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第二章

身代わり濃姫(26)

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 信長が里に到着したのは、もう周囲もすっかり暗くなってからのことだった。
 しかし、清洲きよすからの距離を考えると、報告を受けるのとほぼ同時に、信長は城を飛び出してきたのだろうということが推測できる。
 僅かな手勢だけを連れて里に到着した信長は、広場に集められた近習きんじゅうたちの遺体を前に、しばらく立ち尽くしていた。
 そして、一人一人を確認するように、長い時間を彼らの遺体に寄り添って過ごしていた。
 美夜みやにとっては名も知らぬ者も多かったが、信長にとっては、自分の家族にも等しい者たちばかりだった違いない。
 美夜は声をかけることもできず、少し離れた場所でそれを見守ることしかできなかった。
 信長の悲しみは、信長にしか分からない。
 美夜などの想像の及ぶ範疇はんちゅうではなかった。

 遺体と対面し終えた信長は、彼のために用意された部屋に入ったまま出てこなかったが、美夜はどうすれば良いのか分からなかった。
 きっと一人で心を整理したいこともあるだろうし、今夜はそっとしておいたほうが良いのかなとも思う。
 別室で手当を受けている近習二名の容態は、まだ予断を許さないものなのだという。何とか彼らだけでも助かって欲しいと思うが、全身に相当の傷を受けていて、どうなるかは分からない。
 まきの容態は安定している。
 明日には目を覚ますだろうということだから、痛みが酷くなければ美夜たちと一緒に清洲城へ戻ることもできそうだ。
 明日の早朝には、清洲から大勢の者たちが来て、近習たちの遺体を家族の元へ返すのだという。
 斉藤家のほうにもすでに連絡が行っており、死亡した三名の家臣の遺体を引き取りに、斎藤道三が直々に家臣を連れてやって来るらしい。
 その際に、この里の近くの寺で信長と道三との会見が行われ、今回のことに関する報告と、今後両家がどう動いていくのかが話し合われ、それを終えた後に、信長は清洲に戻ることになる。
 美夜は自分に与えられた部屋で、今日一日のことを振り返っていた。
 たくさんの仲間が死んで、そして、侍女の槙が負傷して……。
 忍びの里などというものがあることを知って、同じ年頃の娘が信長と喧嘩友達で……。
 一日のこととは思えないほどに、本当にいろんなことがあった。
 いろんなことがあっても、良いことならば良いが、今日起こったことはすべてほぼ悪いことばかり……いや、最悪のことばかりだった。
(信長様……どうしているのかな……)
 信長はここへ到着して以降、まだ美夜とは一言も会話をしていない。
 美夜自身があえて距離を置いていたということもあるが、それだけ信長の心は美夜が想像もできないほどの悲しみに包まれているのだろうと思うと、胸が苦しかった。
(このまま……眠れそうにないし……)
 布団はすでに敷かれてあり、眠って身体を休めることもできるが、とてもそんな気持ちにはなれそうになかった。
「寒い……雪でも降りそう……」
 今夜はとても冷える。信長はじきに雪が降ると言っていたが、本当に今すぐ雪でも降りそうな寒さだった。
 この世界には当然エアコンなどというものはなく、部屋には炭に火をつけたものが置かれているが、炭の傍にいるととても温かい。手をかざすと、冷えていた手に温もりが戻ってくるのが分かる。
 打ち掛けを羽織りなおして、炭火で手を温めていると、部屋の襖が開いた。
 入り口を見ると、信長が立っていた。
「あ……」
「入っても良いか?」
「はい……」
 美夜は頷いて、慌てて居住まいを正した。
 信長はたった一日で、やつれてしまったように見える。
「今、怪我をした者たちを見舞ってきた。そなたは怪我はないか?」
「はい、私は大丈夫です……怪我も……何もありません」
「そうか。なら良い。今回のことは、俺の見通しが甘かった。すまぬ……」
「い、いえ……信長様のせいではありません。謝らないでください」
 信長は美夜の『兄に会いたい』という気持ちをかなえようとしてくれていただけだ。そこに何の責任もないと思う。
「それから……しばらく兄上との面会もかなえてやれぬ。許せ」
「それも……信長様のせいではありません。どうか気になさらないでください」
