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第二章
身代わり濃姫(25)
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細いけれども、獣道というほどではない山道をのぼり、さほど高くない頂上付近に着くと、頑丈な木で作られた門が見えた。
先頭を行く男の姿を認めた門番が、すぐに重い扉を開く。
「街道の近くに私の矢で倒れている者がいます。息のある者を見つけて拾って来てください。追っ手が来たら、回収をやめて引き上げて構いません」
男がそう告げると、何名かの男たちが門を出て山をくだっていった。
美夜は男の言葉に驚いてしまう。
まさか彼は敵まで助けようとしているのだろうかと……。
美夜の視線に気づいた男は苦笑する。
「手当をするのが目的ではありません。今回の襲撃が誰の指図だったのかを調べる必要があるので、回収させるだけです」
要するに、取り調べをするということか……と美夜は納得した。
やはり、この男は信長の味方であり、美夜の味方ということで間違いないのだろう。
門を入っていくと、そこは山頂であるはずなのに、村があった。
いくつかの小さな家が点在していて、それぞれの家からは煙もあがっている。
田畑などもあり、家畜も飼われており、食料などはここでまかなっているのかもしれない。
(すごい……こんな山の上に人が住む場所があるなんて……)
美夜のいた世界なら、こうした山頂を切り開くことも、それほど難しくはないかもしれない。
けれども、この時代にここまでのことをしようと思うと、相当の労力と時間がかかるはずだ。
「むさ苦しいところですが、ご容赦を。すぐに薬師を呼んで彼女の治療をさせます」
「はい、よろしくお願いします」
美夜たちは村の中心付近にある、もっとも大きく立派な建物の中に案内された。
布団の上では少し顔色が悪いものの、槙が静かに眠っている。
薬師が手当てをしてくれたおかげで、槙は命を取り留めることができた。このまま安静にしていれば、もう心配はないという。
槙は痛み止めと眠り薬を処方されたということもあり、しばらくは目を覚まさないようだ。薬師の説明に寄れば、痛覚を完全に麻痺させているので、意識があるとかえって危険なことになるらしい。
「お槙ちゃん……良かった……」
「ええ、本当に……」
涙を流しながらそううなずき合うのは、侍女の春と梅だった。
もう一人の侍女・奈津は今、各務野とともに、追っ手から逃げる際に無理をさせてしまった馬の様子を見に行ってくれている。
薬師と入れ替わりに、美夜たちを助けてくれた男が部屋に入ってくる。
そう言えば、まだ名前を聞いてなかったし、お礼も言ってなかったと美夜は思い出した。
「あの……危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」
美夜がそう言って頭を下げると、男は微かに笑みのようなものを浮かべる。
「礼には及びません。我々この里の者たちは皆、織田家のためにある者ですから」
「え……」
男の言っている意味がよく分からず、美夜は思わず首をかしげた。
この人は……そして、この里はいったい……?
「あの、私の気のせいでなければ、貴方は何度か信長様に会いに来られていますよね? お名前は……知らないのですが」
「それは私の愚弟でしょう。双子なのです。見分けることができるのは、おそらく信長様だけだと思いますよ」
「あ、双子……あれは弟さんだったのですね……」
「はい。藤ノ助といいます。藤ノ助は信長様の近くでお仕えしていますが、私はこの里の長として里を守るのが役目ですので、滅多にここを離れることはありません。今日はたまたまこの下の街道を通る予定にしていた藤ノ助に用があったので、山を下りていただけのことです」
「そう……だったんですね……」
こんな時代にも双子がいるんだ……と美夜は変なところで感心してしまった。
「私の名は周防蔵ノ介といいます。帰蝶様のことは、信長様からお聞きしてよく知っております」
「あの……私は何も知らなくてごめんなさい……」
「いえ……我々のような日陰に生きる者は、名を名乗ることもほとんどありませんから。本来でしたら、こうして帰蝶様にお会いすることもなかったでしょう」
「日陰に生きる者って……」
「この里は忍びの里なのです。代々織田家に仕える忍びを輩出しています。今の私たちの主は当主の織田信秀様。そして、信秀様が認めた跡取りである信長様です」
「忍び……」
つまり、忍者のようなものだと美夜は理解した。
けれども、ここの里の人たちの格好は、美夜の知っている忍者とは違って、わりと普通の格好をしている。
「先ほど、城に鷹を飛ばしておきました。こちらへ向かっていた藤ノ助にも状況の説明をして清洲へ帰しましたので、ほどなく信長様にも今の状況が伝わるでしょう」
