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第四章
身代わり濃姫(75)
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薬で眠らせた信長を布団に寝かし終えると、藤吉郎と蔵ノ介は、何かに耐えるような表情で部屋を出る。
襖を閉めると、蔵ノ介は藤吉郎に向き直った。
藤吉郎が見る蔵ノ介の表情は、これまでに見たことがないほどに硬く、今の状況がいかに深刻なのかを物語っている。
信長が目を覚ますまでにはすべての決着を付ける必要があるが、その決着が必ずしも信長の望むものになるとは、今は限らない状態である、ということも影響しているのだろう。
けれども、蔵ノ介も藤吉郎も、最優先にするべきは信長の命であり、信長の願いを叶えることではなかった。
最大限の手は尽くしても信長の願いとは違う方向に結果が向いてしまった場合……目を覚ました時の信長の絶望を思うと、二人の表情は沈痛なものにならざるを得ないのだ。
「藤吉郎、しばらくこの清洲城はお前に預けます。良いですね?」
蔵ノ介の言葉に、藤吉郎は驚いたように顔を上げた。
「え? し、しかし蔵ノ介様は……」
「準備ができ次第、私は単独で末森城に向かいます。清洲様をお救いできるよう、できる限りのことはしますが、もしも私が戻らなかった場合は、堺にいる藤ノ助を呼び戻してください。それだけであの愚弟も、自分が呼び戻された意味は理解するでしょう」
「ですが、蔵ノ介様お一人ではあまりに危険すぎませぬか?」
藤吉郎が聞くと、蔵ノ介は苦笑する。
「単独のほうが良いのです。おそらく今回の場合、単独でなければ帰蝶様をお救いするのは難しいでしょう」
「蔵ノ介様……」
「私にもしものことがあった時は、藤ノ助を支えて里を守り……そして信長様を、織田家を守ってください。これはお前にしか頼めないことです、藤吉郎」
蔵ノ介の言葉に、藤吉郎はしっかりと頷いた。
「はい……必ず……」
蔵ノ介は笑みを浮かべると、準備のために自分の部屋へと戻っていった。
(どうか……ご無事に戻ってきてください、蔵ノ介様……貴方は里に……そして織田家になくてはならない御方なのですから……)
立ち去って行く蔵ノ介の姿を、藤吉郎は祈るような気持ちで見送った。
二人が部屋を立ち去った後、信長は左手を押さえながら起き上がった。
信長の左の手の甲には、深々と一本の太い針が刺さっている。
それを信長は一気に引き抜いた。
「…………ッ…………!!!!」
何とか声を堪え、信長は血が滲む手に近くにあった布を巻き付けて止血する。
薬を嗅がされ、いったんは意識を失った信長だったが、先ほど僅かに覚醒し、隙を見て自身の手を護身用にしのばせていた針で貫いた。
そして、その痛みによって意識を完全に覚醒させていたのだった。
これで左手は当分は満足に使えないだろうが、利き腕が使えるのなら、末森城へ行くことぐらいは何とかなりそうだ。
薬を嗅がされた瞬間に咄嗟に息を止め、薬を深く吸い込まなかったのも幸いしたのだろう。
深く吸い込んでいたならば、こうして覚醒することはなかったはずだ。
ただ、身体は普段通りには動かない。
まだ薬はある程度効いているし、眠気は断続的に襲いかかってくる。
それでも何とか起き上がり、信長はそっと部屋を抜け出した。
蔵ノ介たちは、信長が完全に眠っていると思い込んでいたこともあり、幸いにも部屋の外に監視はついていないようだった。
信長は人に見られず建物の外へ出ることのできる抜け道を使って外へ出ると、そこから厩舎まで一気に駆けた。
厩舎には厩番が二人いたが、信長はその二人を峰打ちで気絶させると、美夜の馬である鈴音を厩舎から出した。
今が見張りの少ない夜半の時間であることが、信長には幸いした。
「そなたの主を迎えに行くぞ、鈴音……」
鈴音にまたがって信長がそう囁くと、鈴音にもそれが伝わったのか、自ら駆けだし始めた。
蔵ノ介や藤吉郎が信長がいないということに気づくまでには、少しの時間がかかった。
