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第一章
身代わり濃姫(22)
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那古野城から清洲城への引っ越しは、五日がかりで行われた。
ただ、五日かけてとりあえず清洲城での生活ができる程度に荷物の移動が済んだというだけで、完全に引っ越しが終わるまでにはまだ時間がかかるそうだ。
那古野城は周囲が田畑に囲まれているような城だったのに比べて、清洲城は人が集う都会の中心というのが美夜の印象だった。
主要街道に面しているということもあり、とにかく町が大きくて賑やかで人も多い。
のんびりとした雰囲気の那古野城とは、まったく趣のことなる城だった。
引っ越し作業の五日目に、美夜は信長とともに清洲城に入り、新たな城での生活をスタートさせた。
……とはいえ、清洲城に移ってからの美夜と信長は、以前にも増して慌ただしい日々を過ごすこととなった。
城に入った翌日には、戦勝祝いの宴が開かれ、三日三晩それに付き合わなければならなかった。
大がかりな宴は婚儀以来のことだったが、今回は美夜は主役というわけではなく、隅っこのほうでおとなしく座っているだけでも良かったので、その点は気楽だった。
それに、城を移動したとはいえ、侍女も使用人も家臣も、那古野城から移動してきたものが多数を占めているので、気心も知れているし、美夜がたった数日のこととはいえ、那古野城の城主を経験したこともあり、婚儀の時に比べれば、遙かに精神的な余裕はあったといえるかもしれない。
そんな三日三晩の宴の後は、新たに仕官する者たちの振り分けなどが行われ、信長はさらに慌ただしい日々を送ることになった。
清洲城の前城主である信友に仕えていた家臣たちは、ほぼ全員が信長に仕えることになった。
ごく一部に信長に仕えることを拒んで自害したり逃走したりした者はいたというが、光秀の説得もあり、それ以外の者たちはそのまま信長の配下に収まったらしい。
その上に、信長は城下の町に触れを出し、農民から商人まで、幅広く仕官者を募った。
たとえ武家の出身でなくとも、実力のある者は信長の傍に召し抱えるという言葉が添えられてあったので、多くの志願者が殺到した。
この志願者の対応を信長に一手に任され……いや、押しつけられたのが光秀で、美夜が先日見かけたときには、光秀のもともと白い顔がさらに青白くなっていて、ほとんど死にかけているような様子で、声をかけるのもためらわれるほどだった。
いずれにせよ、清洲の町は以前にも増して賑わい、町の住人たちは、新たな城主である信長を歓迎している。
以前は尾張の大うつけだの、たわけだの、言いたい放題だった町の者たちも、信長が清洲城を一夜で落としたことで見直したらしい。
そしてまた、それを聞きつけた各地の武士たちが、こぞって信長に仕官や面会を求めて清洲へやって来る……という具合で、清洲の町は、日々各地から集まった人たちで溢れかえり、活気に満ちていた。
(お城の活気も以前とはぜんぜん違う……清洲城を手に入れたほうが良いという光秀の提案は、本当に間違っていなかったのね……)
やはりさすがというか、明智光秀は明智光秀だと美夜は思った。
あまりに優秀なために、信長に仕事を押しつけられすぎて、過労死しないか心配になってしまうのだが。
(明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、こういうことも理由だったのかしら……)
美夜はそんなふうに思ったりもした。
ともあれ、城での戦勝祝いの宴や仕官の手続などが少し落ち着いたのは、信長たちが清洲に移ってから十日ほど経ってからのことだった。
すでに秋の気配も色濃くなり、田には実りの稲穂が垂れている。
