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第三章
身代わり濃姫(68)
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信長が太原雪斎が接触してくる可能性について各所に連絡をしようとしていたところへ、緒川城の丹羽長秀から、太原雪斎を名乗る男が信長との面会を求めているという報せが届いた。
信長はさっそく明智光秀や周防蔵ノ介、さらには三河から戻ってきたばかりの木下藤吉郎を集め、対応を協議した。
「竹千代は太原雪斎が接触してくることがあれば、受け入れたほうが良いと言っていたが、さて、こんなに早く接触してくるとはな」
信長は率直な感想を口にした。
もしも太原雪斎が接触してくる可能性があるとしても、もっと戦況が今川にとって不利になってからの話だろうと信長は考えていたのだった。
「しかし、長秀殿の報告によると、やって来た男が本物の太原雪斎かどうかの確認が難しいとのことですが」
蔵ノ介の言葉に、信長も頷く。
「まずは太原雪斎の顔を知る者を、その緒川城にいる男と面会させることが必要だな……」
信長がそう呟くと、光秀が口を開いた。
「私も太原雪斎殿について少し調べてみたのですが、どうやら謎の多い人物のようですね。おそらく今川家の中枢にいる人物でないと顔はわからないかもしれません」
光秀のその言葉に、少し思案するように首をかしげていた藤吉郎が自分の意見を言った。
「それでござりましたら、松平家の本多忠真殿はいかがでしょうか? 忠真殿は松平家の代表のような立ち場にござりますから、ひょっとすると太原雪斎殿のお顔をご覧になったことはあるかもしれません」
「なるほど、忠真か……しかし、忠真が動いてくれるだろうか」
信長がそう指摘すると、藤吉郎は難しい顔をして首をかしげた。
「そうでござりますね。忠真殿が岡崎城を動くのは、もしかすると難しいかもしれません……」
忠真は岡崎城で松平家の家臣たちを取り仕切っている。
迂闊に岡崎城を離れることは、難しいのかもしれないと藤吉郎は思い直した。
「忠真殿が無理とすれば、じきに忠真殿の使わした忍びが殿に面会に来ることになってござります。その者に、太原雪斎殿のお顔を知っているかどうかを聞いてみてはいかがでしょうか?」
藤吉郎がそう提案し直すと、蔵ノ介がさらに続けた。
「確かに、松平家の忍びであれば、太原雪斎の顔を知ってる可能性もあるかもしれません。前の当主である松平宏忠殿が存命の際に、傍で見ている可能性は十分に考えられますね」
「では、その松平家の忍びとやらが太原雪斎を知っているようであれば、面通しさせてみるか。太原雪斎の処遇については、それから考えよう」
ひとまずこの日は、そんなふうに話がまとまったのだった。
そらから数日後……本多忠真の使いを名乗る者が藤吉郎を訪ねてきた。
藤吉郎はそれが確かに忠真の使いである服部半蔵であると確認してから、信長に目通りさせた。
「そなたが服部半蔵か。話は本多忠真から聞いておる」
松平家の忍び、服部半蔵は、年の頃は二十代の前半といった感じの青年で、ぱっと見は普通の侍のようにも見える。
しかし、今は信長に目通りするために侍の格好をしているだけであって、その姿は時に商人に化けたり、船乗りに化けたり、農民に化けたりすることもあるのだろうと信長は思う。
どこか存在感が薄く感じられるのも、気配を気取られてはならない忍び特有のものだった。
半蔵は指をついて信長に型どおりの挨拶をする。
「此度は我らが主、竹千代様のために助力をいただけるとのこと、忠真様を始め、松平家家臣は皆、心強く思っておりまする」
「面倒な挨拶はもう良い」
信長はその挨拶を途中で切り、さっそく本題に入った。
「半蔵、そなたは太原雪斎を見たことがあるか?」
問われた半蔵は、首を小さく縦に振った。
「存じておりますし、お顔も見たことがございます」
「では、そなたにひとつ頼みがあるのだが、良いだろうか?」
半蔵は再び小さく頷いた。
「はい。何なりとお申し付けください」
半蔵がそう応じてくれたので、信長は少し身を乗り出して用件を伝えていく。
「実は太原雪斎を名乗る男が、俺を訪ねて緒川城に来ておるらしい。味方になるかどうかは俺と会うてから決めるなどと言っておるらしいのだが、まずは本物の太原雪斎かどうかを確かめる必要がある」
