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第四章
身代わり濃姫(77)
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蔵ノ介が慎重に様子をうかがっているが、確かに誰かが近づいてくる足音が美夜の耳にも聞こえる。
その足音に警戒するように、蔵ノ介は自分の腰にある刀に手を触れた。
信長も美夜を背後にしながら、鯉口を切る。
その場に緊張が張り詰めた。
どうやら近づいてくる足音は一人のようだった。
やがて、一人の男が姿を現した。
「勝家様!」
源三郎が声を上げた。
やって来たのは柴田勝家だった。
勝家はそこに信長の姿を認め、驚いたように目を見開く。
「信長様……なぜここに……」
「あ、勝家様……実は……」
と、源三郎がこれまでの経緯を勝家に説明する。
源三郎が清洲へ向かう途中で信長と蔵ノ介に出会い、二人のたっての希望で連れてきたということ。
帰蝶が懐妊していることを知り、源三郎自身も帰蝶の救出を急ぐ必要があると考えたこと。
さらには、今宵は宴が開かれていたこともあり、末森城の警護がいつもよりも緩いという好機でもあり、自分の判断で信長たちをここまで連れてきたのだと……。
柴田勝家はひとつひとつの報告を大きく頷きながら聞いている。
(信長様……知ってたんだ……私のお腹に赤ちゃんがいるかもしれないこと……)
源三郎の話を聞きながら、美夜はそのことに驚いていた。
このことを知っているのは各務野だけのはずだから、おそらく各務野の口から語られたのだろう。
(じゃあ……各務野は生きてるのかも……)
美夜は少しそんな希望を抱いた。
あの時の血だまりを見た美夜は、各務野の命はもうないものと考えていたが、もしも生きていてもう一度会えるのだとしたら、これほど嬉しいことはない。
各務野にたくさん謝りたいこともある……。
源三郎の話を聞き終えた勝家は、家臣をねぎらった。
「なるほど、そういうことであったか。ご苦労であった、源三郎。よくやってくれた」
そして柴田勝家は信長に向き直る。
「信長様、此度のこと、主の信行様に成り代わりましてお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした」
勝家はそう言って、深々と頭を下げる。
「いや、そなたがいてくれたおかげで、こうして無事に帰蝶を連れ帰ることができるのだ。そなたに謝罪を受ける理由は俺にはないのだがな」
「しかし、無抵抗な帰蝶様を乱暴に連れ去り、このような場所に閉じ込めるというような行為は、決して許されることではありません。帰蝶様にも申し訳ありませんでした」
勝家に改めて頭を下げられ、美夜は少し慌ててしまう。
「いえ、勝家殿にはここにいる間、ずっと励ましてもらいましたから、私は感謝しています。勝家殿のおかげで、ここに閉じ込められていても希望を失わずに済みました。助けてくれると知ったから、逃げるときのことを考えて、ご飯もちゃんと食べたり、なるべく足を動かすようにしたりすることもできました。だから今もこうしてちゃんと歩けていますし……あの、本当にいろいろとありがとうございました」
勝家に対しては感謝こそすれ、謝罪を受けるような理由は美夜にもまったく見当たらなかった。
「あ、あの……礼などを言われると、こちらとしても困ってしまいますので……」
強面の顔が少し慌てているのを見て、信長は笑みを浮かべる。
「勝家、俺からも礼を言う。よく帰蝶を守ってくれた」
信長からも礼を言われた勝家は、さらに困惑の表情を浮かべる。
「いえ……本当に此度のことは、我々の側に非があります。ですから、信長様も礼などはよしてください。どのように応じて良いのか、私が戸惑ってしまいます」
勝家が本当に戸惑っている様子が伝わってきて、美夜は何だか微笑ましい気持ちになる。
この柴田勝家という男は、今は信行の家臣で信長とは敵対しているが、きちんと芯が通っている心のある男だと美夜は思った。
そして、今は信長とは敵と味方の関係ではあるが、史実の通りだとしたら、いずれ勝家は信長に仕えることになるのだろうか……と、そんなことも考えた。