今年はどうやら豊作のようで、城下の町や周辺領地の民たちの顔も明るいと信長は嬉しそうに言っていた。
豊作ということは、収められる税も増えるということで、それは信長による領地の統治の安定にも繋がる。
そして、ようやく信長が激務から少しの休暇を得ることができたその日、美夜は信長に誘われて清洲の町へ出かけることになった。
もちろん、お忍びでの散策なので、基本は二人で歩くことにしているが、身辺警護のための者たちが何名も周囲に配置されることにはなっている。
町の者に混じってもおかしくない衣服に着替え終わると、多少の違和感は感じるものの、町を歩いていても問題なさそうなこ綺麗な若者二名ができあがった。
「そなたはそういう着物も似合うな」
「そ、そうですか? でも、動きやすくていいですね、これ」
普段の美夜の着るものは、見た目の美しさを優先しているものばかりで、動きやすいとはとてもいえない。
しかし、今はそんな格好でも馬に乗ることができるので、慣れというものはすごいものだと思う。
「では、行くか」
信長が手を差し出してきたので、美夜はその手を握る。
信長の手に触れた瞬間、美夜はどきんと心臓が高鳴った。
(何だか……デート……みたいな……)
信長の着物もいつもと雰囲気が違っていて、これはこれでなかなか見栄えがする……と美夜は思い、また胸がとくとくとなった。
那古野城にいた頃は、近くの川や山へ一緒に出かけたことは何度かあったが、あれは遠足のようなもので、こうして町を一緒に歩くのは、恋人同士のデートに雰囲気が似ている気がする。
(やっぱり……私は信長様のことを好きみたい……)
美夜は改めてそう思う。
先日、信長に抱かれながら、美夜は自分の思いに初めて気づいた。
その時に信長から『俺を置いてどこへも行くな』と言われたのだが美夜はそれに答えられず、泣いてしまった。
美夜には戻らなければならない世界がある。
いつかは信長を置いて帰らなければならないのだ。
信長は何も答えず泣き出した美夜を訝しんだものの、何も聞かずにいてくれた。
ひょっとして信長は何か気づいているのかもしれない……美夜はそう感じることがたびたびある。
(でも、何も言ってこないし……もし本当のことが分かったら、絶対に何か言ってくるはずよね……だからたぶん大丈夫)
美夜は自分にそう言い聞かせるようにして、ひとまず今は清洲の町歩きを楽しむことにした。
「賑やかだとは聞いていたが、これはすごいな……」
今は信長が出したふれのせいもあって、おそらく清洲の町はこれまでにない活気なのだと思う。
店が建ち並ぶ通りは歩くのも大変なぐらいに人で溢れていて、美夜は物珍しさに思わずきょろきょろと周囲を見回してしまう。
この世界に来て、こんなに武士以外の普通の人がいるのを見るのは初めてのことだった。
それに、珍しいものを売るお店の数々……。
着物を作る反物のようなものを売っているお店もあれば、果物や野菜や魚を売る店もある。
変わったものでは、子馬を売っている店もあり、信長が鈴音を買い求めてきてくれたのは、こうした店からだったのだと今さらながらに理解できた。
前後左右にさりげなく護衛の者はいるものの、二人は『信長に仕官してしようと思って清洲にやって来た新婚夫婦』という設定で、町歩きを楽しむ。
信長の雰囲気も、いつもと違ってリラックスしていて、好奇心満々の瞳を輝かせながら、美夜の手を引いてあちらこちらの店を冷やかしていく。
「お、良い店があるな」
そこは、女性ものの髪留めやかんざしなど、小物ばかりを集めたような店だった。
信長はその店で立ち止まると、そこで何やら物色し始めた。
「うーん……これも良いが、こちらも……」
「何かお探しなのですか?」
美夜が聞くと、信長は少し照れくさそうに言う。
「そなたに何か見繕ってやろうと思うておるのだ」
「え……私に……?」
美夜は驚いたが、同時に嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。
