92 / 109
第四章
身代わり濃姫(91)
しおりを挟む
雪春たちが清洲にやって来たのは、弥生の始め……まだ風は冷たいが、よく晴れて日の当たる場所にいると暖かくも感じるような日だった。
律を輿に乗せての移動だったので少し時間はかかったものの、途中、律も体調を崩したりすることなく、元気に清洲の町に入った。
「聞いてはいたけど、すごく賑やかな町……」
「本当ですね。堺もとても賑やかでしたけど、この町は何だか不思議な明るさがあるような気がします」
牛丸の言っていることと同じことを、清洲城へ向かいながら雪春も感じていた。
こういう場所にいるのなら、きっと美夜も大丈夫だろうと、そんな安堵感も雪春は感じた。
やがて城門が見えてくると、迎えの者たちの姿が雪春の目にも見え、その中に会いたくて堪らなかった懐かしい姿を見つけた。
雪春は気がつけば駆けだしていた。
美夜も歩きながらではあるが、雪春のもとに向かってきた。
その美夜の身体を、雪春は何も言わずに抱きしめた。
「兄様……会いたかったです……」
「俺もだ……ずっとお前のことを心配していた……」
いきなり二人が引き離されてからすでに十ヶ月が経とうとしていた。
それまでは数日離れることさえ稀だったことを思うと、お互いによくここまで来ることができたと思う気持ちがあった。
後はもう言葉にならず、二人は互いの無事を確かめ合うように、しばらく抱擁を続けた。
やがてようやくその身体を離すと、雪春は改めて美夜を見た。
「手紙でも報せてくれていたが、幸せそうで良かった」
美夜も改めて、兄の顔を見上げる。
以前に比べると、随分と雰囲気が変わった気がするけど、やはりそこにいるのは、美夜が幼い頃から知っている兄の雪春だった。
「最初はどうなるかと思ったけど……でも、信長様がいつも優しくしくれるから……とても幸せです」
「そうか……信長殿に感謝しなくてはならないな」
「後で信長様ともお話ししてみてください。きっと兄様とも話が合うと思うから。あ、別に今日でなくても、いつでも、兄様が話したいと思ったときにでも」
「そうだな……それはそうと美夜……太ったか?」
「…………!!!」
唐突な雪春の言葉に衝撃を受け、美夜は改めて自分の身体を確かめるように見回した。
毎日会っている信長とは違い、十ヶ月も会わなかった雪春には、美夜の身体の変化が分かってしまうのだろうか……。
ここのところは何とか食事も節制し、自分なりに努力をしていたつもりではあったが。
「ダイエット……頑張ってるんだけど、やっぱり太ったと思う?」
「まあ、少しはな。だが、出産を控えているのだから、そのぐらいが良いのかもしれない。それにお前は元々食が細いのが心配だったし」
「でも、太りすぎも良くないみたいだから、もっと動いたり食べる量を加減したりしないと駄目かも……お産って、本当にいろんな身体の変化があるのね……」
美夜がため息をつくと、雪春は笑った。
「そんなに深刻に考えなくても、信長殿が呆れて見放さない程度に保っておけばいいじゃないのか?」
「そ、そうかな……うん、そうよね……」
せっかく久しぶりの感動の再会を終えたところなのに、身内の言葉というのは本当に容赦がない……と美夜は思った。
だけど、そういう容赦のない言葉が懐かしくてとても温かい……。
そんな感慨にふけっていると、雪春が美夜の背後に向かって頭を下げた。
美夜が慌てて振り返ると、信長がそこに立っていた。
「妹がお世話になっています」
雪春がそう礼儀正しく挨拶するのに、美夜は少し驚いた。
手紙のやりとりなどから、雪春はすでに信長が美夜の夫であることを認めていることは分かっていたが、その態度からは信長に対していささかも悪い気持ちは持っていないように感じられた。
実は美夜は、昔から美夜に近づく男たちを容赦なく排除してきた雪春が、信長に対してそっけない態度を取ってしまうのではないかということを密かに心配していたのだ。
でも、どうやらそうした心配も必要がないようだった。