「ともかく、逃げるのなら今のうちです。夜明けの鐘が鳴る頃には、皆が起き出してきます」
「そうだな。急がなくてはなるまい」
信長がそう応じると、勝家は咳払いをしてから笑う。
「こうして信長様が無事に帰蝶様を取り戻されたからには、信行様も正々堂々戦うしかありますまい。信長様、次にお会いするときは戦場ですな」
勝家のその言葉を聞き、今は戦争中なのだということを、美夜は改めて思い出した。
いざ戦が始まれば、この勝家とも信長は戦わなくてはならなくなる。
今は一時的に休戦状態のようになっているだけなのだと……。
信長もさすがに勝家のような人材が惜しいと考えたのか、こんな提案をした。
「勝家、俺に仕える気はないか? そなたのような将こそ、俺は求めておるのだが」
信長のそんな誘いにも表情を崩さず、勝家は答える。
「信長様、私の主は健在です。私は主の信行様をお助し、信長様を討つつもりでおります」
どこまでも筋を通す人なのだな……と美夜は思ったが、どうやら彼を味方につけるのは今は無理な話のようだった。
「いずれこの礼は必ずする。それまで生きておれよ、勝家」
「はい。私は往生際が悪いですから、そう簡単には死にません。それよりお急ぎください。今ならまだ誰にも気づかれていませんから、さほどの困難なく脱出できるはずです」
「分かった。行こう、帰蝶」
「はい」
再び信長に手を引かれ、美夜は頷いた。
「源三郎、信長様たちを無事に城の外へお連れしろ」
「はっ、承知しました」
主の命に頷いて、来たときと同じように源三郎が先を行く。
「源三郎、帰蝶の体調が万全ではないから、来るときよりは歩く速度を緩めてくれると助かる」
信長がそう言うと、源三郎は頷いた。
「承知しました。帰蝶様の状態を確認しつつ、移動します。ですが、もしもお辛いときは遠慮なく言ってください」
やがて少し時間はかかったものの、美夜たちは無事に城の外へ出ることができた。
まだ夜明けも前の起きている者が少ない時間とあって、帰りは行きよりも城中で人と会うことがなかった。
おかげで美夜もさほど無理をせず、無事に城の抜け道にたどり着き、抜け道から城の外へと出ることができたのだった。
「それでは、私はここで失礼します」
城から少し離れたところまで見送ってくれた源三郎が、信長にそう告げた。
「源三郎、そなたに礼がしたい。礼を思いついたら、いつでも俺に言うてくるが良い」
「ありがとうございます。でも、勝家様も仰っておられましたが、今回のことは私たちのほうに非があります。ですから、どうかお気になさらず」
主とその臣というものは似ることもあるのかもしれない……と美夜は思った。
この源三郎という男は、勝家にとてもよく似た気質と思考を持っているように美夜には感じられた。
「では、源三郎、俺からひとつそなたに頼みがある」
信長のその言葉に、源三郎は首をかしげる。
「はい、何でしょう?」
「万が一にも勝家が窮して自死を選ばざるを得ないような時が来たら、思いとどまらせて俺の元へ連れてこい。あれは絶対に死なせてはならぬ男だ」
信長のその言葉に源三郎は軽く目を開き、そして一礼する。
「ありがとうございます。そのようなことのないように、私たちは勝家様のために働くつもりではありますが、もしもそうしたことになってしまった場合は、お言葉に甘えさせていただきます。では」
源三郎はそう告げると、信長たちに背を向け、末森城へと戻っていった。
蔵ノ介が、少し離れた場所に繋いであった自身の馬と鈴音を連れてきてくれた。
清洲にいたときも伏せっていることが多かったので、鈴音の顔を見るのは本当に久しぶりだった。
美夜は鈴音の首に抱きついた。
「鈴音……また会えて良かった……」
鈴音が顔をこすりつけるようにしてくるので、鈴音も喜んでくれているのだろうかと美夜は思う。
本当にあの地獄のような場所から、無事に出ることができたのだという実感も、ようやくわいてきた。
連日、信行の嫌がらせのような訪問を受け、危うく乱暴されそうになったこともあったが、そんな嫌悪や恐怖も、こうして無事に外へ出ることができたことで、遠い過去のように薄れていく。