「ありがとうございます」
信長は報告を聞けば、きっと悲しむだろうと思うと、美夜は胸が痛かった。
まだ正確な状況は分かっていないものの、近習たちの多くがおそらく死んだ。
「里の者たちに味方の生き残りがいるかどうか調べに行かせています。一人でも残っていれば良いのですが……」
「はい……本当に……」
今回同行した近習たちは、信長が子どもの頃からずっと傍にいた者たちだ。
その死が明らかになれば、信長は手足をもがれたような気持ちになるに違いない。
美夜が膝の上においた手をぎゅっと握りしめたとき、襖が勢いよく開いた。
驚いて部屋の入り口を見ると、そこに立っていたのは、美夜と同じ年頃にも見える少女だった。
「兄者、連中皆同じことしか言わないんだけど。知らない者に雇われただけだってさ。どうする? まだ拷問続ける?」
「ご、拷問!?」
「ああ?」
思わず声をあげた美夜に、少女がぎろりとにらみをきかせてくる。
「なに? あんた? ああ、吉法師の嫁ってあんた?」
少女の言葉に、蔵ノ介が顔をしかめる。
「甘音、控えなさい。帰蝶様は信長様の御正室。つまり我々の主でもあるのです。お前はまた折檻されたいのですか?」
蔵ノ介に厳しく言われ、甘音と呼ばれた少女は肩をすくめる。
「折檻はもう勘弁。やっと許してもらったところなのにさ」
「だったら、そこに直るか、出て行くか、どちらかにしなさい」
「もう言うことは言ったから、出て行くよ。とりあえず、みんな指示を待ってるから。じゃあな!」
ぴしゃりと襖を閉めて甘音が出て行くと、何となく気まずい空気が漂った。
見た目は可愛らしいのに、随分と口の悪い娘だった。
(そう言えば……吉法師って、信長様の幼名だっけ?)
「申し訳ありません。躾の行き届かぬ娘で……」
「い、いえ! お元気そうな娘さんですね」
「元気しか取り柄がありません。身体は丈夫ですから、何かの役には立つでしょうが……なにぶん、向こうっ気が強すぎて使いづらいところがあります。脱走癖もありますし……」
「脱走……」
「この里に生まれた者は、許可なく里を出ることができません。しかし甘音は何度も勝手に里を抜け出しては、連れ戻されています」
(だから折檻されてしまったのね……)
美夜は少し甘音が可哀想になってきた。
美夜もこの世界では、自分の意思でできることに限りがある。
きっとあの甘音も、自分が本当にやりたいこと、行きたいところががたくさんあるはずなのに、この里に生まれたために、それが許されないのだろう。
それでもあの気丈さを保てるのだから、とても芯の強い女の子なのだと思う。
「あの……あまり叱らないであげてくださいね。私はぜんぜん気にしてないですし……」
先ほどの態度のせいで、彼女がまた折檻されては可哀想だと美夜は思い、慌てて蔵ノ介に言った。
「そう仰っていただけると、こちらも少し気が楽です」
(それにしても……拷問とか折檻って……やっぱり時代を感じるわね……そういうのにも、慣れていかないと駄目なのかしら……できれば慣れたくないけど……)
しかし、信長の妻としてこの世界で生きると決めた以上、この世界の理に、美夜は従い、慣れていく必要もあるのだ。
「信長様は、よくここに来られるのですか?」
美夜が聞くと、蔵ノ介は頷いた。
「信長様は幼少の頃、父君の信秀様に命じられて、この里に預けられて修行をしていたことがあるのです」
「え? 信長様が修行? 忍びの修行ですか?」
「そうです。自分の身は自分で守れるようにというのが、信秀様の方針でした。それには忍びの修行がもっとも効率的ですからね」
「あ、そ、そうなんですね……そういえば、信長様はたまに足音もなくいつの間にか傍にいることがあるんですけど、ああいうことも修行のたまもの……なんでしょうか?」
「ええ、信長様でしたら、自分の気配を消す程度のことは造作もないことでしょう」
「…………」
自分がうっかりしていただけなのかと思ったりもしたが、信長が足音もなくいつの間にか部屋に入ってきていたりするのは、そういう修行の成果だったのだと美夜はようやく理解した。
「先ほどの甘音は信長様がこの里に滞在しておられた間の喧嘩友達とでも言いましょうか……信長様がご成人なされた今でも、当時の感覚が抜けないようです。あれではお側にあげることも無理でしょう……」
やれやれといった様子で、蔵ノ介はため息をついた。
女の子の忍びとなると、くノ一と呼ばれるあれだろうか……と美夜は想像する。
でも、甘音の雰囲気は、そういう美夜の想像の範疇のくノ一とはまるで違っていた。
(年頃も近そうだし……仲良くなれるといいのにな……)
いつか友達にでもなれたら、美夜の知らない信長の小さな頃の話もたくさん聞かせてくれるだろうか。
(……って、聞かせてくれるかな?)
