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第二章

身代わり濃姫(37)

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「額は冷やして、身体は冷えないように、こまめに汗を拭く……と……これで……良いのか……? 良いのだな、たぶん……」
 誰かの看病をすることなど、当然ながら信長にとっては生まれて初めての経験だった。
 看病をしてもらった記憶は、いろいろある。
 乳母めのとだったり、政秀だったり……里に預けられていた時は里の人間だったり蔵ノ介だったり……。
 信長の身体は強いほうだが、たまに鬼の霍乱かくらんのように風邪を引いて寝込むことがあった。
 そういう時は、布団に押し込められ、寝ているしかない状態になる。
 退屈をしていると、政秀などは特に、いろんな昔話を聞かせてくれたり、家臣たちの面白い話を聞かせてくれたりした。
(今日はさすがにあのじじいのことを思い出すのが辛いな……)
 こんな時、美夜みやが話を聞いてくれたら、それだけで気持ちが明るくなれるのに。
 しかし、美夜がこうして寝込んでいるのは自分のせいでもあると思い直して、信長はまた落ち込んでしまう。
(なぜあのようなことを言ってしまったのだろうな……)
 額を冷やすための布を取り替えながら、信長はため息をつく。
 蔵ノ介から寺で起こったことを聞いたとき、信長はすぐさま信行のもとへ行こうとした。たとえ弟とはいえ、信長の正妻である『帰蝶きちょう』を侮辱した罪は、死を持って償わせるしかないと考えたからだ。
 けれども、信行はもう寺を出て末森城への帰還の途にあること、信長には次期当主として信行すらもまとめていく責任があること、さらには、美夜は自分で自分の身を守ったから、傷一つ負っていないことなどを冷静に説かれ、とりあえずは矛を収めた。
 しかし、清洲きよす城へ戻り、美夜の口から信行のそうした振る舞いが二度目だったことを聞かされ、怒りが突き抜けてしまった。
 信行に対し、自分の妻を二度も侮辱されたという怒りと、美夜がどうして自分にそのことをずっと言わなかったのかという二種類の怒りが、信長を制御不能にしてしまった。
 悪いのは信行であって、美夜は被害者でしかない。
 なのに、信長は自分の怒りを美夜にも向けてしまった。
 蔵ノ介は美夜が隠していたのではなく、言えなかったのだと言っていた。
 確かに、那古野なごや城での出来事の詳細を聞くと、言いたくても言えなかったのだろうという美夜の気持ちは推測できた。
 けれども、怒りで制御不能になっていた信長には、そんな美夜の気持ちを思いやることができなかったのだ。
(あの時の俺を殴ってやりたい……)
 今の信長はそんな気持ちだった。
 美夜が言いたくても言えなかったことを信長が『隠し事』と断じてしまったのは、絶対にしてはならないことだった。
 甘音あまねの言った通り、あの言葉が美夜を傷つけたということは、想像にかたくない。
 美夜はずっと、自分が本物の帰蝶ではないという事実を隠し、そのことに罪悪感を抱いていた。
 確かに、信長は欺かれてはいたが、それは彼女のせいではなく、むしろ美夜は巻き込まれただけだ。
 しかし美夜は今もまだそれを気に病んでいるかもしれないということを考えると、謝ったぐらいで許される問題ではないのかもしれないとも思う。
「そういえば……汗が引き始めたら、一度着替えをと言っていたか……」
 気を取り直すように、信長は各務野に言われたことを思いだした。
「着替え………………」
 信長は各務野かがみのがおいていった着替えの小袖を見る。
(しまった……着替えは各務野に任せるべきだったか……)
 今さらになって信長は後悔したが、もう遅かった。
 きっともう各務野も寝てしまっているだろう。
 藤ノ助は呼べばすぐに来るほど近くには控えているだろうが、彼に美夜の着替えを任せるなど言語道断だ。
 とりあえず、ここにいるのは信長だけなのだから、信長がやるしかない。
「べ、別に……や、やましいことをするわけではにないのだからな……そう、身体が冷えてはならぬから、着替えをさせるだけなのだから……」