「太原雪斎殿が……」
半蔵は少し首をかしげてみせる。
その表情には、多少の不満も現れていた。
たとえ今川義元が亡くなったとはいえ、太原雪斎は今川家のこれまでを支えてきた重鎮でもある。
竹千代を人質として隔離していることや、岡崎城を今川方の者たちが支配している現状などを考えれば、半蔵があまり良い気がしないのは無理もない話なのかもしれないと信長は考えた。
「実は竹千代から届いた俺宛ての書状には、太原雪斎が接触してくる可能性が指摘してあった。そして、もしも彼が俺に接触してくることがあれば、受け入れてみてはどうかという提案があったのだ」
竹千代の書状の話を出すと、半蔵は少し驚いたような顔をしたが、すぐに納得するように頷いた。
「では、私が緒川城に行き、その太原雪斎を名乗る人物が本物であるかどうかを確かめれば良いのでしょうか?」
「そうだ。可能であれば頼みたい。できるか?」
「かしこまりました。そういうことであれば、この足ですぐに緒川城に向かいましょう」
「ああ、そうしてくれると助かる。もしも本物の太原雪斎であれば、俺も一度ぜひ会うてみたいし、今後の今川との戦いの助けともなるであろうからな」
「はい」
「では急いで書状を書くから、それを持って緒川城の丹羽長秀に会え。後は長秀がすべてうまくやるだろう」
「承知いたしました」
信長はすぐに丹羽長秀に宛てた書状をしたため、服部半蔵に託した。
半蔵はその足で丹羽長秀のいる緒川城へ向かったのだった。
半蔵に書状を託して送り出した後、信長は美夜の部屋に向かった。
美夜の部屋の前には侍女が二人控えていた。
「帰蝶は部屋の中か?」
そう信長が聞くと、侍女二人は同時に頷いた。
「はい。甘音様に双六を教わっておられます」
「双六か。懐かしいな」
信長はそう呟いて少し笑みを浮かべると、部屋の中に入っていった。
美夜と甘音は部屋の中に双六の盤を置き、それを挟んで向かい合っていた。
「ぜんぜん勝てそうな気がしないんだけど……」
「帰蝶は正攻法すぎるから、あたしとしては楽でいいや」
美夜は盤上に置かれた石を凝視しつつ、唸った。
これはこの時代の双六なのだと甘音に教えてもらっているのだが、ルールはさほど難しくないのに、勝とうと思うと難しい。
盤の上の十五個の石を、二つのサイコロを振って出た目の数だけ動かすというシンプルなルールなのだが、動かす場所を間違えると、すぐに手が詰まってしまう。
二つのサイコロを振って出た目の数は、合計しても構わないし、それぞれ別個に使っても構わない。
つまり、出た目の数をどう使うのかというのもこちらの作戦になるので、美夜の知っているものとは違って、かなり頭を使う必要のある双六だった。
「これ、戻しちゃ駄目なのよね?」
「駄目。戻すのは反則だからな」
「ううん……やっぱりまた私の負けかな、これ……」
この世界の双六は初心者だとはいえ、サイコロという運も関連してくるのに、美夜は甘音にまったく歯が立たなかった。
「まだ諦めるのは早いな」
上からそんな声が降ってきて、美夜はようやくそこにいつの間にか信長がいたことに気づいた。
「信長様、いつからそこにいたんですか?」
「つい今しがた来たところだ」
信長はそう言って笑うと、しゃがみこんで盤の上の石を眺める。
「サイコロの目が二と五なのだから、まずこれを、ここへ。そして、この石はここ……」
信長は美夜の手を取ると、盤上の石をいくつか動かしていった。
「こうすれば、たとえ次にどのような目が出たとしても、自然とそなたの勝ちになるな」
確かに、盤の上の石を見ると、先ほどまでの美夜の不利が一気に覆され、逆に甘音が一気に不利な状態となっていた。
「その手はずりぃぞ、吉法師!」
甘音が憤慨するので、信長は笑った。
「そなたは昔から攻め方が決まっておるからな。少しは奇策も考えてみたほうが良いぞ」
信長がそう助言すると、甘音は肩を落として大きく息を吐く。
「あたし、昔から吉法師と兄者にだけは、双六がかなわねーんだよなぁ」
そんなことを言いながら、甘音は立ちあがった。
「ま、夫婦水入らずも久しぶりだろうし。あたしは邪魔しねーよーに出て行くよ」
甘音は美夜に笑って手を振ると、部屋を出て行った。
どうやら気を遣ってくれたらしい。
