身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

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第二章

身代わり濃姫(41)

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「姉上、義兄上あにうえ、ただいま戻りました」
 夕刻よりも少し前に、使いに出かけていた牛丸うしまるが、である長屋の一室に戻ってきた。
「おかえり」
 雪春は木を削る手を休めることなく答える。
 二間しかないこの長屋が、十日ほど前から雪春たちの住み処だった。
「世話をかけたな、牛丸」
 雪春がねぎらうと、牛丸は十歳の少年らしい満面の笑みを浮かべる。
「いいえ。義兄上の作ってくださるかんざしや髪飾りは、とても評判が良くて、お店の人たちからいつも私が褒めていただきます」
「そうか、それは嬉しいことだな」
 雪春は笑って、作業道具を押しのけ、いろりの近くに牛丸のための場所を作ってやる。
 牛丸は小さな手をいろりにかざし、冷え切った手を温めた。
 雪春はここへたどりついてからほどなく、牛丸が方々からせっせと集めてきた木材を使い、女性ものの小物を作り始めた。
 それを牛丸が雑貨を扱う商店などを回って交渉し、買い取ってもらっているのだが、今のところ、作ったものはほぼ売れてくれているというありがたい状況だった。
 雪春が作っているのは、元の世界にいた時に見たものを真似ているだけなのだが、それがこの世界ではとても珍しいものとして評判を呼んでいるようだった。
 もともと、手先が器用で、幼い頃から工作は得意中の得意だった。
 大学も美術系の大学を出て、広告会社にグラフィックデザイナーとして就職はしたものの、アナログの絵や工作に対する熱は冷めることがなく、趣味として休日には、印象に残った建造物のジオラマを造ったり、仕事でも必要に応じて模型を造ったりすることもあった。
 そうした経験がこういう細工物にも行かされているとは思う。
 ……とはいえ、それを売って稼いだ金は、こうして三人が何とか生活していくための、ぎりぎりの資金にしかならない。
 けれども、この時代の良いところは、電気代や水道代などというものが必要ないから、とりあえずこの長屋の破格の家賃を払い、食べていけるだけの金があれば、何とか生きていくことができるということだった。
「姉上は、お休みになられていますか?」
「ああ、さっき眠ったところだ。悪阻つわりも随分とましになってきているようだが……」
「そうですか。それは良かったです」
 牛丸は人なつっこい笑みを浮かべる。
 雪春は牛丸と出会ってまだ十日あまりしか経ってないのに、まるで本当の弟のようにも感じるほど、不思議な親近感を抱いていた。
 美夜以外の者に対して常に冷たい気持ちしか抱くことのできなかった自分が、こういう気持ちを抱くのは珍しいと、自分でも思っている。
 それは、半年もの間、文観もんかん探しということを通じて文のやりとりをしていたということも関係しているのかもしれないし、牛丸の、何の見返りも求めることのない心の純粋さが、さまざまに疲弊していた自分の心を癒やしてくれたのかもしれない。
 牛丸は律儀にも、雪春たちが京へ到着する直前まで、文観に関する情報を集め続けていてくれたらしい。
 雪春は牛丸に、これまでの調査の礼を言い、『もう文観は探さなくていい』と伝えた。
 元の世界に戻るということについて、今の自分は答えを出すことができていない。
 妹の美夜みやは、信長とこの世界で生きていくことを決めたようだが、雪春は元の世界へ戻りたいという気持ちも、このままこの世界に残りたいという気持ちも、今のところない状態だった。
(もう少し考えてから答えを出してもいいかもしれない……)
 雪春はそう考えていた。
 これまでの雪春の人生は、すべて美夜のためにあったのだが、それらをすべて軌道修正する必要に迫られ、今の雪春は迷子のような気持ちになっていた。
(俺自身……これからどうしたいのかをまず考えないとな……)
 こうして鷺山城を出て、静かに暮らす日々は、雪春にとってはこれからの自分を考えるのに良い機会にはなっていた。
「夕餉は私が作りますから、義兄上はそのまま作業を続けていてください。それは大切なご飯になるものですから。お水をくんできます」
 牛丸はそう言って笑うと、立ちあがって水桶を手に外へ出て行った。
 牛丸は雪春と姉の律に完全に巻き込まれたに過ぎないのに、健気にも二人を必死に支えようとしてくれている……。
(本当に素直で良い子だな、牛丸は……)
 雪春は美濃を出発した日のことを思い出す……。