美夜は仲良くなりたいと思っても、甘音のほうはそうは思ってくれない可能性もあるだろう。
(でも、やっぱり仲良くなってみたい……)
先ほど甘音が自分に対してまったく恐れたりすることなく、対等な立場のように話してくれたことが、美夜には意外に嬉しかったのだ。
甘音の気取らない態度が、元の世界にいた『友達』というものの存在を、美夜に少しだけ思い出させてくれたのかもしれない
夕刻になって、街道で美夜たちが襲われた場所へ向かった里の者たちが戻ってきて、多くの仲間の遺体が運ばた。
二人だけ息のある者がいるが、ほとんど虫の息ということで、今薬師の手当を受けている。
運ばれてきた遺体の多くは、全身に思わず目を覆いたくなるような激しい傷を負っていた。
彼らがどれだけ必死に時間を稼いでくれたのかと思うと、美夜はこみ上げてくるものを必死に抑えなければならなかった。
(私は泣けない……その資格がない……)
近習は二十名中、十八名が死亡。
斉藤家の家臣は三名全員が死亡していた。
皆、『帰蝶』が死なせた。
いや、『帰蝶』の政治的な立場が死なせた。
斎藤道三の娘であり、織田信長の正室という政治的な立場――。
だから、この世界で帰蝶を演じる自分は、決して泣いてはいけないと美夜は思う。
自分のせいだと自分を責めるのは、簡単なことかもしれないし、そのほうが気持ちは楽になるかもしれない。
でもそれは、最期に笑って美夜たちを逃がしてくれた彼らに対して失礼だと思う。
帰蝶のために、信長のために、誇りを持って死んでいった彼らに失礼だ。
美夜にできることは、彼らがなぜ死ななければならなかったのかを知ることだろうと考えている。
美夜たちを待ち伏せし、襲わせたのはいったい誰なのか……。
何のために『帰蝶』を襲ったのか。
何のために『帰蝶』は襲われたのか。
信長に敵対する者という可能性もあるし、道三に敵対する者という可能性もある。
いつもは冷静な各務野も、目元を何度も拭っている。
侍女たちは涙が止まらないようだった。
彼女たちには泣く資格がある。
彼らは、彼女たちのために死んだわけではないのだから。
(この人たちは皆、私が死なせた……)
そのことは、生涯忘れてはいけないと美夜は思った。
「帰蝶様、藤ノ助から連絡がありました。信長様がこちらへ向かわれているそうです」
蔵ノ介の言葉に、美夜は頷く。
美夜は彼らの最期の言葉を、信長に伝えなくてはいけない。そう約束したから。
そしてそれが、命を賭して守ってもらったことに対する恩義を返すことになると思うから。
(みんな……ちゃんと伝えるからね……貴方たちが信長様のために生き、死んでいったということ。そして、本当に信長様のことを慕っていたということも……)
美夜はむしろの上に並べられた死者の遺体の側にしゃがみ、静かに手を合わせた。
その美夜の様子を、少し離れた場所から見ている者がいた。
「…………」
侍女たちのように泣くこともせず、一人一人の死体を確認しながら、まるで語りかけるように手を合わせていく美夜の姿を、甘音は建物の影からじっと見つめている。
先頭を行く男の姿を認めた門番が、すぐに重い扉を開く。
「街道の近くに私の矢で倒れている者がいます。息のある者を見つけて拾って来てください。追っ手が来たら、回収をやめて引き上げて構いません」
男がそう告げると、何名かの男たちが門を出て山をくだっていった。
美夜は男の言葉に驚いてしまう。
まさか彼は敵まで助けようとしているのだろうかと……。
美夜の視線に気づいた男は苦笑する。
「手当をするのが目的ではありません。今回の襲撃が誰の指図だったのかを調べる必要があるので、回収させるだけです」
要するに、取り調べをするということか……と美夜は納得した。
やはり、この男は信長の味方であり、美夜の味方ということで間違いないのだろう。
門を入っていくと、そこは山頂であるはずなのに、村があった。
いくつかの小さな家が点在していて、それぞれの家からは煙もあがっている。
田畑などもあり、家畜も飼われており、食料などはここでまかなっているのかもしれない。
