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第二章
身代わり濃姫(29)
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蔵に灯りがともされ、信長と美夜、それに蔵ノ介と藤ノ助が入った。
蔵の中で甘音は、もう覚悟を決めたような顔をし、正座をして待っていた。
「帰蝶の提案を受け入れ、そなたに帰蝶の護衛の役目を与える」
信長のその言葉に、美夜はほっと胸をなで下ろした。
一方の甘音は、肩すかしを食らったような顔をしている。
「え? ほ、本当に? あたし、殺されねえの?」
甘音の言葉に、信長は頷く。
「帰蝶に専属の護衛が必要なことは、俺も感じていた。確かに帰蝶が言うように、秘密を知っている上に同性であるそなたが適任だ」
信長の決断を聞きながら、美夜も嬉しい気持ちになる。
そして、同時に今までよりも少し心強くなれる気がした。
各務野たちはいつも傍にいてくれるけれども、彼女たちは侍女であって、いざという時には身を守る術がない。
しかし、甘音が傍にいてくれるとなると、美夜もそうだが、侍女たちも心強く感じるはずだ。
特に今回のようなことの後では。
「そなたは帰蝶に命を救われた。その救われた命を持って帰蝶を守れ」
「う、うん、分かった!」
信長の言葉に、甘音は大きく頷いた。
「ただ、そなたが知った秘密が、本来であればそなたには荷が勝つものであるということは忘れるな。くれぐれも迂闊な言動は控えよ」
「う、うん、それも分かった!」
再び甘音は大真面目な顔をして頷いたが、信長はため息交じりに言う。
「俺はそれだけが心配だ……何しろ、子どもの頃のそなたを間近で見ていて何度も肝を冷やしたからな……」
「だ、大丈夫だって。あたしも今回はさすがに、大変なことだって思った。だから、ちゃんと分かってるつもりだぜ!」
「ならば良い。後のことは帰蝶に任せるが、ひとつだけ俺に提案がある。帰蝶が良いと言えば、さっそく実行に移そうと思うのだが」
信長が視線を向けてくるので、美夜は首をかしげた。
「え? な、何でしょう?」
信長は再び甘音を見る。
「甘音、そなた、まだ父に会いたいか?」
信長に問われて、甘音はばつが悪そうな顔をする。
「あ、会いたい気持ちは正直に言ってあるけど……でも、あたしには帰蝶を守る仕事があるから……もう勝手な行動をしたりはしねえよ」
「帰蝶を守るにはそなたの命を賭けてもらわねばならぬ。中途半端な未練など残さないためにも、一度会うて来るが良い。ただし、顔を見るだけだ。それで父親のことは一切合切忘れよ」
信長が言うと、甘音は驚いたように問い返す。
「え? ど、どういうこと?」
「藤ノ助がそなたの父の顔を知っておる。藤ノ助に連れて行ってもらえ。その前に帰蝶の許可を得てからだ。そなたの主は今日から帰蝶なのだからな」
信長に言われて、甘音は美夜に向き直る。
「き、帰蝶……い、いいのかな? あたし、父ちゃんに会いに行っても?」
美夜は笑って頷いた。
「もちろん、行って、ちゃんと顔を見てきて。藤ノ助さん、よろしくお願いします」
「あ、はい……」
藤ノ助の返答に不満を抱いたのか、即座に蔵ノ介が苦い顔をする。
「あ、はい……ではない。かしこまりましたと言わぬか。この愚弟が」
「あ、はい、かしこまりました」
慌てて言い直した藤ノ助に、蔵ノ介は聞こえよがしにため息をつく。
「では、帰蝶の許可も得たのだから、明日にでもさっそく行ってくるが良い。くれぐれも道中、藤ノ助の手を煩わせるようなことをするでないぞ」
「わ、分かってるって! あたしだって子どもじゃねえんだから!」
憤慨したように言う甘音に、蔵ノ介が冷たい言葉を投げかける。
「そう思っているのは、お前だけでしょう、甘音。里の者は皆、お前のことを『いつになったら成人するつもりだ』と見ていますよ」
「あ、ひでえ! 兄者はいつもあたしのことを子ども扱いする~!」
「子どもを子どもとして扱って、何が悪いのですか」
「だから、子どもじゃねえって!」
「それから、帰蝶様は帰蝶様とお呼びし、信長様は信長様とお呼びすることをいい加減に覚えなさい。これから城に参上させていただくというのに、態度を改めねば、我々里の者が恥をかくのですからね」