「いや、こちらこそ、美夜にはいつも助けられてばかりです。義兄上の話も、美夜からよく聞きました。もっと早く清洲にお招きするべきでしたが、遅くなり申し訳ない……」
「いえ、さまざまな事情は理解していますし、こうしていろいろ気遣っていただいたことには、本当に感謝しています」
年下の男である信長に対して、雪春は最大限の礼を尽くしている……美夜はそう思い、やはり兄の中にもさまざまな変化があったのだということを感じ取った。
「美夜、積もる話もあろうが、ひとまず城の中へ義兄上をご案内してさしあげると良い。身重の奥方もおられるのだから」
「はい、信長様」
信長の言葉に美夜が素直に微笑んで頷くのを、雪春は自分でも不思議なほどに微笑ましい気持ちで見守っていた。
ひとまず、雪春たちは美夜に案内され、城内の今後の生活の場へと案内された。
すっかり準備の整った住まいに雪春たちを案内した美夜は、たどり着いた部屋の襖を開け放つ。
そこには広々とした庭が広がっていた。
「ここが日当たりも良くて、広々としていて、それでいて安全な場所だからって信長様が決めてくれたんです。どうですか、兄様?」
美夜が振り返って問うと、雪春は苦笑する。
「贅沢すぎるぐらいの住み処だな。堺にいた頃は、三人で二間の長屋で暮らしていたから」
「でも、あの長屋は雰囲気が良くてとても好きでした。確かに狭かったですけど、でも、狭いのには狭いなりの良さがありましたよね」
律が言うと、雪春も微笑んで頷いた。
その二人の雰囲気は、美夜も驚くほどに自然に『夫婦』という感じがした。
「兄様、改めて奥様とご家族を紹介していただけますか?」
先ほど律と牛丸に簡単な挨拶は済ませたものの、城の外ということだったので、きちんとした紹介はしてもらってなかったのだ。
「あ、ああ、そうだったな。俺の妻の律とその弟の牛丸だ」
雪春は慌てて、律と牛丸を紹介する。
「お二人のことは、兄様からの手紙や信長様を通して聞いています。はじめまして」
美夜がそう挨拶をすると、牛丸は慌てて頭を大きく下げ、律も丁寧に会釈をした。
律は顔を上げると、微笑みながら美夜を見つめてくる。
「私も……帰蝶様のことは雪春様からいつも聞いていました。いつかお会いしたいと思っていましたので、こうしてお会いできてとても嬉しいです」
穏やかにそう告げてくる律は、見た目はあどけない雰囲気があるものの、美夜が想像していたよりもしっかりとした娘で、この娘ならば、安心して大切な兄を任せることができる……そう素直に思えた。
(兄様はちょっと気むずかしすぎるところがあるけど、でも、律さんなら心配ないかも……)
義姉になる律と会うまでは少し不安も感じていた美夜だったが、今はすっかり安堵し、兄に対するさまざまな心配も吹き飛んだ気分だった。
美夜は牛丸にも声をかける。
「牛丸さんもよろしくね。勉強が好きって聞いているけど、ここには良い先生がたくさんいるし、信長様は勉強熱心な子が好きだから、いくらでも好きなだけ勉強してください」
美夜がそう言うと、牛丸は少し顔を赤くして頷いた。
「はい、ありがとうございます。勉強は堺では義兄上がずっと教えてくださっていたので、とても助かっていました。今後も与えていただいた環境に感謝しながら、さらに精進に努めます」
牛丸の素直で謙虚な言葉だったが、その中に美夜としては少し驚いてしまう部分があった。
「兄様、牛丸さんに勉強を教えてたの?」
「まあ、勉強といっても、中学レベル程度のものだが」
「程度の問題じゃなくて、兄様が年下の男の子に勉強を教えてたってことに驚いちゃった……」
美夜がいた世界での雪春は、昔から男子に対してはとても冷たく、美夜も滅多なことではクラスメートさえ紹介することができない状態だったのに……。
(人って……変われば変わるものなのね……)
美夜は心の中でそう思ったが、それ以上は何も言わなかった。
その後はお茶を入れて、しばらくのんびりと、堺の話を聞いたりして時間を過ごした。
そして、ふと思い出したことを兄に聞いてみた。
「そういえば、兄様に聞きたいことがあったのだけど……竹千代って名前に覚えはある?」
美夜がそう聞くと、雪春はすぐに思い当たったようだ。