(すごい……こんな山の上に人が住む場所があるなんて……)
美夜のいた世界なら、こうした山頂を切り開くことも、それほど難しくはないかもしれない。
けれども、この時代にここまでのことをしようと思うと、相当の労力と時間がかかるはずだ。
「むさ苦しいところですが、ご容赦を。すぐに薬師を呼んで彼女の治療をさせます」
「はい、よろしくお願いします」
美夜たちは村の中心付近にある、もっとも大きく立派な建物の中に案内された。
布団の上では少し顔色が悪いものの、槙が静かに眠っている。
薬師が手当てをしてくれたおかげで、槙は命を取り留めることができた。このまま安静にしていれば、もう心配はないという。
槙は痛み止めと眠り薬を処方されたということもあり、しばらくは目を覚まさないようだ。薬師の説明に寄れば、痛覚を完全に麻痺させているので、意識があるとかえって危険なことになるらしい。
「お槙ちゃん……良かった……」
「ええ、本当に……」
涙を流しながらそううなずき合うのは、侍女の春と梅だった。
もう一人の侍女・奈津は今、各務野とともに、追っ手から逃げる際に無理をさせてしまった馬の様子を見に行ってくれている。
薬師と入れ替わりに、美夜たちを助けてくれた男が部屋に入ってくる。
そう言えば、まだ名前を聞いてなかったし、お礼も言ってなかったと美夜は思い出した。
「あの……危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」
美夜がそう言って頭を下げると、男は微かに笑みのようなものを浮かべる。
「礼には及びません。我々この里の者たちは皆、織田家のためにある者ですから」
「え……」
男の言っている意味がよく分からず、美夜は思わず首をかしげた。
この人は……そして、この里はいったい……?
「あの、私の気のせいでなければ、貴方は何度か信長様に会いに来られていますよね? お名前は……知らないのですが」
「それは私の愚弟でしょう。双子なのです。見分けることができるのは、おそらく信長様だけだと思いますよ」
「あ、双子……あれは弟さんだったのですね……」
「はい。藤ノ助といいます。藤ノ助は信長様の近くでお仕えしていますが、私はこの里の長として里を守るのが役目ですので、滅多にここを離れることはありません。今日はたまたまこの下の街道を通る予定にしていた藤ノ助に用があったので、山を下りていただけのことです」
「そう……だったんですね……」
こんな時代にも双子がいるんだ……と美夜は変なところで感心してしまった。
「私の名は周防蔵ノ介といいます。帰蝶様のことは、信長様からお聞きしてよく知っております」
「あの……私は何も知らなくてごめんなさい……」
「いえ……我々のような日陰に生きる者は、名を名乗ることもほとんどありませんから。本来でしたら、こうして帰蝶様にお会いすることもなかったでしょう」
「日陰に生きる者って……」
「この里は忍びの里なのです。代々織田家に仕える忍びを輩出しています。今の私たちの主は当主の織田信秀様。そして、信秀様が認めた跡取りである信長様です」
「忍び……」
つまり、忍者のようなものだと美夜は理解した。
けれども、ここの里の人たちの格好は、美夜の知っている忍者とは違って、わりと普通の格好をしている。
「先ほど、城に鷹を飛ばしておきました。こちらへ向かっていた藤ノ助にも状況の説明をして清洲へ帰しましたので、ほどなく信長様にも今の状況が伝わるでしょう」
「ありがとうございます」
信長は報告を聞けば、きっと悲しむだろうと思うと、美夜は胸が痛かった。
まだ正確な状況は分かっていないものの、近習たちの多くがおそらく死んだ。
「里の者たちに味方の生き残りがいるかどうか調べに行かせています。一人でも残っていれば良いのですが……」
「はい……本当に……」
今回同行した近習たちは、信長が子どもの頃からずっと傍にいた者たちだ。
その死が明らかになれば、信長は手足をもがれたような気持ちになるに違いない。
美夜が膝の上においた手をぎゅっと握りしめたとき、襖が勢いよく開いた。