目の前で始まった兄妹喧嘩のような状態に、美夜は微笑ましいものを感じた。
蔵ノ介と甘音の会話を聞いていると、蔵ノ介の毒舌は、身内に対する愛情からきているものなのだな、と美夜は妙に納得した気持ちだった。
「いいじゃねえか、別に。帰蝶は帰蝶、吉法師は吉法師」
幼名で呼ばれた信長も、黙ってはいない。
「そなた自分が子ども扱いされたからというて、俺まで子ども扱いするな」
「あたしから見たら、そんなに変わりねーじゃん!」
「変わりはあるわ! そなたと一緒にされるなど,不本意きわまりない」
まるで子どもの喧嘩のようだと思いながら、美夜は笑いを堪えるのが大変だった。
悲しいこともたくさんあるけれど、こうして笑い合えることもたまにある。
この時代も、そんなに悪いものじゃないのかもしれない……美夜はそう思った。
本来であれば信長は今日中に清洲に戻る予定であったが、その予定を一日ずらして、明日帰ることにしたのだという。
甘音のこともあったのだが、道三との会見が予定よりも長引いたことも、その原因のひとつだった。
信長に与えられた部屋に美夜が呼ばれ、今夜はそこで過ごすことになった。
甘音はこちらの部屋は警備がすごくて近づけないと言っていたけれど、確かに、部屋にたどり着くまでの距離がかなりあった。
城にある二人の寝室も、部外者が軽々しく近づくことができない造りになっているが、この部屋も、相当に手のこんだ造りになっているようだ。
おそらく、普段は重要な密談などをする場として使われているのかもしれない。
(何だかお城とはまた違う雰囲気で、ものものしい感じがする……)
少し緊張しながら部屋に入ると、信長が手招きする。
傍まで近づいていくと、腕をひいて信長は美夜を抱き寄せた。
そして、美夜の顔を両手で包んで、間近から見つめてくる。
「昨夜は肝を冷やした……もう二度とあのような真似はするな……」
「ごめんなさい……」
そのことは美夜なりに反省はしているつもりだ。
でも、あの時ああしなければ、甘音の命を救うことはできなかったということもまた事実で。
この世界で何が正しいのか何が間違っているのかということを、美夜はまだ理解できていないところがある。
だから、もしかすると信長のほうが圧倒的に正しいのかもしれないが、それでも信長に甘音を斬らせるような真似は、絶対にさせたくなかった。
「俺にそなたを斬らせるような真似は二度とさせるな」
「はい……」
美夜が素直に頷くと、信長は唇を重ねてくる。
温かな信長の温もりを感じながら、美夜はたった二日の間に、本当にいろんなことがあったと思った。
いろんな気持ちの揺れ動きもあった二日間だった。
でも、こうして今、信長の温もりを感じられることが、素直に嬉しい。
信長はそのまま美夜をそっと押し倒したが、すぐに身体を求めてくることはしなかった。
だから美夜は、少しだけ気になっていたことを信長に聞いてみた。
「あの……甘音のお母さんは亡くなられたのですか?」
本人には聞くことができなかった。
でも、これから甘音とは一緒にいることも増えてくるはずなので、聞いておく必要があると美夜は考えていた。
「甘音の母は、甘音を産んで、しばらくして自害した。里へ戻ってきた時には、彼女の言動はもう普通ではなかったらしい。自害する直前には、ほとんど会話が成り立たない状態であったと俺は聞いている」
「そう……なんですね……」
甘音の母は、夫でもない男の子を身ごもって、いったいどんな気持ちだったのだろう。
たとえ主の命令だったとしても、そこにはさまざまな想いがあったに違いない。
その心の傷も癒えないままに、出産という大変な仕事を果たして……。
きっと、甘音の母は、身も心も限界を超えてしまったのかもしれない。
「信長様は……お父上が甘音のお母さんに命じたようなことを誰かに命じられることはありますか?」
美夜はどうしても聞いてみたかったことを、思い切って聞いてみた。
その答えを受けて、自分がどう思ってしまうのかを考えると不安もあったが、それでも信長がどう考えているのかを知っておきたいと思ったからだ。
