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第二章

身代わり濃姫(36)

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 城に戻ってきた信長は、当然のことながら、見るからに不機嫌な様子だった。
 しかし、激高の頂点は通り過ぎた後のようで、美夜みやに今回の対応について伝えてくる。
「とりあえず話は聞いた。信行のしたことは俺としては許せぬことではあるが、ひとまず帰蝶が無事であったこともあるので、厳重に抗議する書状を送るに止める。帰蝶きちょうもそれで堪えてもらえるだろうか?」
「あ、は、はい……それはもちろん……」
「本来であれば、このようなことは絶対に許されるべきことではない。今すぐ俺の手で信行を斬ってやりたい気持ちだ。不本意ながら信行を見逃さねばならぬのは、ひとえに俺の力が足りぬからでしかない。だが、このようなことは二度と起こさぬ。そなたは俺が必ず守る」
「はい、ありがとうございます」
 信長の言葉を聞いて、美夜は安堵する。
 どうやら蔵ノ介くらのすけがうまく説得してくれたようで、信長は怒りを何とか抑え、理性的に今回の問題に対処することにしてくれたようだった。
 しかし、信長の怒りが完全に収まったわけではないようで、今もまだ迂闊には近寄れない雰囲気を纏っている。
(でも、これで落ち着くなら……良かったかも……)
 もっと大変な事態を想像してしまっていた美夜は、ひとまずほっと胸をなで下ろしかけたのだが。
「時に帰蝶様……」
「はい?」
 蔵ノ介に急に話を向けられて、美夜は首をかしげる。
「この間みたいにおとなしくしていると思ったら大間違い……とは?」
「……ぁっ……」
 蔵ノ介の言葉に、美夜は心臓が跳ね上がった。
 それは先ほど、美夜が信行に対して放った言葉だった。
(き、聞かれてたんだ……で、でも、今それを言うの……? せっかく信長様が怒りを収めようとしているのに?)
 しかし、蔵ノ介はさらに言葉を続ける。
「そのようなことを信行様に仰っているのを聞いてしまったのですが、他にも信行様と何かおありになったということなのでしょうか?」
「帰蝶! 今日だけじゃなくて他にも信行に何かされたのか!?」
 信長は立ちあがって美夜を問い詰める。
「い、いえ……あ、あの……そ、それはその……」
「蔵ノ介、貴様……なぜそれを先ほど言わなかった!?」
「言えば、私がお止めしても、信長様は信行様を追いかけてしまわれたでしょう」
「当たり前だ!」
「だから言わなかったのですよ。信長様に感情的になって動かれては困ります。特に信行様の件に関しては。そして、あえて申し上げておきますが、今から信行様を追いかけられても、もう間に合いません」
「分かっている! だから腹が立つのだ!」
 信長は座り直して、怒りを抑えきれない目で美夜を見る。
「帰蝶、全部話せ。信行に何をされた?」
(何をされたって言われても……あんなこと言えるわけが……)
「べ、別に……そ、そんなに大したことは……結局何もなかったも同然でしたし……問題は……」
「問題があるかないかは俺が決める。言え」
 容赦なく問い詰められて、美夜は泣きたい気持ちになる。
 美夜だって忘れたいぐらいの出来事だったのに、それをこんなに激高してる信長に伝えるなんて、とてもできそうにない。
 それに、今日の出来事よりも、あの那古野城での出来事のほうが、遙かに信長を激怒させるということは、間違いないことなのだ。
「早く言え。信行はそなたに何をしたのだ?」
「な、何も……本当に何も……」
「この期に及んでまだ俺に隠すつもりか?」
「隠すとかそういうつもりではありません」
「俺に言えぬということは、隠しているのと同じことではないか」
 美夜は必死に首を横に振った。
 隠していたわけでは決してない。
「ち、違います……それは……違います……」
「では、なぜ言えぬ?」
「それは……」
「もう隠し事はない……そうではなかったのか!?」
「違います……隠し事じゃありません……」
「隠し事ではないのなら、では、なぜ言えぬのだ?」
「…………」
 信長に問い詰められて、美夜は言葉を失ってしまう。
「やはり隠し事ではないか!」
 そう言われれば、確かに隠し事なのかもしれない。
 美夜は膝の上においた手をぎゅっと握りしめる。
 どうすれば、信長に理解してもらえるのだろう。
 どう言えば、あの夜のことを正確に伝えることができるのだろう……。
 でもきっと、どう伝えても、信長は美夜が隠していたと思うに違いない。