「鈴音もそなたに会いたがっているようであったぞ」
「はい……何となく分かります。今も鈴音が喜んでくれているんだなって……」
言葉は話せなくても、不思議と鈴音の気持ちは理解できる気がした。
この世界に来るまでは、美夜にとって馬はそれほど身近な生き物ではなかったけれど、鈴音と毎日のように触れあう中で、馬には人と通じ合える感情のようなものがあるのではないかと感じ始めていた。
「さあ、帰ろう……そなたの身体が心配だ……」
信長はそう告げると、美夜の身体を抱き上げ、鈴音の背に乗せた。
そして自身も美夜の身体を支えるように鈴音の背にまたがった。
こうした二人で乗るやり方は、美夜が信長に馬乗りを教わっている時に何度かしたことがあったが、美夜が一人で馬に乗れるようになってからは、初めてかもしれない。
(馬の乗り方を信長様に教えてもらっていたのは、那古野城にいた時だから、もう随分経つんだ……)
美夜は懐かしくその当時のことを思い出した。
懐かしいといっても、まだ一年も経たないが、あまりにもさまざまなことがありすぎて、もう何年も前の話のようにも思える。
信長が軽く鈴音の腹を叩くと、鈴音は歩き出した。
どうやら清洲まではこの程度の速度で戻るようだった。
このぐらいの速度なら、さほど揺れることもなく、お腹の子にかかる負担も少なく済むかもしれないと、美夜は少し安堵した。
「本当なら輿を使うのが一番良いのだろうが……それが来るのを待っている時間も危険だ。だから、少しの間、辛抱してくれ」
信長は美夜の身体と、そしてお腹の中の子を気遣ってくれているのだろうと美夜は思った。
「はい、あの……気を遣ってくださって、ありがとうございます。それに……またちゃんと言わなくてすみませんでした……赤ちゃんが本当にできているかどうか確かなことは分からないのですが……でも、たぶんいると思います」
妊娠を判定する薬もない時代だから、判断は月のものが止まったことや、悪阻などの身体の状態を見てするしかない。
各務野によると、ある程度が経過すれば、お腹が大きくなり始める前でも、身体の状態を見て妊娠が判断できるのだという。
「ああ、戻ったら侍医に診てもらえ。あの牢の中で随分と身体も堪えただろうから、しばらくは養生すると良い」
「はい……」
妊娠のことは各務野が信長に伝えたのだろうが、各務野は無事なのだろうか……。
各務野の話を聞くのは怖かったが、美夜は思いきって聞いてみた。
「信長様……あの、各務野は大丈夫なんですか? 私が最後に見た時は血がたくさん出てて……だからずっと心配だったんですけど……」
信長の答えは、少し間を置いて返ってきた。
「今、必死に侍医たちに手当てをさせている。だが、正直に言ってあまり良くはない……」
「そうですか……」
「すまぬ……少しは楽観的なことが言える状態であれば良かったのだが……」
「いえ……早く戻って各務野の傍にいてあげたいです……きっと今回のこともすごく気にしていると思うから……」
「ああ、そうだな……各務野は自身の身体のことよりも、そなたのことを心配しておった」
「…………」
「きっと各務野も、そなたが戻れば喜ぶであろう。身体の具合も回復するかもしれぬ」
「はい……」
各務野がまだ危険な状態というのは心配なことではあるが、信長が精一杯力を尽くしてくれているのだから、後は彼女の回復を信じて待つしかないのだろう。
とにもかくにも、各務野に一刻も早く自分とお腹の子の無事を知らせたいと美夜は思った。
(お城に戻ったら……身体を大切にしないと……赤ちゃんに無茶ばっかりさせてしまったから……)
美夜は腹の中の小さな命に謝罪するように、腹部を撫でた。
その手に信長がそっと手を重ねてくる。
「城に戻ったら、無理はしないでほしい。ここにおる子のためにも……」
「はい……」
途中でゆっくりと夜が明け、外が少しずつ明るくなっていった。
「寒くはないか?」
「はい……大丈夫です。信長様も鈴音も温かいですし」
伝わってくる体温があるということが、たった三日のこととはいえ、牢の中で一人でいた美夜にとってはありがたいことだった。
