から出られない」
「お菊様……」
芭乃は何と声をかけて良いか分からなくなり、口ごもってしまう。それは一人の子供としては当然の気持ちかもしれなかった。
子供というのは自然と自由を好む。芭乃だってそうだ。幼い頃は勝手に町へ出かけては父に叱られたりした。
だけど、菊童丸にはそもそも自由に町を出歩く自由すらない。
芭乃は一人で町を出歩いたときのわくわくするような気持ちを思い出し、それを菊童丸が味わうことは決してないのだと思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。
「ごめん、こんなことを言っても芭乃を困らせるだけだよな」
芭乃の困り果てた顔を見て、菊童丸はにっと笑う。
「分かってるさ。俺に与えられた責任も、それを果たすためには檻の中にいる必要があるってことも」
さっきは子供っぽいと思ってしまった菊童丸の横顔が、今は妙に大人びて見える。菊童丸は普通の大人以上に、自分の責任や立場というものを自覚している。
だからこれまでは自分の立場に対する不満などを口にすることはなかったのだろう。
でも、さっき口にしたことが、きっと菊童丸の本心だ。
芭乃には何となく分かった。
「よし、行くぞ」
「え?」
「先生が来るんだろ? 剣の稽古だ」
「あっ、そ、そうですねっ」
菊童丸はもうさっきみたいな暗い表情は浮かべていない。芭乃はそのことに罪悪感を感じた。
自分は菊童丸の檻の監視人でしかないのだろうか。少なくとも、今はその役割しか果たせていないと。
でも、もっと菊童丸の精神的な支えになれたら……菊童丸がさっきみたいに素直な気持ちを吐き出したとき、何か気の利いたことのいえる大人になれたら。
芭乃は胸の中でそんなことを考えていた。
「若、今日は久々に小侍従と打ち合ってみなされ」
ひと通りの稽古をつけた後、塚原卜伝は菊童丸と芭乃にそう告げる。
「手加減はしないぞ!」
「こちらも、手加減はいたしません」
「そうそう。手加減などこの場では無用のものじゃ。どちらも本気で戦ってみい」
二人の本気のにらみ合いを見て、老剣士は呵呵と笑う。
他の家臣がこの場にいたら、きっと止めにかかっているだろう。けれども、これが卜伝のやりかただし、そのやりかたを菊童丸の父である将軍義晴も、そして菊童丸自身も了解していたし、むしろ賛成だった。
「やぁーっ!」
菊童丸が木刀剣を振り上げ、足を踏み込むと同時に、芭乃はすっと足を一歩下げる。次の瞬間には二人の剣は激しい音を立て、打ち合っていた。
「脇がお甘いですよ、お菊様」
菊童丸の剣を押し戻すと、その体勢が少し崩れる。その隙を芭乃は見逃さなかった。すかさず喉元に木刀剣を突きつけようとしたが、体勢を立て直した菊童丸の剣がそれを受ける。
「ほう……」
二人の立ち合いを眺める卜山が、感心したように嘆息する。
まだ呼吸の乱れていない芭乃に対し、菊童丸のほうの息はかなり乱れている。それでもその目は狙った得物を逃すまいとするかのように、じっと芭乃の動きを見据えていた。
二人は間合いを探るように、ぴくりとも動かない。
やがて、先に動いたのは、やはり菊童丸のほうだった。まるですべての力を剣にこめるかのように、勢い良く踏み込んでくる。その剣を芭乃は何とか受けたが、瞬間、顔をしかめた。
菊童丸はまるでその表情から何かと読み取ったように、さらに激しく打ち込む。芭乃は何とか打ち込まれる剣を受け止めながらも、完全に押され始めていた。
「そこだ――」
菊童丸は目をきらりと輝かせ、無駄のない動きで剣を振りおろすと、芭乃の剣が地面に叩き落された。
「あ……」
芭乃は信じられないものを見るような目で、叩き落された自分の木刀剣を見る。気がつけば、菊童丸の木刀剣が喉元に突きつけられていた。その表情は勝ち誇った笑みを浮かべているが、息は荒く、汗にまみれている。
「参りました」
芭乃は素直にその場に手をつき、叩頭する。
「やったああっ! やっと芭乃に勝てたぞ!」
「随分と精進なさいましたな。若」
「隙を見つけては鍛錬を続けたからな。芭乃に隠れてやるのは大変だった」
「本当にお見事でしたよ、菊童丸様。でも、正直に言ってめちゃくちゃ悔しいです」
「でも、女子の中でお前ほどの使い手もそうそういないだろう。な、先生?」
「そうじゃな。小侍従は儂の教え子の女子の中では、もっとも優れた部類に入るな」
「でも、負けてしまいました」
芭乃はがっくりと肩を落とす。喜んでいる菊童丸の手前、あまり消沈した様子を見せられないにしても、彼に初めて負けたという事実は、受け入れるのに時間がかかりそうだ。
菊童丸はこれから成長期で、力も付いていくだろうし、体も出来ていく。だから、芭乃はどんどん置いてけぼりにされるに違いない。
将軍が自分の身を自分で守れるということは、大きな強みには違いないので、それは菊童丸にとっては良いことなのだろうが。
「芭乃、そんなに落ち込むなって!」
得意げに肩を叩いてくる菊童丸が、今ほど憎たらしいと思ったことはなかった。
「別に落ち込んでません!」
「いや、落ち込んでるだろう?」
「落ち込んでませんから!」
気がつけば、卜山が二人のやり取りを見つめ、声をあげて笑っている。
「あ、す、すみません……」
「悔しいと思う気持ちは、大事じゃ。その気持ちを忘れぬように精進に励め、小侍従。若が油断したときが、好機じゃぞ」
「は、はいっ!」
「俺は絶対に油断なんてしねーからな!」
笑い続ける卜山の顔を見て、芭乃ははっとした。顔は笑っているが、その目は真剣だったからだ。その様子に、菊童丸はどうやら気づいていないようだが。
根が負けず嫌いの菊童丸の扱いを、さすがに卜山はよく心得ていると芭乃は感心する思いだった。
確かに、菊童丸には芭乃を倒した程度で満足してもらっては困る。今の足利家の状況を考えると、さらに精進し、強くなっていかなくては。そのための駒なら、芭乃は多少の悔しさを我慢してもなれると思った。
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