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第一章
身代わり濃姫(6)
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(ん……? 何かふわふわしてるものが顔に当たって……? な、何だろう、これ……毛布みたいな感触だけど……)
「え……」
目を開いた美夜の手が触れていたのは、白いふわふわとしたもの。それはもう冷たくて動いていない。だけど、これが何だかは美夜にはすぐに分かった。
「ひ……ぁ……? いやあああああ――っ!!!」
「き、貴重!?」
「な、何事でございますか、今の悲鳴は!?」
美夜の悲鳴に驚いた各務野が、入室の許可を得るのも忘れて部屋に飛び込んでくる。
美夜は各務野の身体にしがみついた。
「う、うさぎ……うさぎの死骸が……!!」
「う、うさぎでございますか……」
どこか拍子抜けしたような各務野の声。
美夜は枕元のほうを指出す。
「そ、そこに……枕元に……目を覚ましたらうさぎの死骸があって……うっ、ひっく……」
あまりの出来事に、美夜の目からは涙がこぼれ落ち、その身体は酷く震えてしまっている。
「信長様、いったい帰蝶様に何をなされたのです?」
厳しく問い詰める各務野の言葉で、美夜はようやく部屋に信長がいることに気づいた。
「俺は何もしていない。ただ、昨日の土産をと思ってだな……ドジョウは嫌がられたが、うさぎなら喜んでもらえるかと……」
信長の言い訳のような言葉を聞いて、各務野はため息に似た息を吐く。
「帰蝶様、大丈夫ですか? うさぎはもう死んでいます。何もしませんよ。それに、信長様もいたずらでしたことではないようです」
宥めるように各務野に言われ、美夜は信長を見た。
信長はばつが悪そうな顔をして美夜を見つめている。
「……ど、どうしてうさぎを殺したの?」
零れる涙を拭いながら美夜が聞くと、信長は怪訝そうな顔をする。
「うさぎの肉は美味い。見つけたら狩るのが当然だろう?」
「…………」
そうか……時代が違うんだ、ということを、美夜はようやく理解した。
美夜がいた世界でも、うさぎの肉は料理として食べられている。けれども、美夜はそれを食べたこともないし、食べたいと思ったこともなかった。
美夜にとって、うさぎは食材ではない。
美夜は小学生の時には飼育委員をしており、学校で飼っているうさぎの世話をしていたのだ。
野菜をあげると、小さな口をちょこちょこと動かして食べるその仕草が愛らしくて、いつまでも見ていたいと思ったほどだった。
そのうさぎが、自分への土産にされるために殺された……。
(ごめんね……私は食べないのに、殺されて……)
くたりと動かないうさぎに、美夜は心の中で謝罪する。
しかし、少し頭の冷えてきた今なら少し分かる。
この世界と美夜が住んでいた世界の状況は違うのだ。
美夜がいた世界はうさぎに餌をやり、愛玩することが許される食糧事情だったが、この時代の人たちにとっては、うさぎは貴重なたんぱく源なのだ。
美夜にそのことを非難したり蔑んだりすることはできないだろう。
美夜だってベジタリアンというわけではなく、肉を食すこともあったのだから。
「そうか。そなたはうさぎが嫌いなのだな」
信長の言葉に、美夜は首を横に振る。
「そ、そうじゃありません……」
「では、なぜそんなに泣くのだ?」
「せ、説明がとても難しいです……私にとってうさぎは……愛玩する動物だったので……」
すべてを信長に理解してもらうためには、美夜の事情を話す必要が出てくる。
けれども、今はまだその時期ではない。
それに、もしも美夜が偽物の帰蝶だと知れたら、とたんに兄の命が危うくなってしまうことだってあり得るのだ。
ともあれ、信長が枕元にうさぎの死骸を置いた理由も理解でき、美夜はようやく少し落ち着いて来た。
「あの、信長様……ひとつお願いがあるのですが」
「何だ? 言うてみよ」
