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第三章

身代わり濃姫(69)

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 その日のうちに、服部半蔵はっとりはんぞうによる面通しの結果が、緒川おがわ城の丹羽長秀にわながひでから信長のもとへ送られてきた。
 それによると、緒川城に突然一人でやって来たその男は、間違いなく太原雪斎たいげんせっさいなのであるという。
 信長は供も連れずに太原雪斎が自分に会うためだけにやって来たことに興味を抱き、翌日、さっそく緒川城で雪斎と面会することにした。
 そして、その後、緒川城の周辺地域の戦場をすべて回ってから、信長は清洲きよすに帰還するという予定になっている。

 美夜は出立する信長を見送るために、城門までやって来ている。
 城内からまったく出ることのない生活をしていた美夜にとって、この城門まで出てくることも久しぶりのことだった。
 しかし、久しぶりに城門まで出てくることができたなどという感慨かんがいひたっているような余裕は、美夜にはなかった。
 信長が城を離れるということは、また信長の命が危険にさらされる可能性が高くなるということでもあり、美夜自身も、城主として信長の留守を守らなければならないということでもあるからだ。
 今回の留守はさほど長くはない予定とはいえ、いろんな意味で、緊張と不安の続く日々がまた始まってしまう。
「できるだけ早く戻る。留守を頼む」
 信長は美夜の肩を抱き、人目を憚ることなく口づけてくる。
 本当に軽い接吻ではあったが、人の目が気になりつつも、美夜は心が温まるような気持ちになった。
「信長様がお帰りになるまで、お城のことはちゃんと守ります。だから安心して行って来てください」
 美夜が精一杯の笑みを浮かべながら言うと、信長も笑った。
「ああ、行ってくる」
 かつては城を出て行く信長を笑顔で見送ることができなかった時もあったが、少しでも信長に安心してもらいたいという気持ちが今の美夜にはあった。
 馬に乗って遠ざかっていく信長が見えなくなるまで、美夜は城門で見送りを続けた。

 信長が出て行ってしまうと、蔵ノ介から城代じょうだいである自分がする必要のあることをさまざま教えてもらい、それを終えて美夜は自分の部屋に戻った。
帰蝶きちょう様、お茶をお持ちしました」
「……ありがとう、各務野かがみの
 美夜は少し疲れたような身体のだるさを感じていた。
 昨夜も明け方近くまで信長との別れを惜しむように交わっていたから、その疲れもあるのだろうか……美夜はそう考えていたが、どうもそれだけではない体調の不調もあるようだった。
「帰蝶様、大丈夫ですか? 何だかお顔の色が……」
 各務野にもその不調が伝わってしまったようで、美夜は慌てて笑顔を作る。
「大丈夫……きっと疲れたのね。各務野が入れてくれたお茶を飲んで、元気を出すわ」
「はい、ぜひそうなさってください」
 各務野の言葉に頷いたものの、お茶を飲んでいるうちに、どんどん胸の辺りが気持ち悪くなってくる。
 とうとう耐えきれなくなり、美夜は『かわやへ』とだけ言い、走って厠に向かった。

「帰蝶様、大丈夫でございますか?」
 厠の外で待っていた各務野が、心配そうな顔で濡れた手ぬぐいを渡してくれる。
「ありがとう……」
「すぐにお医者様をお呼びします」
 各務野が当然のようにそう言ってくるが、美夜は頷くことができなかった。
「でも、お医者様を呼ぶと信長様にも報告が行くのよね?」
「はい。そうなってしまいますが……」
 出発したばかりの信長に心配をかけるようなことは、美夜としてはできる限りしたくはなかった。
「だったら、もう少し様子を見させて。少し疲れだけだと思うし、そんなことで信長様に心配はかけたくないし……」
「ですが、もしも何かの病であったなら……」
 言いかけた各務野が、はっとしたような顔をする。
「帰蝶様……あの、私もうっかりとおりましたが、月のものは?」
「あっ……」
 美夜は思わず小さく声をあげてしまった。
 忙しくてそうしたことも考える暇がなかったのだが、確かに、月のものがいつもより遅れている。
「もしかして……」
 美夜は腹の辺りに手を触れる。
(ここに新たな命が宿っているという可能性……)
「やはりお医者様を……」
 気がつけば美夜は各務野の着物の袖を握りしめていた。
「待って……今は駄目。信長様に心配はかけられない……」
「ですが……これはとても大切なことです」
「大切なことだからこそ、今すぐには信長様に知らせたくない。だって、信長様はさっき出発したところなのよ」
「そうですが、でも……」
「信長様はとても大切な用事で緒川城に向かっている……それに、今回はそれほど長く留守にはしないと言っていたわ。だから、せめて信長様が戻るまで……お願い……」
 美夜がそう告げると、各務野はしばらく逡巡しゅんじゅんする様子を見せたが、諦めたようにため息をついた。
「わかりました。ですが、絶対に無理はなさらないとお約束くださいまし」
 各務野の言葉に、美夜はしっかりと頷いた。
「約束するわ。もし本当に赤ちゃんができているのなら……この子に負担はかけたくないもの……」
「ではお部屋に戻りましょう。こんなところで身体を冷やしてしまっては、それこそ身体に毒です」
「そうね……」
 各務野に促され、美夜は部屋に戻った。