「ああ、松平竹千代か?」
「そうそう。その人。どこかで聞いたことがある名前だって、ずっと気になってたんだけど」
「松平竹千代は後の徳川家康だ」
雪春のその言葉に、美夜は思わず部屋に響き渡るような声をあげてしまった。
「ええええっ! そ、そうだったのね……あの竹千代さんが徳川家康に……」
「徳川家康って、どなたですか?」
牛丸が聞いてくるので、美夜と雪春は顔を見合わせて苦笑する。
「えっと……私たちの世界ではとても有名な人なんだけど……」
「まあ、詳しいことは言わない方がいいだろうな。すでにこの世界の歴史はいろいろ変わっている可能性がある。現に、お前が妊娠していることがその証明でもあるわけだしな」
「そ、そうね……」
美夜の知る歴史では、信長が成し遂げることのできなかった天下の統一を豊臣秀吉が成し遂げた後、江戸時代という三百年も続く時代の礎を作った人物ではあるが……。
それをあえてこの時代の人に言う必要は、兄の言うとおり確かにないのだろうと美夜は思った。
その夜、美夜は信長と床を共にし、兄との再会のあれこれの話を、信長に聞かせていた。
信長は今日は一日、雪春たちの部屋にはやってこなかったが、少し落ち着いたら、みんなでゆっくりお茶でも飲みながら話ができると良いなと美夜は思う。
「ようやく義兄上と会わせてやることができて本当に良かった……」
「はい。ありがとうございます、信長様。兄様も信長様が細かく私の状況とかと伝えてくださっていたことにとても感謝していました」
美夜がそう報告すると、信長は笑う。
「義兄上は聡明で良い方だな」
「そうですね。でも、兄様は私の知っている兄様と随分と雰囲気が変わっていました。それもすごく良い風に。きっと奥様の律さんが、兄様を変えてくれたのかなって思いました」
「かもしれぬな。女子によって男は変わる……それをもっとも実感しているのは他ならぬ俺だな」
「そうなんですか?」
美夜が驚いて聞くと、信長は生真面目な顔をして頷いた。
「俺自身を変えるものは誰もおらぬだろうと思っていたが……そなたと出会ってから、俺は自分でも驚くほどに変わったと思うぞ」
「それはその……良い風に……ですよね?」
美夜が上目遣いに聞くと、信長はきっぱりと頷いた。
「当然だ。そなたが俺を良い風に変えたのだ」
「だったら嬉しいです……私も信長様と出会って、たくさん良い風に変わったと思います」
美夜がそう言うと、信長は首をかしげた。
「そなたはさほど変わっていない気もするが……」
「え? それは私に成長がないってことですか?」
美夜の言葉に信長は慌てて言葉を付け足した。
「そ、そういう意味ではない……そなたは元からそなたのままで……さまざまに成長したところはあっただろうが、その根源となるものは変わっておらぬ。俺もそれを望んでおるし、そなたは無理をして変わらずとも良い」
信長はそう告げて唇を重ねてくる。
接吻を解いた信長は、美夜の身体に改めて布団をかぶせる。
「今日は義兄上たちの出迎えもあり疲れただろう。もう休むと良い」
「は、はい、あの……の、信長様……」
「何だ?」
「その……お医者様からそろそろ夜のこともして良いと許可が出たんですけど……」
美夜がそう言うと、信長は笑みを浮かべながら顔を近づけてくる。
「それは、催促と受け止めても良いのか?」
「え? あ、あの……は、はい……催促……しています……」
美夜が顔を赤らめながら頷くと、信長は再び布団を持ち上げて美夜の身体を抱きしめてきた。
そして、今度は先ほどよりもさらに深い接吻を繰り返しながら、美夜は久しぶりに信長の熱い熱の塊を受け入れていったのだった。
律を輿に乗せての移動だったので少し時間はかかったものの、途中、律も体調を崩したりすることなく、元気に清洲の町に入った。
「聞いてはいたけど、すごく賑やかな町……」
「本当ですね。堺もとても賑やかでしたけど、この町は何だか不思議な明るさがあるような気がします」
牛丸の言っていることと同じことを、清洲城へ向かいながら雪春も感じていた。