(何だか……本当にデートみたい……)
いつか兄の雪春とこんなデートをしてみたいと妄想したことはあったが、まさか自分の初デートが戦国時代で織田信長と一緒にすることになるとは、あの頃の自分は想像もしなかっただろう。
「これはそなたに似合いそうだな」
信長が手に取った髪飾りは、木で彫られた繊細な花の飾りがついたもので、鮮やかな色もつけられている。
「ほう、これは良い品を選ばれましたな、旦那様。よろしければ、奥様の髪に当ててみてください。雰囲気が分かると思いますので」
店主が出てきて、にこにこと愛想を振りまく。
どこの世界でも、商売人というのは客に愛想が良いものなのだなと美夜は思った。
「ああ、そうさせてもらおう」
信長は美夜の髪に、手に髪飾りを当ててみる。
「うん、やはり似合う」
店主はもみてをしながら、美夜にも愛想笑いを振りまいてくる。
「ええ、とてもお似合いです。奥様はお美しゅうございますから、何でもお似合いになるでしょうけれども」
「あ、ありがとうございます……」
ここまで商売っ気の塊だと、かえって清々しくも感じられるほどだ。
身なりは普通の武士の格好をしている信長だが、金は持っていると踏んだのだろうか……店主はやたらと愛想が良かった。
信長は髪飾りを美夜の髪に当てながら、店主に尋ねた。
「そういえば、新しく城主になった信長様はどんな方なのだ?」
当人である信長がそんなことを聞くので、美夜は思わず突っ込みを入れそうになった。
(人が悪すぎる……)
しかし、店主は目の前の若者が当の本人だとは知らず、待ってましたとばかりに信長を語り始める。
おそらく、他の町から来た者たちは皆同じことを聞いてくるので、その返答も商人らしく用意していたのだろう。
「信長様はまだお若いお殿様と聞いております。以前の評判は最悪でしたが、清洲城をひと晩で落としてから評判をあげられましたね。でも、実はうつけだとか、実は全部優秀な家臣がやっただけとか、そんな噂も聞きますよ。奥様の濃姫様はとてもお美しい御方だそうです。羨ましい話ですよねぇ。お殿様は私どもとは違って、たとえうつけでも、美人の奥方様をもらえるのですから」
(うわぁ……知らないって、怖いことなのね……)
美夜はひやひやとしながら、信長と商人の会話を黙って見守った。
「ふーん……それで……そなたは信長のことをどう思うておるのだ?」
「私ですか? 私はやはり信長様はうつけではないかと考えておりますよ。しかも大うつけでなければ、ひと晩で清洲城を落とすことなどできないでしょうからねぇ。まったく……大うつけが城主になって、この先この町はどうなることやらという気も致しますが、しかし今は信長様のおかげでこの景気ですから、当分清洲の町は安泰でございますよ。ご安心ください、旦那様」
店主の言葉に、信長は笑っているが、心の中でどう思っているのかまでは美夜には分からない。
(まさかここで正体をばらして苦情を言ったりしないでしょうね……)
美夜はさらにひやひやしながら信長を見ていたが、信長は銭の入った袋を店主に差し出した。
「ではこれをもらおう。それで足りるか?」
その銭は、もしも入り用の時のためにと、長秀から信長に手渡されていたものだった。
店主は中身を確認すると、慌てて信長を見た。
「旦那様、ちとこれでは多うございます。すぐにお釣りをお渡しいたしますのでお待ちを……」
店主がそう告げるので、信長はまた笑う。
「そなたは良くも悪くも正直者だな。俺は正直者が好きだ。釣りはそなたが取っておけ。行くぞ、帰蝶」
「あ、は、はい……」
美夜が慌てて信長を追いかけると、背後で銭の袋が落ちる音がした。
「帰蝶といえば濃姫様の……信長様の奥方のお名前……ま、まさか……!!!」
振り返ると、店主は真っ青になって立ち尽くしている。
信長は彼を気の毒に思ったのか、立ち止まって告げる。