「これからは生き物の死骸を枕元に置くのはやめていただけませんか? 毎回悲鳴をあげて各務野に心配をかけたくもないので……」
美夜がそう告げると、信長は戸惑う顔を見せつつも頷いた。
「分かった。そなたが嫌なら、これからはやめる」
意外なほどに素直な信長の反応に、美夜はほっと胸をなで下ろした。
信長がどこかから帰ってくるたびに驚かされてしまうのは、もうこりごりだ。
「ごめんなさい、各務野。もう大丈夫だから」
美夜がそう言って微笑むと、各務野も笑みを返してくれた。
「では、わたくしはいったん下がりますね。また刻限になりましたら、お支度のお手伝いに参りますので」
各務野はそう告げると、静かに襖をしめて部屋を出て行った。
信長と二人きり、部屋に取り残されてしまう。
部屋の中の明るさから察するに、どうやら今は夜が明けようとする頃のようだった。
まだ外は薄暗いが、真っ暗というわけではない。
つまり、信長は朝帰りだったということなのだろう。
「その……すまな……かった……」
信長が謝ったので、美夜は少し驚いた。
信長の教育係の政秀は、彼には謝るという習性がないと言っていたのだ。
だから、信長が謝ることなどないだろうと美夜は考えていた。
「い、いえ……私も……取り乱したりしてごめんなさい。お土産をくださろうとするお気持ちは、とても嬉しかったです。でも、これからは……たとえばお花とか、もしくは何か野菜や果物などをお土産にしていただけると嬉しいです」
「そ、そうか。そういうものなら、そなたは喜ぶのだな」
信長が少年っぽい笑みを浮かべてたのを見て、美夜は何となく微笑ましい気持ちになる。
(夫というより、年下の弟みたいだけど、けっこう素直で良いところもあるのね……)
そんなことを考えていると、信長が遠慮がちに告げてくる。
「そ、その……今日は二人で出かけぬか、帰蝶?」
「え? でも、たぶん私、たくさん予定があると思います。昨日もいろんなことを覚えなくちゃいけないってことを告げられたばかりだし。今日は今日でお城の中の別の場所を見て回るって聞いていますけど……」
「そんなものは、俺が言えば何とかなる。そなたも今日は休め。俺は昨日、さんざん遊んできたから良いが、そなたは昨日も休息していないのだろう?」
どうやら信長は美夜に気を遣ってくれているようだった。
正直に言って、信長の申し出はありがたかった。
少し気張らしするような時間が、確かに今の美夜には必要かもしれない。
「では、お言葉に甘えて、今日は信長様と一緒に休憩させていただきます」
「お、俺は今日は休憩ではない。そなたの案内役なのだからな」
あくまでも案内という仕事を自分はするのだと言い張る信長に、美夜は苦笑するしかない。
「はい。では、案内役をよろしくお願いいたしますね」
そんなにうまく話が行くものだろうかと美夜は半信半疑だったが、信長が申し出てくれたことで、美夜は城を出ることを許された。
ただ、信長と二人きりというわけにはやはり行かず、幾人かの家臣と、各務野を始めとする侍女が数名、付きそうことになった。
それでも、城で使用人たちから挨拶を受けて愛想笑いをしたり、信秀の妻たちの食事に付き合わされたり等するよりは、よほど気が楽だ。
それに今日はとても天気が良い。暑くもなく寒くもなく、ずっと外にいたいくらいに気持ちの良い気候だった。
(こんな日に外に出かけることができるなんて。今日ばかりは信長に感謝しないといけないわね……)
最初は馬に乗って出かけようという話にだったのだが、美夜が馬に乗ることができないので、徒歩で城の周辺を行けるところまで、ということになった。
城下の町をでると、街道が整備されており、旅人の姿や飛脚と思われる街道を行くプロのような人の姿も見えた。
何もかもが、美夜にはとても珍しい。
(この街道も、初めてお城に入るときや挨拶に回るときに通ったと思うけど。こうして何の目的もなく歩くと、ぜんぜん違う風景に見える……)
「帰蝶、そなた城で育ったくせに馬に乗れぬのか?」
「え、ええ……すみません……」
