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第四章
身代わり濃姫(74)
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目を覚ました美夜は、とりあえずゆっくりと身を起こして立ち上がってみる。
(今日は何とか立てるみたい……でも、まだちょっと身体が動かし辛いかも……)
薬の効き目のおかげでまだ身体の動かしづらさは感じるものの、ここへ来て悪阻のほうは少し影を潜めたようだった。
多少は悪阻の気配を感じるものの、吐き気を堪えられないほどのことがないから、食欲はあまりないものの、何とか体力を奪われずに済んでいる。
昨日話しかけてきてくれた柴田勝家の言葉を信じるなら、この数日のうちに、脱出の機会は来るはずで、その時まで美夜は体力を温存し、脱出がスムーズに行くようにしなくてはならないと考えていた。
少しずつ、身体を動かす練習をするために、狭い牢のような部屋の中を、ゆっくりと歩いてみたり、座ったまま足を動かして筋肉を刺激したりした。
このところ、美夜はほとんど床を離れることができなかったので、ただでさえ足腰の筋肉は弱っているはずだ。
(絶対に……生きて信長様のところへ戻る……!)
今の美夜にとって、それだけが唯一無二の目標だった。
しかし、少し動いているうちに、足がもつれて転びそうになってしまい、美夜は慌てて牢の壁に手をついた。
(転んだりしたら大変……もしお腹に赤ちゃんがいたら、びっくりさせてしまう……)
もう一度慎重に立ちあがり、布団に戻って休もうかと思ったとき、格子の向こうから嫌な声が聞こえてきた。
「なかなか薬の効き目が切れないようですね、義姉上」
「…………」
いつの間にそこにいたのか、信行が格子の向こうで笑っていた。
信長と面影は似ているのに、その性格や雰囲気はまるで違う。
そして、美夜は信長の性格や雰囲気は好きだが、この信行の性格や雰囲気はまったくもって受け付けないということが改めてわかった。
「何も言ってくれないんですか。つれないですね、義姉上は」
「…………」
信行のことは相手にするまいと考えていたのだが、ふいに信行が格子にかけてある鍵を開いて中へと入ってきたので、美夜は驚いてしまう。
こんなふうに身体の自由がきかない状態では、信行に何かをされても抵抗することができない。
それに何より、お腹の中の子に何かがあったらと思うと、美夜は恐ろしさに身体が震え出すのを感じた。
信行は美夜の身体を、強引に布団の上に押し倒してくる。
「やめて……っ……」
美夜が嫌がれば嫌がるほどに信行を喜ばせてしまうのだろうということは分かっていても、身体の奥からこみ上げてくる嫌悪感を隠すことはできない。
信行の息が耳元や頬にかかり、その手が胸の辺りに触れてくる。
「い、いや……っ……」
力でその身体を押しのけようとしても、無理があった。
ただでさえ、男の信行と美夜とでは力の差があり、今は薬の影響もあって、美夜は身体に上手く力が入らない。
昨日は当面は手を出さないなどと信行は言っていたが、その方針が変わったのだろうか……。
(でも、抵抗して乱暴にされるよりは……おとなしくていたほうがお腹の赤ちゃんのために……なるのかな……)
美夜はぼんやりとそんなことを考えた。
抵抗すればするほどに、信行は力尽くで美夜の身体を支配しようとするのだろう。
妊娠初期がどういう時期か、美夜には専門的なことは分からないが、確か最初のうちは流産しやすく、走ったり激しい運動などはしてはいけないという話は聞いたことがあった。
(たとえ信行に身体を汚されても……赤ちゃんさえ守ることができれば……)
美夜が抵抗をやめたので、信行は興味深げな表情をして美夜の顔をのぞき込んでくる。
「おや……諦めが早いのですね、義姉上。さすがにこの状況では抵抗しても無駄だと理解しましたか。まあ、手間が省けて良いですけれど」
信行はそう言って笑うと、容赦なく美夜の身体をまさぐり、唇を強引に押しつけてくる。
(が、我慢……我慢……っ……大丈夫……信長様だって……きっと分かってくれる……っ……)
信長の接吻では感じることのない不快感に必死に耐えながら、美夜はなるべく信行を刺激しないようにと気を付けた。