 美夜には前科がある。
 ずっと信長を騙してきた前科が……。
(だから……こういう時に信じてもらえないのは、仕方のないことなのかもしれないけれど……)
 それでも、あれからそれなりに心を通わせてきて、少しは信頼を回復できたかと思っていたのだけれど……。
「信長様、私にお任せいただけませんか? そのように帰蝶様を責めるような言い方をされますと、ますます話しにくくなられると思いますので」
 蔵ノ介がそう言っても、信長は不機嫌そうに口を閉ざすだけだった。
「信長様、少し帰蝶様と二人で話をさせてください。甘音あまね、信長様をお連れして部屋を出て行きなさい」
「分かった。行くぜ、吉法師」
 袖を引っ張る甘音の手を、信長は乱暴に振り払った。
「なぜ俺まで出て行かねばならぬ」
「聞き分けのねーこと言うな! あんたの言ったことが帰蝶を傷つけたことにまだ気づいてねーのかよ!」
「…………」
 甘音の言葉に信長ははっとしたように目を見開き、美夜を見た。
 美夜はその視線を受け止めることができず、思わず視線をそらしてしまった。
「……分かった。部屋を出ている」
 乱暴な足取りで信長が部屋を出て行くと、蔵ノ介はため息をついた。
「すみません。信長様ももう少し成長されているかと思ったのですが、私の考えが甘かったようです。こういう話はまた聞きになるとそれぞれの感情が入って話がややこしくなることが多い……ですから、皆がいる場で明らかにするのが一番良いと思ったのですが」
 蔵ノ介の言葉に、美夜は首を横に振る。
 蔵ノ介は蔵ノ介なりに、このややこしい話をもっともうまくまとめる方法を考えてくれていたのだと美夜は理解した。
「いえ……ちゃんと話してなかった私が悪いんです。信長様に隠し事と言われても仕方がありません。でも、とても話せるようなことでもなくて……それに、誰か証人がいるわけでもなかったし……」
「少しずつ、思い出してお話しいただけますか? 辛いこともあるかもしれませんが、状況を正確に理解しなければ、貴方も……そして信長様も危険です。信行様に関しては、私は侮ることはできないと考えています」
 話さなければいけない理由を静かに理性的に蔵ノ介に説かれ、美夜は頷いた。
 確かに、当事者である美夜だけがこの問題を抱えているのは、危険かもしれない。
 信行が美夜を狙う理由には、信長に対する敵対心のようなものもあるのだろうが、他にも理由があるかもしれない。
 いずれにしても、美夜には気づけなかった信行の思惑に、蔵ノ介なら気づくこともあるかもしれないと美夜は思った。

「なるほど……それがあの夜に那古野なごや城であったことなのですね」
「はい……」
 美夜はあの夜にあったことをすべて蔵ノ介に話した。
 信行が各務野かがみのたち侍女を意図的に遠ざけ、その間に自分を襲おうとしていたこと。
 さらには、信長が死んだら自分の側室に美夜を入れると宣言されたこと。
 あわやというところで、信長からの書状が届き、結局のところ、何もされずに済んだのだということ。
 どれもこれも、思い出したくもないことばかりだったが、すべて蔵ノ介に伝えることで、美夜は少しだけ気持ちが楽にはなった。
「それは確かに、話したくても話すことは難しかったかもしれません。帰蝶様は隠していたのではなく、言えなかったのですね」
 蔵ノ介に言われて、美夜ははっとした。
 その通りだと思った。
 決して隠し事をしようと思ったのではなく、言えなかったのだ。
「はい、そうです。このことは、侍女の各務野にもまだ言うことができていません……」
「でしょうね」
「私自身も、たいしたことじゃない、私が我慢して黙っていればそれですべて収まると思っていました。言えば余計な波風を立たせてしまう。だから、わざわざ言う必要もないと、自分に言い聞かせていたところもあったと思います」
「でも、帰蝶様がこうして話してくださったおかげで、信行様の考えのようなものを少し垣間見ることができました。信行様に関しては、これまでとは少し対策を変えていく必要があるように私は感じます」
 蔵ノ介の言葉に、美夜は少し安堵する。
 自分が話したことで、信長の身が少しでも安全になるのなら、話したかいがあるというものだ。
「あの……よろしくお願いします。信長様に危険が及ばないように……」
「もちろんです。私たちは信秀様に信長様を託されています。命に代えても信長様をお守りするのが、私たちの生きている意味なのですから」
「ありがとうございます」
「信長様には私が今聞いたことをお話しします。それでよろしいですか?」