驚いて部屋の入り口を見ると、そこに立っていたのは、美夜と同じ年頃にも見える少女だった。
「兄者、連中皆同じことしか言わないんだけど。知らない者に雇われただけだってさ。どうする? まだ拷問続ける?」
「ご、拷問!?」
「ああ?」
思わず声をあげた美夜に、少女がぎろりとにらみをきかせてくる。
「なに? あんた? ああ、吉法師の嫁ってあんた?」
少女の言葉に、蔵ノ介が顔をしかめる。
「甘音、控えなさい。帰蝶様は信長様の御正室。つまり我々の主でもあるのです。お前はまた折檻されたいのですか?」
蔵ノ介に厳しく言われ、甘音と呼ばれた少女は肩をすくめる。
「折檻はもう勘弁。やっと許してもらったところなのにさ」
「だったら、そこに直るか、出て行くか、どちらかにしなさい」
「もう言うことは言ったから、出て行くよ。とりあえず、みんな指示を待ってるから。じゃあな!」
ぴしゃりと襖を閉めて甘音が出て行くと、何となく気まずい空気が漂った。
見た目は可愛らしいのに、随分と口の悪い娘だった。
(そう言えば……吉法師って、信長様の幼名だっけ?)
「申し訳ありません。躾の行き届かぬ娘で……」
「い、いえ! お元気そうな娘さんですね」
「元気しか取り柄がありません。身体は丈夫ですから、何かの役には立つでしょうが……なにぶん、向こうっ気が強すぎて使いづらいところがあります。脱走癖もありますし……」
「脱走……」
「この里に生まれた者は、許可なく里を出ることができません。しかし甘音は何度も勝手に里を抜け出しては、連れ戻されています」
(だから折檻されてしまったのね……)
美夜は少し甘音が可哀想になってきた。
美夜もこの世界では、自分の意思でできることに限りがある。
きっとあの甘音も、自分が本当にやりたいこと、行きたいところががたくさんあるはずなのに、この里に生まれたために、それが許されないのだろう。
それでもあの気丈さを保てるのだから、とても芯の強い女の子なのだと思う。
「あの……あまり叱らないであげてくださいね。私はぜんぜん気にしてないですし……」
先ほどの態度のせいで、彼女がまた折檻されては可哀想だと美夜は思い、慌てて蔵ノ介に言った。
「そう仰っていただけると、こちらも少し気が楽です」
(それにしても……拷問とか折檻って……やっぱり時代を感じるわね……そういうのにも、慣れていかないと駄目なのかしら……できれば慣れたくないけど……)
しかし、信長の妻としてこの世界で生きると決めた以上、この世界の理に、美夜は従い、慣れていく必要もあるのだ。
「信長様は、よくここに来られるのですか?」
美夜が聞くと、蔵ノ介は頷いた。
「信長様は幼少の頃、父君の信秀様に命じられて、この里に預けられて修行をしていたことがあるのです」
「え? 信長様が修行? 忍びの修行ですか?」
「そうです。自分の身は自分で守れるようにというのが、信秀様の方針でした。それには忍びの修行がもっとも効率的ですからね」
「あ、そ、そうなんですね……そういえば、信長様はたまに足音もなくいつの間にか傍にいることがあるんですけど、ああいうことも修行のたまもの……なんでしょうか?」
「ええ、信長様でしたら、自分の気配を消す程度のことは造作もないことでしょう」
「…………」
自分がうっかりしていただけなのかと思ったりもしたが、信長が足音もなくいつの間にか部屋に入ってきていたりするのは、そういう修行の成果だったのだと美夜はようやく理解した。
「先ほどの甘音は信長様がこの里に滞在しておられた間の喧嘩友達とでも言いましょうか……信長様がご成人なされた今でも、当時の感覚が抜けないようです。あれではお側にあげることも無理でしょう……」
やれやれといった様子で、蔵ノ介はため息をついた。
女の子の忍びとなると、くノ一と呼ばれるあれだろうか……と美夜は想像する。
でも、甘音の雰囲気は、そういう美夜の想像の範疇のくノ一とはまるで違っていた。
(年頃も近そうだし……仲良くなれるといいのにな……)
いつか友達にでもなれたら、美夜の知らない信長の小さな頃の話もたくさん聞かせてくれるだろうか。
(……って、聞かせてくれるかな?)