「俺はそれはせぬ。なぜなら、父上も甘音の母親の件に関して非常に後悔しておられたからだ。父上は間違いを犯した。その間違いを繰り返さぬのが、俺なりの子としてのつとめだ」
信長の返答を聞いて、どこか安堵している自分に美夜は気づいた。
そして、それを命じた信秀が、後に悔いていたということも、少しだけ美夜を安堵させた。
できることなら、そんなことを命じる前に気づいて欲しいとは思ったが。
人は間違いを犯さなければ、気づくことができないものなのかもしれない。
「しかし、俺はそなたが顔をしかめるようなことを誰かに命じることはあるかもしれぬ。理解して欲しいとは言わぬが、そういうこともあるということは、覚えておいてくれ」
「はい……」
確かに……そういうことは、これからもたくさんあるのだろう。
信長の父が甘音の母に命じたことを後に後悔したように、信長も命じた後の結果を見て、後悔することがあるのかもしれない。
その時に美夜自身がどう感じるのかは分からないが、信長が決して考え無しにやっているのではないということだけは、信じられる気がした。
「美夜……守勢に回ると人は滅びに向かうものだな……」
唐突に信長がそんなことを言ってきたので、美夜は少し驚いた。
「どうしてそんなことを思われたのですか?」
「道三と話していて思ったのだ。道三は老いたな、と」
「老いた……」
確かに、道三の年齢は若くはなかったが、老いたというほど弱っているようには美夜には見えなかったのだが。
「道三は必死に秘密を守ろうとしている。秘密を守ることで国や自分の立場を護ろうとしている。おそらく、美濃という大国を預かっているという責任が、そうさせているのであろうが。しかし、守勢に回れば後は滅ぶしかない……俺は今日、道三に会ってそう感じた」
「道三が……滅ぶ……」
信長は頷いて、美夜の手を握りしめる。
「もしもの時はそなたの兄だけでも救い出さねばならぬ。そのための手は打っておく。しかし、状況によってはどうなるか分からぬ。それは覚悟しておいて欲しい」
「はい……分かりました」
「もっと俺に力があればな。すぐにでも、そなたと兄上が一緒に暮らすことができるようにしてやれるのに」
「いいえ、信長様は十分にしてくださっていると思います。兄のためにさまざまに考えてくださって、ありがとうございます」
「ひょっとするとすべて俺の取り越し苦労で、道三は俺の予想以上に生き延びるやもしれぬが……」
道三が滅びるようなことがあれば、本来であれば信長は美夜の兄のことどころではないだろう。
周辺の国も動き出すし、それへの対策も必要になってくる。特に道三との関わりの深い織田家は、大変な状態になってしまうだろう。
それでも信長は、美夜の兄を救う手立てを考えてくれると言ってくれているのだ。
美夜はその信長の心が嬉しかった。
(道三が滅ぶ……そんなこと、考えたこともなかったけれど……でも、もしもそうなったら、兄様はどうなってしまうんだろう……)
不安な気持ちがこみ上げてくるが、美夜にできそうなことはほとんどなかった。
その代わりに、信長が自分にできる精一杯のことを考えてくれているが、それでももどかしい気持ちは捨てきれない。
「美夜……俺はそなたを守るために、攻めに出る。攻めに出ることでそなたを守る。守勢ではそなたは守れぬ」
「信長様……」
「これから戦が増えるかもしれぬ。またそなたに心配をかける日々が続くかもしれぬが、俺にはこうするしかそなたを守る方法がない」
戦……と聞いて、身が竦んでしまいそうな自分がいる。
けれども、ここは戦国時代。
美夜が嫁いできてこれまで戦が少なかったのは、本当にただ運が良かっただけなのだと思う。
「私は自分が生きていた時代とこの時代がまるで違うので、難しいことは分かりませんが……たぶん、信長様の考えは正しいんだと思います。水を泳ぐ鳥は、水面上は優雅に泳いでいるように見えるけれど、水の下では必死に足を動かしているんだっていう話を思い出しました」
「それはなかなか良いたとえだな」
信長は笑って美夜に接吻し、美夜の身体を抱き寄せた。馴染んだその感覚に、美夜は身体の芯が熱くなってくるのを感じた。
信長は自分を抱こうとしているのだなと思っていたのだが。
(ん……? 信長様が動いてない……?)
