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第三章

身代わり濃姫(70)

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 その夜、緒川おがわ城では太原雪斎たいげんせっさいを歓迎する宴が催されていたが、そのさなかに、蔵ノ介からの報告が信長に届いた。
 美夜みやが体調不良で侍医の診察を受けたのだという。
 侍医の診断は軽い風邪ということで、美夜自身も心配しないで欲しいと言っていることなど、蔵ノ介が細かく記している。
 しかし、かといって、心配しないわけにはいかず、信長は宴の間も気持ちが落ち着くことはなかった。
 蔵ノ介は信長の性格を熟知しており、いきなり清洲きよすに戻ってきたりなどしないように、報告の文面には細心の注意がなされているはずだ。
 蔵ノ介が美夜の状態を軽く伝えることは絶対にないにしても、実際の深刻さを加減して伝えて来ている可能性は十分に考えられる。
 信長は丹羽長秀にわながひでを自分の席に呼んだ。
「長秀、この周辺で現在起こっている戦はどれぐらいある?」
「にらみ合い程度のものも合わせますと、現在は七ヶ所で交戦状態となっております」
「七ヶ所か……」
 本来であれば五日の予定だった日程を二日ほどで切り上げて清洲へ戻ろうかと考え始めていた信長だったが、七ヶ所も交戦中のところがあれば、さすがにそれは無理かもしれない。
 それに、ここまで来て交戦中の戦場を放って帰るわけにもいかなかった。
 信長が緒川城にまで来ていながら、交戦中の将兵たちをねぎらわずに帰ったとなれば、兵たちの士気にも影響するだろう。
 信長は、今度は明智光秀を呼んだ。
「俺はできるだけ早く清洲に戻りたい。効率良く各所の戦場をまわることができる方法を考えよ。この周辺の状況については長秀が詳しいから聞け」
「承知しました。ですが、どれだけ時間を切り詰めても、最低三日は必要となりますが」
「三日で十分だ」
 信長の表情がいつもと違って強ばっているのに気づき、光秀は首をかしげる。
「ひょっとして……帰蝶きちょう様に何かあったのですか?」
 光秀に問われて、信長は素直に頷いた。
「具合が悪いらしい。侍医の見立てによれば軽い風邪だということらしいが……」
「なるほど。了解いたしました。早急に日程を切り詰める策を考えます」
「ああ、頼む……」
 光秀が去って行くと、信長はまた美夜のことを考えた。
 彼女は時にとても無理をしてしまうことがある。
 蔵ノ介にさえ、どの程度正しい状況が伝わっているのかもわからない。
 そもそも、侍医を呼んだということは、美夜の無理がかなくなったということでもあり、実際の症状は軽い風邪などではない可能性もある。
 おそらく、蔵ノ介が把握しているよりも、美夜の具合は良くないのではないかと信長は考えていた。
(しかし、蔵ノ介に美夜のことをそこまで理解しろというのも無理な話だからな……)
 自分以上に美夜のことを理解している者はいないという自負が、信長にはある。
 だからこそ、たとえすぐに戻ることは叶わなくても、最大限早く、美夜の元に戻ってやりたいと信長は思うのだった。

 信長のもとを辞した光秀は、さっそく長秀と協議し、信長遠征の日程を組み立て直していった。
 長秀がかなり詳細にこの周辺の最新状況を把握していること、さらには光秀自身がつい最近まで近くの寺本城に詰めていたことで周辺の地理状況にも詳しいということも重なって、日程の変更はさほどの労力を必要としなかった。
(しかし、帰蝶様は信長様にとっての完全な弱みでもありますね……)
 改めて光秀はそのことを感じ、少なくない不安も覚えた。
 もしも帰蝶に何かがあった場合、信長は織田家も、自分の命さえもあっさりと捨て、帰蝶を守ろうとするだろう。
 しかし、信長のそんな危うさが弱点でもある反面、帰蝶が信長を戦へと駆り立てる原動力になっていることも光秀は理解している。
 おそらく、帰蝶がいなければ信長は今頃、信行らによって廃嫡はいちゃくされることに甘んじていたのではないかと思うことが、光秀にはたびたびあった。
 信長は帰蝶がいるからこそ弱く、そして帰蝶がいるからこそ強い。
 その矛盾した二面性をよく理解し、信長を天下へと導いていく必要が光秀にはあった。
(どうやら信長様は、雪斎殿にも天下を取るという宣言をなされたようですし、今のところは順調に私の思惑通りに事が進んでいると見て良いのでしょうね……)
 天下を統一する直前までは、信長に表に立って頑張ってもらう。
 そして、その後は信長には退場してもらい、光秀がその跡を継いで天下を統一する――。
 尾張おわりの統一が見えてきた今、光秀は天下統一に向けての設計図をようやく描き始めることができるところまで来たと思った。
「さて、急いで各所に指示も出さねばなりません。今日もまた眠れないのでしょうね……」
 光秀はため息をつき、賑やかな宴の会場を後にしたのだった。