美夜は仲良くなりたいと思っても、甘音のほうはそうは思ってくれない可能性もあるだろう。
(でも、やっぱり仲良くなってみたい……)
先ほど甘音が自分に対してまったく恐れたりすることなく、対等な立場のように話してくれたことが、美夜には意外に嬉しかったのだ。
甘音の気取らない態度が、元の世界にいた『友達』というものの存在を、美夜に少しだけ思い出させてくれたのかもしれない
夕刻になって、街道で美夜たちが襲われた場所へ向かった里の者たちが戻ってきて、多くの仲間の遺体が運ばた。
二人だけ息のある者がいるが、ほとんど虫の息ということで、今薬師の手当を受けている。
運ばれてきた遺体の多くは、全身に思わず目を覆いたくなるような激しい傷を負っていた。
彼らがどれだけ必死に時間を稼いでくれたのかと思うと、美夜はこみ上げてくるものを必死に抑えなければならなかった。
(私は泣けない……その資格がない……)
近習は二十名中、十八名が死亡。
斉藤家の家臣は三名全員が死亡していた。
皆、『帰蝶』が死なせた。
いや、『帰蝶』の政治的な立場が死なせた。
斎藤道三の娘であり、織田信長の正室という政治的な立場――。
だから、この世界で帰蝶を演じる自分は、決して泣いてはいけないと美夜は思う。
自分のせいだと自分を責めるのは、簡単なことかもしれないし、そのほうが気持ちは楽になるかもしれない。
でもそれは、最期に笑って美夜たちを逃がしてくれた彼らに対して失礼だと思う。
帰蝶のために、信長のために、誇りを持って死んでいった彼らに失礼だ。
美夜にできることは、彼らがなぜ死ななければならなかったのかを知ることだろうと考えている。
美夜たちを待ち伏せし、襲わせたのはいったい誰なのか……。
何のために『帰蝶』を襲ったのか。
何のために『帰蝶』は襲われたのか。
信長に敵対する者という可能性もあるし、道三に敵対する者という可能性もある。
いつもは冷静な各務野も、目元を何度も拭っている。
侍女たちは涙が止まらないようだった。
彼女たちには泣く資格がある。
彼らは、彼女たちのために死んだわけではないのだから。
(この人たちは皆、私が死なせた……)
そのことは、生涯忘れてはいけないと美夜は思った。
「帰蝶様、藤ノ助から連絡がありました。信長様がこちらへ向かわれているそうです」
蔵ノ介の言葉に、美夜は頷く。
美夜は彼らの最期の言葉を、信長に伝えなくてはいけない。そう約束したから。
そしてそれが、命を賭して守ってもらったことに対する恩義を返すことになると思うから。
(みんな……ちゃんと伝えるからね……貴方たちが信長様のために生き、死んでいったということ。そして、本当に信長様のことを慕っていたということも……)
美夜はむしろの上に並べられた死者の遺体の側にしゃがみ、静かに手を合わせた。
その美夜の様子を、少し離れた場所から見ている者がいた。
「…………」
侍女たちのように泣くこともせず、一人一人の死体を確認しながら、まるで語りかけるように手を合わせていく美夜の姿を、甘音は建物の影からじっと見つめている。
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