気がつくと、信長は美夜を抱きしめたまま眠っていた。
(また電池が切れた……)
美夜は思わず笑いたくなるのを堪えた。
せっかく眠りについた信長が起きてしまっては申し訳ない。
美夜を抱きしめたまま眠る信長を見ていると、少し嬉しくなる。
日頃は周囲の異変を敏感に察知してしまう信長が、安心しきって眠ってくれているということは、この部屋が安全だということもあるのだろうけれど、美夜のことを信頼してくれているからでもあるのだと思うから。
美夜もすぐにまぶたが重くなってきた。
さすがに昨日は一睡もしていないだけあって、信長の身体の温もりを感じながら、美夜もすぐに眠りに落ちていった。
蔵の中で甘音は、もう覚悟を決めたような顔をし、正座をして待っていた。
「帰蝶の提案を受け入れ、そなたに帰蝶の護衛の役目を与える」
信長のその言葉に、美夜はほっと胸をなで下ろした。
一方の甘音は、肩すかしを食らったような顔をしている。
「え? ほ、本当に? あたし、殺されねえの?」
甘音の言葉に、信長は頷く。
「帰蝶に専属の護衛が必要なことは、俺も感じていた。確かに帰蝶が言うように、秘密を知っている上に同性であるそなたが適任だ」
信長の決断を聞きながら、美夜も嬉しい気持ちになる。
そして、同時に今までよりも少し心強くなれる気がした。
各務野たちはいつも傍にいてくれるけれども、彼女たちは侍女であって、いざという時には身を守る術がない。
しかし、甘音が傍にいてくれるとなると、美夜もそうだが、侍女たちも心強く感じるはずだ。
特に今回のようなことの後では。
「そなたは帰蝶に命を救われた。その救われた命を持って帰蝶を守れ」
「う、うん、分かった!」
信長の言葉に、甘音は大きく頷いた。
「ただ、そなたが知った秘密が、本来であればそなたには荷が勝つものであるということは忘れるな。くれぐれも迂闊な言動は控えよ」
「う、うん、それも分かった!」
再び甘音は大真面目な顔をして頷いたが、信長はため息交じりに言う。
「俺はそれだけが心配だ……何しろ、子どもの頃のそなたを間近で見ていて何度も肝を冷やしたからな……」
「だ、大丈夫だって。あたしも今回はさすがに、大変なことだって思った。だから、ちゃんと分かってるつもりだぜ!」
「ならば良い。後のことは帰蝶に任せるが、ひとつだけ俺に提案がある。帰蝶が良いと言えば、さっそく実行に移そうと思うのだが」
信長が視線を向けてくるので、美夜は首をかしげた。
「え? な、何でしょう?」
信長は再び甘音を見る。
「甘音、そなた、まだ父に会いたいか?」
信長に問われて、甘音はばつが悪そうな顔をする。
「あ、会いたい気持ちは正直に言ってあるけど……でも、あたしには帰蝶を守る仕事があるから……もう勝手な行動をしたりはしねえよ」
「帰蝶を守るにはそなたの命を賭けてもらわねばならぬ。中途半端な未練など残さないためにも、一度会うて来るが良い。ただし、顔を見るだけだ。それで父親のことは一切合切忘れよ」
信長が言うと、甘音は驚いたように問い返す。
「え? ど、どういうこと?」
「藤ノ助がそなたの父の顔を知っておる。藤ノ助に連れて行ってもらえ。その前に帰蝶の許可を得てからだ。そなたの主は今日から帰蝶なのだからな」
信長に言われて、甘音は美夜に向き直る。
「き、帰蝶……い、いいのかな? あたし、父ちゃんに会いに行っても?」
美夜は笑って頷いた。
「もちろん、行って、ちゃんと顔を見てきて。藤ノ助さん、よろしくお願いします」
「あ、はい……」
藤ノ助の返答に不満を抱いたのか、即座に蔵ノ介が苦い顔をする。
「あ、はい……ではない。かしこまりましたと言わぬか。この愚弟が」
「あ、はい、かしこまりました」
慌てて言い直した藤ノ助に、蔵ノ介は聞こえよがしにため息をつく。
「では、帰蝶の許可も得たのだから、明日にでもさっそく行ってくるが良い。くれぐれも道中、藤ノ助の手を煩わせるようなことをするでないぞ」
「わ、分かってるって! あたしだって子どもじゃねえんだから!」
憤慨したように言う甘音に、蔵ノ介が冷たい言葉を投げかける。
「そう思っているのは、お前だけでしょう、甘音。里の者は皆、お前のことを『いつになったら成人するつもりだ』と見ていますよ」
「あ、ひでえ! 兄者はいつもあたしのことを子ども扱いする~!」
「子どもを子どもとして扱って、何が悪いのですか」
「だから、子どもじゃねえって!」
「それから、帰蝶様は帰蝶様とお呼びし、信長様は信長様とお呼びすることをいい加減に覚えなさい。これから城に参上させていただくというのに、態度を改めねば、我々里の者が恥をかくのですからね」
