身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

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第四章

身代わり濃姫(90)

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 ――末森城の制圧から少しの時間がたった。
 末森城では、戦後の処理が淡々と進んでいた。
 まず、信行側の家臣については、そのほとんどはとがめなしとしたが、信行や土田御前どたごぜんに近かった者たちには厳しい取り調べを行い、これまでの幾度にもわたる信長への暗殺未遂、さらには帰蝶ルビの里帰りの際の襲撃や、先頃の誘拐などにどの程度信行や土田御前が関与していたのかについて問いただした。
 末森城に隠れていた菊池勝五郎きくちかつごろうに関しては、取り調べをおこなわず、処刑ということになった。
 先に降伏していた勝五郎の配下の者たちの証言だけで、勝五郎を裁くのは十分だったからだ。
 己の保身のために卑怯な手を使って信長の正室をさらったということ、さらには勝五郎の行動が、結果的に主君である斎藤道三を死に導いたということもあり、この罪に関しては見逃すことはできなかった。
 このことは美濃の斉藤家にも通達はしたが、今のところ、斉藤家からの返答はない。
 美濃を調べさせている者の報告によると、斎藤義龍よしたつは道三の跡を継いで国主とはなったが、国内の内紛が絶えず、その対応に追われているらしい。
 当面の間、美濃は落ち着かない状態が続きそうな気配がする。

 信行は現在、もっとも守りが堅く、情報が外にも漏れにくいということもあり、里に預けられている。
 信行の目付役として蔵ノ介が配置され、信行は蔵ノ介の監視下で、厳しい教育を受けつつ、里での日々を過ごしていた。
 信行自身は今もなお不満を述べ、里の者たちに命令して従わせようとしたり、里の女子に手を出そうとしたりするなどしているようだが、統制の行き届いた里の中では、信行は完全に無力だった。
 ただ、唯一の救いは、信行好みの「イキの良い女子おなご」がこの里には多くいることのようだった。
 今日も信行は、好みの娘を見つけ、声をかけたのだが……。
「お前はなかなか良い容姿をしているようですね。私の側室にしてあげても良いですよ」
 信行が声をかけたのは、この里で生まれ育った咲良さくらという名の娘だった。
「は? 何言ってんの?」
 咲良がにべもなく答えると、信行は大げさなほどに顔をしかめてみせる。
「そのような言葉使いは良くありません。私は織田信秀の子、信行なのですから」
「ここでは信行を特別扱いする必要はないって通達が来てるの! いい加減にあんたも自分の立場を理解したら?」
「わ、私を呼び捨てにするのですか!? 何という愚かなことを!」
「だから、ここではあんたも特別扱いしてもらえないんだってば。同じ年の子に比べてあんたは弱いんだから、こんなことしてる暇があれば、少しでも鍛錬したら?」
 愛想も何もなくそう告げて、咲良は信行に背を向け、立ち去ろうとする。
「ま、待ちなさい……そ、そのような言葉は後で後悔しますよ」
 信行は咲良の手を掴もうとしたが、触れることもできずに避けられてしまった。
「あたしに触るつもりなら、十日ほど寝込むのを覚悟してかかってきなさい。次は容赦しないわよ?」
 相手の少女が本気の戦闘態勢をとっているのを見て、信行は思わず怯んだ。
 ここへ来た当初も、女子に手を出そうとして投げ飛ばされて酷い怪我をし、それがようやく癒えたばかりだったのだ。
「あたしとやり合う覚悟もないくせに触ろうとするなんて、十年早いわよ!」
 咲良はそう告げると、乱暴な足取りで立ち去って行った。
「つまり……やり合う覚悟があれば、触っても良いということですか……」
 信行はそう呟いてみたものの、咲良とやり合おうと思えば、相当の鍛錬を積む必要がある、というぐらいのことは信行にも理解でき、大きなため息をついた。
 ここへ来るまでは、何をやっても上手く行っていた。
 けれども、ここへ来てからは、何をやっても上手くいかない。
 それは母がいないことが原因なのかもしれないと信行は考えている。
 信行は生まれてこの方、母とここまで長く離れていたということがなかった。
 だから、今起こっているさまざまな不具合は、すべてそのせいなのだろうという気がしてしまうのだ。
「信行、蔵ノ介さんが呼んでたよ」
 そう告げてきたのは、まだ十にも満たない少年だった。
「だから、私を許可もなく呼び捨てにするのはよしなさい!」
 女子ならともかく、年下の、しかも男に呼び捨てにされると、さすがに信行はかんに障るようだった。
「早く行かないと、また蔵ノ介さんに叱られるんじゃないの?」
 信行の怒りなどおかまいなしに少年は言うことだけ言って立ち去っていった。
 蔵ノ介は清洲きよす城に行っている時以外は、日に何度か信行に剣の稽古をつけたり、勉強を教えたりする。
 しかし、その指導は恐ろしいほどに厳しく、容赦のないものだったので、信行は蔵ノ介との時間がもっとも苦手だった。
「しかし、行かないとまた折檻せっかんを受けてしまいますから、仕方がないですね……」
 嫌だと言って拒絶することもできず、信行は今日も仕方なく蔵ノ介のもとへ向かうのだった。