「気にするな。俺は嘘つきより正直者のほうが何倍も好きだ。そなたの店は覚えておく。良い品が入ったら、城に持ってくるが良い。特に、帰蝶に似合いそうなものは歓迎するぞ」
そう告げると、信長は美夜の手を引いて、足早に歩き出した。
ここで騒ぎになってしまうと面倒だと思ったのだろう。
ここは誰でも入れる城下の町だ。
信長を快く思っている者ばかりであれば良いが、そうでない者も、混じっている可能性がある。
城中でさえ、さまざまな事故が起こるのだから、町の中では本当に何が起こるか分からない。
同じようなことを考えたのだろう……気がつけば、信長と美夜の周りを固めるように、信長の配下の者たちが取り囲んでいた。
「もう少し楽しみたかったが……しくじったな。城に戻ろう。俺はともかく、そなたの身が心配だ」
「は、はい……」
美夜は実を言うと、もう少し信長とのこのデートのような時間を楽しみたかった。
けれども、背後がざわざわと騒がしくなってきたので、きっと信長が町に降りてきていることに他の者たちも気づき始めたのだろうと思う。
もう背後を振り返る暇もなく、信長に手を引かれるままに美夜は真っ直ぐに城へと戻った。
城に戻った美夜は、着替えを終えると、さっそく髪飾りを各務野につけてもらった。
「とてもよくお似合いでございます」
各務野がそう言ってくれるので、ぼんやりと自分の姿が映る鏡を見てみたが、やはりこの時代の鏡は、美夜のいた時代のものほどよくは映らない。
でも、信長が選んで買い求めてくれたことが、美夜には嬉しかった。
(大切にしよう……この髪飾り……)
美夜が嬉しそうに髪飾りに触れているのを見て、各務野は微笑む。
「部屋の外で信長様がお待ちです。お声をおかけしてきますね」
部屋を出て行った各務野と入れ替えに、信長が部屋に入ってきた。
そして、髪飾りをつけた美夜を見たとたん、嬉しそうに笑った。
「やはり、よく似合うではないか」
「はい……えっと、その……ありがとうございます。こんな贈り物を男の人からされたことがないので、とても嬉しいです。大切にしますね」
「うむ。俺も女子にこのような贈り物をするのは初めての経験だった」
そういえば……と美夜は初めて信長からもらった『贈り物』のことを思いだし、笑いが止まらなくなってしまった。
信長が戸惑うように笑いの止まらない美夜を見ている。
「な、何を笑っておるのだ、帰蝶? 俺にも教えよ」
「信長様に初めてもらった贈り物は、ドジョウだったなって思いだして……すごくおかしくなってしまって……」
美夜が目に涙をためて笑っているのを見て、信長も笑い出した。
「そうだな。今思えば、初対面にドジョウは少し良くなかった」
信長は罰が悪そうに言ったが、美夜はさらに笑いが止まらなくなった。
「そなたがそんなに笑うのを見るのは、初めてのことだな」
「そういえば……そうかも……」
美夜も自分がこんなに笑うのは久しぶりだと、信長に指摘されて気づいた。
笑うことがなかったということはないが、ここに来るまで本当にいろんな事がありすぎて、こんなふうに笑いこけるということはなかったのだ。
「そなたは笑っておるほうが良い。俺も安心できる」
「信長様……」
信長は美夜を抱き寄せ、唇を重ねた。
それからまた少し日にちが過ぎ、朝晩がめっきり冷え込むようになった頃……。
信長の元に、ようやく美濃から戻った藤ノ助が姿を現した。
人払いをした城の中庭の一画で、信長は藤ノ助の報告を聞く。
「そうか……ご苦労だったな」
「いえ。もう少し時間をかけて調べれば核心まで迫れると思いますが、調査を続けますか?」
藤ノ助から問われた信長は少し考えてから、首を横に振る。
「いや、いい。そなたの今回の任はこれでしまいだ。下がって良い」
「……御意」
藤ノ助の気配が消えると、信長は珍しく大きなため息をついた。
「何かある……とは思うてはいたのだが……まさか、こういうことだったとはな……」
