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第四章

身代わり濃姫(71)

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 帰蝶きちょうにもしものことがあったら……それは信長の傍近くにつかえる者たち皆が抱いている危惧だった。
 信長がどれほど帰蝶のことを大切に想い、なくてはならない存在になっているのかということを、信長の傍に近いものほど理解していた。
 しかし今、彼らの常々の危惧が、現実のものとなろうとしている――。

 城下で頼まれた買い物を手早く済ませて戻ってきた甘音あまねは、部屋に帰蝶がいないので、部屋の外にいた侍女に聞いてみる。
「帰蝶はどこかへ行ったのか?」
かわやに行くと言って、各務野かがみの殿とともにお部屋を出られたのですが……戻りが少し遅いみたいです。また帰蝶様のお具合が悪くなっていなければ良いのですが……」
 侍女の奈津が心配そうにそう言ったので、甘音も頷いた。
「心配だし、ちょっと見てくる」
「はい。お願いします」
 甘音は誰かに見られたら顔をしかめられそうなほどに廊下を勢いよく駆け、厠に向かったのだが、そこには帰蝶の姿も各務野の姿もなかった。
 甘音は首をかしげる。
「おかしいな……途中で会わなかったってことは、部屋には戻ってねえはずだし……」
 甘音は嫌な予感がして、すぐに帰蝶の部屋まで戻ると侍女にも頼んで手分けして帰蝶と各務野を探させた。
 しかし、やはり帰蝶の姿は見つからない。
 城内で帰蝶の安全が完全に確保されている場所は限られていて、その範囲は、各務野も帰蝶自身もよく理解しているはずだ。
 帰蝶が甘音の断りもなしに、安全が確保されている場所以外のところへ行くとは考えられず、甘音の不安は高まるばかりだった。
「兄者に知らせないと!」
 これは異常事態だと察した甘音は、すぐに蔵ノ介に報告をした。
 甘音が蔵ノ介に帰蝶が各務野とともに姿を消したことを告げると、すぐに蔵ノ介は人を手配し、城中を探させた。
 甘音自身も、城内を駆け巡りながら、帰蝶の姿を探した。
 そして、少し時間がかかったものの、蔵ノ介が手配した者が、城の端の廊下で各務野が倒れているのを発見したのだった。

「各務野が誰かに刺されたって本当なのか? 帰蝶は!?」
 各務野が負傷した状態で見つかったという話を聞き、甘音は蔵ノ介のもとへ駆けつけたが、蔵ノ介の表情は甘音がこれまで見たこともないほどに硬い。
「本当です。しかし、帰蝶様の姿はありませんでした」
「どこへ行ったんだ、帰蝶は……」
「今のところ不明です。各務野殿が倒れていた場所に他に血痕はありませんでしたから、帰蝶様にはお怪我はないと信じたいところですが」
「各務野は何て言ってるんだ?」
「各務野殿の意識はなく、今はまだ話を聞ける状態ではありません。命も助かるかどうか……」
 各務野は甘音にとって時に口やかましい存在ではあったものの、帰蝶を守るという一点において、まるで同志のような連帯感があった。
 だから、帰蝶の行方ももちろん心配だが、各務野の怪我の具合やなぜそんなことに巻き込まれたのかも気になってしまう。
「兄者、今わかっていることは?」
「わかっていることは何もありませんが、各務野殿が倒れていた場所が不自然です。あの場所は城の外へ通じる抜け道が近い……帰蝶様はそこから城の外へ連れ出された可能性があります」
「そんな……」
 厳重な警戒態勢の城から外へ帰蝶が連れ出されたのだとしたら、現場に血痕がなかったとはいえ、帰蝶の身も心配だ。
 いったい帰蝶を狙ったのはどこの誰で、帰蝶はどこへ連れて行かれてしまったのか……。
(これはあたしの責任だ……)
 甘音は自身の責任を痛感していた。
 帰蝶を守らなければいけない自分が、迂闊うかつにも城の外へ出てしまった間に、帰蝶が連れ去られてしまい、各務野も負傷してしまったのだから。
「くそ……兄者、あたしはどこを探せばいい?」
「城の抜け道は今すべて捜索させていますから、甘音は城内をもう一度探してみてください。城の外へ出られず、城内に潜んで脱出をうかがっている可能性も少なからずあります」
「わかった。城の外は?」
「すでに人を手配しています」
「じゃあ、城の中を探してくる!」
 甘音が立ち去って行くのを見て、蔵ノ介は息を吐く。
 話を聞く限り、今回のことは決して甘音に非があるというわけではないが、帰蝶に万が一のことがあれば、自分も含め、責任を問われることにはなるだろう。
 甘音がまだ未熟であることを蔵ノ介も理解し、これまで細かく補助はしていたものの、さすがに信長が不在の今は城に人も少なく、しかも帰蝶が城の中の安全が確保された場所にいたということもあり、蔵ノ介は警戒を怠ってしまった。
(しかし、なぜ各務野殿はあんなところに倒れていたのか……)
 城の中の安全が確保された場所を出ることがなければ、今回のことは起きなかったはずで、その辺りの事情も調べる必要があると蔵ノ介は思った。
 しかし、これは各務野の回復を待つ以外に、今のところ方法はない。
 侍女たちに聞いてみても、帰蝶と各務野は厠に向かったということしか知らず、彼女たちでさえ、二人の戻りが遅いことを心配し、誰かに報告しようとしていたところだったというような状態なのだから。
 次から次へと入ってくる報告に対応しながら、蔵ノ介は帰蝶の行方の捜索の指示と現状把握に動き続けた。