 信長は自分にそう言い聞かせるようにして、美夜の着物に手をかける。
(こういうのは……何だか勝手が違うな……)
 夜の営みの時に脱がせるのとはまったく訳が違って、自分が驚くほど緊張しているのが分かった。
(起こさないように……起こさないように……)
 息をするのにも気を遣いながら、美夜の着物を脱がせ、新しいものを着せていく。
 心なしか、部屋に来たときよりは、美夜の呼吸は落ち着いて来ているようにも感じた。
 薬が良い具合に効いてくれているのかもしれない。
 汗もほとんど引いているから、このまま美夜は快方に向かうに違いない。
(よ、よし、終わった……)
 とりあえず、何とか無事に美夜を起こすことなく、着替えを終えることができ、信長はほっとする。
(そなたは軽いな……)
 着替えを終えた美夜の身体をそっと布団に寝かせながら、信長は思う。
 小柄で軽くて、小さな風が吹いても吹き飛んでしまいそうなのに、なかなか肝が据わっていて、時々信長も驚くような胆力を見せることがある。
 今日もあの信行を、不思議な体術を使って投げ飛ばしたと聞いた。
(そのような特技は聞いたことがなかったが……)
 美夜に触れようとした信行の行動は許せないが、美夜に投げ飛ばされた信行の姿を想像すると、少し胸がすく思いがする。
 ただ、信行の矜持きょうじの高さと粘着質な性格を考えると、女子に軽々投げ飛ばされた信行の怒りは相当のものだろうと想像がつく。
 さらに美夜に対して何か仕掛けてくる可能性も十分にあるだろう。
(でも、大丈夫だ。次は必ず守る。もう二度と信行に美夜を触れさせることはない)
「のぶ……なが……さ……ま……」
 美夜が起きたのだろうかと思ったが、どうやら寝言のようだった。
(そなたの夢の中で俺は何をしているのだろうな……)
 夢の中でまで美夜に対して怒鳴ったり責めたりしていなければ良いのにと信長は思いつつ、その手をそっと握りしめた。

「あれ……?」
 目を覚ますと自分が布団の上にいて、美夜は不思議に思い、そういえば熱を出して寝かされたのだと思い出した。
 ふと、手に温もりを感じて横を見て、美夜は驚いた。
 信長が座ったまま眠っていたからだ。
(な、なんでそんなところで寝てるの……?)
 事情がよく分からず、美夜は信長を起こすべきかどうか迷っていたのだが、うとうととした浅い眠りだったようで、すぐに信長は目を覚ました。
「……ぁ、お、起きたか。具合はどうだ?」
 信長が眠そうに目を擦りながら聞いてくる。
「あの……だいぶ楽になった気がします……信長様はそこで何をされていたんですか?」
「そなたの看病をしておったのだ」
「看病……? 信長様が……?」
「そうだ。何か不思議か?」
(ふ、不思議でしかないんですけど……)
 そうは思ったが口には出せなかった。
(でも、いつも通りの信長様に戻っている……)
 美夜はそう思い、少しほっとした。
 先ほどはとりつく島もないほどに激高していた信長だったが、美夜が眠っている間に、信長もいろいろ気持ちの整理をつけてくれたのかもしれないと思う。
「そうだ、目を覚ましたら薬を飲ませるように各務野に言われておった」
 そう言うと、信長はあらかじめ用意されてあった薬を持ってきた。
「飲めるか?」
「あ、は、はい……」
 慌てて起き上がろうとして、美夜はそのまま布団に沈没してしまった。
 熱のせいか、身体がまったくいうことをきかない。
「だ、大丈夫か?」
「すみません……身体に思ったより力が入らなくて……」
 信長が背を支えてくれて、ようやく美夜は布団の上に起き上がることができた。
「ゆっくり飲むが良い。水も用意してある」
 その言葉を聞いた美夜は、ぴんと来てしまった。
「もしかして、各務野に私がお薬が苦手って話を聞いたんですか?」
 美夜が聞くと、信長は笑う。
「ああ、聞いた」
「子どもみたいって……思いません?」
「別に気にするな。俺も薬は得意ではない。そなたが子どもなら、俺も子どもだ」
 信長のその言葉を聞いて、美夜は少し安堵した。
 この時代の薬は容赦がないほどに苦く、薬の種類によっては薬草の味がかなりきついものもあって、美夜は正直あまり飲みたいと思えない。