 身重の律を連れての移動は大変ではあったが、律が気丈にも頑張ってくれたおかげで、道中はさほど手間取らずに京への道を進むことができた。
 たまに悪阻が酷いときはあったものの、大きく身体を壊すという事もなかった。
 雪春たちが出立したときに、道三たちが鷺山さぎやま城にいなかったことも幸いしていたに違いない。
 普段から、雪春の部屋を訪れるのはほぼ律だけだったし、律は身ごもってから体調を崩して部屋にこもっている日が続いていた。
 おそらく、二人が姿を消したということに斉藤家の者たちが気づくまでには二日ほどかかったと思われる。
 その間に律は京の牛丸に文を送り、自分たちの状況を伝え、これまでやりとりした手紙をすべて処分して欲しいと伝えた。
 そして、もしも何か自分たちのために迷惑がかかったら申し訳ないということも。
 彼を頼るという選択肢を二人はまったく持ってはいなかったのだが、牛丸は京の町で旅の支度を調え、雪春たちの到着を待っていてくれたのだ。
 そして、この付近の地理に詳しくなっていた彼の案内で京を出て、ちょうど十日前にこの堺の町までやって来たのだった。
 おそらく、斉藤家の者たちは、しばらくの間はここまで手を伸ばしてくることはないだろうと考えられる。
 それでも用心に用心を重ね、あまり斉藤家の者たちに顔を知られていない牛丸が、外へ出かける必要のある用事をすべて引き受けてくれている。
 牛丸は雪春も驚くほどに利口な子で、律からの手紙を受け取った後にはもう、自分が間借りしていた部屋を引き払うことと、雪春らを京から連れ出し、堺か坂本へ行くことを考えていたようだった。
 坂本というのは、地図で確認すれば、雪春たちの世界では滋賀県の県庁所在地である大津市付近にあたるらしい。
 琵琶湖があり交通の要所でもあり、また比叡山のお膝元ということもあって、門前町としても栄えており、潜伏するにも好都合な場所のようだ。
 そして、この堺も、貿易港として栄える町であり、人の出入りは激しく、潜伏するのには格好の土地だった。
 どちらへ行こうかと迷う牛丸に、堺へ行ってみようと提案したのは雪春だった。
 堺はこの時代、どこの勢力の影響も受けず、この時代の日本の中で唯一の自治都市として栄えた町だという知識が、雪春の頭の中に残っていたからだ。
 どこの勢力のしがらみもない土地ならば、道三の手の者がたどり着くまでにも時間がかかるだろう……そう雪春は考えた。
 そして、万が一にも身の危険を感じた場合にも、堺なら海を渡ってさらに遠方へ逃げるという方法をとることもできる。
 できれば、律の出産が無事に済むまでは住み処を動かしたくはないが、命に関わるほどのことになれば、そんなことも言ってはいられない。
 とにもかくにも、今のところ、この堺は雪春たちにとっては安全で、身を隠すに相応しい場所だといえることは確かだった。
(律の子が生まれれば……俺の気持ちも何か変わるだろうか……)
 自分が数ヶ月後には父親になるという実感は、まだ雪春にはない。
 けれども、実際に子を抱けば、自分の中の何かが変わるかもしれない……という予感はしている。
 それが良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
 けれども雪春は、自分の子を抱くという経験をしてみてから、改めて自分の気持ちを確かめてみたいと考えていた。

 ――そして清洲きよすでは。
 小雪の舞い散る年の瀬のある早朝……美夜の姿は清洲城の城門前にあった。
 戦へと出陣する信長を見送るためである。
 信長が今回攻めるのは、今川家が所有する寺本城だった。
 もともとこの城は織田方のものであったが、城主が今川に寝返ったために今川家のものとなってしまっていた城だ。
 奪われた城を取り戻す――攻めるための大義名分も十分というわけだった。
 この城を落とせば、今川の力をある程度削ぐことができるのだという。
 その上に、寺本城を奪われたために孤立している織田方の緒川おがわ城を救うこともできる。
 しかし、寺本城を攻めるためには、信長の所有する那古野なごや城と寺本城の間にある砦をまず落とす必要があり、そのために、今回の戦は船を使った大がかりな作戦になると、美夜は聞かされていた。
 城を留守にする時間も、前回の清洲の時とは違って、ひと晩だけというわけにはいかない。
 昨夜はさんざん別れを惜しむように求め合ったにも関わらず、美夜は不安さを隠すことができなかった。
 そんな美夜を見て、甲冑に身を包んだ信長は笑う。
「そのような顔をするな。笑って見送れ」
 信長にそう言われても、美夜は苦笑するしかなかった。
「私は……そこまで強くはないです」
 たとえ軍議を重ねて決めた策を用いるのだと言われても、戦は何が起こるか分からない。
 現に清洲の時も、信行がやって来るという思いも寄らない出来事が起こり、信長は策を大幅に変更せざるを得なかった。
 今回も、そうした何かによって、軍議を重ねて決めた策をあっさりと変更せざるを得ない状況になることだってあるだろう。
 そうなったとき、信長の命は少なからず危機に晒されてしまうことになる。
「そなたの周囲は甘音あまねだけでなく、蔵ノ介を始め、信頼のできる者たちに守らせる。だから、そなたは安心して俺の帰りを待て」
「私は、信長様のことが心配なのです。安心して……は無理です。信長様が戻って来られるまでは、安心なんてできません」
 だだをこねているようだと思いつつも、美夜は正直な自分の気持ちを隠すことができなかった。
 それに、隠したって、どうせ信長にはすぐにばれてしまう。
「俺は必ずそなたのもとへ帰る。そう約束しておるであろう?」
「はい……」
「俺を信じよ。そなたを置いて死んだりはせぬ」
 確かに今はもう、信長のその言葉を信じることしか、美夜にできることはなかった。
「必ず……帰ってきてくださいね」
「ああ、約束する」
「でも、笑って見送ったりしません。笑うのは、信長様の無事を確認してからです」
「まったく……そなたという女子おなごは……やはり厳しい女子だな」
 信長は再び苦笑しつつも、美夜に軽く接吻する。
 そしてその身体を抱きしめ、耳元で囁いた。
「そなたの笑顔を見るために戻ってくる」
「はい……無事のお帰りを待っています」
 信長はもう一度強く美夜の身体を抱きしめた後、馬に乗った。
(もうこの先は……私は信長様のために何もできない……)
 それが美夜にはもどかしい気持ちだった。
 戦へと出陣した後は、完全に男たちだけの世界になる。
 そこに女は一歩たりとも入っていくことはできない。
 美夜の世界には男女平等などという言葉があったが、この世界にそんなものはない。
 男女は不平等で、こうして女は男を見送ることしかできないのだ。
(信長様……どうかご無事で……)
 美夜のそんな心の中の声が聞こえたのか、信長は馬に乗ったまま振り返って笑った。
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