 そして、各務野が何者かに刺されたことが判明してから半刻も過ぎた頃……新たな事実が蔵ノ介の耳に届いた。
 帰蝶の捜索を行わせる一方で、蔵ノ介は城の中の人間でいなくなっている者を探させていたのだが、斉藤家の重臣の一人、菊池勝五郎きくちかつごろうとその部下ら数名の姿が城内から消えていることがわかった。
 まだ確定ではないが、菊池勝五郎が今回の件に関わっている可能性は高い。
(菊池勝五郎殿がもしも各務野殿を呼びだし、帰蝶様をお連れするようにと指示を出したなら、斉藤家の人間である各務野殿は断ることができなかったはずだ……)
 と、蔵ノ介は今回の件について、おおよその推測を立てた。
 そしてひとまず、そこまでの事情を、蔵ノ介は信長に報告することにした。
 おそらく信長は書状を確認次第、清洲きよすに戻ってくるであろうが、帰蝶が何者かにさらわれたのだとしたら、事は織田家にとっても一大事であるので、致し方のないことだった。
 そして、信長への報告をすると同時に、残った斉藤家の家臣たちの中から斎藤道三にもっとも近いものを選び、美濃への報告を頼んだ。
 帰蝶はある意味で今もなお、美濃からの預かり物であるから、何かあれば信長と同時に報告をする必要があった。
 たとえ今回の件が、斉藤家の家臣の仕業であったとしても、だ。
 蔵ノ介はさらに城に残る斉藤家の家臣たち、一人一人に聞き取りを進めていったのだが……。
「勝五郎殿は道三様に信頼され、もっとも近いといわれる方です。裏切りなどあるはずがありません」
 と、斉藤家の家臣たちは口をそろえて言う。
 では、この緊急事態に勝五郎とその部下たちの姿がないことについてどう思うかと問うと、皆一様に口を閉ざし、首をかしげてしまうのだった。
 どうやら、勝五郎の今回の行動は、斉藤家の家臣たちにとっても理解しがたいもののようだった。
 各務野の最新の状況も、蔵ノ介に逐一報告される。
 各務野の傷は胸の奥深くにまで達していて、医師のみたてによるとかなり危うい状態であるという。
 もちろん、意識は回復せず、事情を聞くことは今もまだできない。
 各務野の意識が戻り、彼女に事情を聞けば、敵の正体や目的が掴め、帰蝶の居所も予想がつくだろうが、今の状態では蔵ノ介も打てる手が限られていた。
 帰蝶の無事には主の……そして織田家の未来がかかっている。
 普段は神仏などを信じる蔵ノ介ではないが、帰蝶の無事を祈らざるを得ない気持ちだった。