「はい……たぶん私だとうまく伝わらない気がするので、そうしていただけると助かります」
 相手が蔵ノ介だから、美夜自身も余計な感情を交えず、事実だけを伝えることができた。
 けれども、信長を前にして、何の感情も交えずに同じ話をすることは難しいと美夜は思ったし、美夜が話せば、信長もまた感情的になってしまう可能性もある。
 だから、蔵ノ介が話してくれた方が、信長も落ち着いて聞いてくれるだろうという気がする。
「では、少し信長様と話してきますので」
 蔵ノ介が部屋を出て行き、入れ替わりに甘音が入ってくる。
「大丈夫か? なんか顔色わりーぜ」
 甘音に心配そうに顔をのぞき込まれ、美夜はとりあえず笑ってみせる。
「う、うん……大丈夫……」
 那古野城でのことを詳細に思い出したせいかもしれない、と美夜は思う。
 蔵ノ介に話しているうちに、自分の中であの夜の出来事が、想像以上に心に影を落としていたのだと理解した。
 あんなこと何でもない、結局何もされなかったのだし大丈夫……と自分に言い聞かせ続けては来たけれど。
「心配かけてごめんね、甘音」
 美夜がそう言うと、甘音は肩をすくめて笑う。
「まあ、あたしは帰蝶の心配をするのが仕事だし?」
「そ、そうなんだ……?」
「帰蝶が何の心配もなけりゃ、あたしは仕事がないってことになるだろ?」
「あー……確かにそうかも」
「だから、心配かけたからって謝る必要なんてねーぜ。吉法師きっぽうしなんて、兄者や藤兄ふじにいにしょっちゅう心配かけてるけど、あいつが謝ったところなんて、一度もみたことねーぞ」
「まあ、信長様はね……」
 そういえば、亡くなった政秀が『信長様には謝るという習性がない』と言っていたことを、美夜は思い出した。
 けれども、信長は美夜に対してはもう幾度も謝っている。
 それは、美夜が信長とは主従関係ではなく、夫婦の関係だということもあるのかもしれないけれども。
「つーか……本当に顔色が悪すぎるな」
 甘音が心配そうに額に手を当ててくる。
 そして驚いたように目を見開いた。
「げっ! 熱すげーあるぜ、これ!」
 確かに、額に当てた甘音の手は冷たいけれども、自分に熱があるという自覚は美夜にはまったくなかった。
「え? ええ? そ、そう? ちょっと疲れてるだけじゃ……」
「違うって。待ってろ! 医者連れてくる。各務野ももう戻ってるはずだから呼んでくる!!」
 ばたばたと出て行った甘音をぼんやりと見送って、美夜は自分の額に手を当てる。
「あったかい……」
(今日は寒かったし、外にいた時間も長かったから……風邪でも引いちゃったかな……信長様にうつさないようにしないと……)
 自分の冷え切った手の感触が、熱くなった額に心地よかった。

 信長が美夜を見舞うことができたのは、もう夜もすっかり更けてからのことだった。
「帰蝶の具合はどうだ?」
「はい。今はお薬が効いて眠っておられます。熱が高いですが、たぶんお風邪ではないかと」
「風邪か」
 蔵ノ介と話をしている最中に、美夜が倒れたと聞かされた。
 すぐに見舞いに来ることができなかったのは、城に戻ってきた父の相手やその采配をしていたからだった。
 しかし、頭の中では美夜のことばかり考えていた。
(たぶん、俺のせいなのだろうな……)
 風邪だと診断されたようだが、信長が美夜の心にかけた負担も大きく影響しているのだろうと思う。
 蔵ノ介に話を聞き、頭が冷えてくると、自分がどれだけ酷いことを美夜に言ってしまったのかということも理解できた。
 決して言ってはならないことを、自分は言ってしまったのだと思う。
 だとすれば、美夜がこうして熱にうなされているのは、信長のせいでもあるということだ。
「あの、信長様、今夜はわたくしが帰蝶様におつきしていますので、大丈夫です」
 美夜を見つめたまま動こうとしない信長に気を遣ったのか、各務野がそう告げてくる。
 しかし、信長は首を横に振った。
「各務野、今夜は俺が帰蝶の看病をしたい。何をすれば良いか教えててくれ」
 信長の申し出に、各務野は戸惑ったような表情を浮かべる。
「え? で、ですが……その……」
「俺は今日、帰蝶に酷いことを言ってしまった。この熱も俺のせいかもしれぬ。看病したからと言って、俺の言った言葉を取り消すことはできぬが……それでも、せめて……」
 信長が真剣に訴えてくるので、各務野は微笑んで頷いた。
「分かりました。では……」
 信長に一通り、看病の方法を教えると、各務野は後を信長に任せて部屋を出て行った。
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