身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

文字の大きさ
上 下
85 / 109
第四章

身代わり濃姫(84)

しおりを挟む
 その夜は、急遽明日帰還することが決まった斉藤家の家臣たちへの送別と、織田家と松平家の同盟締結を祝う宴が清洲きよす城内で開かれた。
 そして、祝い事はそればかりではなく、宴の席では、正式に帰蝶きちょうの懐妊が報告され、宴は二重三重の喜びで盛り上がることになった。
 宴が盛り上がる中、信長はそっとその席を抜け出して美夜みやの部屋に向かった。
 本来であれば、美夜も同席して懐妊の祝いをするべきところだったが、まだ体調が万全でないということもあり、今夜は部屋で休んでいる。
 もうこの時間なら眠っている可能性もあるが、またすぐに戦に出ることもあり、城にいる間は少しでも顔が見たいという気持ちが信長にはあった。
 信長が部屋に入ると、美夜は布団に起き上がって何か書物を読んでいるようだった。
「まだ起きていたのだな」
 信長が言うと、美夜はこくりと頷いて笑う。
「今夜は何となく信長様が来てくれるような気がしていましたから」
 美夜の言葉に笑って、信長はその傍に腰を下ろした。
「そなたの顔が見たくて、宴を少しだけ抜けてきた。何を読んでいたのだ?」
「これは出産に関することが書かれたものなんだそうです。侍女のまきが書庫で探してきてくれたみたいで」
 侍女たちも美夜の妊娠を知ってからは、妊娠や出産の知識を得ては美夜に聞かせてくれたり、こんなふうに書物を探し出して持ってきてくれたりする。
「なるほど。出産の勉強か」
「はい。勉強したからといって、出産が楽になることはないと思うんですけど、何も知らないよりは知っていたほうが少しは覚悟もできるかなと思って」
「確かに、それはそうだ」
「あの、宴は大丈夫なんですか?」
「ああ、もう皆は好き勝手にやっている。俺が少し抜けたぐらいなら、誰も気づかぬだろう」
 信長がそう言うと、美夜は少し目を伏せた。
「本当なら私も一緒に出なくちゃいけないのに、すみません……」
「気にしなくても良い。まだ身体の調子も万全ではないのだから」
「はい。でも、悪阻つわりはかなり落ち着いて来ました。食欲も戻ってきましたし」
「それが一番俺は嬉しい。食事ができないとなると、体力が落ちる一方だからな」
「はい。厨房の人たちが悪阻の時にも食べられるものをいろいろ工夫して作ってくれたおかげだと思います」
 厨房で働く出産経験者の女性たちが、自分たちの経験を元にあれこれ考えて作ってくれたものは、確かに通常の食事よりも口にしやすいものが多く、おかげで何とか体力を保つことができたといっても良かった。
 それに、信長が細かに美夜の体調や食事のことを気にしてくれているのも分かっていたので、美夜自身もプレッシャーは感じつつも、おかげで少しでも食べようとつとめることもできたのかもしれない。
「いろいろと不安もあるだろう。そなたの世界とは医術もまるで違うようだからな……」
 美夜のいた世界には、妊娠を判定する薬や、お腹の中の子を見ることができる機械があるのだと話すと、信長はかなり驚いていた。
 だから美夜の不安を、いろいろと気遣ってくれるのだろうと思う。
「知らない世界でのお産は正直に言って不安はありますけど、でも、信長様が傍にいてくれるだけで、とても心強いです」
 美夜がそう言うと、信長は苦笑する。
「俺も出産に関しては分からぬ事ばかりで、今は必死に学んでいるところだ。だが、学べば学ぶほどに、出産というのは女子の負担が大きいということを思い知らされるだけだな……」
「信長様、大丈夫ですよ。他の女の人だって皆、ちゃんと出産しているんですから。私だけできないってことは、ないと思ってます」
「やはりそなたは強いな……俺は狼狽うろたえてばかりだ……」
「強いというか……たぶん、他の人もしているし大丈夫という気持ちもありますし、何より信長様が傍にいてくれるから大丈夫だっていう気持ちが大きいです」
「そうか……では、もう少しそなたに安堵してもらえるよう、俺も努力しよう」
 信長はそう言って笑うと、美夜に接吻をしてくる。
 もう時間なのだな……と美夜は寂しく思いながら、信長の接吻を受け止めた。
「そろそろ宴の席に戻らなくてはならぬ……すまぬな、短くて……」
「いえ、私は大丈夫です。少しでも信長様に会えて嬉しかったです」
「俺もだ。戦さえ終われば、もっとそなたとゆっくり過ごすこともできると思う」
「はい……」
 信長はもう一度美夜に口づけると、名残惜しそうな顔をしながらも部屋を出て行った。
(今度の戦が最後……)
 甘音あまねから美夜はそう聞いていた。
 尾張おわりの今川勢については、松平家との同盟が成ったことによりほぼ制圧ができており、残るは末森城に残る信行派との決着だけだと。
 しかし、その最後の決着が、美夜には心配だった。
 信行のことだから、またどんな卑劣な方法を使ってくるかも分からない。
 ただ、信行との決着さえつけば、当面は今のように頻繁に戦が起こるということはなくなりそうなのは事実だ。
(そして、戦が終われば兄様に会える……)
 美夜にとっては、信長が戦に出なくて済むのと同じほどに、兄の雪春と再会できることは嬉しいことだった。
 物心ついた頃から、兄と離れるということがほとんどなかった美夜にとって、これほど長く離れることは、元の世界にいたときには考えられないことだった。
 けれども、これほど長く兄と離れていたことで、自分はやっと独り立ちできたのだという気もする。
 雪春たちを迎える準備は城の中でも着々と進んでいる。
 各務野かがみのには、すでに信長が帰蝶の秘密を知っているということを告げたが、美夜は他の侍女たちにもそのことを打ち明けた。
 侍女たちは皆、安堵してくれたし、これからはもう信長に隠し事をする必要がないということに、何よりもほっとしたようだった。
 今は堺で藤ノ助らに保護されているから、雪春たちには身の危険の心配もない。
 今度の戦さえ終われば、当面は兄夫婦にも安心して暮らしてもらえるはずだ。
(この戦が終わっても、またきっと戦が始まるのだろうけど……)
 あまり考えないようにはしていたが、たとえ信行との決着がついたとしても、それで織田家の戦が完全に終わるわけではなかった。
 この尾張の周囲でも、不穏な動きをしている勢力はいくつもあり、尾張を平定してもそれらの勢力と戦になる可能性は十分にある。
「こんなことばかり考えていたら、あなたも心配で出てこれないわよね……」
 美夜はお腹の子のことを思い出し、苦笑した。
「ごめんなさい……もっと明るいことばかりを考えるようにするわね……」
 美夜はお腹に手を当てながらそう囁き、開いていた書物を閉じて灯りを消す。
「おやすみなさい……」
 布団に入った美夜は、お腹の子にそう告げてから目を閉じた。