 早馬の使いが信長の元に到着したのは、その日の深夜近くになってからだった。
 信長は明智光秀や丹羽長秀にわながひで太原雪斎たいげんせっさいらとともに、明日の戦のための軍議の最中だったが、その報告を見たとたんに顔色を変えた。
 軍議の場にいた誰もが、何か異常な事態が起こったのだと、すぐに察した。
「光秀」
 名を呼ばれ、光秀は少し緊張しながら返事をする。
「はい」
「俺はすぐに清洲に戻らねばならぬ。後を任せても良いか?」
 信長がすぐに清洲へ戻らなければならない事態といえば、理由はおそらくただひとつしかないだろうと光秀は察した。
「清洲で何か……まさか帰蝶様が?」
 光秀の言葉に、信長は硬い表情のまま頷いた。
「筆頭侍女の各務野が何者かに刺され、帰蝶は行方が知れぬとのことだ」
 その報告を聞いた瞬間、信長にとって……そして織田家にとって最悪の事態が起こったのだと光秀はすぐに理解した。
「承知しました。明日の戦に関しては、長秀殿、雪斎殿もおられますし、我々だけで対応ができます。藤吉郎殿は信長様と共に清洲へ……信長様をお願いします」
「はい。かしこまりました」
 この場において最年少の藤吉郎の表情も、さすがに強ばっている。
 光秀は馬乗りに長けた者を他に数名、信長の護衛につけた。
 その他の護衛を付けても、無意味だろうと光秀は判断した。
 おそらく信長は清洲まで一気に駆け戻るつもりだろう。
 それについていける者でなければ、信長の護衛としてはまったく役に立たず、信長の近習きんじゅうの中でも、信長の馬について行くことができる者は、藤吉郎を含め数名しかいない。
 光秀に後を任せた信長は、ほとんど何も語らず馬に乗り、清洲へと戻っていった。
(さて……大変なことになりましたね……)
 信長から預けられた蔵ノ介からの書状を確認しながら、光秀は眉をひそめる。
 そこには事の詳細が書かれてあったが、現状ではまだわかっていることのほうが少ないようだった。
 だが、信長にとっては最悪の事態であることは間違いない。
 帰蝶にもしものことがあれば、信長は自分の命さえもあっさり投げ捨てて帰蝶を守ろうとするだろう……と、光秀は常々考えていた。
 今回の事態は、おそらくそうしたことに発展する可能性もある。
 光秀としては、織田家のためにというよりは、光秀自身の未来のために、まだ信長に退場してもらっては困る事情がある。
 信長にはもう少しの間、天下を目指して頑張ってもらわなくてはならない。
 しかし、帰蝶に万が一のことがあれば、信長は天下を目指すどころではなくなってしまうだろう。
 蔵ノ介からの報告によれば、斉藤家の家臣が何名か、城内からいなくなっているという。
 その中の一人に、菊池勝五郎の名があった。
 光秀はもちろん、菊池勝五郎についてよく知ってもいるし、会話をしたことも何度かある。
(菊池勝五郎殿ですが……確か、かなり道三様からも信頼のあつい者だったように記憶していますが……)
 勝五郎は、帰蝶の秘密も知らされるほどに、道三からも信頼を寄せられている人物だ。
 そうした人物がもしも裏切りを働いたのだとしたら……。
(今後の織田家は斉藤家を頼りにすることができなくなるかもしれませんね……いずれにしても、斉藤家の家中にも何かが起こっていると考えた方が良さそうです)
 ひとまず明日の戦のための話し合いを終えた光秀は、斉藤家に使者を送るために筆をとった。
 大至急、身の回りの警護を固めるようにと、光秀は叔父の道三に書状の中で忠告した。
 おそらくもう清洲にいる者から、おおよその事態は連絡がいっているであろうが、道三の身の安全に最大限の配慮が必要だと光秀は感じたからだ。
(取り越し苦労でなければ良いのですが……)
 光秀が美濃へ送る使者に持たせる書状を書き終える頃には、冬の長い夜が終わろうとしていた。

 ぼんやりと目を開いた美夜みやは身体が重いと感じ、そしてこの場が美夜の知るどこでもないことに気づいた。
 美夜は慌てて身を起こして今の状況を確認しようとした。
 しかし、身体には上手く力が入らない。
 それでも暗さに目が慣れてくると、この場所が清洲の城ではないことが美夜にも理解できた。
「ここは……」
 何とかして重い身体を起こすと、美夜の目の前に格子が見えた。
 どうやらその格子の中に、美夜はいるようだった。
「気がつかれましたか、義姉上」
「あ……」
 美夜は思わず目を見開いた。
 格子の向こうに、信長の弟、織田信行の姿があったからだ。
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