やがて、街道の先に清洲の天守が見えてきて、美夜はようやく戻ってきたのだという安堵を心から感じた。
信長たちが清洲城へ帰城する頃には、空はすっかり明るくなり、朝の日差しが眩しく城を照らしていた。
その足音に警戒するように、蔵ノ介は自分の腰にある刀に手を触れた。
信長も美夜を背後にしながら、鯉口を切る。
その場に緊張が張り詰めた。
どうやら近づいてくる足音は一人のようだった。
やがて、一人の男が姿を現した。
「勝家様!」
源三郎が声を上げた。
やって来たのは柴田勝家だった。
勝家はそこに信長の姿を認め、驚いたように目を見開く。
「信長様……なぜここに……」
「あ、勝家様……実は……」
と、源三郎がこれまでの経緯を勝家に説明する。
源三郎が清洲へ向かう途中で信長と蔵ノ介に出会い、二人のたっての希望で連れてきたということ。
帰蝶が懐妊していることを知り、源三郎自身も帰蝶の救出を急ぐ必要があると考えたこと。
さらには、今宵は宴が開かれていたこともあり、末森城の警護がいつもよりも緩いという好機でもあり、自分の判断で信長たちをここまで連れてきたのだと……。
柴田勝家はひとつひとつの報告を大きく頷きながら聞いている。
(信長様……知ってたんだ……私のお腹に赤ちゃんがいるかもしれないこと……)
源三郎の話を聞きながら、美夜はそのことに驚いていた。
このことを知っているのは各務野だけのはずだから、おそらく各務野の口から語られたのだろう。
(じゃあ……各務野は生きてるのかも……)
美夜は少しそんな希望を抱いた。
あの時の血だまりを見た美夜は、各務野の命はもうないものと考えていたが、もしも生きていてもう一度会えるのだとしたら、これほど嬉しいことはない。
各務野にたくさん謝りたいこともある……。
源三郎の話を聞き終えた勝家は、家臣をねぎらった。
「なるほど、そういうことであったか。ご苦労であった、源三郎。よくやってくれた」
そして柴田勝家は信長に向き直る。
「信長様、此度のこと、主の信行様に成り代わりましてお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした」
勝家はそう言って、深々と頭を下げる。
「いや、そなたがいてくれたおかげで、こうして無事に帰蝶を連れ帰ることができるのだ。そなたに謝罪を受ける理由は俺にはないのだがな」
「しかし、無抵抗な帰蝶様を乱暴に連れ去り、このような場所に閉じ込めるというような行為は、決して許されることではありません。帰蝶様にも申し訳ありませんでした」
勝家に改めて頭を下げられ、美夜は少し慌ててしまう。
「いえ、勝家殿にはここにいる間、ずっと励ましてもらいましたから、私は感謝しています。勝家殿のおかげで、ここに閉じ込められていても希望を失わずに済みました。助けてくれると知ったから、逃げるときのことを考えて、ご飯もちゃんと食べたり、なるべく足を動かすようにしたりすることもできました。だから今もこうしてちゃんと歩けていますし……あの、本当にいろいろとありがとうございました」
勝家に対しては感謝こそすれ、謝罪を受けるような理由は美夜にもまったく見当たらなかった。
「あ、あの……礼などを言われると、こちらとしても困ってしまいますので……」
強面の顔が少し慌てているのを見て、信長は笑みを浮かべる。
「勝家、俺からも礼を言う。よく帰蝶を守ってくれた」
信長からも礼を言われた勝家は、さらに困惑の表情を浮かべる。
「いえ……本当に此度のことは、我々の側に非があります。ですから、信長様も礼などはよしてください。どのように応じて良いのか、私が戸惑ってしまいます」
勝家が本当に戸惑っている様子が伝わってきて、美夜は何だか微笑ましい気持ちになる。
この柴田勝家という男は、今は信行の家臣で信長とは敵対しているが、きちんと芯が通っている心のある男だと美夜は思った。
そして、今は信長とは敵と味方の関係ではあるが、史実の通りだとしたら、いずれ勝家は信長に仕えることになるのだろうか……と、そんなことも考えた。
「ともかく、逃げるのなら今のうちです。夜明けの鐘が鳴る頃には、皆が起き出してきます」
「そうだな。急がなくてはなるまい」