 すべては、待ち伏せなどという卑怯な方法で、美夜たちを襲った者たちのほうが悪いのは明らかだ。
「あの……私、信長様にお伝えしなくてはならないことがあります」
 美夜はそう告げてから、近習たちの最期の言葉を告げた。
 名前を知らない者もいたが、最期に聞いた言葉を告げると、信長はすぐに誰だか分かったようだった。
「皆……信長様の傍で働けること、信長様のために働けることを幸せに……誇りに思っているようでした」
 約束通り、近習たちの言葉を伝え終えると、美夜は少しだけ安堵した。
 もちろんこれで、美夜の責任がすべて終わったわけではないけれど、自分に与えられた役割の一部は、果たし終えた気持ちになれた。
「今回の襲撃の目的と、誰がそれを指示を出したのかということは、今のところ不明だ。俺の敵か、それともしゅうと殿の敵か。さもなくば、今川か……もしくは清洲にいた信友の家臣が先導した可能性もある」
 今川家といえば、織田家と領地が隣り合っており、近年まではたびたび戦で領地の取り合いをしてきたという。
 しかし、織田家と斉藤家との同盟が成ってから……つまり、美夜が信長のもとへ嫁いでからは、今川家も下手な手出しができなくなり、ここ最近はあっても小競り合い程度で、目立った戦は起きていないらしい。
 ただ、それだけに不意打ちのように今川家が仕掛けてくるという可能性もなくはないだろう。
 それに、考えたくはないが、身内の仕業ということも捨てきれない。
 清洲攻めの時に、信長を殺す気満々でやって来た信行なら……。
 そう思って、美夜ははっとした。
 美夜が狙われた理由……信行ならあるかもしれない、と。
 清洲攻めのあの日、信行を一切城から出さず、彼の作戦を打ち砕いた原因のひとつは美夜でもある。
 信行が美夜を逆恨みしているという可能性は、十分にありそうだった。
「あの、信長様。あまりこんなことは言いたくないのですが、信行殿の仕業と考えることはできないでしょうか?」
 美夜がそう告げると、信長は苦笑する。
「それもあり得るだろうな。今回のことは内通者がいなければできないことだと俺は考えている。まずは内通者を特定することをやっていく必要があるだろう」
 信長の言葉に、美夜も頷く。
 今回の美濃行きは、ごく限られた人間にしか知らされず、しかもそのごく限られた人間にそれを知らせたのも、二日前の話だった。
 そして、斉藤家に美夜の里帰りが知らされたのも、二日前の話。万が一のことを考え、信長は道三にもあまり他言はしないように文に書き添えていたとも言っていた。
 たとえ当日になって美夜たちが旅装して城から出るのを見た者が襲撃を思いついたとしても、万全に戦闘態勢を整えた軍隊を準備して待ち伏せするなどということができるはずがない。
(電話もメールもないんだもの……当然よね)
 だから、今回の首謀者と繋がっている何者かは、二日前に今回の美濃行きを知ることができた者に限られてくる。
「明日は舅殿にも直接心当たりがないか聞いてみるつもりだ。そのうえで、織田、斉藤の両家で今回の襲撃者の正体と目的を探し出す。報復はその後だ」
「道三は……」
 と言いかけて、美夜は慌てて口を押さえて言い直した。
「お、お父様は……」
 美夜が言いかけると、信長は軽く笑った。
「二人なのだから、別に気にすることはない」
「すみません……つい……」
「そなたにとっては、道三は憎き相手でもあろうからな。兄を人質に取られ、本物の帰蝶きちょうの代わりに何の縁もゆかりも義理もないのに俺に嫁がされて」
「い、今はそれで良かったと思っています。本物の帰蝶さんのことは気の毒に思いますけど……でも、信長様と出会えたこと、こうしてお側にいられることは、今の私には……」
 美夜がそう言い終わらないうちに、信長が美夜の口に手を当てた。喋るのをやめろというように。
 信長の気配が緊張しているのが分かって、美夜も身体が強ばった。
 信長はいったい何に警戒しているのだろう。
 信長はいきなり刀を抜いて立ちあがると、それを天上に向かって投げた。
 天上に刀が突き刺さると同時に、女性の悲鳴のような声が天井裏から聞こえた。
「そこにおるのは誰だ!」
 美夜はまったく気づかなかったが、どうやら天井裏に誰かがいたらしい。
 少しして、天上の板が外れて、昼間に出会った甘音あまねが顔を覗かせた。
「ひ、久しぶりだな、吉法師きっぽうし!」