余計なことを言うと墓穴を掘りそうな気がしたので、美夜は謝罪だけをした。
ひょっとすると、本物の帰蝶は馬に乗ることができたのかもしれないが。
「では、俺が教えてやる。武士の妻なのだから、馬ぐらい乗れなくてはいざという時に困るぞ」
「そ、そうなんですか……教えていただけるなら、頑張って乗ってみようかと思いますけど」
信長に馬を教わりたい……というよりも、できれば城の雑事から少しでも解放されたいという意味で、その提案は美夜にとってありがたかった。
「俺は馬乗りは得意だからな。楽しみにしておれ」
どうしてこの若者はいちいち威張りたがるのだろうと美夜は思ったが、いずれ当主となるのだから、あまり謙虚すぎても人がついてこないのだろうなと美夜は自分を無理やり納得させた。
やがて見晴らしの良い河原にたどり着き、そこで昼食をとることになった。
厨房で働く者たちが朝早くから作ってくれた弁当は、握り飯に漬け物、魚の干物を焼いたものといった質素なものではあるが、外で食べる弁当はとても美味しかった。
信長は握り飯をあっという間に平らげてしまうと、川に石を投げて遊び始めた。
(まだ大人になりきれてない子どもって感じ……)
落ち着きがなくて粗野で、横暴で、威張りたがりで……。
彼を男として好きになれるかと問われれば、それはちょっと難しいと答えるしかない。
けれども、信長は美夜の夫だ。その現実は甘んじて受け入れるしかない。
美夜が信長の妻であり続けることと引き替えに、兄の雪春の身の安全が保証されているのだから。
(兄様……今頃どうしているのかしら……)
元の世界へ戻る方法を探りたくても、美夜は今の生活に慣れるために必死の毎日で、そんな余裕すらない。
ひょっとすると、雪春も同じような状況かもしれないが。
(でも兄様……私は絶対に諦めないから。兄様と一緒に、元いた世界に必ず戻るから――)
「帰蝶、これをやる」
石投げをしていたかと思えば、信長は今度は白くてふさふさした可愛らしい花を美夜に差し出してきた。
「ありがとう……ございます……」
さっそく、今朝の言葉を実行してくれたのかと、美夜は驚いた。
白いその花は、美夜のいた世界でも見たことのあるものだったが、名は何と言うのか忘れた。
(可愛い花……)
信長に渡された花を見ていると、気持ちが少し和んだ。
ふと気がつくと、信長はまた川のほうへ行き、今度は手に持った枝で川面をつついたりしている。
川の中に、魚か何かの姿を見つけたのかもしれない。
「それにしてもこの花……何て名前だったっけ?」
「白詰草でございますね」
「あ、そうそう、シロツメクサ! ありがとう、各務野。この花の名前を思い出すことができたわ」
確か、元の世界で美夜は、この花よりも、葉を探していた記憶がある。普通は三つ葉なのだが、たまに四つ葉のものがあるのだ。そして、四つ葉のものを見つければ、幸せになれると伝えられている。
(でも、花もこんなに可愛くて素敵……)
この世界には、四つ葉が貴重などという価値観がないから、信長は迷わずにこの白い花を摘んでくれたのだろう。
「信長様は困ったところも多い方ではありますが、本当に帰蝶様のことがお好きなのですね」
「えっ……?」
思わぬ事を各務野に言われ、美夜は少し慌ててしまう。
「す、素直なところはある人だと思う。だけど、これは今朝の罪滅ぼしのつもりじゃないのかしら?」
花を目の高さにあげながら美夜が言うと、各務野はくすりと微笑む。
「自分の妻にあのようにお優しい方は、日ノ本広しといえども、なかなかおりませんよ」
各務野がそう言うと、何だかとても現実的で、美夜はそれ以上反論する気持ちになれなかった。
(でも、信長が好きなのはきっと……本物の帰蝶さんのことよね)
美夜は心の中でそう納得させる。
道三も言っていた。信長は相当に帰蝶のことを気に入っていたようだと。だから、今さら別の人間を代わりにやるわけにもいかず、結婚の話をなかったことにもできないのだと。