「なかなか気が利くようになったではないか。甘音も」
「甘音はもともと繊細で気が利く子ですよ」
「まあ、そうだな。確かに繊細なところもあるが」
信長はそんなことを言いながら、美夜を自分の膝の上に抱き寄せる。
このところ、信長が寝室に戻ってくる時刻はかなり遅く、朝もばたばたと出かけてしまうことが多いため、本当にこうして二人きりになるのは久しぶりのことだった。
信長は城にはいるものの、尾張の各地では、信長の配下の者たちが絶えず戦をしている。
そして、その状況は刻一刻と変わっており、信長はその対応に日々追われているのだった。
美夜にも今の状況は嫌というほど理解できるから、たとえ信長と一緒にいる時間が少なくても、こうして同じ城にいるということだけで満足することができていたのだが……。
「早ければ明日からまた城を空けることになると思う」
信長にそう告げられ、いよいよその時が来たか……と、美夜は不安を感じたが、その不安はなるべく顔に出さないようにつとめた。
「わかりました。私がまた。信長様の代わりに城主をすればいいんですよね?」
「すまぬな。今回は城の守りも固めていくし、蔵ノ介にも城に残ってもらう。それに俺もなるべく早く戻るつもりだ。各地の状況なども、清洲にいたほうが確認しやすいからな」
「はい……あの、今回はどちらに行かれるのですか?」
「緒川城だ。今川の重鎮が俺を訪ねてきておるらしい。今はその面通しをしてもらっているが、それが終われば、直接会いに行く」
「今川の重鎮ということは、敵のえらい人……ということですか?」
「そうだな。えらい人だが……さて、実際は会うてみなくてはわからぬ」
たとえ地位のある者であっても、実際に会えばたいしたことがないという可能性もある。
だが、竹千代からの書状に書かれていたこともあるので、信長はある程度、太原雪斎という男に期待はしていた。
「お味方にするつもりで、会われるんですよね?」
「その可能性もあるが、それもやはり会うてみないと判断はできぬな。竹千代は受け入れたほうが良いと言うておったが……」
「そうなんですね……どんな人なのかな……」
「まあ、無事に味方にすることができれば、清洲に連れ戻るから、そなたもいずれ顔を見ることぐらいはあるだろう。だが、相手は男ゆえ、油断はせぬようにな」
大真面目にそんなことを言ってくる信長に、美夜は思わず笑ってしまう。
「大丈夫ですよ。私は信長様以外の男性にときめいたりなんかしませんから」
「当然だ。そなたがもし、俺以外の男によこしまな気持ちを抱いたりしたら、俺はその男を絶対に許さぬからな」
信長のその言葉にかなりの本気度を感じ、美夜は、これは茶化したり、軽く扱ってはいけない話だ、と感じた。
かつて甘音が言っていた、信長の嫉妬が激しいということ。
普段は侍女や甘音などの女性に囲まれているから気づきづらいが、蔵ノ介に対してでさえ、信長は時折激しい嫉妬を見せることもある。
だから、異性と接する際には十分な注意が必要なのだということを、美夜は思い出した。
「私は信長様だけのものですから、安心してください。誰かによこしまな気持ちを抱くことなどは、絶対にありません」
美夜はそう誓うように告げると、信長は背後から強く美夜の身体を抱きしめてくる
「安心などできぬ。そなたに関しては、俺はいつも不安だ……」
「信長様……」
「なぜなのだろうな……他のものに関しては、こんなに不安になることもないのに……」
信長のその言葉は、美夜にも理解できる気がした。
美夜自身も同じような気持ちを常に抱いているからだ。
「私も信長様の身にもしも何かがあったらと、いつも不安になってしまいます。心配しても何も変わらないと思っても、それでもやっぱり心配になって……信長様がいない生活なんて、もう考えられないから……」
「俺もだ……そなたのいない生活など、もう考えられぬ……」
信長にさらに強く抱きしめられ、唇を求められて、美夜はそれを受け入れる。
まるで唇を重ねることで、信長は安堵しようとしているように美夜は感じたし、美夜自身も、こうして信長の存在を感じることで、明日からまた離ればなれになってしまうという不安な気持ちが、少しずつ収まっていくのを感じる。
長い接吻を幾度も繰り返してから、信長はようやく接吻を解いた。
「今宵はなるべく早く戻る」
