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第四章

身代わり濃姫(85)

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 信長たちが美濃へ向けて進軍を開始した頃、鷺山さぎやま城は斎藤義龍よしたつが率いる軍によってすでに包囲されていた。
 道三に対して敵意を抱く者は少なくはなく、それがここ最近の、尾張おわりの織田信長に家督かとくを譲るのではないかという噂が後押しする形で、斎藤義龍には当初の予想を上回る味方がついた。
 鷺山城下はびっしりと、義龍が率いる軍で埋め尽くされている。
 ただ、鷺山城は堅固な造りの山城であり、包囲したからといってすぐに落とせるような城ではないが、押し寄せる軍勢の数と勢いを見ていると、それも時間の問題のように見える。
 現在は状況を見守っているようではあるが、じきに数に任せて、斎藤義龍の軍は鷺山城内部にまで攻め入ってくるだろう。
 道三は鷺山城から眼下に押し寄せる軍勢を見て、すでに腹を決めていた。
(義龍の力を見誤ったわしの負けだな……)
 道三の中からはもう、義龍に対して抗おうという気持ちも失せているようだった。
 それよりも、鷺山城に残った者たちの処遇しょぐうをどうするのかに今は心を砕いていた。
「道三殿、私を信長様への使いに出していただけませんか? 信長様ならこの状況を知れば、必ず援軍を出し、道三殿をお助けするものと考えられます」
 いつの間にか自分の居所を探し当てた小西隆信こにしたかのぶがそこにいたことに、道三はようやく気づいた。
 隆信は娘婿の織田信長から預かっている織田家の家臣で、道三は自身の近くに置き、事務的な仕事を与えるなどして様子を見ていた。
 何か事情があって尾張を離れざるをえなかったのだろうが、その実直な仕事ぶりを道三は好意的に見ており、折を見てさらに重要な役目も与えようかと考えていたところだった。
 しかし、その機会ももう訪れそうにはない、と道三は思った。
 隆信の言葉から随分と間を置いて、道三は答える。
「いや、良い。婿殿が来られたところで、無駄に兵を減らすだけだ。その兵は大事に取って置くが良いと伝えられよ」
「しかし……それでは……」
「儂からの最後の命として、おぬしには儂の使いとして婿殿のもとへ行ってもらおう。書状を書く故、しばし待たれよ」
 そう言って少しの間道三は姿を消したが、やがて書き上げた書状を手に隆信の元へと戻ってきた。
「これを婿殿へ。書状にも書いてあるが、くれぐれも援軍などは必要ないと、おぬしの口からも重ねて伝えてもらいたい。おぬしも外へ出れば分かるであろう。あの大軍と戦うには、まだ婿殿の力では難しい」
「しかし……おそらく信長様は承知されないと思われます。道三殿をお見捨てすることなど……」
「いや、見捨てねばならぬのだ。儂はほどなく、自らの命の決着を付けるつもりだ」
「道三殿……」
 道三はすでに戦いを放棄し、自害することを決めているようだった。
 しかし、眼下に押し寄せる軍勢を見れば、たとえ信長の援軍が来たとしてもこの事態を打開するのは難しいということは、隆信にも分かる。
 おそらく織田軍は手ひどい傷を負うばかりで、義龍の軍を退けることまではできない。
「鷺山城に残った者たちには、婿殿を頼るように告げるつもりでおる。儂を助けるなどと考えるよりも、むしろ、その者たちの行く末を、婿殿には頼みたい」
「…………」
「彼らがいつか美濃に戻ってこれるよう、そしてその時まで預かってもらえるよう、書状にも書いてあるが、おぬしの口からも改めて伝えてほしい」
 隆信はまだ返事ができなかったが、もはや道三は心を決めており、その心を変えることは、隆信にはできないと思った。
「最後におぬしには難しい役目を与えることになるが、他に頼むことができる者がおらぬ。儂の使いを頼まれてくれるな?」
 道三がそこまでの覚悟をしているのかと思うと、隆信は結局、何も言うことができなかった。
「承知いたしました。確かにこの書状は信長様にお届けし、道三殿のお言葉もすべてお伝えします」
「おぬしは短い期間ではあったが、よく儂に仕えてくれた。今後はそなたの力を婿殿のために使ってもらいたい」
「……分かりました」
 目を伏せ、重々しく隆信が答えると、道三は笑う。
「婿殿へ伝えたいことはすべてその書状に認めてある。重要な事柄も含まれておるゆえ、他の者に見られぬよう気を付けてもらいたい」
「はい。心得ました」
「そうだな……婿殿にこれはおぬしの口から伝えてもらいたい。いずれ力を付け、儂のあだを討ち、そして天下を取られよと」
 天下……というその言葉に、隆信は少し目を見開いた。
 今の織田家は尾張の平定にも手間取っているような状態ではあるが、信長はいずれ天下を目指すことになるのだろうか、と。
 かつての勢いのある道三であれば、確かに天下も夢ではなかったかもしれない。
 だが、信長は天下をとることについて、どう考えているのだろうか……。
 しかし、当人が天下について意識してはいなくても、こうして周囲の者から声があがるということは、信長の意思とは関わりなく、いずれ織田家は天下を目指していくことになるに違いない。
「確かに……お伝えいたします」
 隆信がそう請け負うと、道三は背を向けた。
「では、もう行くが良い。今ならまだ街道を避けて山道を行けば、無事に美濃から出ることができるはずだ。すぐに他の者たちもおぬしと同様に婿殿のもとへ向かうであろう。くれぐれもその者たちのことを頼む……」
「はっ……では、失礼いたします」
 隆信は、深々と道三に礼をし、道三から預かった書状を大切に懐にしまうと、すぐに荷物をまとめて鷺山城を出た。