こういう場所にいるのなら、きっと美夜も大丈夫だろうと、そんな安堵感も雪春は感じた。
やがて城門が見えてくると、迎えの者たちの姿が雪春の目にも見え、その中に会いたくて堪らなかった懐かしい姿を見つけた。
雪春は気がつけば駆けだしていた。
美夜も歩きながらではあるが、雪春のもとに向かってきた。
その美夜の身体を、雪春は何も言わずに抱きしめた。
「兄様……会いたかったです……」
「俺もだ……ずっとお前のことを心配していた……」
いきなり二人が引き離されてからすでに十ヶ月が経とうとしていた。
それまでは数日離れることさえ稀だったことを思うと、お互いによくここまで来ることができたと思う気持ちがあった。
後はもう言葉にならず、二人は互いの無事を確かめ合うように、しばらく抱擁を続けた。
やがてようやくその身体を離すと、雪春は改めて美夜を見た。
「手紙でも報せてくれていたが、幸せそうで良かった」
美夜も改めて、兄の顔を見上げる。
以前に比べると、随分と雰囲気が変わった気がするけど、やはりそこにいるのは、美夜が幼い頃から知っている兄の雪春だった。
「最初はどうなるかと思ったけど……でも、信長様がいつも優しくしくれるから……とても幸せです」
「そうか……信長殿に感謝しなくてはならないな」
「後で信長様ともお話ししてみてください。きっと兄様とも話が合うと思うから。あ、別に今日でなくても、いつでも、兄様が話したいと思ったときにでも」
「そうだな……それはそうと美夜……太ったか?」
「…………!!!」
唐突な雪春の言葉に衝撃を受け、美夜は改めて自分の身体を確かめるように見回した。
毎日会っている信長とは違い、十ヶ月も会わなかった雪春には、美夜の身体の変化が分かってしまうのだろうか……。
ここのところは何とか食事も節制し、自分なりに努力をしていたつもりではあったが。
「ダイエット……頑張ってるんだけど、やっぱり太ったと思う?」
「まあ、少しはな。だが、出産を控えているのだから、そのぐらいが良いのかもしれない。それにお前は元々食が細いのが心配だったし」
「でも、太りすぎも良くないみたいだから、もっと動いたり食べる量を加減したりしないと駄目かも……お産って、本当にいろんな身体の変化があるのね……」
美夜がため息をつくと、雪春は笑った。
「そんなに深刻に考えなくても、信長殿が呆れて見放さない程度に保っておけばいいじゃないのか?」
「そ、そうかな……うん、そうよね……」
せっかく久しぶりの感動の再会を終えたところなのに、身内の言葉というのは本当に容赦がない……と美夜は思った。
だけど、そういう容赦のない言葉が懐かしくてとても温かい……。
そんな感慨にふけっていると、雪春が美夜の背後に向かって頭を下げた。
美夜が慌てて振り返ると、信長がそこに立っていた。
「妹がお世話になっています」
雪春がそう礼儀正しく挨拶するのに、美夜は少し驚いた。
手紙のやりとりなどから、雪春はすでに信長が美夜の夫であることを認めていることは分かっていたが、その態度からは信長に対していささかも悪い気持ちは持っていないように感じられた。
実は美夜は、昔から美夜に近づく男たちを容赦なく排除してきた雪春が、信長に対してそっけない態度を取ってしまうのではないかということを密かに心配していたのだ。
でも、どうやらそうした心配も必要がないようだった。
「いや、こちらこそ、美夜にはいつも助けられてばかりです。義兄上の話も、美夜からよく聞きました。もっと早く清洲にお招きするべきでしたが、遅くなり申し訳ない……」
「いえ、さまざまな事情は理解していますし、こうしていろいろ気遣っていただいたことには、本当に感謝しています」
年下の男である信長に対して、雪春は最大限の礼を尽くしている……美夜はそう思い、やはり兄の中にもさまざまな変化があったのだということを感じ取った。
「美夜、積もる話もあろうが、ひとまず城の中へ義兄上をご案内してさしあげると良い。身重の奥方もおられるのだから」
「はい、信長様」
信長の言葉に美夜が素直に微笑んで頷くのを、雪春は自分でも不思議なほどに微笑ましい気持ちで見守っていた。