それは今の接吻の続きは今夜……という意味なのだろうと美夜は理解した。
「はい……じゃあ、起きて待っていますね」
「ああ、待っていろ」
信長は笑みを浮かべ、再び軽い接吻をしてから仕事に戻っていった。
信長はさっそく明智光秀や周防蔵ノ介、さらには三河から戻ってきたばかりの木下藤吉郎を集め、対応を協議した。
「竹千代は太原雪斎が接触してくることがあれば、受け入れたほうが良いと言っていたが、さて、こんなに早く接触してくるとはな」
信長は率直な感想を口にした。
もしも太原雪斎が接触してくる可能性があるとしても、もっと戦況が今川にとって不利になってからの話だろうと信長は考えていたのだった。
「しかし、長秀殿の報告によると、やって来た男が本物の太原雪斎かどうかの確認が難しいとのことですが」
蔵ノ介の言葉に、信長も頷く。
「まずは太原雪斎の顔を知る者を、その緒川城にいる男と面会させることが必要だな……」
信長がそう呟くと、光秀が口を開いた。
「私も太原雪斎殿について少し調べてみたのですが、どうやら謎の多い人物のようですね。おそらく今川家の中枢にいる人物でないと顔はわからないかもしれません」
光秀のその言葉に、少し思案するように首をかしげていた藤吉郎が自分の意見を言った。
「それでござりましたら、松平家の本多忠真殿はいかがでしょうか? 忠真殿は松平家の代表のような立ち場にござりますから、ひょっとすると太原雪斎殿のお顔をご覧になったことはあるかもしれません」
「なるほど、忠真か……しかし、忠真が動いてくれるだろうか」
信長がそう指摘すると、藤吉郎は難しい顔をして首をかしげた。
「そうでござりますね。忠真殿が岡崎城を動くのは、もしかすると難しいかもしれません……」
忠真は岡崎城で松平家の家臣たちを取り仕切っている。
迂闊に岡崎城を離れることは、難しいのかもしれないと藤吉郎は思い直した。
「忠真殿が無理とすれば、じきに忠真殿の使わした忍びが殿に面会に来ることになってござります。その者に、太原雪斎殿のお顔を知っているかどうかを聞いてみてはいかがでしょうか?」
藤吉郎がそう提案し直すと、蔵ノ介がさらに続けた。
「確かに、松平家の忍びであれば、太原雪斎の顔を知ってる可能性もあるかもしれません。前の当主である松平宏忠殿が存命の際に、傍で見ている可能性は十分に考えられますね」
「では、その松平家の忍びとやらが太原雪斎を知っているようであれば、面通しさせてみるか。太原雪斎の処遇については、それから考えよう」
ひとまずこの日は、そんなふうに話がまとまったのだった。
そらから数日後……本多忠真の使いを名乗る者が藤吉郎を訪ねてきた。
藤吉郎はそれが確かに忠真の使いである服部半蔵であると確認してから、信長に目通りさせた。
「そなたが服部半蔵か。話は本多忠真から聞いておる」
松平家の忍び、服部半蔵は、年の頃は二十代の前半といった感じの青年で、ぱっと見は普通の侍のようにも見える。
しかし、今は信長に目通りするために侍の格好をしているだけであって、その姿は時に商人に化けたり、船乗りに化けたり、農民に化けたりすることもあるのだろうと信長は思う。
どこか存在感が薄く感じられるのも、気配を気取られてはならない忍び特有のものだった。
半蔵は指をついて信長に型どおりの挨拶をする。
「此度は我らが主、竹千代様のために助力をいただけるとのこと、忠真様を始め、松平家家臣は皆、心強く思っておりまする」
「面倒な挨拶はもう良い」
信長はその挨拶を途中で切り、さっそく本題に入った。
「半蔵、そなたは太原雪斎を見たことがあるか?」
問われた半蔵は、首を小さく縦に振った。
「存じておりますし、お顔も見たことがございます」
「では、そなたにひとつ頼みがあるのだが、良いだろうか?」
半蔵は再び小さく頷いた。
「はい。何なりとお申し付けください」
半蔵がそう応じてくれたので、信長は少し身を乗り出して用件を伝えていく。
「実は太原雪斎を名乗る男が、俺を訪ねて緒川城に来ておるらしい。味方になるかどうかは俺と会うてから決めるなどと言っておるらしいのだが、まずは本物の太原雪斎かどうかを確かめる必要がある」
「太原雪斎殿が……」
半蔵は少し首をかしげてみせる。
その表情には、多少の不満も現れていた。
たとえ今川義元が亡くなったとはいえ、太原雪斎は今川家のこれまでを支えてきた重鎮でもある。