蔵ノ介は末森城へ向かう準備に忙しく、藤吉郎も蔵ノ介の仕事の引き継ぎで慌ただしい時間を過ごしていたからだ。
出発をする前に信長に最後になるかもしれない挨拶をしておこうと考えた蔵ノ介が、信長を寝かせていた部屋に入ると、そこにはもう信長の姿がなかった。
布団の上には血痕が残っており、おそらくこれは信長が自らつけた傷によるものと考えられた。
「まさか……あの薬が効かなかったなんて……」
蔵ノ介に呼ばれた藤吉郎が、青ざめた顔をしている。
自分の嗅がせた薬に何か問題があったのではないかと考えたのだろう。
「いえ。薬が効かなかったのではなく、信長様の精神力が薬に勝っていたということなのでしょう。ともかく私は信長様を追います。藤吉郎、後は任せました」
「は、はい……でも、信長様を追いかけるなら、誰かもっと人を……」
「信長様の馬に追いつける者は、今この城には藤吉郎か私しかいません」
蔵ノ介のその言葉に、藤吉郎は目を伏せる。
確かに、信長が馬に乗った時の速さは普通の者とは比べものにならないもので、そこそこ馬を乗りこなすことができる者はこの城にも何人かはいるが、信長に確実に追いつくことができるのは、蔵ノ介と藤ノ助、そして藤吉郎と明智光秀ぐらいのものだった。
そして、藤ノ助も明智光秀も今はこの城にはいない。
「では、後のことは頼みましたよ、藤吉郎」
「はい……蔵ノ介様、どうか信長様をよろしくお願いします」
「もちろんです。私もこれ以上の失態を重ねるわけにはいきませんからね」
蔵ノ介はそう言って笑うと、藤吉郎に背を向けた。
その頃、信長は時折意識が朦朧としてくるのに抗いながら、鈴音を全速で走らせていた。
薬のせいで身体が万全でないこともあるが、真冬の凍えるような寒さと左手の疼くような痛みが信長の意識を覚醒させてくれる。
鈴音はそんな信長を背に乗せ、まるで自らが誘導するように快適に走り続けていた。
鈴音にも、今から向かう先に自分の主がおり、その主を帰りは乗せて帰るのだということが分かっているかのようだった。
おそらく、背後からはすでに蔵ノ介なり藤吉郎なりが追いかけてきているだろう。
だから、たとえ意識が朦朧としてくることがあっても、信長は止まることができなかった。
(鈴音はよく走ってくれてはいるが……この速さはいつもの俺に比べると遅いのだろうな……)
本気で鈴音に鞭打てば、もっと速く駆けさせることもできるのかもしれないが、美夜を乗せての帰りのことを考えて鈴音に無理をさせたくないと信長は考えていた。
それに、信長自身の今の状態では、本気を出した鈴音を乗りこなせるかどうか自信がないということもあった。
(鈴音……末森城まで何とか頑張ってくれ……)
信長は祈るような気持ちで、鈴音を駆けさせ続けた。
一方の蔵ノ介も、すぐに信長の後を追った。
厩舎から消えていたのは信長の馬ではなく帰蝶の馬だったことから考えても、信長は自身が戻るということはまったく考えていないのだと理解できる。
信長が薬の効力をはねのけたとはいえ、その効き目はまだ残っているはずで、しかも自分の馬ではない馬に乗っているのだから、蔵ノ介が本気を出せば、信長が末森城に着くまでには追いつくことができるはずだった。
信長は追っ手のことは考えず、末森城への最短距離の道を行くはずだから、信長と違う道を行く心配もない。
こうしたとき、長い時間一緒にいたという経験が役に立つ……と、蔵ノ介は皮肉にも感じた。
(しかし……帰蝶様が身ごもっておられたとは……)
確かに、帰蝶の体調不良については蔵ノ介も不思議に感じるところがあったが、医師の見立ても風邪だというので、風邪をこじらせたのだろうという程度に考えてしまっていた。
もしも帰蝶の懐妊が分かっていれば、自然と警護を固めることになっていたはずだ……そう考えかけて蔵ノ介は慌てて首を振る。
すべては懐妊の可能性に考えが至らなかった自分の未熟さだと、蔵ノ介は思い直した。
すべてにおいて完璧を心がけてきただけに、蔵ノ介は今回の自分の失態をまだ受け入れることができていないところもある。