ひとまず、雪春たちは美夜に案内され、城内の今後の生活の場へと案内された。
すっかり準備の整った住まいに雪春たちを案内した美夜は、たどり着いた部屋の襖を開け放つ。
そこには広々とした庭が広がっていた。
「ここが日当たりも良くて、広々としていて、それでいて安全な場所だからって信長様が決めてくれたんです。どうですか、兄様?」
美夜が振り返って問うと、雪春は苦笑する。
「贅沢すぎるぐらいの住み処だな。堺にいた頃は、三人で二間の長屋で暮らしていたから」
「でも、あの長屋は雰囲気が良くてとても好きでした。確かに狭かったですけど、でも、狭いのには狭いなりの良さがありましたよね」
律が言うと、雪春も微笑んで頷いた。
その二人の雰囲気は、美夜も驚くほどに自然に『夫婦』という感じがした。
「兄様、改めて奥様とご家族を紹介していただけますか?」
先ほど律と牛丸に簡単な挨拶は済ませたものの、城の外ということだったので、きちんとした紹介はしてもらってなかったのだ。
「あ、ああ、そうだったな。俺の妻の律とその弟の牛丸だ」
雪春は慌てて、律と牛丸を紹介する。
「お二人のことは、兄様からの手紙や信長様を通して聞いています。はじめまして」
美夜がそう挨拶をすると、牛丸は慌てて頭を大きく下げ、律も丁寧に会釈をした。
律は顔を上げると、微笑みながら美夜を見つめてくる。
「私も……帰蝶様のことは雪春様からいつも聞いていました。いつかお会いしたいと思っていましたので、こうしてお会いできてとても嬉しいです」
穏やかにそう告げてくる律は、見た目はあどけない雰囲気があるものの、美夜が想像していたよりもしっかりとした娘で、この娘ならば、安心して大切な兄を任せることができる……そう素直に思えた。
(兄様はちょっと気むずかしすぎるところがあるけど、でも、律さんなら心配ないかも……)
義姉になる律と会うまでは少し不安も感じていた美夜だったが、今はすっかり安堵し、兄に対するさまざまな心配も吹き飛んだ気分だった。
美夜は牛丸にも声をかける。
「牛丸さんもよろしくね。勉強が好きって聞いているけど、ここには良い先生がたくさんいるし、信長様は勉強熱心な子が好きだから、いくらでも好きなだけ勉強してください」
美夜がそう言うと、牛丸は少し顔を赤くして頷いた。
「はい、ありがとうございます。勉強は堺では義兄上がずっと教えてくださっていたので、とても助かっていました。今後も与えていただいた環境に感謝しながら、さらに精進に努めます」
牛丸の素直で謙虚な言葉だったが、その中に美夜としては少し驚いてしまう部分があった。
「兄様、牛丸さんに勉強を教えてたの?」
「まあ、勉強といっても、中学レベル程度のものだが」
「程度の問題じゃなくて、兄様が年下の男の子に勉強を教えてたってことに驚いちゃった……」
美夜がいた世界での雪春は、昔から男子に対してはとても冷たく、美夜も滅多なことではクラスメートさえ紹介することができない状態だったのに……。
(人って……変われば変わるものなのね……)
美夜は心の中でそう思ったが、それ以上は何も言わなかった。
その後はお茶を入れて、しばらくのんびりと、堺の話を聞いたりして時間を過ごした。
そして、ふと思い出したことを兄に聞いてみた。
「そういえば、兄様に聞きたいことがあったのだけど……竹千代って名前に覚えはある?」
美夜がそう聞くと、雪春はすぐに思い当たったようだ。
「ああ、松平竹千代か?」
「そうそう。その人。どこかで聞いたことがある名前だって、ずっと気になってたんだけど」
「松平竹千代は後の徳川家康だ」
雪春のその言葉に、美夜は思わず部屋に響き渡るような声をあげてしまった。
「ええええっ! そ、そうだったのね……あの竹千代さんが徳川家康に……」
「徳川家康って、どなたですか?」
牛丸が聞いてくるので、美夜と雪春は顔を見合わせて苦笑する。
「えっと……私たちの世界ではとても有名な人なんだけど……」
「まあ、詳しいことは言わない方がいいだろうな。すでにこの世界の歴史はいろいろ変わっている可能性がある。現に、お前が妊娠していることがその証明でもあるわけだしな」