(貴方は好きな人と死んで幸せだったのかしら? 信長と結婚しても、もしかしたら幸せになれたかもしれないのに――)
美夜は帰蝶に話しかけるように、空を見上げた。
白い雲に、青い空。
空は美夜のいた世界のものと、何一つ変わりないように見えた。
「え……」
目を開いた美夜の手が触れていたのは、白いふわふわとしたもの。それはもう冷たくて動いていない。だけど、これが何だかは美夜にはすぐに分かった。
「ひ……ぁ……? いやあああああ――っ!!!」
「き、貴重!?」
「な、何事でございますか、今の悲鳴は!?」
美夜の悲鳴に驚いた各務野が、入室の許可を得るのも忘れて部屋に飛び込んでくる。
美夜は各務野の身体にしがみついた。
「う、うさぎ……うさぎの死骸が……!!」
「う、うさぎでございますか……」
どこか拍子抜けしたような各務野の声。
美夜は枕元のほうを指出す。
「そ、そこに……枕元に……目を覚ましたらうさぎの死骸があって……うっ、ひっく……」
あまりの出来事に、美夜の目からは涙がこぼれ落ち、その身体は酷く震えてしまっている。
「信長様、いったい帰蝶様に何をなされたのです?」
厳しく問い詰める各務野の言葉で、美夜はようやく部屋に信長がいることに気づいた。
「俺は何もしていない。ただ、昨日の土産をと思ってだな……ドジョウは嫌がられたが、うさぎなら喜んでもらえるかと……」
信長の言い訳のような言葉を聞いて、各務野はため息に似た息を吐く。
「帰蝶様、大丈夫ですか? うさぎはもう死んでいます。何もしませんよ。それに、信長様もいたずらでしたことではないようです」
宥めるように各務野に言われ、美夜は信長を見た。
信長はばつが悪そうな顔をして美夜を見つめている。
「……ど、どうしてうさぎを殺したの?」
零れる涙を拭いながら美夜が聞くと、信長は怪訝そうな顔をする。
「うさぎの肉は美味い。見つけたら狩るのが当然だろう?」
「…………」
そうか……時代が違うんだ、ということを、美夜はようやく理解した。
美夜がいた世界でも、うさぎの肉は料理として食べられている。けれども、美夜はそれを食べたこともないし、食べたいと思ったこともなかった。
美夜にとって、うさぎは食材ではない。
美夜は小学生の時には飼育委員をしており、学校で飼っているうさぎの世話をしていたのだ。
野菜をあげると、小さな口をちょこちょこと動かして食べるその仕草が愛らしくて、いつまでも見ていたいと思ったほどだった。
そのうさぎが、自分への土産にされるために殺された……。
(ごめんね……私は食べないのに、殺されて……)
くたりと動かないうさぎに、美夜は心の中で謝罪する。
しかし、少し頭の冷えてきた今なら少し分かる。
この世界と美夜が住んでいた世界の状況は違うのだ。
美夜がいた世界はうさぎに餌をやり、愛玩することが許される食糧事情だったが、この時代の人たちにとっては、うさぎは貴重なたんぱく源なのだ。
美夜にそのことを非難したり蔑んだりすることはできないだろう。
美夜だってベジタリアンというわけではなく、肉を食すこともあったのだから。
「そうか。そなたはうさぎが嫌いなのだな」
信長の言葉に、美夜は首を横に振る。
「そ、そうじゃありません……」
「では、なぜそんなに泣くのだ?」
「せ、説明がとても難しいです……私にとってうさぎは……愛玩する動物だったので……」
すべてを信長に理解してもらうためには、美夜の事情を話す必要が出てくる。
けれども、今はまだその時期ではない。
それに、もしも美夜が偽物の帰蝶だと知れたら、とたんに兄の命が危うくなってしまうことだってあり得るのだ。
ともあれ、信長が枕元にうさぎの死骸を置いた理由も理解でき、美夜はようやく少し落ち着いて来た。
「あの、信長様……ひとつお願いがあるのですが」
「何だ? 言うてみよ」
「これからは生き物の死骸を枕元に置くのはやめていただけませんか? 毎回悲鳴をあげて各務野に心配をかけたくもないので……」
美夜がそう告げると、信長は戸惑う顔を見せつつも頷いた。
「分かった。そなたが嫌なら、これからはやめる」