だから、何かと言い訳を探してしまい、慌てて否定するというようなことを蔵ノ介は自分らしくもなく繰り返していた。
だが、結果論からいえば、どんな事情があるにせよ、今回のことはすべて蔵ノ介に責任があった。
自分の珍しい精神状態を自己分析しつつ、蔵ノ介は信長の後を追った。
末森城まであと半分という距離に近づいてきたとき、目の前から馬に乗った者が近づいてくるのが分かり、信長は警戒した。
追っ手があることを考えるとあまり時間を取られたくない。
このまま素通りできるのならしたいと信長は考え、鈴音をさらに加速させようとしたのだが。
「信長様!?」
ふいに呼ばれるはずのないところで自分の名を呼ばれ、信長は思わず鈴音の手綱を引いた。
彼も馬を止め、信長を振り返っている。
(しまった……止まる必要はなかったか……)
信長は後悔したが遅かった。
薬のせいもあり、いつもより自分の判断力が鈍っているのだろうと信長は思った。
信長は右手を腰に差した刀に触れつつ、馬に乗った相手に警戒した。
この顔には見覚えがある。
おそらく信行の家臣の誰かなのだろう。
しかし、相手は信長の予想を裏切って馬をおり、信長の前に平伏したのだった。
「私は柴田勝家様にお仕えする木村源三郎といいます。信長様へ勝家様からの言づてをお伝えするために、清洲へ向かっている途中でした」
「勝家から俺に言づて?」
信長は驚いて自身も鈴音から下りた。
柴田勝家は信行に仕える家臣の中でも、少し特異な位置にいる者だと信長は覚えていた。
いわゆる信行派と呼ばれる者たちとは一線を画しているが、信行に対する忠義は他の誰よりも篤かったはずだ。
そんな勝家の家臣が、いったい自分にどんな言づてをしようというのだろうか……。
源三郎は平伏したまま勝家の言づてを信長に伝えた。
「おそらく今日、信行様より帰蝶様のことについて報せが届いたことと思いますが、挑発には乗らないで少しお待ちいただきたいと。今、勝家様を始め、今回のことに賛同できぬ者たちが力を合わせ、帰蝶様を信長様の元へお返ししようと動いております。ですから、迂闊な行動は取らないでいただきたいというのが、我が主、勝家様からの言づてでございます」
「勝家が……そうか……」
柴田勝家の性格を人づてながらにも知る信長は、彼らしい考え方だと理解した。
正義感が強く、卑怯なことが嫌いであると、勝家を知る者は皆、口をそろえて言う。
これまでの信行の頭利口なやり方に、毎回苦言を呈して信行からも煙たがられているところがあるとも聞いたことがある。
だが、家臣たちからの信頼も篤く、父の信秀の時代から数々の武勲をあげている、織田家にとっても重要な人物であるため、信行自身も勝家を無碍にはできないところがあるようだった。
そんな勝家が、主をある意味で裏切るような真似をするというのは、彼にとって今回のことによほど耐えかねることだったのだろうと信長は思った。
「信長様、もしも今、末森城へ行こうとしておられたのでしたら、このまま清洲へお帰りください。じきに準備が整いましたら、必ずご連絡をさしあげますので」
源三郎はそう言ったが、信長としては首肯することはできなかった。
美夜は身ごもっている。
美夜の身体と腹の子のことを考えれば、これ以上待つことはできず、一刻も早い救出が必要だった。
「言づては確かに受け取った。だが、俺はこのまま末森城へ向かう」
「信長様、しかしそれは……」
「急がねばならぬ理由があるのだ。たとえ俺の命が奪われるようなことがあっても」
信長のその言葉に、源三郎は揺るがない強い意志を感じた。
きっと源三郎が何を言ったところで、信長は末森城へ向かうのだろう。
ならば、この際自分にできることをやるしかない……と源三郎は腹をくくった。
「では、私も一緒に城へ戻ります。まだ準備は整っていませんが、できるだけ無事に帰蝶様をお連れできるように何とか動いてみますので」
「そうか。それは助かる」
話がまとまったところで、馬が近づいてくる気配がした。
