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第四章

身代わり濃姫(86)

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 信長は皆から少し離れた場所に立ち、鷺山さぎやま城のある方向を見つめる。
 道三は書状の中で、おそらくこれが届く頃には自らの命の決着を付けているであろうと書いていた。
 そして、小西隆信こにしたかのぶに託した言づてをさらに重ねるように、自分を助けようなどとは思わず、残った者たちのことを頼むということが切々と書かれてあった。
 また、今度のことは自らの義龍よしたつに対する認識の甘さが招いたことであること、だから自分の命に自分で決着を付けるのは当然のことであるが、これまで自分に仕えてくれた者たちを巻き込む必要はないということ。
 さらには、帰蝶きちょうが自分の娘の帰蝶ではないということまでが、その書状には打ち明けてあった。
 道三は信長がすでにその秘密を知っていることまでは知らないようで、帰蝶は実の娘とよく似た別人ではあるが、大切にしてやってもらいたいということ。
 そして信長のもとにいる帰蝶には義龍とは別の兄がいるが、できればその兄を見つけていつか帰蝶に合わせてやってもらいたいということまでが書かれてあった。
 最期になぜこのような告白を道三がしたのかは信長には理解できなかったが、道三は道三なりに、自分の娘の身代わりにした美夜みやのことを案じていたのかもしれないとも思った。
(人は最期にはごく普通の人間になるのかもしれぬな……)
 謀略に生きた道三の最期の文に、信長はさまざまなことを感じた。
 美夜にとっては道三は決して許すことのできない存在かもしれないが、信長にとって道三という人物は、子どもの頃からよく父の口からも聞かされていた名で、ある意味で憧れのようなものを抱いていた人物でもあった。
 そもそもの出自は信長のように大名家の生まれなどではないのに、道三は自身の力で美濃という大国を手に入れた。
 その方法は謀略ぼうりゃくと呼ばれ、正当な手続によるものではなかったかもしれないが、たとえ謀略であろうがなんであろうが、美濃を手に入れたのは斎藤道三の実力であることには違いない。
 そして、手に入れた美濃を、道三はこれまでよく治めてきた。
 ただ、戦の相性の悪い信長の父、信秀によってその権勢にも陰りが出始めたが、それでも道三の功績は決して小さくはない。
(できれば恩を返してから、逝ってもらいたかったのだがな……)
 信長は「受けた恩は必ず返せ」という教育を、父の信秀から受けてきた。
 それだけに、道三にその恩を返す機会を得ることができなかったのは、残念でならなかった。
 ただ、道三から託された者たちの行く末を守るということと、いずれ娘婿として道三の仇を討つということだけは、信長の中に確固たる決意として刻まれていった。
「信長様、出迎えに行く者の数と経路を確定しました」
 そう伝えてくる光秀の顔色は、いつもに増して悪かった。
 やはり身内である叔父の死……そして叔父に殉じたであろう叔母のことが、光秀にも堪えているに違いない。
「光秀、すまぬな……本来であれば、そなたは舅殿の元へ駆けつけたいであろうに……」
 光秀は笑みを浮かべ、首を横に振る。
「いえ、道三様から信長様に託されたことを成し遂げる手伝いをするのが、道三様の甥である私の役目かと考えております。ですから、どうか気になさらず」
「そうか……では、光秀に迎えの先導を頼もう。顔を知っているそなたが迎えに行けば、皆も安堵するだろう」
「はい。承知しました」
 光秀は目立たない程度の数を連れ、鷺山城から逃れてきた者たちを迎えに行った。
 やがて鷺山城から逃れてきた者たちを連れ、光秀が引き上げてきたのを確認し、信長らも清洲きよすへの帰途についたのだった。