 信行の母であり、信長の母でもある土田御前については、家臣たちの複数から、夫である信秀に毒を盛るように命じて殺したという証言を得たため、死罪は免れない状態になっている。
 ひとまずは、斉藤家との関係や、これまでのさまざまな謀略ぼうりゃくへの関わりを問いただしてから、刑を執行するということになった。
 こうした末森城の後始末のあれこれがようやく落ち着こうとする頃には、弥生やよいの月を迎えようとしていた。
 まだ寒い日が続き、雪の降る日もあるが、春のきざしが見え始める頃である。
 美夜みや悪阻つわりもすっかり落ち着き、今度は食欲が止まらない状態になり、かつていた時代で妊婦のダイエットについてのニュースを見たことのある美夜は、今度は食事を節制することに心を砕いていた。
 しかし、これがなかなか上手くいかず、美夜の食欲は生まれて初めてともいえるほどの威力を見せていた。
(さ、さすがに脂肪でぱんぱんになった身体を信長様に見せるわけにもいかないし……)
 もう少ししたら、夜のことも加減しながらしても良いという侍医の言葉もあるので、その時までにはお腹の中の子に気遣いながら、ダイエットにも励もうと考えている美夜だった。
(でも、信長様も最近はやっと元気になってきたみたいだし、良かった……)
 美夜は末森城での始末を終えて、信長が清洲に戻ってきたときのことを思い出した。
 信長の表情が落ち込んでいることに気づいた美夜は、信長とゆっくり話す時間をできるだけ持つようにした。
 戦のことも落ち着き、当面尾張おわりは安定するであろうという状況もあって、信長には久しぶりに時間ができていた。
 美夜はそんな信長から少しずつ話を聞き出し、末森城で母の土田御前と対面したときのことを聞いたのだった。
 美夜はあの日、信長がようやく重い口を開いて末森城での母の話をしてくれたことを思い出した。

 信長は美夜に、母のことを少しずつ語ってくれた。
「俺は母を久しぶりに見た時、殺したくないと思った……会うまでは、感情にまかせて斬ってしまうのではないかと心配していたが、そういう気持ちは不思議とわいてこなかったのだ……」
「そうだったんですね……でも、それなのにどうして信長様は落ち込んでいるのですか?」
 美夜が率直にそう聞くと、信長は苦笑しながら答えた。
「母上は俺を生んだときに、俺がいずれ母上を殺すだろうと思ったのだそうだ。生まれてくるときにも、母上を殺そうとしたから、と」
「え……」
 思いも寄らなかった信長の言葉に、美夜は言葉を失ってしまった。
 信長はさらに続けた。
乳母めのとから、母上は俺を産んでから体調がすぐれぬようになったために、俺は母上から離されて育てられたと聞いていた。だから母上は、俺を快く思っておられぬのかもしれぬが……俺とて母上を苦しませようと思って生まれてきたわけではないはずだ」
 信長のその言葉に、美夜は力強く頷いた。
「それはそうです。だって……赤ちゃんはお母さんのために生まれてくるんじゃないはずです。自分の人生を生きるために生まれてくるはずです。だから、出産は確かに辛いことかもしれないけれど、母親の役割は、赤ちゃんを無事に出してあげることで……それを殺そうとしただなんて……」
 そもそも出産というものに対する考え方が、土田御前は美夜とは違っているのかもしれない。
 土田御前が信行を長年にわたって支配したことからも分かるように、彼女は自分の道具として子が欲しかっただけだったのかもしれない……と美夜は思った。
「そなたがそう言ってくれると、俺も少しは救われるな……」
 信長はそう言って、力なく笑った。
(生まれてくるときのことなんて、本人にはどうしようもないことなのに……それを今になっても責めるなんて……)
 土田御前の心ない言葉に、美夜は激しい怒りを覚えた。
 美夜は信長の首に手を回して、その身体を抱きしめる。
「信長様が生まれてきてくれたことを喜んでいる人もたくさんいます。私もそうです。信長様が生まれてきてくれなければ、私はこんなに幸せじゃなかったはずです。だから……信長様……生まれてきてくださって、ありがとうございます」
「美夜……」
 信長は美夜の身体を抱きしめてくる。
 その背に美夜も手を回しながら、信長の震える身体をしっかりと受け止めた。