意外なほどに素直な信長の反応に、美夜はほっと胸をなで下ろした。
信長がどこかから帰ってくるたびに驚かされてしまうのは、もうこりごりだ。
「ごめんなさい、各務野。もう大丈夫だから」
美夜がそう言って微笑むと、各務野も笑みを返してくれた。
「では、わたくしはいったん下がりますね。また刻限になりましたら、お支度のお手伝いに参りますので」
各務野はそう告げると、静かに襖をしめて部屋を出て行った。
信長と二人きり、部屋に取り残されてしまう。
部屋の中の明るさから察するに、どうやら今は夜が明けようとする頃のようだった。
まだ外は薄暗いが、真っ暗というわけではない。
つまり、信長は朝帰りだったということなのだろう。
「その……すまな……かった……」
信長が謝ったので、美夜は少し驚いた。
信長の教育係の政秀は、彼には謝るという習性がないと言っていたのだ。
だから、信長が謝ることなどないだろうと美夜は考えていた。
「い、いえ……私も……取り乱したりしてごめんなさい。お土産をくださろうとするお気持ちは、とても嬉しかったです。でも、これからは……たとえばお花とか、もしくは何か野菜や果物などをお土産にしていただけると嬉しいです」
「そ、そうか。そういうものなら、そなたは喜ぶのだな」
信長が少年っぽい笑みを浮かべてたのを見て、美夜は何となく微笑ましい気持ちになる。
(夫というより、年下の弟みたいだけど、けっこう素直で良いところもあるのね……)
そんなことを考えていると、信長が遠慮がちに告げてくる。
「そ、その……今日は二人で出かけぬか、帰蝶?」
「え? でも、たぶん私、たくさん予定があると思います。昨日もいろんなことを覚えなくちゃいけないってことを告げられたばかりだし。今日は今日でお城の中の別の場所を見て回るって聞いていますけど……」
「そんなものは、俺が言えば何とかなる。そなたも今日は休め。俺は昨日、さんざん遊んできたから良いが、そなたは昨日も休息していないのだろう?」
どうやら信長は美夜に気を遣ってくれているようだった。
正直に言って、信長の申し出はありがたかった。
少し気張らしするような時間が、確かに今の美夜には必要かもしれない。
「では、お言葉に甘えて、今日は信長様と一緒に休憩させていただきます」
「お、俺は今日は休憩ではない。そなたの案内役なのだからな」
あくまでも案内という仕事を自分はするのだと言い張る信長に、美夜は苦笑するしかない。
「はい。では、案内役をよろしくお願いいたしますね」
そんなにうまく話が行くものだろうかと美夜は半信半疑だったが、信長が申し出てくれたことで、美夜は城を出ることを許された。
ただ、信長と二人きりというわけにはやはり行かず、幾人かの家臣と、各務野を始めとする侍女が数名、付きそうことになった。
それでも、城で使用人たちから挨拶を受けて愛想笑いをしたり、信秀の妻たちの食事に付き合わされたり等するよりは、よほど気が楽だ。
それに今日はとても天気が良い。暑くもなく寒くもなく、ずっと外にいたいくらいに気持ちの良い気候だった。
(こんな日に外に出かけることができるなんて。今日ばかりは信長に感謝しないといけないわね……)
最初は馬に乗って出かけようという話にだったのだが、美夜が馬に乗ることができないので、徒歩で城の周辺を行けるところまで、ということになった。
城下の町をでると、街道が整備されており、旅人の姿や飛脚と思われる街道を行くプロのような人の姿も見えた。
何もかもが、美夜にはとても珍しい。
(この街道も、初めてお城に入るときや挨拶に回るときに通ったと思うけど。こうして何の目的もなく歩くと、ぜんぜん違う風景に見える……)
「帰蝶、そなた城で育ったくせに馬に乗れぬのか?」
「え、ええ……すみません……」
余計なことを言うと墓穴を掘りそうな気がしたので、美夜は謝罪だけをした。
ひょっとすると、本物の帰蝶は馬に乗ることができたのかもしれないが。
「では、俺が教えてやる。武士の妻なのだから、馬ぐらい乗れなくてはいざという時に困るぞ」
「そ、そうなんですか……教えていただけるなら、頑張って乗ってみようかと思いますけど」
信長に馬を教わりたい……というよりも、できれば城の雑事から少しでも解放されたいという意味で、その提案は美夜にとってありがたかった。
「俺は馬乗りは得意だからな。楽しみにしておれ」
どうしてこの若者はいちいち威張りたがるのだろうと美夜は思ったが、いずれ当主となるのだから、あまり謙虚すぎても人がついてこないのだろうなと美夜は自分を無理やり納得させた。
やがて見晴らしの良い河原にたどり着き、そこで昼食をとることになった。
厨房で働く者たちが朝早くから作ってくれた弁当は、握り飯に漬け物、魚の干物を焼いたものといった質素なものではあるが、外で食べる弁当はとても美味しかった。
信長は握り飯をあっという間に平らげてしまうと、川に石を投げて遊び始めた。
(まだ大人になりきれてない子どもって感じ……)
落ち着きがなくて粗野で、横暴で、威張りたがりで……。
彼を男として好きになれるかと問われれば、それはちょっと難しいと答えるしかない。
けれども、信長は美夜の夫だ。その現実は甘んじて受け入れるしかない。
美夜が信長の妻であり続けることと引き替えに、兄の雪春の身の安全が保証されているのだから。
(兄様……今頃どうしているのかしら……)
元の世界へ戻る方法を探りたくても、美夜は今の生活に慣れるために必死の毎日で、そんな余裕すらない。
ひょっとすると、雪春も同じような状況かもしれないが。
(でも兄様……私は絶対に諦めないから。兄様と一緒に、元いた世界に必ず戻るから――)
「帰蝶、これをやる」
石投げをしていたかと思えば、信長は今度は白くてふさふさした可愛らしい花を美夜に差し出してきた。
「ありがとう……ございます……」
さっそく、今朝の言葉を実行してくれたのかと、美夜は驚いた。
白いその花は、美夜のいた世界でも見たことのあるものだったが、名は何と言うのか忘れた。
(可愛い花……)
信長に渡された花を見ていると、気持ちが少し和んだ。
ふと気がつくと、信長はまた川のほうへ行き、今度は手に持った枝で川面をつついたりしている。
川の中に、魚か何かの姿を見つけたのかもしれない。
「それにしてもこの花……何て名前だったっけ?」
「白詰草でございますね」
「あ、そうそう、シロツメクサ! ありがとう、各務野。この花の名前を思い出すことができたわ」
確か、元の世界で美夜は、この花よりも、葉を探していた記憶がある。普通は三つ葉なのだが、たまに四つ葉のものがあるのだ。そして、四つ葉のものを見つければ、幸せになれると伝えられている。
(でも、花もこんなに可愛くて素敵……)
この世界には、四つ葉が貴重などという価値観がないから、信長は迷わずにこの白い花を摘んでくれたのだろう。
「信長様は困ったところも多い方ではありますが、本当に帰蝶様のことがお好きなのですね」
「えっ……?」
思わぬ事を各務野に言われ、美夜は少し慌ててしまう。
「す、素直なところはある人だと思う。だけど、これは今朝の罪滅ぼしのつもりじゃないのかしら?」
花を目の高さにあげながら美夜が言うと、各務野はくすりと微笑む。
「自分の妻にあのようにお優しい方は、日ノ本広しといえども、なかなかおりませんよ」
各務野がそう言うと、何だかとても現実的で、美夜はそれ以上反論する気持ちになれなかった。
(でも、信長が好きなのはきっと……本物の帰蝶さんのことよね)
美夜は心の中でそう納得させる。
道三も言っていた。信長は相当に帰蝶のことを気に入っていたようだと。だから、今さら別の人間を代わりにやるわけにもいかず、結婚の話をなかったことにもできないのだと。
(貴方は好きな人と死んで幸せだったのかしら? 信長と結婚しても、もしかしたら幸せになれたかもしれないのに――)
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