「そ、そうね……」
美夜の知る歴史では、信長が成し遂げることのできなかった天下の統一を豊臣秀吉が成し遂げた後、江戸時代という三百年も続く時代の礎を作った人物ではあるが……。
それをあえてこの時代の人に言う必要は、兄の言うとおり確かにないのだろうと美夜は思った。
その夜、美夜は信長と床を共にし、兄との再会のあれこれの話を、信長に聞かせていた。
信長は今日は一日、雪春たちの部屋にはやってこなかったが、少し落ち着いたら、みんなでゆっくりお茶でも飲みながら話ができると良いなと美夜は思う。
「ようやく義兄上と会わせてやることができて本当に良かった……」
「はい。ありがとうございます、信長様。兄様も信長様が細かく私の状況とかと伝えてくださっていたことにとても感謝していました」
美夜がそう報告すると、信長は笑う。
「義兄上は聡明で良い方だな」
「そうですね。でも、兄様は私の知っている兄様と随分と雰囲気が変わっていました。それもすごく良い風に。きっと奥様の律さんが、兄様を変えてくれたのかなって思いました」
「かもしれぬな。女子によって男は変わる……それをもっとも実感しているのは他ならぬ俺だな」
「そうなんですか?」
美夜が驚いて聞くと、信長は生真面目な顔をして頷いた。
「俺自身を変えるものは誰もおらぬだろうと思っていたが……そなたと出会ってから、俺は自分でも驚くほどに変わったと思うぞ」
「それはその……良い風に……ですよね?」
美夜が上目遣いに聞くと、信長はきっぱりと頷いた。
「当然だ。そなたが俺を良い風に変えたのだ」
「だったら嬉しいです……私も信長様と出会って、たくさん良い風に変わったと思います」
美夜がそう言うと、信長は首をかしげた。
「そなたはさほど変わっていない気もするが……」
「え? それは私に成長がないってことですか?」
美夜の言葉に信長は慌てて言葉を付け足した。
「そ、そういう意味ではない……そなたは元からそなたのままで……さまざまに成長したところはあっただろうが、その根源となるものは変わっておらぬ。俺もそれを望んでおるし、そなたは無理をして変わらずとも良い」
信長はそう告げて唇を重ねてくる。
接吻を解いた信長は、美夜の身体に改めて布団をかぶせる。
「今日は義兄上たちの出迎えもあり疲れただろう。もう休むと良い」
「は、はい、あの……の、信長様……」
「何だ?」
「その……お医者様からそろそろ夜のこともして良いと許可が出たんですけど……」
美夜がそう言うと、信長は笑みを浮かべながら顔を近づけてくる。
「それは、催促と受け止めても良いのか?」
「え? あ、あの……は、はい……催促……しています……」
美夜が顔を赤らめながら頷くと、信長は再び布団を持ち上げて美夜の身体を抱きしめてきた。
そして、今度は先ほどよりもさらに深い接吻を繰り返しながら、美夜は久しぶりに信長の熱い熱の塊を受け入れていったのだった。
0
お気に入りに追加
393
あなたにおすすめの小説

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

白い結婚は無理でした(涙)
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。
明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。
白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。
小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。
現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。
どうぞよろしくお願いいたします。


魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる