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第四章

身代わり濃姫(80)

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 緒川おがわ城へ向けて出発する日の朝、信長は美夜みやの部屋にやって来た。
 本来であれば、美夜が城門まで出て見送りをするのだが、それができないこともあり、信長のほうから来てくれたのだった。
「そなたが辛いときに傍におってやれなくてすまぬ……」
 謝罪する信長に、美夜は慌てて首を横に振る。
「いえ、気にしないでください。それより、竹千代さんを無事に助け出せると良いですね」
 今回、信長が不在にするのは、今川家に囚われの身になっている竹千代を救出するためだと美夜は聞いている。
 その後も竹千代とともに城を攻めたりと、さまざまなことを信長たちは行うようだった。
 だから今度の不在期間はいつもよりも長くなってしまい、信長の帰還までには十日前後かかるとみられている。
 作戦の詳しいことまでは分からないが、相手が今川家ということもあり、いろいろと大がかりになってしまうのだろうということは想像がついた。
「竹千代を無事に助けることができたなら、清洲きよすにも立ち寄ってもらう予定だ。その時には、そなたにも紹介しよう。きっと、そなたとも気が合うはずだ」
「はい、ぜひ私も竹千代さんに会いたいです。それまでには、もう少し元気になっておきますね」
「うむ……そうであってくれると俺も嬉しいな」
「少しずつ食べられる量も増えてきていますし、たぶん信長様が帰ってこられる頃には、もっと元気になっているはずです」
 美夜がそう言うと、信長は笑みを浮かべる。
「そういえば、各務野かがみのの容態も安定し始めたようだし、そなたも侍医の許可が出たら会いに行ってやると良い」
「はい……私も各務野に早く会いたいです」
「まあ、同じ城にいるのだから、焦る必要もない。まだ各務野もゆっくり話ができる状態ではないようだしな」
「分かりました。あの、信長様……お気をつけて……こんなときにまだ心配させるような状態ですみません……」
 美夜が謝罪すると、信長は美夜の身体を抱き寄せ、口づけてくる。
「そんなことは気にしなくて良い。今のそなたは自身の身と子のことだけを考えておれば良いのだ」
「はい……」
「早く良くなろうなどと焦らずとも良いから、ともかく大事にしてくれ」
「分かりました」
 美夜がしっかり頷くと、信長は笑った。
「では行ってくる」
 信長はもう一度、美夜に接吻をしてから部屋を出た。
 本来なら、城門まで見送りに行きたかったが、今の自分の身体がそういう状態でないことは、美夜自身がよく分かっていた。
 無理をして城門まで出て行っても、出発する信長を心配させるだけだし、もしもそこで具合が悪くなれば、ついてきてくれる者たちにも迷惑をかけてしまう。
「一緒にお留守番だね……」
 美夜はお腹の辺りを撫でながら呟いた。
 ここ数日でまた体調にも変化があり、侍医の見立てではほぼ懐妊で間違いないだろうということになった。
 美夜自身、自分の身体に大きな変化が起こっていることを実感しているから、もはやここに命が宿っているということは疑いようはない。
 妊娠が確定的になったことで、美夜の周囲の警護はさらに厳しくなり、以前にも増して移動できる範囲が限られてしまうことが決まった。
 今はこうして部屋からほぼ出ることのない生活を送っているものの、元気になって出歩けるようになっても、今後は厩舎うまや鈴音すずねに会いに行くのでさえ、甘音あまねの他に一定の人数の護衛が必要になってしまう。
 これまでよりも窮屈な生活になるのだろうが、自分の中に信長の子となる命が宿っているのだから、当然の対応なのだろうと美夜は理解している。
(信長様の子を産むということは、世継ぎを産む可能性があるということ……)
 腹の中の子が男子であれば、確実に信長の世継ぎとなる。
 周囲の者たちはそれを大いに期待しているようであるが、信長自身は、腹の中の子の性別にはまったくこだわっていないようだった。
 信長は第一に、美夜自身と子の無事のみを考えてくれていた。
 信長のそうした態度のひとつひとつが、美夜の中にわいてくる不安を払拭してくれる。けれども、それでも不安は尽きることはなかった。
 たとえば、あまりまだ美夜の中で実感はなかったが、子を育てるにしても、信長は美夜に任せてくれるとは言ってくれているものの、美夜の知っている世界でのやり方とはまったく違ってくるのだろうと思うと不安になってしまう。
 そうしたひとつひとつのことを深く考えていくと、不安ばかりが増してしまうので、あまり美夜は考えないようにしていたが、やはり気がつくと考えてしまう自分がいるのも事実だった。
(大丈夫……信長様がいるから、きっとどんなことも乗り越えられるはず……これまでだってそうだったんだから……)
 不安が大きくなると、美夜はそう考えて自分の気持ちを落ち着かせていた。
 きっと信長は悪いようにはしないだろうという信頼もあったし、一昨日、ゆっくり信長と子の育て方について話もし、納得もしたから、もう余計なことは考えず、今は自分の体調を安定させ、無事に子を産むことだけを考えようと思っている。
(大丈夫……心配しなくていいからね……)
 美夜は腹に手を当てながら、腹の中の子に語りかける。
 美夜にも不安はいろいろあるが、きっと生まれてくる子にもあるに違いないという気がする。
 この中にいる子も、腹の中で外に出る日を待ちながら、きっと不安な気持ちも抱いているに違いないと。
 そして、美夜が不安になると、その気持ちは腹の中の子にも伝わっているような気がするのだ。
(確かに不安はあるけど、でも、大丈夫だよ。あなたのお父さんは、とても強くて優しい人だから、心配しないで生まれてきてね……私も頼りないお母さんだけど、一生懸命に頑張るから……)
 美夜がそう語りかけるように腹を撫でると、まるで腹の中の子が安堵あんどしたかのように、少しその場所が温かくなった気がした。

 信長が緒川城に向かう頃には、すでに竹千代の救出に向かった明智光秀たちの乗った船は駿府すんぷへ到着しようとしていた。
 船の中でも、太原雪斎たいげんせっさいから聞いて作らせた今川館いまがわやかたの見取り図と、藤吉郎の記憶による竹千代の居住区域……もしもその場を移動させられていた場合に考えられる竹千代の居場所などを照らし合わせ、綿密な打ち合わせが続けられた。
「では、この通路から侵入してこの区画に入り、竹千代殿を見つけてお連れするのは藤吉郎殿にお任せするということでよろしいでしょうか?」
 光秀の言葉に、藤吉郎はしっかりと頷く。
「はい。それで問題ござりません。おそらく、今川館は雪斎殿さえも失い、かつてない混乱のただ中にあるでしょうから、さほど竹千代様を連れ出すのは難しくないかと思われまする」
 藤吉郎が今川館への侵入経験があるというのは、今回の作戦の成功率をかなりあげるはずだった。
「では、私たちはこの場で藤吉郎殿が竹千代殿を連れてくるのを待ちます。もしもの時は合図を出してください。応戦に駆けつけますので」
「かしこまりました。もしものことなどないように気を付けますが、その時は応援をよろしくお願いいたしまする」
 船は駿府の港のあまり目につきにくい場所に、商船を装って着岸した。

 駿府に着いたのは夕刻だったが、光秀らが実際に動き始めたのは、日も暮れ、夜半にさしかかろうという頃だった。
 夜陰やいんに紛れ、怪しまれることもなく今川館に到着すると、光秀はそこで部隊を二つに分けた。
 竹千代を連れ出した藤吉郎が、別の場所から出てくる可能性を考慮してのことだった。
 今回の作戦は絶対に失敗が許されない。
 万が一のことがあれば、織田家のみならず松平家に対しても多大な損害を与えてしまうことになり、信長が一気に窮地に立たされる可能性があるからだ。
 だから、作戦は二重、三重に、万が一の場合を想定した対策を練り込んである。
 事前に打ち合わせていないこともあるから、おそらく竹千代は自室で眠っている可能性が高い。
 しかし、今回の作戦にわざわざこの時間帯を選んだのは、少人数で今川館に侵入することもあり、もっとも人の往来の少ない時間が最適だと考えたからだった。
 光秀らの待機場所に到着すると、藤吉郎は光秀に頷いて今川館の中へと入っていく。
 万が一にも何か作戦に支障が出そうなことがあった場合は、光秀らの部隊はここから別働隊に連絡をした後、藤吉郎の応戦へ向かうことになる。
 当面光秀にできることは、藤吉郎が無事に竹千代を連れ出してくることを祈ることしかない。
(さて……藤吉郎殿のお手並み拝見といきますか)
 かねてより、かなり年下ではあるが、藤吉郎に一目を置いていた光秀としては、彼の仕事を間近で見ることができる好機でもあった。
 だから必要以上の心配はせず、むしろ楽しみというような気持ちで、光秀は藤吉郎の帰りを待つことにしている。
 信長からも、そして蔵ノ介からの信頼も篤い藤吉郎は、果たして無事に竹千代を救出することができるのだろうか、と。

 光秀と別れ、藤吉郎は先日侵入したばりの今川館内部を進んでいく。
 今回は雪斎の証言によって内部の細かな造りまで把握しているので、前回よりも勝手は良かった。
 途中、幾度か見張りを倒していく必要があったが、効き目の強い薬を仕込んできているので、物音を立てるのを避けるため、なるべくそれで済ませるつもりでいた。
 しかし、今川館の中は昼間とは違ってほとんど人の姿はなく、不気味なほどに静まりかえっていた。
(それにしても……警護がかなり手薄のように感じます……やはり厳しく管理する者がいなければ、こうなってしまうのでしょうか……)
 たとえば清洲であれば、夜も昼と同等の人数の者たちが警護の任に着くことになっている。
 だが、夜間の警護をうとむ者も多いため、こうした者たちを配置する上官には、厳しい者が選ばれることが多いし、実際に清洲も、信長がそうした人材を巧みに配置している。
 かつての今川館でもそうだったはずだが、今はとてもそのようには思えない緩みきったような空気が漂っていた。
 明らかに、警護の人数が少なく、また、それらの者たちもどれほど本気でこの今川館を守ろうとしているのかも分からないと藤吉郎は感じた。
(主がしっかり管理しなければ、どのように堅固な城もこうなってしまうのですね……)
 と、かつての一分の隙もないような今川館を知る藤吉郎は、少しもの悲しい気持ちにもなった。
 そして、こんな場所からは一刻も早く竹千代を救い出してやりたいと思う。
 この警護の緩みは、竹千代を連れ出すには最適だが、もしもどこかの勢力の攻めにあった場合、あっという間に制圧され、竹千代の身も危険にさらされてしまうだろう。
(確か見取り図によれば、あそこが竹千代様の部屋のはず……見張りは二名……何とかなりそうでござりますね……)
 藤吉郎はそう考え、素早く見張りに近づき、一名を薬で眠らせ、もう一名が飛びかかってくるのをよけ、背後に回り込んで刀の鞘で後頭部を殴って気絶させた。
(ふぅ……これで大丈夫でしょうか……)
 藤吉郎は軽く汗を拭い、周囲を慎重に見回した。
 どうやら今の物音で人が集まってくる気配も感じないので、藤吉郎はそっと襖を開けて部屋に入る。
 とたんに、布団から人が起き上がる気配がした。
「誰か……そこにいるのですか?」
 竹千代の少し眠そうな声が聞こえて、藤吉郎はそっと竹千代に近づき、その前に膝をついた。
「竹千代様、藤吉郎にござりまする。お約束通り、信長様の命令で、竹千代様をお助けに参りましてござりまする」
「藤吉郎……来てくれたのですね……」
「はい。すぐにここを出ますが、大丈夫でござりましょうか?」
「はい。問題ありません。荷物もすでに全部まとめてあります。そんなに持っていくものはないですけれど……」
「では、参りましょう」
 藤吉郎は竹千代が襖の向こうに隠してあった荷物を受け片手で取って持ち、もう片方の手で竹千代の手を引いて、そっと部屋を抜け出した。
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