 引きつった笑みを浮かべながら、天井板にささった刀を引き抜いて、甘音は信長に手を振る。
 しかし、信長の顔は強ばったままで、甘音に笑い返したりはしなかった。
「甘音、降りてこい」
「あ、う、うん」
 甘音は戸惑いの表情を浮かべながらも、ひょいっと軽々とした動きで、天上から飛び降りた。
 そして、信長に抜き身の刀を返す。
 信長は刀を鞘には戻さなかった。
「あんたがこの部屋に入っていくのが見えたから、ちょっと追いかけてみたんだ。あっちの部屋は警戒がすごすぎて近づくこともできなかったからさ」
 甘音は悪びれる様子もなく言ったが、すぐに信長の様子に気づいたようだった。
「な、何さ? 何でそんなに怖い顔してんの?」
「そなた……どこまで話を聞いていた?」
「え、えっと……最初のほうは聞いてない」
「では、最後のほうは聞いていたのだな?」
 信長に促されて、甘音は思い出すように首をかしげる。
「えっと……帰蝶が本物とか身代わりとか、そういう話かな? あれ? そういえば帰蝶って……え? ええええっ!?」
 どうやら甘音は今自分が口にしたことが、大事おおごとであることを悟ったようだった。
 甘音は目を見開き、美夜を指さしている。
「あ、あの……あのさ……えっと……どういうこと? あんた本物の帰蝶じゃねえの?」
「…………」
(駄目……それ以上言っちゃ駄目……!)
 美夜は祈るように心の中で叫んだが、甘音はまだ事の重大性を正確には認識していなかった。
「え、じゃあ、本物の帰蝶はどうなったんだ? 斉藤家は偽物を吉法師の嫁にしたってこと?」
 甘音は喋れば喋るほどに、自分が追い詰められていることにまだ気づいていない。
「それはそなたには荷が重すぎる秘密だ。死ね、甘音」
 信長は刀の切っ先を真っ直ぐに甘音の首に向ける。
「え? ええ? ちょ、ちょっと待てよ、吉法師! あんたがあたしを斬るつもり!? 本当に!?」
「斬る。これは織田も斉藤も揺るがす問題だ。そなたにこの秘密を託すことはできぬ」
「ま、ま、待って! い、言わないって! 言わないから!!」
 甘音は完全に動揺してしまっており、昼間のふてぶてしいまでの態度とは、まるで違った気弱さを見せている。
 まさか盗み聞きをしたことで、信長が自分を斬るなどとは思ってもみなかったのだろう。
 そして、聞いてしまったことが、決して自分が知ってはならない重要なことだったということに、今になってようやく気づいたのかもしれない。
「信長様、待ってください」
 美夜は信長を止めようとしたが、信長は甘音を見据えたまま、振り返りもせずに告げてくる。
「そなたは部屋を出て行け。これはそなたが見る必要のないものだ」
「信長様……」
 信長は本気で甘音を斬ろうとしている。
 自分がうっかり道三の名を口走ってしまったがために、甘音が殺される……。
 そう考えかけて、美夜は首を横に振った。
(ううん……そんなことじゃない……)
 そもそもの問題は、斉藤道三が帰蝶が死んだという事実を隠し通そうとしたことから始まっている。
 だから当然、甘音には何の罪もない。
 甘音が殺される筋合いはない。
 それに、信長に甘音を斬らすわけにはいかない。
 なぜなら甘音は信長にとって敵ではない。
 今日も多くの味方を信長は失った。
 信長はこれ以上、味方を失ってはならないのだ。
「そこへなおれ、甘音。苦情は全て冥府めいふで聞いてやる」
「え、ええ……ちょ、ちょっと待てよ、ま、待って……吉法師……」
 信長の全身からは殺気が漲っていて、拷問などの荒事あらごとに慣れている様子だった甘音が、逃げることすらできないようだった。
 腰が抜けたように座り込み、信じられないものでも見るように信長を見ている。
 止めなければ……と思うのに、美夜も指一本動かすことができなかった。
(怖い……信長様が怖い……)
 美夜は信長を初めて怖いと思った。
 この信長は、美夜のまったく知らない信長だ。
 しかし、これも間違いなく信長の一面ではある……。
「あ、ぁ……ぁ……」
 甘音は座り込んでしまったまま、動くこともできないようだ。
 このままでは本当に信長が甘音を斬ってしまう。
「さらばだ、甘音」
(駄目――――!!)
 信長が刀を振り上げたその瞬間――美夜の身体は勝手に動いていた。
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