ただ、五日かけてとりあえず清洲城での生活ができる程度に荷物の移動が済んだというだけで、完全に引っ越しが終わるまでにはまだ時間がかかるそうだ。
那古野城は周囲が田畑に囲まれているような城だったのに比べて、清洲城は人が集う都会の中心というのが美夜の印象だった。
主要街道に面しているということもあり、とにかく町が大きくて賑やかで人も多い。
のんびりとした雰囲気の那古野城とは、まったく趣のことなる城だった。
引っ越し作業の五日目に、美夜は信長とともに清洲城に入り、新たな城での生活をスタートさせた。
……とはいえ、清洲城に移ってからの美夜と信長は、以前にも増して慌ただしい日々を過ごすこととなった。
城に入った翌日には、戦勝祝いの宴が開かれ、三日三晩それに付き合わなければならなかった。
大がかりな宴は婚儀以来のことだったが、今回は美夜は主役というわけではなく、隅っこのほうでおとなしく座っているだけでも良かったので、その点は気楽だった。
それに、城を移動したとはいえ、侍女も使用人も家臣も、那古野城から移動してきたものが多数を占めているので、気心も知れているし、美夜がたった数日のこととはいえ、那古野城の城主を経験したこともあり、婚儀の時に比べれば、遙かに精神的な余裕はあったといえるかもしれない。
そんな三日三晩の宴の後は、新たに仕官する者たちの振り分けなどが行われ、信長はさらに慌ただしい日々を送ることになった。
清洲城の前城主である信友に仕えていた家臣たちは、ほぼ全員が信長に仕えることになった。
ごく一部に信長に仕えることを拒んで自害したり逃走したりした者はいたというが、光秀の説得もあり、それ以外の者たちはそのまま信長の配下に収まったらしい。
その上に、信長は城下の町に触れを出し、農民から商人まで、幅広く仕官者を募った。
たとえ武家の出身でなくとも、実力のある者は信長の傍に召し抱えるという言葉が添えられてあったので、多くの志願者が殺到した。
この志願者の対応を信長に一手に任され……いや、押しつけられたのが光秀で、美夜が先日見かけたときには、光秀のもともと白い顔がさらに青白くなっていて、ほとんど死にかけているような様子で、声をかけるのもためらわれるほどだった。
いずれにせよ、清洲の町は以前にも増して賑わい、町の住人たちは、新たな城主である信長を歓迎している。
以前は尾張の大うつけだの、たわけだの、言いたい放題だった町の者たちも、信長が清洲城を一夜で落としたことで見直したらしい。
そしてまた、それを聞きつけた各地の武士たちが、こぞって信長に仕官や面会を求めて清洲へやって来る……という具合で、清洲の町は、日々各地から集まった人たちで溢れかえり、活気に満ちていた。
(お城の活気も以前とはぜんぜん違う……清洲城を手に入れたほうが良いという光秀の提案は、本当に間違っていなかったのね……)
やはりさすがというか、明智光秀は明智光秀だと美夜は思った。
あまりに優秀なために、信長に仕事を押しつけられすぎて、過労死しないか心配になってしまうのだが。
(明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、こういうことも理由だったのかしら……)
美夜はそんなふうに思ったりもした。
ともあれ、城での戦勝祝いの宴や仕官の手続などが少し落ち着いたのは、信長たちが清洲に移ってから十日ほど経ってからのことだった。
すでに秋の気配も色濃くなり、田には実りの稲穂が垂れている。
今年はどうやら豊作のようで、城下の町や周辺領地の民たちの顔も明るいと信長は嬉しそうに言っていた。
豊作ということは、収められる税も増えるということで、それは信長による領地の統治の安定にも繋がる。
そして、ようやく信長が激務から少しの休暇を得ることができたその日、美夜は信長に誘われて清洲の町へ出かけることになった。