 信長が城を出てから三日目……当初は五日後の予定だった信長の帰城は、日程を二日切り上げて明日になるという報せがすでに清洲にも届いていた。
吉法師きっぽうしは明日戻ってくるんだっけ?」
 甘音あまねに問われて、美夜は頷く。
「うん、明日だね」
 最初につわりのような症状を感じてからすでに三日、今日も美夜は寝たり起きたりを繰り返していた。
 軽い風邪のわりに治りが悪いことを、各務野かがみの以外の侍女や甘音は心配してくれるが、こうして本当のことを隠しておくのも、あと一日の辛抱だった。
(やっぱり何かを隠すのって、すごく気持ちが重くなるのね……)
 何ヶ月もの間、自分が本物の帰蝶ではないという事実を、美夜は信長に隠し続けてきた。
 あの頃は気が張っていたということもあって何とか耐えることもできたが、今はたった三日でも心苦しく感じてしまう……。
「今日はちょっと顔色が良さそうだな」
「うん……今日は少しましかな……」
 甘音にそう答えたものの、身体の不調はあまり良くなったようには感じず、ただこの状況に少しずつ慣れつつあるというのが正しいのかもしれない。
「まあ、風邪なら寝てれば治るはずだ。吉法師が明日青ざめて帰ってくる頃には、すっかり元気になって驚かせてやればいいさ」
「そうだね……」
 美夜は何とか笑顔を作って、甘音の言葉に頷く。
 確かに今日は昨日よりも症状は少しましだったが、相変わらず食欲はなく、身体のだるさや胸のむかつきといったものは完全には消え去らない。
 兄の子を身ごもった律も、こんな大変な状況を乗り越えていったのだろうか……美夜はそのことを考え、自分よりもひとつ年下の少女が必死に耐えているのだから、自分も弱音を吐いてはいけないと思った。
「あの、甘音様、少しよろしいでしょうか?」
 襖を開けて部屋に入ってきた各務野が、遠慮がちに甘音に声をかける。
「あ? いいぜ。何?」
「実は、城下の町で買ってきてもらいたいものがあるのですが、侍女たちが皆今は手が離せないようでございまして……お願いしてもよろしゅうございますでしょうか?」
「ああ、そんなのならお安い御用だ。その代わり、帰蝶のことは頼んだぜ」
「はい、かしこまりました。帰蝶様のことはお任せくださいませ」
 甘音は立ちあがって帰蝶に笑う。
「じゃ、ちょっとひとっ走り行ってくる! すぐに戻れると思うから」
「外へ行くのなら、少しゆっくりしてきてもいいよ。せっかくだし。どうせ私は今日は一日部屋から出られないと思うし……」
「いや、今は吉法師も不在だし、用を済ませたらすぐに戻ってくるぜ。じゃあ、行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
 甘音が部屋を出て行くと、各務野が声を潜めた。
「帰蝶様、城内に滞在中の斉藤家の者が、道三様より大切な言づてがあるとのことなのですが、少し起きてお会いすることは可能でございましょうか?」
 各務野の言葉に、美夜は首をかしげる。
「道三……様から大切な言づて?」
 確かに、美濃からの援軍の一部が今はこの清洲城に滞在しているから、そういうこともあるのだろうが……それにしても、いったい何の話だろうか。
 そう考えかけて、美夜は先ほどの各務野の甘音への指示を思い出す。
「あ、だから甘音を買い物に行かせたのね」
「はい……甘音様には申し訳ないことをしましたが、甘音様が傍にいるとできないお話かもしれませんので……」
「甘音が傍にいるとできない話……いったい何の話なのかしら……」
「おそらく、ここまで無理をして帰蝶様に伝えなければならないことだとすれば、兄君様のことではないかと……」
「兄様の……」
 雪春は今、堺で藤ノ助たちに保護されている。
 だから緊急に何かということはないはずだが……と美夜は思いつつも、そういえば各務野はそのことを知らないのだと思い至った。
 そして、実は甘音がすべての事情を知っているということも、各務野は知らない。
 雪春たちが清洲へやって来るまでには、すでに信長を始め一部の者たちは自分の秘密を知っているし、雪春も無事に保護されているということを話そうと思ってはいたものの、美夜はまだ話すことができていなかったのだ。
「少しだけでもお会いになられてはいかがでしょう?」
 重ねてそう告げられ、美夜は少し悩みつつも頷いた。
「ええ、わかったわ。でも、甘音に心配はかけたくないから、なるべく早く話が終わるようにしてもらえると助かるかも」
「はい、それはもちろん。用件だけを手短に話してもらえるように伝えます」
 むげに断れない各務野の立ち場もあるのだろう……美夜はそう考え、道三の家臣と会うことにしたのだった。