信行の手が身体の敏感なところに触れてきても、信長が触れてくるのとはまるで違う。
ただただ嫌悪感が強くなっていくばかりだった。
「信行様! 何をやっておられるのですか!?」
格子の向こうから柴田勝家の怒声がまるで地鳴りのように響いた。
「あぁ……勝家ですか。うるさいですよ……お前は声が大きいのですから、少しは加減したらどうですか」
うんざりしたように言いながらも、信行はこれ以上の行為を諦めたのか、美夜の身体から離れた。
やはり美夜に手を出すということは、今の時点ではしてはならないこととなっているようだ。
「義姉上、この続きは兄上の首級が届いてからにしましょう」
信行は着物を整えて立ちあがると、勝家を睨み付けて立ち去って行った。
「帰蝶様……大丈夫ですか?」
勝家が心配そうに言ってくるので、美夜は慌てて着物の乱れを直しながら頷いた。
けれども、何とか解放されてほっとしたのと、先ほどの信行の力の強さに対する恐怖感、そして身体に触れられるという不快感を思い出すと、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちてしまう。
先ほどは見事なほどの大音声で信行の行為を止めた勝家が、美夜の涙を見て少し狼狽しているようだった。
「申し訳ありません……我が主の事ながら情けない。何の罪もない女子を泣かせるなど、男の風上にもおけません。どうかお許しください」
言葉が上手く出てこず、美夜はとりあえず、零れ続ける涙を拭いながらこくこくと首を頷かせた。
「先ほど、信行様の使者が清洲に向かいました。それと入れ替わりに、こちらも使者を送ります。信行様の挑発に乗ってはならないと」
勝家の言葉に、美夜はこくりと頷いた。
「もう少しだけご辛抱ください。なるべく信行様の行動を監視し、先ほどのようなことはないようにいたしますゆえ」
「はい……」
美夜はようやく振り絞るように声を出すことができた。
先ほどのようなことが今後もないとは限らないだろうが、勝家が信行を監視してくれるというのなら、大事に至る前に見つけてもらえる可能性もあるだろうと美夜は思った。
(信長様にもう一度会いたい……お腹の赤ちゃんと一緒に……)
今の美夜にとって、それだけが唯一の望みだった。
城の奥にある密談用の小部屋では、信長と蔵ノ介、藤吉郎が集まって話をしている。
清洲城に信行の使いがやって来て、城内に向けて投げ文をして去って行った。
その投げ文で信行は、帰蝶の身柄は末森城で預かっているということ、下手に手出しをすれば、帰蝶の命はないということ……。
さらには、帰蝶の身柄と引き替えにできる唯一のものは、信長の首であると告げてきた。
帰蝶を攫った相手の目的が信長の首であるということはおおよそ予測ができていたものではあったが、斉藤家の家臣が帰蝶を連れて向かった先が信行のいる末森城だったということは、少し信長たちを混乱させていた。
信長に届いた斎藤道三からの書状によれば、確かに菊池勝五郎は自分の傍近くに仕えていた者だが、裏切りるような男ではなかった……とした上で、改めて調査をさせたところ、世継ぎの義龍の使いの者と密かに会っているのを確認した……という報告がなされていた。
「つまり、斎藤義龍殿が、信行様と通じているということなのでしょうか」
蔵ノ介の言葉に、信長も顔をしかめた。
「よく分からぬ……斎藤義龍に信行と繋がって何か利点があるのかどうか……」
「そういえば、斎藤家の方々が話されている際に聞き耳を立てていましたら、父親の道三殿と義龍殿の間の空気が微妙だと言っておられましたのを思い出しました。その時は何か些細な親子喧嘩のようなものでもあったのかと思っておりましたが……」
藤吉郎が思い出したように言うのを聞いた蔵ノ介が、首をかしげる。
「私もそういう話は聞いたことがありますが、そこまで深刻なものとは思いませんでした」
「情報が少なすぎるな。とりあえず美濃のほうも心配だ。誰か人をやって詳しいことを調べさせよ。斉藤家に入ってまだ日は浅いが、小西隆信に連絡を取ってみるのも良いだろう。多少は事情を知っているかもしれぬ」
小西隆信は信長が処刑を命じた元近習の佐々木信親の父で、現在は名を変えて道三の家臣として保護してもらっている。
「かしこまりました。すぐに人を送って小西殿に接触するように手配します」