信長を追ってきた者……しかも蔵ノ介であろうと信長は思った。
近づいてきた馬を見ると、確かにそれは蔵ノ介のものだった。
どうやら源三郎と話をしているうちに、追いつかれてしまったようだ。
襖を閉めると、蔵ノ介は藤吉郎に向き直った。
藤吉郎が見る蔵ノ介の表情は、これまでに見たことがないほどに硬く、今の状況がいかに深刻なのかを物語っている。
信長が目を覚ますまでにはすべての決着を付ける必要があるが、その決着が必ずしも信長の望むものになるとは、今は限らない状態である、ということも影響しているのだろう。
けれども、蔵ノ介も藤吉郎も、最優先にするべきは信長の命であり、信長の願いを叶えることではなかった。
最大限の手は尽くしても信長の願いとは違う方向に結果が向いてしまった場合……目を覚ました時の信長の絶望を思うと、二人の表情は沈痛なものにならざるを得ないのだ。
「藤吉郎、しばらくこの清洲城はお前に預けます。良いですね?」
蔵ノ介の言葉に、藤吉郎は驚いたように顔を上げた。
「え? し、しかし蔵ノ介様は……」
「準備ができ次第、私は単独で末森城に向かいます。清洲様をお救いできるよう、できる限りのことはしますが、もしも私が戻らなかった場合は、堺にいる藤ノ助を呼び戻してください。それだけであの愚弟も、自分が呼び戻された意味は理解するでしょう」
「ですが、蔵ノ介様お一人ではあまりに危険すぎませぬか?」
藤吉郎が聞くと、蔵ノ介は苦笑する。
「単独のほうが良いのです。おそらく今回の場合、単独でなければ帰蝶様をお救いするのは難しいでしょう」
「蔵ノ介様……」
「私にもしものことがあった時は、藤ノ助を支えて里を守り……そして信長様を、織田家を守ってください。これはお前にしか頼めないことです、藤吉郎」
蔵ノ介の言葉に、藤吉郎はしっかりと頷いた。
「はい……必ず……」
蔵ノ介は笑みを浮かべると、準備のために自分の部屋へと戻っていった。
(どうか……ご無事に戻ってきてください、蔵ノ介様……貴方は里に……そして織田家になくてはならない御方なのですから……)
立ち去って行く蔵ノ介の姿を、藤吉郎は祈るような気持ちで見送った。
二人が部屋を立ち去った後、信長は左手を押さえながら起き上がった。
信長の左の手の甲には、深々と一本の太い針が刺さっている。
それを信長は一気に引き抜いた。
「…………ッ…………!!!!」
何とか声を堪え、信長は血が滲む手に近くにあった布を巻き付けて止血する。
薬を嗅がされ、いったんは意識を失った信長だったが、先ほど僅かに覚醒し、隙を見て自身の手を護身用にしのばせていた針で貫いた。
そして、その痛みによって意識を完全に覚醒させていたのだった。
これで左手は当分は満足に使えないだろうが、利き腕が使えるのなら、末森城へ行くことぐらいは何とかなりそうだ。
薬を嗅がされた瞬間に咄嗟に息を止め、薬を深く吸い込まなかったのも幸いしたのだろう。
深く吸い込んでいたならば、こうして覚醒することはなかったはずだ。
ただ、身体は普段通りには動かない。
まだ薬はある程度効いているし、眠気は断続的に襲いかかってくる。
それでも何とか起き上がり、信長はそっと部屋を抜け出した。
蔵ノ介たちは、信長が完全に眠っていると思い込んでいたこともあり、幸いにも部屋の外に監視はついていないようだった。
信長は人に見られず建物の外へ出ることのできる抜け道を使って外へ出ると、そこから厩舎まで一気に駆けた。
厩舎には厩番が二人いたが、信長はその二人を峰打ちで気絶させると、美夜の馬である鈴音を厩舎から出した。
今が見張りの少ない夜半の時間であることが、信長には幸いした。
「そなたの主を迎えに行くぞ、鈴音……」
鈴音にまたがって信長がそう囁くと、鈴音にもそれが伝わったのか、自ら駆けだし始めた。
蔵ノ介や藤吉郎が信長がいないということに気づくまでには、少しの時間がかかった。
蔵ノ介は末森城へ向かう準備に忙しく、藤吉郎も蔵ノ介の仕事の引き継ぎで慌ただしい時間を過ごしていたからだ。