 しかし、その日一日、美夜の身体の不調は続いてしまい、甘音あまねや他の侍女たちも心配をし始めたので、結局、各務野も侍医を呼ばざるを得なくなった。
 ただ、月のものの遅れに関しては、各務野を拝み倒して口止めをし、美夜自身も侍医に告げなかったので、今のところ妊娠の可能性については他の者たちには知られずにいる。
「寝室に入ったなどと知られれば、信長様に嫌な顔をされてしまうかもしれませんが、致し方ありません……」
 蔵ノ介が珍しく困惑したような顔をしているので、美夜は申し訳ない気持ちになる
 美夜が城主として形式だけでも確認しなければならない事項もあり、蔵ノ介が部屋まで来てくれているのだった。
「すみません……」
「ま、あたしが一緒にいるから大丈夫だって。二人きりなら大変なことになるだろうけどな」
 侍医が呼ばれてしまったことにより、美夜が体調を崩したという報告は、信長に届けられることになってしまう。
 侍医による診断は軽い風邪ということだったので、信長がたとえ帰還を早めて戻ってくることになったとしても、今夜中になどという無茶はしないだろうと考えているが……やはり心配なものは心配だ。
「あの……私が風邪だということを知って、信長様が無理をして戻ってきてしまうということはないでしょうか? 今は信長様にも……そして織田家にとっても大切な時期なので、私が足を引っ張るようなことになっては、申し訳ないと思うのですが……」
 美夜が聞くと、蔵ノ介は苦笑した。
「まあ、確実に予定を早めて戻ってくるとは思いますが、信長様もご自身の責任と義務は理解しておられます。最低限、必要なことは済ませてから戻って来られるはずですよ」
「そっか……良かった……」
 蔵ノ介の言葉に、美夜は少し安堵あんどする。
 きっと蔵ノ介も、信長への報告の文面については、細心の注意を払ってくれたはずだ。
 だから、信長もさほど無茶をして戻ってくることはないと信じるしかない。
「ひとまず、帰蝶様はしっかりご静養なさってください。実務的なことはすべて私がやりますので。ただ、日に一度、形式的に報告をしなければならなりませんので、その時だけ、今のように少しお時間をいただければ問題ありません」
「はい、わかりました。ご迷惑をおかけします」
「いえ、ではゆっくりお休みください」
 そう告げて、蔵ノ介は甘音とともに部屋を出て行った。
 ただでさえ蔵ノ介の仕事は山のようにあるというのに、自分が動けないことでさらに仕事を増やしてしまったような気がして、美夜は申し訳ない気持ちになる。
 しかし、もしもこの体調不良が妊娠によるものならば、無理はできないとやはり思ってしまう。
(私がちゃんとこの子を守らなくちゃ……信長様が帰ってくるまで……)
 さすがにこの戦が終わるまで隠し通すのは無理だろうと美夜も考えているから、信長が清洲に戻ってきた時点で、妊娠の可能性についても正直に話すつもりだ。
 しかしエコーや妊娠検査薬などもないこの時代だから、実際に妊娠したかどうかがわかるには、まだもう少し時間がかかるだろう。
(いつかは信長様との子どもが欲しいと思っていたけれど……実際にそうかもしれないってなると、何だか不思議……楽しみな気持ちもあるけど、ちょっと怖い気持ちもある……)
 それは美夜の正直な気持ちだった。
 十六年しか生きていない自分が母親になるということ。
 さらには、医療も何も整っていない世界での出産……そこに不安がないといえば嘘になる。
(でも、この世界の女の人は、みんなちゃんと子どもを産んでいるのだから、私も頑張らなくちゃ……)
 美夜は腹の辺りに手を添え、祈るように目を閉じた。
(お母さんは頼りないけど、どうか無事に生まれてきてね……)
 確実に妊娠しているのかどうかは定かではないが、美夜にはもうそこに命がいるという確信めいた気持ちがあった。