 ――その頃、堺の町では、雪春たちが清洲への移動のための荷物をまとめるために、忙しく動き回っていた。
「清洲へ行くのは初めてだから、とても楽しみです。どんなところなんでしょうね」
 弟の牛丸うしまるの言葉に、腹の膨らみがさらに目立ち始めてきたりつが笑う。
「そうね……私も初めてだから楽しみ。鷺山城の城下とは違うのかしら」
 律自身も荷物をまとめたり掃除をしたりと、せっせと動き回っている。
 そんな二人の様子を見守りながら、雪春も自分の荷物をまとめていた。
 そこには、信長や美夜から届いたいくつもの手紙もあった。
 このひと月あまりの間、清洲ばかりでなく、美濃でも大きな動きがあった。
 美濃の斎藤道三が息子の斎藤義龍によってたれたと聞いたときは、さすがに雪春も複雑な気持ちになった。
 道三とは幾度も顔を合わせ、言葉も交わしていたからだ。
 そして、何よりも、律と牛丸の家族が鷺山さぎやま城で働いていたので、その心配もあった。
 しかし、律と牛丸の家族は、鷺山城から逃れて現在は清洲に来ているというしらせが信長からあり、二人はほっと胸をなで下ろしていたのだ。
 そして、信長が率いる織田家にも大きな変化があった。
 まず、長く続いていた弟信行との争いには決着がついたということだった。
 織田家は今のところ、ひとつにまとまっており、信長の権力は安定している。
 その上に、信長によってとうとう尾張が平定へいていされたという報告ももたらされた。
 織田信長を、いずれ天下の統一を目指す歴史上の人物として知っている雪春からしてみれば、さほど驚くことではなかったが、その渦中に妹の美夜の存在があるというのは、何とも不思議な気持ちだった。
 そして、何よりも雪春を複雑な気持ちにさせているのは、美夜が信長の子を身ごもったという話だった。
 美夜の妊娠を知っても信長に対して複雑な気持ちを抱かなかったというのは、自分でも驚いたことだったが、医療技術の発達した世界に住んでいた美夜が、この世界で子を産むことへの心配が、雪春を複雑な気持ちにさせているのだった。
 妊娠が判明した時期から考えると、美夜は律のふた月から三月後に出産をすることになるのだが、短い期間に立て続けに身近な者の出産を見守らなければいけないということにも、雪春は少なくはない不安を感じている。
「雪春様、手が止まっていますよ」
「あ、す、すまない……」
 律に言われて、雪春は慌てて作業を再開した。
 その様子を見て、律は笑う。
「お茶を入れますから、少し休憩しましょうか。牛丸も疲れたでしょう?」
「はい。ちょうど私も休憩がしたいと思っていたところでした」
「藤ノ助さんも一緒にお茶をいかがですか?」
「はい、ありがとうございます。いただきます」
 部屋の隅のほうで雪春たちの邪魔をしないように控えていた藤ノ助だったが、遠慮なく相伴しょうばんに預かることにした。
 大役を与えられ、一時はどうなることかと思ったこともあったが、今回も何とか無事に主命を果たし終えることができそうだ……藤ノ助はようやくそんな安堵あんどを感じているのだった。
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