目の前で始まった兄妹喧嘩のような状態に、美夜は微笑ましいものを感じた。
蔵ノ介と甘音の会話を聞いていると、蔵ノ介の毒舌は、身内に対する愛情からきているものなのだな、と美夜は妙に納得した気持ちだった。
「いいじゃねえか、別に。帰蝶は帰蝶、吉法師は吉法師」
幼名で呼ばれた信長も、黙ってはいない。
「そなた自分が子ども扱いされたからというて、俺まで子ども扱いするな」
「あたしから見たら、そんなに変わりねーじゃん!」
「変わりはあるわ! そなたと一緒にされるなど,不本意きわまりない」
まるで子どもの喧嘩のようだと思いながら、美夜は笑いを堪えるのが大変だった。
悲しいこともたくさんあるけれど、こうして笑い合えることもたまにある。
この時代も、そんなに悪いものじゃないのかもしれない……美夜はそう思った。
本来であれば信長は今日中に清洲に戻る予定であったが、その予定を一日ずらして、明日帰ることにしたのだという。
甘音のこともあったのだが、道三との会見が予定よりも長引いたことも、その原因のひとつだった。
信長に与えられた部屋に美夜が呼ばれ、今夜はそこで過ごすことになった。
甘音はこちらの部屋は警備がすごくて近づけないと言っていたけれど、確かに、部屋にたどり着くまでの距離がかなりあった。
城にある二人の寝室も、部外者が軽々しく近づくことができない造りになっているが、この部屋も、相当に手のこんだ造りになっているようだ。
おそらく、普段は重要な密談などをする場として使われているのかもしれない。
(何だかお城とはまた違う雰囲気で、ものものしい感じがする……)
少し緊張しながら部屋に入ると、信長が手招きする。
傍まで近づいていくと、腕をひいて信長は美夜を抱き寄せた。
そして、美夜の顔を両手で包んで、間近から見つめてくる。
「昨夜は肝を冷やした……もう二度とあのような真似はするな……」
「ごめんなさい……」
そのことは美夜なりに反省はしているつもりだ。
でも、あの時ああしなければ、甘音の命を救うことはできなかったということもまた事実で。
この世界で何が正しいのか何が間違っているのかということを、美夜はまだ理解できていないところがある。
だから、もしかすると信長のほうが圧倒的に正しいのかもしれないが、それでも信長に甘音を斬らせるような真似は、絶対にさせたくなかった。
「俺にそなたを斬らせるような真似は二度とさせるな」
「はい……」
美夜が素直に頷くと、信長は唇を重ねてくる。
温かな信長の温もりを感じながら、美夜はたった二日の間に、本当にいろんなことがあったと思った。
いろんな気持ちの揺れ動きもあった二日間だった。
でも、こうして今、信長の温もりを感じられることが、素直に嬉しい。
信長はそのまま美夜をそっと押し倒したが、すぐに身体を求めてくることはしなかった。
だから美夜は、少しだけ気になっていたことを信長に聞いてみた。
「あの……甘音のお母さんは亡くなられたのですか?」
本人には聞くことができなかった。
でも、これから甘音とは一緒にいることも増えてくるはずなので、聞いておく必要があると美夜は考えていた。
「甘音の母は、甘音を産んで、しばらくして自害した。里へ戻ってきた時には、彼女の言動はもう普通ではなかったらしい。自害する直前には、ほとんど会話が成り立たない状態であったと俺は聞いている」
「そう……なんですね……」
甘音の母は、夫でもない男の子を身ごもって、いったいどんな気持ちだったのだろう。
たとえ主の命令だったとしても、そこにはさまざまな想いがあったに違いない。
その心の傷も癒えないままに、出産という大変な仕事を果たして……。
きっと、甘音の母は、身も心も限界を超えてしまったのかもしれない。
「信長様は……お父上が甘音のお母さんに命じたようなことを誰かに命じられることはありますか?」
美夜はどうしても聞いてみたかったことを、思い切って聞いてみた。
その答えを受けて、自分がどう思ってしまうのかを考えると不安もあったが、それでも信長がどう考えているのかを知っておきたいと思ったからだ。
「俺はそれはせぬ。なぜなら、父上も甘音の母親の件に関して非常に後悔しておられたからだ。父上は間違いを犯した。その間違いを繰り返さぬのが、俺なりの子としてのつとめだ」
信長の返答を聞いて、どこか安堵している自分に美夜は気づいた。
そして、それを命じた信秀が、後に悔いていたということも、少しだけ美夜を安堵させた。