信長がそう応じると、勝家は咳払いをしてから笑う。
「こうして信長様が無事に帰蝶様を取り戻されたからには、信行様も正々堂々戦うしかありますまい。信長様、次にお会いするときは戦場ですな」
勝家のその言葉を聞き、今は戦争中なのだということを、美夜は改めて思い出した。
いざ戦が始まれば、この勝家とも信長は戦わなくてはならなくなる。
今は一時的に休戦状態のようになっているだけなのだと……。
信長もさすがに勝家のような人材が惜しいと考えたのか、こんな提案をした。
「勝家、俺に仕える気はないか? そなたのような将こそ、俺は求めておるのだが」
信長のそんな誘いにも表情を崩さず、勝家は答える。
「信長様、私の主は健在です。私は主の信行様をお助し、信長様を討つつもりでおります」
どこまでも筋を通す人なのだな……と美夜は思ったが、どうやら彼を味方につけるのは今は無理な話のようだった。
「いずれこの礼は必ずする。それまで生きておれよ、勝家」
「はい。私は往生際が悪いですから、そう簡単には死にません。それよりお急ぎください。今ならまだ誰にも気づかれていませんから、さほどの困難なく脱出できるはずです」
「分かった。行こう、帰蝶」
「はい」
再び信長に手を引かれ、美夜は頷いた。
「源三郎、信長様たちを無事に城の外へお連れしろ」
「はっ、承知しました」
主の命に頷いて、来たときと同じように源三郎が先を行く。
「源三郎、帰蝶の体調が万全ではないから、来るときよりは歩く速度を緩めてくれると助かる」
信長がそう言うと、源三郎は頷いた。
「承知しました。帰蝶様の状態を確認しつつ、移動します。ですが、もしもお辛いときは遠慮なく言ってください」
やがて少し時間はかかったものの、美夜たちは無事に城の外へ出ることができた。
まだ夜明けも前の起きている者が少ない時間とあって、帰りは行きよりも城中で人と会うことがなかった。
おかげで美夜もさほど無理をせず、無事に城の抜け道にたどり着き、抜け道から城の外へと出ることができたのだった。
「それでは、私はここで失礼します」
城から少し離れたところまで見送ってくれた源三郎が、信長にそう告げた。
「源三郎、そなたに礼がしたい。礼を思いついたら、いつでも俺に言うてくるが良い」
「ありがとうございます。でも、勝家様も仰っておられましたが、今回のことは私たちのほうに非があります。ですから、どうかお気になさらず」
主とその臣というものは似ることもあるのかもしれない……と美夜は思った。
この源三郎という男は、勝家にとてもよく似た気質と思考を持っているように美夜には感じられた。
「では、源三郎、俺からひとつそなたに頼みがある」
信長のその言葉に、源三郎は首をかしげる。
「はい、何でしょう?」
「万が一にも勝家が窮して自死を選ばざるを得ないような時が来たら、思いとどまらせて俺の元へ連れてこい。あれは絶対に死なせてはならぬ男だ」
信長のその言葉に源三郎は軽く目を開き、そして一礼する。
「ありがとうございます。そのようなことのないように、私たちは勝家様のために働くつもりではありますが、もしもそうしたことになってしまった場合は、お言葉に甘えさせていただきます。では」
源三郎はそう告げると、信長たちに背を向け、末森城へと戻っていった。
蔵ノ介が、少し離れた場所に繋いであった自身の馬と鈴音を連れてきてくれた。
清洲にいたときも伏せっていることが多かったので、鈴音の顔を見るのは本当に久しぶりだった。
美夜は鈴音の首に抱きついた。
「鈴音……また会えて良かった……」
鈴音が顔をこすりつけるようにしてくるので、鈴音も喜んでくれているのだろうかと美夜は思う。
本当にあの地獄のような場所から、無事に出ることができたのだという実感も、ようやくわいてきた。
連日、信行の嫌がらせのような訪問を受け、危うく乱暴されそうになったこともあったが、そんな嫌悪や恐怖も、こうして無事に外へ出ることができたことで、遠い過去のように薄れていく。
「鈴音もそなたに会いたがっているようであったぞ」
「はい……何となく分かります。今も鈴音が喜んでくれているんだなって……」