竹千代を人質として隔離していることや、岡崎城を今川方の者たちが支配している現状などを考えれば、半蔵があまり良い気がしないのは無理もない話なのかもしれないと信長は考えた。
「実は竹千代から届いた俺宛ての書状には、太原雪斎が接触してくる可能性が指摘してあった。そして、もしも彼が俺に接触してくることがあれば、受け入れてみてはどうかという提案があったのだ」
竹千代の書状の話を出すと、半蔵は少し驚いたような顔をしたが、すぐに納得するように頷いた。
「では、私が緒川城に行き、その太原雪斎を名乗る人物が本物であるかどうかを確かめれば良いのでしょうか?」
「そうだ。可能であれば頼みたい。できるか?」
「かしこまりました。そういうことであれば、この足ですぐに緒川城に向かいましょう」
「ああ、そうしてくれると助かる。もしも本物の太原雪斎であれば、俺も一度ぜひ会うてみたいし、今後の今川との戦いの助けともなるであろうからな」
「はい」
「では急いで書状を書くから、それを持って緒川城の丹羽長秀に会え。後は長秀がすべてうまくやるだろう」
「承知いたしました」
信長はすぐに丹羽長秀に宛てた書状をしたため、服部半蔵に託した。
半蔵はその足で丹羽長秀のいる緒川城へ向かったのだった。
半蔵に書状を託して送り出した後、信長は美夜の部屋に向かった。
美夜の部屋の前には侍女が二人控えていた。
「帰蝶は部屋の中か?」
そう信長が聞くと、侍女二人は同時に頷いた。
「はい。甘音様に双六を教わっておられます」
「双六か。懐かしいな」
信長はそう呟いて少し笑みを浮かべると、部屋の中に入っていった。
美夜と甘音は部屋の中に双六の盤を置き、それを挟んで向かい合っていた。
「ぜんぜん勝てそうな気がしないんだけど……」
「帰蝶は正攻法すぎるから、あたしとしては楽でいいや」
美夜は盤上に置かれた石を凝視しつつ、唸った。
これはこの時代の双六なのだと甘音に教えてもらっているのだが、ルールはさほど難しくないのに、勝とうと思うと難しい。
盤の上の十五個の石を、二つのサイコロを振って出た目の数だけ動かすというシンプルなルールなのだが、動かす場所を間違えると、すぐに手が詰まってしまう。
二つのサイコロを振って出た目の数は、合計しても構わないし、それぞれ別個に使っても構わない。
つまり、出た目の数をどう使うのかというのもこちらの作戦になるので、美夜の知っているものとは違って、かなり頭を使う必要のある双六だった。
「これ、戻しちゃ駄目なのよね?」
「駄目。戻すのは反則だからな」
「ううん……やっぱりまた私の負けかな、これ……」
この世界の双六は初心者だとはいえ、サイコロという運も関連してくるのに、美夜は甘音にまったく歯が立たなかった。
「まだ諦めるのは早いな」
上からそんな声が降ってきて、美夜はようやくそこにいつの間にか信長がいたことに気づいた。
「信長様、いつからそこにいたんですか?」
「つい今しがた来たところだ」
信長はそう言って笑うと、しゃがみこんで盤の上の石を眺める。
「サイコロの目が二と五なのだから、まずこれを、ここへ。そして、この石はここ……」
信長は美夜の手を取ると、盤上の石をいくつか動かしていった。
「こうすれば、たとえ次にどのような目が出たとしても、自然とそなたの勝ちになるな」
確かに、盤の上の石を見ると、先ほどまでの美夜の不利が一気に覆され、逆に甘音が一気に不利な状態となっていた。
「その手はずりぃぞ、吉法師!」
甘音が憤慨するので、信長は笑った。
「そなたは昔から攻め方が決まっておるからな。少しは奇策も考えてみたほうが良いぞ」
信長がそう助言すると、甘音は肩を落として大きく息を吐く。
「あたし、昔から吉法師と兄者にだけは、双六がかなわねーんだよなぁ」
そんなことを言いながら、甘音は立ちあがった。
「ま、夫婦水入らずも久しぶりだろうし。あたしは邪魔しねーよーに出て行くよ」
甘音は美夜に笑って手を振ると、部屋を出て行った。
どうやら気を遣ってくれたらしい。
「なかなか気が利くようになったではないか。甘音も」
「甘音はもともと繊細で気が利く子ですよ」
「まあ、そうだな。確かに繊細なところもあるが」
信長はそんなことを言いながら、美夜を自分の膝の上に抱き寄せる。