 城の中にいる者たちに脱出の指示を出して道三が自室に戻ると、そこにはすでにこの世の者ではない妻とその侍女たちが横たわっていた。
 道三が覚悟を告げたことで、正室の小見おみかたは、侍女たちと共に先に自害して果てたようだった。
 自身の妻の見事な覚悟を見届けた道三は、着替えを済ませ、最期の準備をする。
(やはりあやつは現れなかったか……)
 道三の節目に現れては、その道を示し、娘の帰蝶きちょうが死んで対応にきゅうした時には手をさしのべてきた謎の多い呪術師のことを、道三は最期の時に思い出していた。
(まあ、もう儂には関係のないこと……)
 そう考えていると、ぼんやりとした影が現れ、その影が一人の僧の形になった。
 その姿を認めて、道三は笑う。
「来たか、文観もんかん……どうやら儂はここまでのようだな」
 道三がそう告げると、文観はこくりと頷いた。
「貴方の役目はここまでということでしょう。この美濃はいずれ貴方の意思を継ぐ者が治め、その者はやがて天下を目指すことになるはずです」
「確かに……そうであろうな。そして、その者は義龍ではない」
「はい。義龍様ではありません」
「そういえば、帰蝶やその兄が元の世界へ戻るというようなことはないのか?」
 ふと思いついて、道三は文観に聞いてみる。
「さて……どうでしょうな。来たものなら、戻る可能性はないとは言えませんが。しかし、私は彼らが生み出す命に興味がございます」
「生み出す命、か。婿殿からの最後の文に、帰蝶に……あの娘に子ができたと書いてあったな」
「はい。その子と、あの娘の兄の子に、私はとても興味がございます」
 文観のその言葉に、道三は眉根まゆねをあげた。
「おぬし……また何かするつもりではなかろうな?」
「さて、それはこれからゆっくりと考えるつもりです。何しろ、どちらの子もまだ腹の中……考える時間はたっぷりありますゆえに……」
「では、何かする可能性もあるというのだな?」
「はい。それは否定いたしません。何しろ、あの二人には興味が尽きませんから」
「なるほど……では、死ぬが良い」
 道三はそう告げると、手にしていた刀を素早く鞘から抜き、なぎ払った。
 ごとん、という鈍い音とともに、文観の首と胴は離れた。
 その首を眺めながら、道三自身、自分がこのような行動に出たことに少し驚いていた。
「まあ、これ以上……あの娘を苦しませる必要もあるまい」
 道三はそう呟いて苦笑する。
 最初は道三の保身のために嫁がせた娘であったが、気がつけば、信長を実の息子よりも息子のように思っていたように、いつの間にか美夜のことも実の娘の帰蝶よりも娘のように感じていた自分に、道三はようやく気づいたようだった。
「さて、儂もそろそろ逝くとするか」
 道三はそう呟くと、部屋に火を放ち、炎の中で自らの腹を切って自害した。