言葉は話せなくても、不思議と鈴音の気持ちは理解できる気がした。
この世界に来るまでは、美夜にとって馬はそれほど身近な生き物ではなかったけれど、鈴音と毎日のように触れあう中で、馬には人と通じ合える感情のようなものがあるのではないかと感じ始めていた。
「さあ、帰ろう……そなたの身体が心配だ……」
信長はそう告げると、美夜の身体を抱き上げ、鈴音の背に乗せた。
そして自身も美夜の身体を支えるように鈴音の背にまたがった。
こうした二人で乗るやり方は、美夜が信長に馬乗りを教わっている時に何度かしたことがあったが、美夜が一人で馬に乗れるようになってからは、初めてかもしれない。
(馬の乗り方を信長様に教えてもらっていたのは、那古野城にいた時だから、もう随分経つんだ……)
美夜は懐かしくその当時のことを思い出した。
懐かしいといっても、まだ一年も経たないが、あまりにもさまざまなことがありすぎて、もう何年も前の話のようにも思える。
信長が軽く鈴音の腹を叩くと、鈴音は歩き出した。
どうやら清洲まではこの程度の速度で戻るようだった。
このぐらいの速度なら、さほど揺れることもなく、お腹の子にかかる負担も少なく済むかもしれないと、美夜は少し安堵した。
「本当なら輿を使うのが一番良いのだろうが……それが来るのを待っている時間も危険だ。だから、少しの間、辛抱してくれ」
信長は美夜の身体と、そしてお腹の中の子を気遣ってくれているのだろうと美夜は思った。
「はい、あの……気を遣ってくださって、ありがとうございます。それに……またちゃんと言わなくてすみませんでした……赤ちゃんが本当にできているかどうか確かなことは分からないのですが……でも、たぶんいると思います」
妊娠を判定する薬もない時代だから、判断は月のものが止まったことや、悪阻などの身体の状態を見てするしかない。
各務野によると、ある程度が経過すれば、お腹が大きくなり始める前でも、身体の状態を見て妊娠が判断できるのだという。
「ああ、戻ったら侍医に診てもらえ。あの牢の中で随分と身体も堪えただろうから、しばらくは養生すると良い」
「はい……」
妊娠のことは各務野が信長に伝えたのだろうが、各務野は無事なのだろうか……。
各務野の話を聞くのは怖かったが、美夜は思いきって聞いてみた。
「信長様……あの、各務野は大丈夫なんですか? 私が最後に見た時は血がたくさん出てて……だからずっと心配だったんですけど……」
信長の答えは、少し間を置いて返ってきた。
「今、必死に侍医たちに手当てをさせている。だが、正直に言ってあまり良くはない……」
「そうですか……」
「すまぬ……少しは楽観的なことが言える状態であれば良かったのだが……」
「いえ……早く戻って各務野の傍にいてあげたいです……きっと今回のこともすごく気にしていると思うから……」
「ああ、そうだな……各務野は自身の身体のことよりも、そなたのことを心配しておった」
「…………」
「きっと各務野も、そなたが戻れば喜ぶであろう。身体の具合も回復するかもしれぬ」
「はい……」
各務野がまだ危険な状態というのは心配なことではあるが、信長が精一杯力を尽くしてくれているのだから、後は彼女の回復を信じて待つしかないのだろう。
とにもかくにも、各務野に一刻も早く自分とお腹の子の無事を知らせたいと美夜は思った。
(お城に戻ったら……身体を大切にしないと……赤ちゃんに無茶ばっかりさせてしまったから……)
美夜は腹の中の小さな命に謝罪するように、腹部を撫でた。
その手に信長がそっと手を重ねてくる。
「城に戻ったら、無理はしないでほしい。ここにおる子のためにも……」
「はい……」
途中でゆっくりと夜が明け、外が少しずつ明るくなっていった。
「寒くはないか?」
「はい……大丈夫です。信長様も鈴音も温かいですし」
伝わってくる体温があるということが、たった三日のこととはいえ、牢の中で一人でいた美夜にとってはありがたいことだった。
やがて、街道の先に清洲の天守が見えてきて、美夜はようやく戻ってきたのだという安堵を心から感じた。
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