 翌日、前日に突然美濃への帰還を許された斉藤家の者たちは、一斉に美濃へと帰っていった。
 予定よりも早い帰還に斉藤家の兵たちは驚いていたようだったが、故郷へ戻れることが嬉しくない者はいないようで、皆、明るい顔をして美濃への帰路についた。
 前日の宴に引き続き、城門前でも彼らをねぎらって見送った信長は、複雑な気持ちで小さくなっていく兵団の姿を見ていた。
(戦が終わったと思って美濃へ戻っても、美濃はしばらく落ち着かぬだろうな……)
 昨夜のうちに信長は、斎藤道三に向けて使者を送った。
 今回兵を借り受けたことの礼と、予定より早いが借り受けた兵たちを返すということ、さらにはこの礼は必ずしたいので、何か力になれることがあれば何でも言ってもらいたいということを書いた書状を、使者がすでに道三に届けているはずだ。
 その返事はまだ来ていないが、もしも美濃に何か異変があれば、尾張の状況は放っておいてでも、駆けつけなければならないと信長は考えていた。
 すでに信長はそれほどの恩義を道三から受けている。
「信長様、末森城攻略のための策を考え直しました」
 光秀がそう告げてきたので、信長は頷いた。
「ああ、分かった。とりあえず歩きながら聞こう」
 時間を惜しむように信長が言うと、城の中へと戻りながら光秀がその策について信長に話し始める。
 三日後には末森城を攻めるために、再び信長は清洲を離れることになっていた。
 当初は斎藤道三から借り受けた兵も交えての策を立てていたので、光秀は策の大幅な練り直しをひと晩のうちにしてきたのだった。
 末森城を攻めるのは三日後、その予定は変わらない。
 だからそれまでに、新たな策を固めてしまう必要がある。
「兵の数は減ったが、何とかなりそうか?」
「はい。その分、時間は少しかかりそうですが、何とかなると思います。当初の予定と変わったところは……」
 城内に戻る道を歩きながら、信長は光秀の新たな策に耳を傾けた。