 天守から炎が上がるのを見て、道三に仕えていた者たちは山道を行きながら涙を流した。
 城の中にいた者たちの中には、逃げ落ちて生きよという道三の最期の命には従わず、城に残って自害した者も少なくなかった。
 しかし、道三の意思を尊重して城を出て、尾張の織田信長を頼ろうとする者の数も、かなりに上っている。
 彼らはいつか必ず信長が道三の仇を討ってくれると信じており、その仇討ちのために生き恥をさらしてでも、信長の元で仇討ちの機会を待とうと考えている者たちだった。
 その中には、清洲攻めの際や、つい先日の岡崎城奪還の際に援軍として信長とともに戦った者も多く、信長の人となりであれば信頼できると考える者も少なくなかったようだ。
 もちろん、男たちだけではなく、城で働く女や子どもたちも、山を下りる行列の中には数多く存在する。
 女や子どもも多い道中は、それほど早く進むことができないので、必然的に天守が燃える様を長く見続けることになってしまう。
 山道を行く斉藤家の者たちは、言葉もなくむせび泣きながら、ただ重い足をひたすら前に進ませ続けた。

 小西隆信が信長のもとへ到着したのは、信長らが美濃の領地に入ろうとする頃だった。
「道三殿より、これを預かって参りました。道三殿は援軍はいらぬと」
「なに……」
「それよりも、城の者たちを逃がすから、その者たちを頼むと仰られて……おそらく道三殿は今頃はもう……」
 隆信は道三との最後の会話を思い出し、声を詰まらせた。
 道三の覚悟の様子から察するに、道三は城の者たちを逃がした後、ほどなく自害するだろうと考えられた。
 そしておそらくもう道三の命はない……。
 隆信は信長に道三から預かった書状を手渡した。
「これには決して他者に知られてはならぬ内容もあると道三殿は仰っておられました。そして、道三殿より信長様への言づても預かってきました。いつか力を付け、仇を討って欲しいと、そして天下を目指されよと」
 信長は頷いて隆信が差し出してきた書状を受け取った。
 書状を読み進めていくうち、信長の手が震えているのが隆信の目にも見えた。
 おそらく二人にしか通じない話が書いてあるのだろうが、その内容をはかることは隆信にはできない。
 やがて書状を読み終えた信長は、それを懐にしまい、隆信に視線を向ける。
しゅうと殿からの最後の使い、ご苦労であった。予定よりは少し早かったが、隆信には今後は俺の傍で働いてもらう。舅殿からもそなたのことをくれぐれも頼むとの言葉があった。短い期間ではあったが、良い仕事をしたようだな」
「いえ……私などは道三殿には助けていただくばかりで何もご恩返しができぬままでした……」
 隆信はそう謙遜するが、道三の書状には隆信を褒め称える言葉と、彼の今後を信長に託すということが丁寧に綴られていた。
 その傍にいたのは短い間ではあったが、道三のようなアクの強い男の信頼を隆信が得たことは間違いない。
「隆信、城を出た者たちが通る道は分かるか?」
 信長がそう問うと、隆信は頷いた。
「はい。おそらく、私が通ってきた道と同じ道を通ってくるものと考えられます」
 信長は明智光秀を呼び、事情を説明した。
「光秀、どこまでならその者たちを迎えに行ってやることができるか、すぐに隆信と相談して検討してくれ。織田を頼ってくる者たちを、少しでも安堵あんどさせてやりたい」
「分かりました」
 光秀が地図を開いて隆信と協議を始めたのを見て、信長はそっとその場を離れた。



※明日と明後日の更新ですが、少しバタバタしていますので、本編の更新はお休みさせていただきます。
小咄のほうは更新できる予定ですので、よろしくお願いいたします!
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