出発をする前に信長に最後になるかもしれない挨拶をしておこうと考えた蔵ノ介が、信長を寝かせていた部屋に入ると、そこにはもう信長の姿がなかった。
布団の上には血痕が残っており、おそらくこれは信長が自らつけた傷によるものと考えられた。
「まさか……あの薬が効かなかったなんて……」
蔵ノ介に呼ばれた藤吉郎が、青ざめた顔をしている。
自分の嗅がせた薬に何か問題があったのではないかと考えたのだろう。
「いえ。薬が効かなかったのではなく、信長様の精神力が薬に勝っていたということなのでしょう。ともかく私は信長様を追います。藤吉郎、後は任せました」
「は、はい……でも、信長様を追いかけるなら、誰かもっと人を……」
「信長様の馬に追いつける者は、今この城には藤吉郎か私しかいません」
蔵ノ介のその言葉に、藤吉郎は目を伏せる。
確かに、信長が馬に乗った時の速さは普通の者とは比べものにならないもので、そこそこ馬を乗りこなすことができる者はこの城にも何人かはいるが、信長に確実に追いつくことができるのは、蔵ノ介と藤ノ助、そして藤吉郎と明智光秀ぐらいのものだった。
そして、藤ノ助も明智光秀も今はこの城にはいない。
「では、後のことは頼みましたよ、藤吉郎」
「はい……蔵ノ介様、どうか信長様をよろしくお願いします」
「もちろんです。私もこれ以上の失態を重ねるわけにはいきませんからね」
蔵ノ介はそう言って笑うと、藤吉郎に背を向けた。
その頃、信長は時折意識が朦朧としてくるのに抗いながら、鈴音を全速で走らせていた。
薬のせいで身体が万全でないこともあるが、真冬の凍えるような寒さと左手の疼くような痛みが信長の意識を覚醒させてくれる。
鈴音はそんな信長を背に乗せ、まるで自らが誘導するように快適に走り続けていた。
鈴音にも、今から向かう先に自分の主がおり、その主を帰りは乗せて帰るのだということが分かっているかのようだった。
おそらく、背後からはすでに蔵ノ介なり藤吉郎なりが追いかけてきているだろう。
だから、たとえ意識が朦朧としてくることがあっても、信長は止まることができなかった。
(鈴音はよく走ってくれてはいるが……この速さはいつもの俺に比べると遅いのだろうな……)
本気で鈴音に鞭打てば、もっと速く駆けさせることもできるのかもしれないが、美夜を乗せての帰りのことを考えて鈴音に無理をさせたくないと信長は考えていた。
それに、信長自身の今の状態では、本気を出した鈴音を乗りこなせるかどうか自信がないということもあった。
(鈴音……末森城まで何とか頑張ってくれ……)
信長は祈るような気持ちで、鈴音を駆けさせ続けた。
一方の蔵ノ介も、すぐに信長の後を追った。
厩舎から消えていたのは信長の馬ではなく帰蝶の馬だったことから考えても、信長は自身が戻るということはまったく考えていないのだと理解できる。
信長が薬の効力をはねのけたとはいえ、その効き目はまだ残っているはずで、しかも自分の馬ではない馬に乗っているのだから、蔵ノ介が本気を出せば、信長が末森城に着くまでには追いつくことができるはずだった。
信長は追っ手のことは考えず、末森城への最短距離の道を行くはずだから、信長と違う道を行く心配もない。
こうしたとき、長い時間一緒にいたという経験が役に立つ……と、蔵ノ介は皮肉にも感じた。
(しかし……帰蝶様が身ごもっておられたとは……)
確かに、帰蝶の体調不良については蔵ノ介も不思議に感じるところがあったが、医師の見立ても風邪だというので、風邪をこじらせたのだろうという程度に考えてしまっていた。
もしも帰蝶の懐妊が分かっていれば、自然と警護を固めることになっていたはずだ……そう考えかけて蔵ノ介は慌てて首を振る。
すべては懐妊の可能性に考えが至らなかった自分の未熟さだと、蔵ノ介は思い直した。
すべてにおいて完璧を心がけてきただけに、蔵ノ介は今回の自分の失態をまだ受け入れることができていないところもある。
だから、何かと言い訳を探してしまい、慌てて否定するというようなことを蔵ノ介は自分らしくもなく繰り返していた。