できることなら、そんなことを命じる前に気づいて欲しいとは思ったが。
人は間違いを犯さなければ、気づくことができないものなのかもしれない。
「しかし、俺はそなたが顔をしかめるようなことを誰かに命じることはあるかもしれぬ。理解して欲しいとは言わぬが、そういうこともあるということは、覚えておいてくれ」
「はい……」
確かに……そういうことは、これからもたくさんあるのだろう。
信長の父が甘音の母に命じたことを後に後悔したように、信長も命じた後の結果を見て、後悔することがあるのかもしれない。
その時に美夜自身がどう感じるのかは分からないが、信長が決して考え無しにやっているのではないということだけは、信じられる気がした。
「美夜……守勢に回ると人は滅びに向かうものだな……」
唐突に信長がそんなことを言ってきたので、美夜は少し驚いた。
「どうしてそんなことを思われたのですか?」
「道三と話していて思ったのだ。道三は老いたな、と」
「老いた……」
確かに、道三の年齢は若くはなかったが、老いたというほど弱っているようには美夜には見えなかったのだが。
「道三は必死に秘密を守ろうとしている。秘密を守ることで国や自分の立場を護ろうとしている。おそらく、美濃という大国を預かっているという責任が、そうさせているのであろうが。しかし、守勢に回れば後は滅ぶしかない……俺は今日、道三に会ってそう感じた」
「道三が……滅ぶ……」
信長は頷いて、美夜の手を握りしめる。
「もしもの時はそなたの兄だけでも救い出さねばならぬ。そのための手は打っておく。しかし、状況によってはどうなるか分からぬ。それは覚悟しておいて欲しい」
「はい……分かりました」
「もっと俺に力があればな。すぐにでも、そなたと兄上が一緒に暮らすことができるようにしてやれるのに」
「いいえ、信長様は十分にしてくださっていると思います。兄のためにさまざまに考えてくださって、ありがとうございます」
「ひょっとするとすべて俺の取り越し苦労で、道三は俺の予想以上に生き延びるやもしれぬが……」
道三が滅びるようなことがあれば、本来であれば信長は美夜の兄のことどころではないだろう。
周辺の国も動き出すし、それへの対策も必要になってくる。特に道三との関わりの深い織田家は、大変な状態になってしまうだろう。
それでも信長は、美夜の兄を救う手立てを考えてくれると言ってくれているのだ。
美夜はその信長の心が嬉しかった。
(道三が滅ぶ……そんなこと、考えたこともなかったけれど……でも、もしもそうなったら、兄様はどうなってしまうんだろう……)
不安な気持ちがこみ上げてくるが、美夜にできそうなことはほとんどなかった。
その代わりに、信長が自分にできる精一杯のことを考えてくれているが、それでももどかしい気持ちは捨てきれない。
「美夜……俺はそなたを守るために、攻めに出る。攻めに出ることでそなたを守る。守勢ではそなたは守れぬ」
「信長様……」
「これから戦が増えるかもしれぬ。またそなたに心配をかける日々が続くかもしれぬが、俺にはこうするしかそなたを守る方法がない」
戦……と聞いて、身が竦んでしまいそうな自分がいる。
けれども、ここは戦国時代。
美夜が嫁いできてこれまで戦が少なかったのは、本当にただ運が良かっただけなのだと思う。
「私は自分が生きていた時代とこの時代がまるで違うので、難しいことは分かりませんが……たぶん、信長様の考えは正しいんだと思います。水を泳ぐ鳥は、水面上は優雅に泳いでいるように見えるけれど、水の下では必死に足を動かしているんだっていう話を思い出しました」
「それはなかなか良いたとえだな」
信長は笑って美夜に接吻し、美夜の身体を抱き寄せた。馴染んだその感覚に、美夜は身体の芯が熱くなってくるのを感じた。
信長は自分を抱こうとしているのだなと思っていたのだが。
(ん……? 信長様が動いてない……?)
気がつくと、信長は美夜を抱きしめたまま眠っていた。
(また電池が切れた……)
美夜は思わず笑いたくなるのを堪えた。
せっかく眠りについた信長が起きてしまっては申し訳ない。
美夜を抱きしめたまま眠る信長を見ていると、少し嬉しくなる。
日頃は周囲の異変を敏感に察知してしまう信長が、安心しきって眠ってくれているということは、この部屋が安全だということもあるのだろうけれど、美夜のことを信頼してくれているからでもあるのだと思うから。
美夜もすぐにまぶたが重くなってきた。
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