もちろん、お忍びでの散策なので、基本は二人で歩くことにしているが、身辺警護のための者たちが何名も周囲に配置されることにはなっている。
町の者に混じってもおかしくない衣服に着替え終わると、多少の違和感は感じるものの、町を歩いていても問題なさそうなこ綺麗な若者二名ができあがった。
「そなたはそういう着物も似合うな」
「そ、そうですか? でも、動きやすくていいですね、これ」
普段の美夜の着るものは、見た目の美しさを優先しているものばかりで、動きやすいとはとてもいえない。
しかし、今はそんな格好でも馬に乗ることができるので、慣れというものはすごいものだと思う。
「では、行くか」
信長が手を差し出してきたので、美夜はその手を握る。
信長の手に触れた瞬間、美夜はどきんと心臓が高鳴った。
(何だか……デート……みたいな……)
信長の着物もいつもと雰囲気が違っていて、これはこれでなかなか見栄えがする……と美夜は思い、また胸がとくとくとなった。
那古野城にいた頃は、近くの川や山へ一緒に出かけたことは何度かあったが、あれは遠足のようなもので、こうして町を一緒に歩くのは、恋人同士のデートに雰囲気が似ている気がする。
(やっぱり……私は信長様のことを好きみたい……)
美夜は改めてそう思う。
先日、信長に抱かれながら、美夜は自分の思いに初めて気づいた。
その時に信長から『俺を置いてどこへも行くな』と言われたのだが美夜はそれに答えられず、泣いてしまった。
美夜には戻らなければならない世界がある。
いつかは信長を置いて帰らなければならないのだ。
信長は何も答えず泣き出した美夜を訝しんだものの、何も聞かずにいてくれた。
ひょっとして信長は何か気づいているのかもしれない……美夜はそう感じることがたびたびある。
(でも、何も言ってこないし……もし本当のことが分かったら、絶対に何か言ってくるはずよね……だからたぶん大丈夫)
美夜は自分にそう言い聞かせるようにして、ひとまず今は清洲の町歩きを楽しむことにした。
「賑やかだとは聞いていたが、これはすごいな……」
今は信長が出したふれのせいもあって、おそらく清洲の町はこれまでにない活気なのだと思う。
店が建ち並ぶ通りは歩くのも大変なぐらいに人で溢れていて、美夜は物珍しさに思わずきょろきょろと周囲を見回してしまう。
この世界に来て、こんなに武士以外の普通の人がいるのを見るのは初めてのことだった。
それに、珍しいものを売るお店の数々……。
着物を作る反物のようなものを売っているお店もあれば、果物や野菜や魚を売る店もある。
変わったものでは、子馬を売っている店もあり、信長が鈴音を買い求めてきてくれたのは、こうした店からだったのだと今さらながらに理解できた。
前後左右にさりげなく護衛の者はいるものの、二人は『信長に仕官してしようと思って清洲にやって来た新婚夫婦』という設定で、町歩きを楽しむ。
信長の雰囲気も、いつもと違ってリラックスしていて、好奇心満々の瞳を輝かせながら、美夜の手を引いてあちらこちらの店を冷やかしていく。
「お、良い店があるな」
そこは、女性ものの髪留めやかんざしなど、小物ばかりを集めたような店だった。
信長はその店で立ち止まると、そこで何やら物色し始めた。
「うーん……これも良いが、こちらも……」
「何かお探しなのですか?」
美夜が聞くと、信長は少し照れくさそうに言う。
「そなたに何か見繕ってやろうと思うておるのだ」
「え……私に……?」
美夜は驚いたが、同時に嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。
(何だか……本当にデートみたい……)
いつか兄の雪春とこんなデートをしてみたいと妄想したことはあったが、まさか自分の初デートが戦国時代で織田信長と一緒にすることになるとは、あの頃の自分は想像もしなかっただろう。
「これはそなたに似合いそうだな」