 美夜のいた世界では、苦い薬には甘い味がつけられていたり、カプセルに入っていたり、オブラートという必殺技を使って苦みを感じずに飲むこともできたのだが。
 この世界には、そんな便利なものはない。
 結婚してすぐの頃に過労で倒れたとき、薬を飲まなければならなくなり、各務野に水を持ってきてもらって、何とか飲み下していたのだった。
 だから各務野は、美夜が薬が苦手ということをよく知っている。
 信長が今差し出してくれている薬も、青臭い匂いが鼻につくようなもので、たぶん飲むのに苦労しそうだと思う。
 それを思い切って一口のみ、すぐに水で流し込んだ。
(ま、まずい……苦い……青臭い……)
 でもまだ器の中には薬があと五口分ほどは残っている。
「慌てるな。ゆっくり飲んで良いから」
「は、はい……すみません……」
 信長が笑っているから、きっと自分は酷い顔をしているのだろうと思う。
 でも、こういう嫌なことはさっさと済ませてしまいたかった。
 信長に支えられながら、美夜は薬と水を交互に飲み、時間をかけてようやく器の中の薬を飲み終えた。
「すみません、時間がかかって……」
 あまりにも時間がかかりすぎて、薬を飲んでいる間、ずっと背中を支えてくれていた信長に、申し訳ない気持ちだった。
「気にするな。俺は今そなたの世話を焼くのが楽しい」
「楽しい……ですか?」
「ああ、誰かの看病など、生まれて初めての経験だからな。さあ、もう休め」
「はい……」
 信長に支えてもらいながら、再び布団に横になる。
「すみません……信長様もお疲れなのに……」
 今日は政秀の葬儀もあって、その采配もすべて信長が行っていた。
 美夜が寝ている間にも、父の信秀や多方面からの客の接待などもあったはずだから、信長も相当に疲れているはずなのに。
「謝るな。そなたが不摂生をして病んでいるというわけではないのだから」
「はい……」
「もうゆっくり眠ると良い。それが今のそなたにとって一番の薬だ」
「ありがとうございます……」
 手を伸ばすと、信長がその手をそっと握ってくれた。
(そうだ……信行殿のこと、謝らないと……)
「あの……信長様……ごめんなさい……信行殿のことを黙っていて……ちゃんと……言えなくて……」
「謝るな。信行のことは俺のほうが悪かった。そなたが謝る必要のないことだ。俺のほうこそすまなかった……」
「でも……私もちゃんと言えていたら……」
 言いかけた美夜の言葉を遮るように、信長は美夜にそっと接吻する。
 すぐにその唇は離れていったが、信長の気持ちがとても伝わってきたような気がした。
「詳細は蔵ノ介から聞いた。そなたは何も悪くはない」
「信長様……」
「信行のことは許せぬし、本来であれば死を持って償わせるに相当する罪だ。だが、さまざまな事情がそれを許さぬ」
「信長様……」
「今回は蔵ノ介とも相談をして、父上を通じて厳重抗議してもらうことにした。そなたは美濃からの預かり物でもある。次にもしも同じようなことがあれば、その時は相応の処分を下すと。信行も父上からの言葉なら、少しは堪えるであろう」
「ありがとうございます……」
「いや、そなたが二度にわたって信行から受けた侮辱を考えるなら、本来はこんなことでは済まされぬ。やつがのうのうと生きているというだけで腹立たしい……だが、俺に力がないばかりに、あれを処断できぬ……すまない……」
 信長の言葉に、美夜は首を横に振る。
「信長様が怒ってくださるだけで、私は十分です。結局、ほとんど何もされなかったんですし……」
「もう二度と信行をそなたには近づかせぬ。それは信じて任せて欲しい」
「はい……」
「もう寝ろ。そなたにとって今は眠ることが一番の薬だ」
「あの……このまま手を握っていてもらえますか?」
 美夜が言うと、信長は笑って、握りしめる手にきゅっと力を込めてくれた。
「朝までずっとついているから、安心して眠るが良い」
「はい……おやすみなさい……」
 信長の手の温もりを感じながら、美夜は安堵して目を閉じた。
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