 緒川城に到着した信長は、さっそく太原雪斎との面会に挑んだ。
 雪斎の望みにより、面会は他の者を排除して二人だけで行われることになった。
 もちろん、信長の安全確保はおこたりなくされ、雪斎が何かしようものなら、すぐに四方から取り押さえることができる体勢は取られた上でのことだ。
 実際に面会した雪斎は、信長が頭の中で想像していた人物とは、まるで違っていた。
 まず見た目が、どこの野伏のぶせかと思うような格好だということだ。
 しかしこれは、彼が今川家を裏切って単身織田領にやって来るための方策で、身なりを整えていては味方にも敵にも狙われるという事情もあったのだろうと理解した。
「そなたが太原雪斎か」
 信長がそう告げると、雪斎は軽く礼をする。
「左様。拙僧せっそうが太原雪斎にござる」
 そんな挨拶を交わしたきり、会話が続かなくなった。
 いったいこの男は何を考えているのかと、信長はその顔をじっと見つめてみたが、相手のほうも同じように信長の顔をじっと見つめてくる。
「そなたは俺に会いたいと言ったそうだが、実際に俺に会うてみた感想はどうだ?」
 信長は率直に雪斎に聞いてみる。
「そうですな。承芳じょうほうとはまったく似ているところがござらぬ」
「承芳とは誰のことだ?」
還俗げんぞくして今川義元よしもとと名乗った男のことでござる」
「なるほど。しかし、そなたがここへやって来たのは、何も俺に今川義元の面影を求めてのことではあるまい」
「無論」
 雪斎がそう言ったまま沈黙したので、信長もまた沈黙する。
(奇妙なやつだ……)
 信長はそう思ったが、雪斎の考えを見極めるためにも、しばらく彼の様子を見守った。
 やがて、何を思ったのか雪斎は大きく首を頷かせる。
「貴殿は天下が欲しいとお考えでござるか?」
 天下と問われて、信長は少し考え、やがて頷いた。
「天下か……欲しいな」
「それは何がために?」
「守りたいものがあるからだ」
「守りたいものとは?」
「大切な人だ。それを守るためには、この日ノ本ひのもとの戦をすべて終わらせる必要がある。たとえ俺が尾張おわりを統一したとて、日ノ本に戦がある限り、完全に守ってやることはできぬからな」
「なるほど……守るために攻める。悪くはないですな」
守勢しゅせいに回れば滅びの道しかない。俺はそう考えておる」
「確かに、仰るとおりでござる」
 まるで禅問答のようなやりとりが続き、さすがに信長も少し苛立ってきた。
「で、そなたは俺に何が言いたくてここまでやって来たのだ? いい加減にその本心を明かしてみてはどうか」
 信長がそう告げると、雪斎は居住まいを改め、平伏した。
「拙僧に、貴方が天下を取るための手助けをお許し願いたい」
 どうやら雪斎は何か感じるところがあり、信長に臣従することを決めたようだった。
「良かろう。俺もそなたの力が必要だと考えておる。竹千代たけちよからの助言もあったしな」
 竹千代の名を出すと、雪斎は驚いたように顔を上げた。
「竹千代殿からの助言?」
「ああ。俺が駿府すんぷに向かわせた忍びが竹千代との接触に成功し、文を預かってきたのだ。そこには、そなたが俺に接触してくる可能性や、その場合は受け入れてみてはどうかという提案が書かれてあった」
「なるほど……あの今川館で竹千代殿への接触に成功するとは、さすがでござりますな」
「織田には優秀な忍びが何人もいるからな。忍びだけではなく、俺につかえる者たちは皆優秀で助かっておる。そなたも負けぬように励むが良い」
「承知。拙僧は拙僧にできる形で、貴方のお力になりましょう」
 信長は頷いて、さっそく雪斎に命を与えていく。
「そなたにまず考えてもらいたいのは、竹千代の救出方法についてだ。竹千代を助ければ、三河の松平家を味方にすることができるからな。これがそなたに対する最初の命令だ」
「御意にござります」
 こうして雪斎は信長への臣従を誓い、織田家の家臣の一列に加わったのだった。
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