信長が手に取った髪飾りは、木で彫られた繊細な花の飾りがついたもので、鮮やかな色もつけられている。
「ほう、これは良い品を選ばれましたな、旦那様。よろしければ、奥様の髪に当ててみてください。雰囲気が分かると思いますので」
店主が出てきて、にこにこと愛想を振りまく。
どこの世界でも、商売人というのは客に愛想が良いものなのだなと美夜は思った。
「ああ、そうさせてもらおう」
信長は美夜の髪に、手に髪飾りを当ててみる。
「うん、やはり似合う」
店主はもみてをしながら、美夜にも愛想笑いを振りまいてくる。
「ええ、とてもお似合いです。奥様はお美しゅうございますから、何でもお似合いになるでしょうけれども」
「あ、ありがとうございます……」
ここまで商売っ気の塊だと、かえって清々しくも感じられるほどだ。
身なりは普通の武士の格好をしている信長だが、金は持っていると踏んだのだろうか……店主はやたらと愛想が良かった。
信長は髪飾りを美夜の髪に当てながら、店主に尋ねた。
「そういえば、新しく城主になった信長様はどんな方なのだ?」
当人である信長がそんなことを聞くので、美夜は思わず突っ込みを入れそうになった。
(人が悪すぎる……)
しかし、店主は目の前の若者が当の本人だとは知らず、待ってましたとばかりに信長を語り始める。
おそらく、他の町から来た者たちは皆同じことを聞いてくるので、その返答も商人らしく用意していたのだろう。
「信長様はまだお若いお殿様と聞いております。以前の評判は最悪でしたが、清洲城をひと晩で落としてから評判をあげられましたね。でも、実はうつけだとか、実は全部優秀な家臣がやっただけとか、そんな噂も聞きますよ。奥様の濃姫様はとてもお美しい御方だそうです。羨ましい話ですよねぇ。お殿様は私どもとは違って、たとえうつけでも、美人の奥方様をもらえるのですから」
(うわぁ……知らないって、怖いことなのね……)
美夜はひやひやとしながら、信長と商人の会話を黙って見守った。
「ふーん……それで……そなたは信長のことをどう思うておるのだ?」
「私ですか? 私はやはり信長様はうつけではないかと考えておりますよ。しかも大うつけでなければ、ひと晩で清洲城を落とすことなどできないでしょうからねぇ。まったく……大うつけが城主になって、この先この町はどうなることやらという気も致しますが、しかし今は信長様のおかげでこの景気ですから、当分清洲の町は安泰でございますよ。ご安心ください、旦那様」
店主の言葉に、信長は笑っているが、心の中でどう思っているのかまでは美夜には分からない。
(まさかここで正体をばらして苦情を言ったりしないでしょうね……)
美夜はさらにひやひやしながら信長を見ていたが、信長は銭の入った袋を店主に差し出した。
「ではこれをもらおう。それで足りるか?」
その銭は、もしも入り用の時のためにと、長秀から信長に手渡されていたものだった。
店主は中身を確認すると、慌てて信長を見た。
「旦那様、ちとこれでは多うございます。すぐにお釣りをお渡しいたしますのでお待ちを……」
店主がそう告げるので、信長はまた笑う。
「そなたは良くも悪くも正直者だな。俺は正直者が好きだ。釣りはそなたが取っておけ。行くぞ、帰蝶」
「あ、は、はい……」
美夜が慌てて信長を追いかけると、背後で銭の袋が落ちる音がした。
「帰蝶といえば濃姫様の……信長様の奥方のお名前……ま、まさか……!!!」
振り返ると、店主は真っ青になって立ち尽くしている。
信長は彼を気の毒に思ったのか、立ち止まって告げる。
「気にするな。俺は嘘つきより正直者のほうが何倍も好きだ。そなたの店は覚えておく。良い品が入ったら、城に持ってくるが良い。特に、帰蝶に似合いそうなものは歓迎するぞ」
そう告げると、信長は美夜の手を引いて、足早に歩き出した。
ここで騒ぎになってしまうと面倒だと思ったのだろう。
ここは誰でも入れる城下の町だ。