このところ、信長が寝室に戻ってくる時刻はかなり遅く、朝もばたばたと出かけてしまうことが多いため、本当にこうして二人きりになるのは久しぶりのことだった。
信長は城にはいるものの、尾張の各地では、信長の配下の者たちが絶えず戦をしている。
そして、その状況は刻一刻と変わっており、信長はその対応に日々追われているのだった。
美夜にも今の状況は嫌というほど理解できるから、たとえ信長と一緒にいる時間が少なくても、こうして同じ城にいるということだけで満足することができていたのだが……。
「早ければ明日からまた城を空けることになると思う」
信長にそう告げられ、いよいよその時が来たか……と、美夜は不安を感じたが、その不安はなるべく顔に出さないようにつとめた。
「わかりました。私がまた。信長様の代わりに城主をすればいいんですよね?」
「すまぬな。今回は城の守りも固めていくし、蔵ノ介にも城に残ってもらう。それに俺もなるべく早く戻るつもりだ。各地の状況なども、清洲にいたほうが確認しやすいからな」
「はい……あの、今回はどちらに行かれるのですか?」
「緒川城だ。今川の重鎮が俺を訪ねてきておるらしい。今はその面通しをしてもらっているが、それが終われば、直接会いに行く」
「今川の重鎮ということは、敵のえらい人……ということですか?」
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だが、竹千代からの書状に書かれていたこともあるので、信長はある程度、太原雪斎という男に期待はしていた。
「お味方にするつもりで、会われるんですよね?」
「その可能性もあるが、それもやはり会うてみないと判断はできぬな。竹千代は受け入れたほうが良いと言うておったが……」
「そうなんですね……どんな人なのかな……」
「まあ、無事に味方にすることができれば、清洲に連れ戻るから、そなたもいずれ顔を見ることぐらいはあるだろう。だが、相手は男ゆえ、油断はせぬようにな」
大真面目にそんなことを言ってくる信長に、美夜は思わず笑ってしまう。
「大丈夫ですよ。私は信長様以外の男性にときめいたりなんかしませんから」
「当然だ。そなたがもし、俺以外の男によこしまな気持ちを抱いたりしたら、俺はその男を絶対に許さぬからな」
信長のその言葉にかなりの本気度を感じ、美夜は、これは茶化したり、軽く扱ってはいけない話だ、と感じた。
かつて甘音が言っていた、信長の嫉妬が激しいということ。
普段は侍女や甘音などの女性に囲まれているから気づきづらいが、蔵ノ介に対してでさえ、信長は時折激しい嫉妬を見せることもある。
だから、異性と接する際には十分な注意が必要なのだということを、美夜は思い出した。
「私は信長様だけのものですから、安心してください。誰かによこしまな気持ちを抱くことなどは、絶対にありません」
美夜はそう誓うように告げると、信長は背後から強く美夜の身体を抱きしめてくる
「安心などできぬ。そなたに関しては、俺はいつも不安だ……」
「信長様……」
「なぜなのだろうな……他のものに関しては、こんなに不安になることもないのに……」
信長のその言葉は、美夜にも理解できる気がした。
美夜自身も同じような気持ちを常に抱いているからだ。
「私も信長様の身にもしも何かがあったらと、いつも不安になってしまいます。心配しても何も変わらないと思っても、それでもやっぱり心配になって……信長様がいない生活なんて、もう考えられないから……」
「俺もだ……そなたのいない生活など、もう考えられぬ……」
信長にさらに強く抱きしめられ、唇を求められて、美夜はそれを受け入れる。
まるで唇を重ねることで、信長は安堵しようとしているように美夜は感じたし、美夜自身も、こうして信長の存在を感じることで、明日からまた離ればなれになってしまうという不安な気持ちが、少しずつ収まっていくのを感じる。
長い接吻を幾度も繰り返してから、信長はようやく接吻を解いた。
「今宵はなるべく早く戻る」
それは今の接吻の続きは今夜……という意味なのだろうと美夜は理解した。
「はい……じゃあ、起きて待っていますね」
「ああ、待っていろ」
信長は笑みを浮かべ、再び軽い接吻をしてから仕事に戻っていった。
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