 部屋の外に控える侍女たちには、甘音がもし戻ってきたらかわやに行っていると伝えてもらうことにして、美夜は各務野と一緒に斉藤家の家臣が待つという場所へ向かった。
 その待ち合わせ場所は、城の中でも少し外れのほうにある場所だった。
 確かにここならば、織田家の他の者たちに見られる心配もないだろう。
 その場所では、恰幅かっぷくの良い、ひげも見事な一人の侍が美夜たちを待っていた。
「勝五郎殿、帰蝶様をお連れしましたが、あまりお具合がよろしくありませんので、手短にお願いします」
 各務野がそう告げると、勝五郎という侍は、美夜に向かって頭を下げる。
「ご不調のところ、お呼び立ていたしまして申し訳ございません」
「いえ……あの、それで、大事なお話というのは?」
「それは……」
 勝五郎が言いかけたその時、素早く別の誰かが美夜の身体を羽交い締めにし、口元を手でおおった。
 それと同時に、各務野の身体が崩れ落ちるのを見た。その傍に、いつの間にか男が立っている。
 さらにどたばたと慌ただしい音がして、気がつけば美夜の周囲には複数の男たちの姿があった。
(各務野は……)
 羽交い締めにされながら周囲を確認し、美夜は目を見張った。
 廊下に倒れた各務野の身体の周りに、血だまりができはじめていたからだ。
「き……ちょう……さ……」
 各務野は美夜のほうに手を伸ばしかけ、そして力を失った。
 各務野の名を叫びたくても、大丈夫かと問いたくても、口元を痛いほどに押さえつけられ、息をすることも難しい状態だった。
 おそらく、各務野がまったく警戒せずに自分をここまで連れてきてしまったということは、勝五郎は確実に斎藤道三に近い斉藤家の重鎮じゅうちんであることは間違いないのだろう。
 ……にしても、自分は何と迂闊うかつだったのだろうと美夜は後悔していた。
 各務野に雪春の事情をまだ話していなかったとはいえ、道三からの大切な話など、美夜が無理をして会ってまで聞く必要がある話などは出るはずがないのだから、たとえ各務野の立ち場があるとはいえ、断るべきだったのだ。
「すぐに城を出るぞ」
 自分がどこかに連れ去られようとしているのだと気づいて、美夜は必死に抵抗しようとしたが……。
「面倒だ、薬を使え」
 勝五郎がそうささやくと、すぐに美夜を羽交い締めにしている男が何かの薬を出してきて、美夜はそれをがされた。
(信長様、各務野……それにお腹の赤ちゃん……ごめんなさい……私がもう少し……気を付けていたら……)
 意識が急速に遠のいていくのを感じながら、美夜は激しい後悔にさいなまれていた。
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