「光秀が戻ってくれば、もう少し詳しい事情も分かるだろうが……」
斎藤道三の甥である光秀ならば、斉藤家の内情についての最新情報も詳しく知っているだろうが、信長が後を託して戦場に残してきた明智光秀らが帰城するのは、明日の予定になっている。
「では、この投げ文の対処については……」
蔵ノ介がそう言いかけたとき、襖の向こうから声が聞こえた。
「失礼します。至急信長様に火急にお伝えしたいことが」
「何だ?」
「各務野殿が意識を取り戻されました。急いで信長様にお話しなければならないことがあると仰っているのですが」
信長と蔵ノ介は顔を見合わせ、うなずき合った。
各務野は意識を取り戻したものの、相変わらず危険な状態が続いているようだった。
本来であれば、あまり話ができる状態ではないのだが、本人の強い意志があったということで、信長が話を聞くことになった。
各務野はいつもはまったく隙のない女性であるが、今はやつれた様子で布団にその身を横たえている。
信長が静かにその枕元に腰を下ろすと、各務野はそれを待っていたかのように目を開けた。
「信長様……申し訳……ありません……」
その声は弱々しく、とてもかつて信長を叱り飛ばしたこともある者の声とは思えなかった。
「いや、事情は何となく察しておるつもりだ。菊池勝五郎が相手では、そなたも断りづらかったであろう」
信長がねぎらうように言うと、各務野は首を横に振り、信長の着物の袖を掴んできた。
「お伝え……しなければならないことが……帰蝶様……の……ことで……」
各務野はかなり苦しげに息を喘がせる。
「喋るのが辛ければ無理をせずとも良い。もう少し良くなってから……」
信長がそう言いかけると、各務野は首を横に振った。
「帰蝶様の……お腹に……信長様の……子が……」
「なに……」
「申し訳……ありません……」
各務野は思い出したように涙を流し始め、それと同時に苦しげに呼吸を乱し始める。
すぐに医者が間に入って、各務野の治療を再開した。
(美夜の腹の中に……俺の子が……)
ここ数日の体調不良の原因もそれだったのかと、信長はようやく合点がいった。
おそらく美夜は、戦場に向かった信長のことを慮って、各務野にそのことを口止めしていたのだろう。
そしてそんな身体のままに連れ去られてしまった。
信長は立ち上がり、大股で部屋を出ると、そのまま城の外へと向かう。
「信長様、どちらへ行かれるのですか!?」
蔵ノ介が慌てて追いかけてくるが、信長は何も答えなかった。
信長が向かっているのが厩舎だと分かり、蔵ノ介は信長が向かおうとしている場所を理解した。
「信長様、なりません! 今末森城へ行けば、敵の思うつぼです!」
しかし、蔵ノ介の言葉に信長は耳を貸さず、足を止めようともしなかった。
「藤吉郎」
と、蔵ノ介は目で合図を送った。
藤吉郎は戸惑いつつもその意図を理解し、頷いた。
そして、早足で歩く信長の身体に背後から飛びついて口元に布のようなものをあてがった。
「信長様……申し訳ござりません……」
信長の身体が崩れ落ちるのを、藤吉郎と蔵ノ介が支えた。
「どのぐらい効く薬ですか?」
「おそらく一昼夜は大丈夫かと思いまする」
「十分です。その間に帰蝶様のことは私たちで何とかしましょう」
「はい……」
本当ならこんなことはしたくなかった……二人の表情はそんな心境を物語っているようだった。
(今日は何とか立てるみたい……でも、まだちょっと身体が動かし辛いかも……)
薬の効き目のおかげでまだ身体の動かしづらさは感じるものの、ここへ来て悪阻のほうは少し影を潜めたようだった。
多少は悪阻の気配を感じるものの、吐き気を堪えられないほどのことがないから、食欲はあまりないものの、何とか体力を奪われずに済んでいる。
昨日話しかけてきてくれた柴田勝家の言葉を信じるなら、この数日のうちに、脱出の機会は来るはずで、その時まで美夜は体力を温存し、脱出がスムーズに行くようにしなくてはならないと考えていた。
少しずつ、身体を動かす練習をするために、狭い牢のような部屋の中を、ゆっくりと歩いてみたり、座ったまま足を動かして筋肉を刺激したりした。
このところ、美夜はほとんど床を離れることができなかったので、ただでさえ足腰の筋肉は弱っているはずだ。
(絶対に……生きて信長様のところへ戻る……!)
今の美夜にとって、それだけが唯一無二の目標だった。
しかし、少し動いているうちに、足がもつれて転びそうになってしまい、美夜は慌てて牢の壁に手をついた。
(転んだりしたら大変……もしお腹に赤ちゃんがいたら、びっくりさせてしまう……)
もう一度慎重に立ちあがり、布団に戻って休もうかと思ったとき、格子の向こうから嫌な声が聞こえてきた。
「なかなか薬の効き目が切れないようですね、義姉上」
「…………」
いつの間にそこにいたのか、信行が格子の向こうで笑っていた。
信長と面影は似ているのに、その性格や雰囲気はまるで違う。
そして、美夜は信長の性格や雰囲気は好きだが、この信行の性格や雰囲気はまったくもって受け付けないということが改めてわかった。
「何も言ってくれないんですか。つれないですね、義姉上は」
「…………」
信行のことは相手にするまいと考えていたのだが、ふいに信行が格子にかけてある鍵を開いて中へと入ってきたので、美夜は驚いてしまう。
こんなふうに身体の自由がきかない状態では、信行に何かをされても抵抗することができない。
それに何より、お腹の中の子に何かがあったらと思うと、美夜は恐ろしさに身体が震え出すのを感じた。
信行は美夜の身体を、強引に布団の上に押し倒してくる。
「やめて……っ……」
美夜が嫌がれば嫌がるほどに信行を喜ばせてしまうのだろうということは分かっていても、身体の奥からこみ上げてくる嫌悪感を隠すことはできない。
信行の息が耳元や頬にかかり、その手が胸の辺りに触れてくる。
「い、いや……っ……」
力でその身体を押しのけようとしても、無理があった。
ただでさえ、男の信行と美夜とでは力の差があり、今は薬の影響もあって、美夜は身体に上手く力が入らない。
昨日は当面は手を出さないなどと信行は言っていたが、その方針が変わったのだろうか……。
(でも、抵抗して乱暴にされるよりは……おとなしくていたほうがお腹の赤ちゃんのために……なるのかな……)
美夜はぼんやりとそんなことを考えた。
抵抗すればするほどに、信行は力尽くで美夜の身体を支配しようとするのだろう。
妊娠初期がどういう時期か、美夜には専門的なことは分からないが、確か最初のうちは流産しやすく、走ったり激しい運動などはしてはいけないという話は聞いたことがあった。
(たとえ信行に身体を汚されても……赤ちゃんさえ守ることができれば……)
美夜が抵抗をやめたので、信行は興味深げな表情をして美夜の顔をのぞき込んでくる。
「おや……諦めが早いのですね、義姉上。さすがにこの状況では抵抗しても無駄だと理解しましたか。まあ、手間が省けて良いですけれど」
信行はそう言って笑うと、容赦なく美夜の身体をまさぐり、唇を強引に押しつけてくる。
(が、我慢……我慢……っ……大丈夫……信長様だって……きっと分かってくれる……っ……)
信長の接吻では感じることのない不快感に必死に耐えながら、美夜はなるべく信行を刺激しないようにと気を付けた。
信行の手が身体の敏感なところに触れてきても、信長が触れてくるのとはまるで違う。
ただただ嫌悪感が強くなっていくばかりだった。
「信行様! 何をやっておられるのですか!?」
格子の向こうから柴田勝家の怒声がまるで地鳴りのように響いた。
「あぁ……勝家ですか。うるさいですよ……お前は声が大きいのですから、少しは加減したらどうですか」
うんざりしたように言いながらも、信行はこれ以上の行為を諦めたのか、美夜の身体から離れた。
やはり美夜に手を出すということは、今の時点ではしてはならないこととなっているようだ。
「義姉上、この続きは兄上の首級が届いてからにしましょう」
信行は着物を整えて立ちあがると、勝家を睨み付けて立ち去って行った。
「帰蝶様……大丈夫ですか?」
勝家が心配そうに言ってくるので、美夜は慌てて着物の乱れを直しながら頷いた。
けれども、何とか解放されてほっとしたのと、先ほどの信行の力の強さに対する恐怖感、そして身体に触れられるという不快感を思い出すと、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちてしまう。
先ほどは見事なほどの大音声で信行の行為を止めた勝家が、美夜の涙を見て少し狼狽しているようだった。
「申し訳ありません……我が主の事ながら情けない。何の罪もない女子を泣かせるなど、男の風上にもおけません。どうかお許しください」
言葉が上手く出てこず、美夜はとりあえず、零れ続ける涙を拭いながらこくこくと首を頷かせた。
「先ほど、信行様の使者が清洲に向かいました。それと入れ替わりに、こちらも使者を送ります。信行様の挑発に乗ってはならないと」
勝家の言葉に、美夜はこくりと頷いた。
「もう少しだけご辛抱ください。なるべく信行様の行動を監視し、先ほどのようなことはないようにいたしますゆえ」
「はい……」
美夜はようやく振り絞るように声を出すことができた。
先ほどのようなことが今後もないとは限らないだろうが、勝家が信行を監視してくれるというのなら、大事に至る前に見つけてもらえる可能性もあるだろうと美夜は思った。
(信長様にもう一度会いたい……お腹の赤ちゃんと一緒に……)
今の美夜にとって、それだけが唯一の望みだった。
城の奥にある密談用の小部屋では、信長と蔵ノ介、藤吉郎が集まって話をしている。
清洲城に信行の使いがやって来て、城内に向けて投げ文をして去って行った。
その投げ文で信行は、帰蝶の身柄は末森城で預かっているということ、下手に手出しをすれば、帰蝶の命はないということ……。
さらには、帰蝶の身柄と引き替えにできる唯一のものは、信長の首であると告げてきた。
帰蝶を攫った相手の目的が信長の首であるということはおおよそ予測ができていたものではあったが、斉藤家の家臣が帰蝶を連れて向かった先が信行のいる末森城だったということは、少し信長たちを混乱させていた。
信長に届いた斎藤道三からの書状によれば、確かに菊池勝五郎は自分の傍近くに仕えていた者だが、裏切りるような男ではなかった……とした上で、改めて調査をさせたところ、世継ぎの義龍の使いの者と密かに会っているのを確認した……という報告がなされていた。
「つまり、斎藤義龍殿が、信行様と通じているということなのでしょうか」
蔵ノ介の言葉に、信長も顔をしかめた。
「よく分からぬ……斎藤義龍に信行と繋がって何か利点があるのかどうか……」
「そういえば、斎藤家の方々が話されている際に聞き耳を立てていましたら、父親の道三殿と義龍殿の間の空気が微妙だと言っておられましたのを思い出しました。その時は何か些細な親子喧嘩のようなものでもあったのかと思っておりましたが……」
藤吉郎が思い出したように言うのを聞いた蔵ノ介が、首をかしげる。
「私もそういう話は聞いたことがありますが、そこまで深刻なものとは思いませんでした」
「情報が少なすぎるな。とりあえず美濃のほうも心配だ。誰か人をやって詳しいことを調べさせよ。斉藤家に入ってまだ日は浅いが、小西隆信に連絡を取ってみるのも良いだろう。多少は事情を知っているかもしれぬ」