 出陣したその日のうちに戻ってくるという異例の事態に、清洲城の蔵ノ介らも対応に追われた。
 鷺山城から逃れてきた者たちのために、城の内外にひとまずの居場所を作ったが、今後それも、整備していく必要が出てくるだろう。
 また、末森城の攻略については二日延期されたが、道三に仕えていた者たちの多くはその戦いへの参加を望んだ。
 今は信長を守ることが、ひいては美濃の者たちを守り、いずれ道三の仇を討つことになると彼らはよく分かっているのだった。
 信長はその夜、美夜の部屋にやって来た。
 今朝見送り、その無事を祈ったばかりだというのに夜にはもう戻ってきたことに、美夜は安堵あんどもしたが、状況がさまざまに難しい方向に動いていることを考えると、安易に喜ぶことはできなかった。
 それにまだ、肝心の信行との決着もついてはいない。
「今宵は傍にいても構わぬか?」
 信長が遠慮がちに聞いてくるので、美夜は布団の横を空けて信長を招いた。
「今日は体調も良いですから、そんなに気を遣わなくても大丈夫ですよ」
 今夜の信長は、美夜に話したいことがあるのだろうという気がした。
 信長は笑って、美夜の横から布団の中に潜り込んでくる。
 信長が手を伸ばしてきたので、美夜もその手を握りしめた。
「道三が死んだことはもう聞いておるな?」
「はい……聞きました。正直、少し複雑な気持ちです。以前は腹が立つだけの存在だと思っていたのに……」
 美夜がそう言うと、信長も頷いた。
「俺も同じ気持ちだ。道三のしてきたことのすべてに賛同はできぬが、俺や織田家は道三に対して多大な借りがある……その借りを返すこともできぬままというのは、後味が悪いな……」
 確かに、信長はこれまでも大切な戦に際して、道三からたびたび兵を借り受け、時には武器などの提供もしてもらっていたようだった。
 そうした道三の後押しがあったからこそ、信長はこれまでの戦にも勝ち、織田家を短期間のうちにここまで大きくすることができたという側面もある。
 多大な借りがあるにも関わらず、信長はまだその借りの一分も返すことができていないというのは、確かに義理を重んじる信長にとっては、不本意なことだろう。
 美夜は故郷を捨てて逃れてきた美濃の人たちのことが気になっていた。
「信長様……私も、美濃の人たちのために何かできることをしようと思います。私は偽物の道三の娘ですけど、それでも、あの人たちの何か力にはなれると思いますから……」
 美夜にとって、美濃の人たちはもう他人とは思えなかった。
 今回逃れてくる者たちの中には、侍女たちの家族もいるであろうし、美夜ではなく『帰蝶』の幼い頃からを知る者がいる。
 美夜にとって『帰蝶』はもう他人ではないのだから、それを案じてくれる人たちも、他人ではないということになる。
「そうだな……そうしてやってもらえると助かる。俺も美濃から預かった者たちのことは気にかけていくつもりだ。そして、いずれ彼らの中から資質のある者を選んで美濃を治めさせ、彼らを故郷に帰してやりたい……」
「はい……私もそれが良いと思います」
 美夜がそう答えると、信長は布団の中で美夜の身体を抱きしめてくる。
「そなたは道三を決して許すことはないと思うが、道三は書状の中で俺にそなたの秘密を打ち明けてきた……」
「え……私が偽物だってことを、道三が信長様に言ったんですか?」
「そうだ。実際の帰蝶は、繊細すぎる娘だったために死なせてしまったので、代わりに帰蝶とうり二つの娘を嫁がせることにしたと……俺と父上に対する詫びも書いてあった」
「そうなんですね……」
「その上で、そなたは偽りの帰蝶ではあるが、これまでと同様に大切にしてやってほしいとも……」
 道三から信長にあてたの書状の内容を聞き、美夜はいっそう複雑な気持ちになる。
 道三はなぜ、最期になって信長に秘密を打ち明けたのだろう。
 もう最期であれば、そのまま秘密を持って死ぬこともできたのに。
 ただ、その書状の中で美夜のことを案じていたという信長の言葉から推し量るしかないが、道三は最期に自身の罪悪感を消化してから死にたかったのだろうか。
 そして何より、信長なら、秘密を知っても美夜のことを無碍にはしないという信頼があったからこそ、道三は信長に秘密を打ち明けたに違いない。
「道三も、信長様ならきっと理解して受け入れてくれると思ったのかもしれませんね……」
「であろうな……ひょっとすると、俺がすでに帰蝶の秘密を知っているということも、道三はうすうす気づいていたのかもしれぬが……」
「やっぱり難しい問題ですから、道三も言うに言えなかったのかも……」
「かもしれぬな。まあ、これでもう、美濃に対して余計な気遣いは必要なくなったということだ。どのみち、いずれ斎藤義龍とは戦うことになるであろうからな」
「それはつまり、これからは美濃が敵になるということですよね? 美濃が味方でなくなったということは、信長様にとって大変なことではないのですか?」
 美夜がそう聞くと、信長は少し考えるように間を置いてから答えた。
「義龍の器にもよろうな。当面は義龍も美濃を治めることに集中せざるを得ないだろうから、すぐに戦ということはないはずだ。たとえ道三が美濃であまり人気がなかったとはいえ、国を治めていた主の権力を簒奪したのだから、それを治めるのはそう簡単なことではない」
「はい……」
「いずれにしても、ひとまずは信行のことを何とかせねばなるまい。美濃から来た者たちに落ち着いて暮らせる場所を整備してやるためにも、戦を終わらせ、尾張を平定せねばな……」
 道三が死に、道三に仕えていた者たちのことまで引き受けて、当人の意思とは無関係に、信長の責任と義務はどんどん大きくなっていく。
 美夜は信長を支えたいと思うが、信長の責任と義務があまりにも急激に大きくなりすぎて、美夜は途方に暮れそうな気持ちにもなっていた。
(信長様のために私にできることも……きっとあるはず……)
 美夜はそう考えて自分の気持ちを納得させたが、きっとこれからも、こうした途方に暮れるような気持ちになることは、何度もあるのだろうという気がした。
 美夜はふと思いついて、自分の手を信長のあの場所へと伸ばしてみた。
「…………!? な、何をして……」
 信長は驚いたような顔をして美夜を見てくる。
 信長のその場所は、美夜が触れたとたんに反応を示した。
「あの……もう少し安定するまでは夜のことはしては駄目だとお医者様に言われていますけど……でも、こうして私がする分には問題ないと思いますから……」
「そなたは今は自分のことだけ考えておれば良いのだ……俺のことまで気遣わなくて良い……」
「でも……少しだけ……」
 美夜が信長の着物の中に手を入れ、そのものを直接握りしめて手を動かし始めると、信長は美夜の身体を抱きしめながら、身を委ねた。
 本当は早く夫婦の営みができるようになれば良いのだろうけれど……そう思いながら、美夜は久しぶりに信長の分身に触れ、愛撫していく。
 美夜も信長の硬くて熱いそのものに触れているうちに、身体の奥のほうがそれを入れられたときのことを思い出してしまい、熱く疼いてくるのを感じた。
 やがて信長が息を詰めるような気配がして、美夜の手の中に熱いものが放たれた。
 自分の頭の上で、信長が少し荒い呼吸を繰り返している。
 美夜が上目遣いに信長の顔を見ると、信長は苦笑していた。
「まったく……そなたにはいつも翻弄ほんろうされてばかりだ……」
「すみません……」
「謝る必要はない……嬉しかったのだ……」
 まるで照れ隠しのように信長が唇を押しつけてきたので、美夜は瞳を閉じて、その接吻を受け止めた。
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