だが、結果論からいえば、どんな事情があるにせよ、今回のことはすべて蔵ノ介に責任があった。
自分の珍しい精神状態を自己分析しつつ、蔵ノ介は信長の後を追った。
末森城まであと半分という距離に近づいてきたとき、目の前から馬に乗った者が近づいてくるのが分かり、信長は警戒した。
追っ手があることを考えるとあまり時間を取られたくない。
このまま素通りできるのならしたいと信長は考え、鈴音をさらに加速させようとしたのだが。
「信長様!?」
ふいに呼ばれるはずのないところで自分の名を呼ばれ、信長は思わず鈴音の手綱を引いた。
彼も馬を止め、信長を振り返っている。
(しまった……止まる必要はなかったか……)
信長は後悔したが遅かった。
薬のせいもあり、いつもより自分の判断力が鈍っているのだろうと信長は思った。
信長は右手を腰に差した刀に触れつつ、馬に乗った相手に警戒した。
この顔には見覚えがある。
おそらく信行の家臣の誰かなのだろう。
しかし、相手は信長の予想を裏切って馬をおり、信長の前に平伏したのだった。
「私は柴田勝家様にお仕えする木村源三郎といいます。信長様へ勝家様からの言づてをお伝えするために、清洲へ向かっている途中でした」
「勝家から俺に言づて?」
信長は驚いて自身も鈴音から下りた。
柴田勝家は信行に仕える家臣の中でも、少し特異な位置にいる者だと信長は覚えていた。
いわゆる信行派と呼ばれる者たちとは一線を画しているが、信行に対する忠義は他の誰よりも篤かったはずだ。
そんな勝家の家臣が、いったい自分にどんな言づてをしようというのだろうか……。
源三郎は平伏したまま勝家の言づてを信長に伝えた。
「おそらく今日、信行様より帰蝶様のことについて報せが届いたことと思いますが、挑発には乗らないで少しお待ちいただきたいと。今、勝家様を始め、今回のことに賛同できぬ者たちが力を合わせ、帰蝶様を信長様の元へお返ししようと動いております。ですから、迂闊な行動は取らないでいただきたいというのが、我が主、勝家様からの言づてでございます」
「勝家が……そうか……」
柴田勝家の性格を人づてながらにも知る信長は、彼らしい考え方だと理解した。
正義感が強く、卑怯なことが嫌いであると、勝家を知る者は皆、口をそろえて言う。
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だが、家臣たちからの信頼も篤く、父の信秀の時代から数々の武勲をあげている、織田家にとっても重要な人物であるため、信行自身も勝家を無碍にはできないところがあるようだった。
そんな勝家が、主をある意味で裏切るような真似をするというのは、彼にとって今回のことによほど耐えかねることだったのだろうと信長は思った。
「信長様、もしも今、末森城へ行こうとしておられたのでしたら、このまま清洲へお帰りください。じきに準備が整いましたら、必ずご連絡をさしあげますので」
源三郎はそう言ったが、信長としては首肯することはできなかった。
美夜は身ごもっている。
美夜の身体と腹の子のことを考えれば、これ以上待つことはできず、一刻も早い救出が必要だった。
「言づては確かに受け取った。だが、俺はこのまま末森城へ向かう」
「信長様、しかしそれは……」
「急がねばならぬ理由があるのだ。たとえ俺の命が奪われるようなことがあっても」
信長のその言葉に、源三郎は揺るがない強い意志を感じた。
きっと源三郎が何を言ったところで、信長は末森城へ向かうのだろう。
ならば、この際自分にできることをやるしかない……と源三郎は腹をくくった。
「では、私も一緒に城へ戻ります。まだ準備は整っていませんが、できるだけ無事に帰蝶様をお連れできるように何とか動いてみますので」
「そうか。それは助かる」
話がまとまったところで、馬が近づいてくる気配がした。
信長を追ってきた者……しかも蔵ノ介であろうと信長は思った。
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