 そして三日後の早朝――。
 信長は松平竹千代とともに、出陣の支度をし、清洲の城門前に出ていた。
 すっかり戦の支度を整えた者たちの喧噪で、まだ薄暗い早朝なのに城門前は賑やかだった。
 悪阻の症状が落ち着いて来たこともあり、今朝は美夜も見送りのために城門まで出てきていた。
 鎧兜に身を包んだ竹千代が、美夜の姿を認めてぺこりとお辞儀をする。
 まだ鎧兜に着られているという印象の強い竹千代だったが、落ち着いて家臣たちに指示を出しているようだった。
(戦を前にしてあんなに落ち着いているなんて……やっぱり竹千代さんって、普通の子どもとは違う気がする……)
 美夜がそんなことを考えていると、信長が傍に歩み寄ってきた。
「すまぬが、またしばらく城を頼む」
「はい。大丈夫です。今回は少しは蔵ノ介さんへの負担も少なくて済むように頑張ります」
 前回の戦の時は、悪阻で伏せっていることが多かったので、かなり蔵ノ介に負担をかけてしまっていた。
 けれども、悪阻が落ち着いて来た今は、多少ではあるが、蔵ノ介を手伝うこともできるかもしれない。
「蔵ノ介のことは気にせずとも良いから、そなたは自分の身をいたわることを一番に考えよ。蔵ノ介もそのつもりでいる」
「はい……ありがとうございます。あの、信長様、お気を付けて」
「ああ、帰還は早ければ三日後になるだろう」
「分かりました」
 前回は十日近くも信長が城を離れていたことを思えば、三日は短い。
 けれども、命のやりとりをする戦に信長は出かけるわけだから、できるだけ早く無事に戻ってきてもらいたいとは考えてしまう。
「では、行ってくる」
 信長が美夜に別れの接吻をしようとしたその時……慌ただしく早馬の使いが信長の元にやって来た。
「何事だ?」
 信長が聞くと、早馬の使いは馬を下り、信長のもとへ跪いて報告した。
「美濃で斎藤義龍よしたつが謀反。斎藤義龍率いる軍が、鷺山さぎやま城へ向かっています!」
「なに――」
 信長の表情が一瞬にして険しくなったのに気づき、美夜はそっと信長から離れた。
 今は邪魔をしてはいけない……そう思ったからだった。
 信長は竹千代の元へ歩み寄る。
「竹千代、すまぬが末森城の攻略は延期する。そなたはいったん岡崎城へ戻ってくれ。このまま俺は斎藤道三殿の援護に向かう」
 信長の言葉を聞いた竹千代は、少し考えるような仕草をしてから、信長に告げる。
「斉藤家に恩があるのは、松平家も同じことです。先の岡崎城を奪還する際には助けていただきました。ですから、松平家もこのまま織田とともに斎藤道三殿の援護に向かいます」
 竹千代のその言葉に、信長は笑みを浮かべた。
「そうか。それは助かる。きっとしゅうと殿も心強く思われるであろう」
「はい。どこまでお力になれるかは分かりませんが、力を尽くします。良いですね、忠真?」
「はっ!! 御意にございます!!!」
 こうして、末森城へ向かうはずだった織田軍と松平軍は、そのまま目的地を変え、斎藤道三の援軍となるべく美濃へと出立したのだった。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

白い結婚は無理でした(涙)

詩森さよ(さよ吉)
恋愛
わたくし、フィリシアは没落しかけの伯爵家の娘でございます。 明らかに邪な結婚話しかない中で、公爵令息の愛人から契約結婚の話を持ち掛けられました。 白い結婚が認められるまでの3年間、お世話になるのでよい妻であろうと頑張ります。 小説家になろう様、カクヨム様にも掲載しております。 現在、筆者は時間的かつ体力的にコメントなどの返信ができないため受け付けない設定にしています。 どうぞよろしくお願いいたします。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

日本列島、時震により転移す!

黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。

冷徹義兄の密やかな熱愛

橋本彩里(Ayari)
恋愛
十六歳の時に母が再婚しフローラは侯爵家の一員となったが、ある日、義兄のクリフォードと彼の親友の話を偶然聞いてしまう。 普段から冷徹な義兄に「いい加減我慢の限界だ」と視界に入れるのも疲れるほど嫌われていると知り、これ以上嫌われたくないと家を出ることを決意するのだが、それを知ったクリフォードの態度が急変し……。 ※王道ヒーローではありません

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...