信長を快く思っている者ばかりであれば良いが、そうでない者も、混じっている可能性がある。
城中でさえ、さまざまな事故が起こるのだから、町の中では本当に何が起こるか分からない。
同じようなことを考えたのだろう……気がつけば、信長と美夜の周りを固めるように、信長の配下の者たちが取り囲んでいた。
「もう少し楽しみたかったが……しくじったな。城に戻ろう。俺はともかく、そなたの身が心配だ」
「は、はい……」
美夜は実を言うと、もう少し信長とのこのデートのような時間を楽しみたかった。
けれども、背後がざわざわと騒がしくなってきたので、きっと信長が町に降りてきていることに他の者たちも気づき始めたのだろうと思う。
もう背後を振り返る暇もなく、信長に手を引かれるままに美夜は真っ直ぐに城へと戻った。
城に戻った美夜は、着替えを終えると、さっそく髪飾りを各務野につけてもらった。
「とてもよくお似合いでございます」
各務野がそう言ってくれるので、ぼんやりと自分の姿が映る鏡を見てみたが、やはりこの時代の鏡は、美夜のいた時代のものほどよくは映らない。
でも、信長が選んで買い求めてくれたことが、美夜には嬉しかった。
(大切にしよう……この髪飾り……)
美夜が嬉しそうに髪飾りに触れているのを見て、各務野は微笑む。
「部屋の外で信長様がお待ちです。お声をおかけしてきますね」
部屋を出て行った各務野と入れ替えに、信長が部屋に入ってきた。
そして、髪飾りをつけた美夜を見たとたん、嬉しそうに笑った。
「やはり、よく似合うではないか」
「はい……えっと、その……ありがとうございます。こんな贈り物を男の人からされたことがないので、とても嬉しいです。大切にしますね」
「うむ。俺も女子にこのような贈り物をするのは初めての経験だった」
そういえば……と美夜は初めて信長からもらった『贈り物』のことを思いだし、笑いが止まらなくなってしまった。
信長が戸惑うように笑いの止まらない美夜を見ている。
「な、何を笑っておるのだ、帰蝶? 俺にも教えよ」
「信長様に初めてもらった贈り物は、ドジョウだったなって思いだして……すごくおかしくなってしまって……」
美夜が目に涙をためて笑っているのを見て、信長も笑い出した。
「そうだな。今思えば、初対面にドジョウは少し良くなかった」
信長は罰が悪そうに言ったが、美夜はさらに笑いが止まらなくなった。
「そなたがそんなに笑うのを見るのは、初めてのことだな」
「そういえば……そうかも……」
美夜も自分がこんなに笑うのは久しぶりだと、信長に指摘されて気づいた。
笑うことがなかったということはないが、ここに来るまで本当にいろんな事がありすぎて、こんなふうに笑いこけるということはなかったのだ。
「そなたは笑っておるほうが良い。俺も安心できる」
「信長様……」
信長は美夜を抱き寄せ、唇を重ねた。
それからまた少し日にちが過ぎ、朝晩がめっきり冷え込むようになった頃……。
信長の元に、ようやく美濃から戻った藤ノ助が姿を現した。
人払いをした城の中庭の一画で、信長は藤ノ助の報告を聞く。
「そうか……ご苦労だったな」
「いえ。もう少し時間をかけて調べれば核心まで迫れると思いますが、調査を続けますか?」
藤ノ助から問われた信長は少し考えてから、首を横に振る。
「いや、いい。そなたの今回の任はこれでしまいだ。下がって良い」
「……御意」
藤ノ助の気配が消えると、信長は珍しく大きなため息をついた。
「何かある……とは思うてはいたのだが……まさか、こういうことだったとはな……」
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第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
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