小西隆信は信長が処刑を命じた元近習の佐々木信親の父で、現在は名を変えて道三の家臣として保護してもらっている。
「かしこまりました。すぐに人を送って小西殿に接触するように手配します」
「光秀が戻ってくれば、もう少し詳しい事情も分かるだろうが……」
斎藤道三の甥である光秀ならば、斉藤家の内情についての最新情報も詳しく知っているだろうが、信長が後を託して戦場に残してきた明智光秀らが帰城するのは、明日の予定になっている。
「では、この投げ文の対処については……」
蔵ノ介がそう言いかけたとき、襖の向こうから声が聞こえた。
「失礼します。至急信長様に火急にお伝えしたいことが」
「何だ?」
「各務野殿が意識を取り戻されました。急いで信長様にお話しなければならないことがあると仰っているのですが」
信長と蔵ノ介は顔を見合わせ、うなずき合った。
各務野は意識を取り戻したものの、相変わらず危険な状態が続いているようだった。
本来であれば、あまり話ができる状態ではないのだが、本人の強い意志があったということで、信長が話を聞くことになった。
各務野はいつもはまったく隙のない女性であるが、今はやつれた様子で布団にその身を横たえている。
信長が静かにその枕元に腰を下ろすと、各務野はそれを待っていたかのように目を開けた。
「信長様……申し訳……ありません……」
その声は弱々しく、とてもかつて信長を叱り飛ばしたこともある者の声とは思えなかった。
「いや、事情は何となく察しておるつもりだ。菊池勝五郎が相手では、そなたも断りづらかったであろう」
信長がねぎらうように言うと、各務野は首を横に振り、信長の着物の袖を掴んできた。
「お伝え……しなければならないことが……帰蝶様……の……ことで……」
各務野はかなり苦しげに息を喘がせる。
「喋るのが辛ければ無理をせずとも良い。もう少し良くなってから……」
信長がそう言いかけると、各務野は首を横に振った。
「帰蝶様の……お腹に……信長様の……子が……」
「なに……」
「申し訳……ありません……」
各務野は思い出したように涙を流し始め、それと同時に苦しげに呼吸を乱し始める。
すぐに医者が間に入って、各務野の治療を再開した。
(美夜の腹の中に……俺の子が……)
ここ数日の体調不良の原因もそれだったのかと、信長はようやく合点がいった。
おそらく美夜は、戦場に向かった信長のことを慮って、各務野にそのことを口止めしていたのだろう。
そしてそんな身体のままに連れ去られてしまった。
信長は立ち上がり、大股で部屋を出ると、そのまま城の外へと向かう。
「信長様、どちらへ行かれるのですか!?」
蔵ノ介が慌てて追いかけてくるが、信長は何も答えなかった。
信長が向かっているのが厩舎だと分かり、蔵ノ介は信長が向かおうとしている場所を理解した。
「信長様、なりません! 今末森城へ行けば、敵の思うつぼです!」
しかし、蔵ノ介の言葉に信長は耳を貸さず、足を止めようともしなかった。
「藤吉郎」
と、蔵ノ介は目で合図を送った。
藤吉郎は戸惑いつつもその意図を理解し、頷いた。
そして、早足で歩く信長の身体に背後から飛びついて口元に布のようなものをあてがった。
「信長様……申し訳ござりません……」
信長の身体が崩れ落ちるのを、藤吉郎と蔵ノ介が支えた。
「どのぐらい効く薬ですか?」
「おそらく一昼夜は大丈夫かと思いまする」
「十分です。その間に帰蝶様のことは私たちで何とかしましょう」
「はい……」
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