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第三章

身代わり濃姫(67)

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 清洲きよすを出発した藤吉郎は、無事に三河国みかわのくに、岡崎に入り、そのまま行商人の使いとして岡崎城に潜入することに成功していた。
 岡崎城の本丸は今川家の者たちの見張りが厳重で、特別な許可をもらわなければ近づくことができないようになっているものの、二の丸へは出入りの商人であることが確認できれば入ることができた。
 藤吉郎は二の丸に入り、慎重に本多忠真ほんだただざねの居所を探した。
 そのうちに、どうやら松平家の者たちの多くは、この二の丸にいるようだと、藤吉郎は当たりを付けた。
(自分たちのお城なのに本丸に入れないなんて……松平家の人たちは気の毒です……)
 藤吉郎は松平家の者たちに同情した。
 当主を継ぐべき竹千代は健在であるのだから、本来であれば後見人をつけた上で竹千代が跡を継ぎ、この城の主となるべきなのだ。
 しかし、この岡崎城を我が物顔で支配するのは、今川家の者たちだった。
 だからだろうか……この二の丸にいる松平家の家臣たちは、どことなく生気が感じられない。
 織田家の生き生きとした家臣たちの雰囲気に比べると、松平家の家臣たちは、まるで葬式に参列した者たちのようにも藤吉郎には感じられてしまう。
 支配されることに慣れてしまうと、人はこのようになってしまうのだろうか……藤吉郎はそんなことを考えながら、忠真の居所を探し続けた。
「城下の饅頭まんじゅう屋ですが、本多忠真様にお届け物がありまして登城させていただきました。どなたか本多忠真様に取り次いでくださる方はおられますか?」
 藤吉郎が人を選んで聞くことを続けていると、一人の侍が藤吉郎に近づいてきた。
 くだけた着流し姿に髪はざんばらに結っているだけの格好ではあるが、帯刀たいとうして城内を堂々と歩いているのだから、この男も松平家の家臣なのに違いないのだろう。
「お前は本多忠真を探しているのか?」
 男に問われて、藤吉郎は行儀良く礼をした。
「はい、左様さようでございます」
「いったいお前のような子どもが本多忠真に何用だ?」
「私は城下の饅頭屋の使いの者ですが、忠真様に饅頭をお届けにあがりました」
 藤吉郎がそう言うと、男は首をかしげてみせる。
「ふむ……おかしいな。忠真は甘いものが苦手と聞いているが」
 そんな返答が返ってくるとは思わず藤吉郎は少し動揺したが、それは顔には出さず、さらに続けた。
「それは不思議です。私は忠真様がとてもお饅頭がお好きで、最後に二年前に食べてから饅頭断ちをしているけれども、このたびそれを解禁するから速やかに届けるようにと伝えられてきたのですが……」
 藤吉郎はさまざまな意図をちりばめながら、男に告げた。
 最後が二年前……という言葉にこの男が反応してくれるかどうかは分からなかったが、藤吉郎は念の為に引っかけてみたのだった。
 松平家の家臣たちが最後に竹千代と接したのが二年前ということだから、松平家の家臣……それも竹千代に近い重臣であればそこに引っかからないはずがない……と藤吉郎は考えていた。
 もしもこの男が松平家で大したことのない地位にしかない者ならば、藤吉郎の言葉はまったくかすりもしないだろう。
 だが、藤吉郎はこの男からただ者ではない気配を感じ取っていたのだった。
 おそらくこの男は、松平家のかなり中枢にいる者のはずだ。
 藤吉郎が事情を話せば、忠真に取り次ぐことも可能だろう。
 藤吉郎は表面上は愛想の良い笑みを浮かべながら、慎重に相手の様子をうかがう。
 男の表情は、どうもつかみ所がなかった。
(この人は当たりでしょうか……それとも……)
 やがて男は、藤吉郎に言った。
「ついてこい。忠真のところへ連れて行ってやる」
「はい、ありがとうございます!」
 藤吉郎は自分の勘が間違っていなかったことに安堵し、大股で歩く男の後をついていった。

 藤吉郎が連れて行かれたのは、二の丸の奥にある部屋から、さらに隠し戸を抜けていった先の狭い一室だった。
 四方を部屋に囲まれ、外には繋がっていない……いわゆる密談などに使われる部屋だと想像がつく。
 清洲城にもこのような部屋があり、そこは信長に近いごく限られた者たちだけが入ることを許されている。
 男は藤吉郎に改めて向き合うと、口を開いた。
「俺が本多忠真だ。ちなみに俺は本当に甘味が苦手なのだ」
 そう言って苦笑する忠真は、見た目は気さくそうな雰囲気を醸し出しているものの、その目の光は、決して油断できるものではなかった。
 まだ藤吉郎のことを信用してはいない……そういう気配を遠慮なく放っている。
「申し訳ありません。饅頭屋の使いというのは嘘でござりまする」
「だろうな。で、お前の目的は何だ? なぜわざわざ二年前という言葉を使った?」
 藤吉郎は居住まいを改め、指をついて挨拶をする。
「怪しませてしまい、申し訳ござりません。私は尾張の清洲城の城主、織田信長様にお仕えする木下藤吉郎と申します」
「織田信長……」
「はい。実は私は殿のご命令で密かに駿府すんぷ今川館いまがわやかたに入り、竹千代様にお会いして参りました」
「竹千代様に会っただと!?」
 男の声は明らかに動揺していた。
 竹千代の話では、松平家の者たちは迂闊うかつにあの今川館に近づくことができず、竹千代が人質となって以来、一度も接触することができていないのだという。
 藤吉郎は見た目が子どもに見えることもあり、慎重に時間をかけて潜入活動を行っていたこともあったので、今川館の奥に隔離された竹千代に接触することも可能だったが、大人の男たちが竹千代に接触することは、藤吉郎が考えてみても難しいことと思われた。
「私は竹千代様よりこれをお預かりし、岡崎城の本多忠真という松平家の家臣に手渡すように言いつかってきたのでござりまする」
 藤吉郎はそう告げると、竹千代から預かってきた書状を丁寧に忠真に手渡した。
 忠真は受け取った書状をさっそく読み進めていく。
 その表情が驚きのものに変わり、先ほどまであらわにしていた警戒心が一気に解けていくのを藤吉郎は感じた。
「確かにこれは……竹千代様の……」
 竹千代からの書状を読み進めてる忠真の瞳に、熱いものが溢れだしているのを見てしまい、藤吉郎は失礼にならないように視線をそっと外した。
(やはり……松平家の人たちは、苦しい思いをしていたのですね……)
 忠真と同じように、唯一無二の主を持つ藤吉郎にはそうした臣下の情が痛いほどによくわかる。
 信長に限ってそのようなことはないだろうし、させるつもりもないが、もしも自分の主が竹千代と同じ目にったら……と思うと、藤吉郎も胸が張り裂けそうになるのだった。
 やがて忠真は書状を閉じ、藤吉郎に向き直り、頭を下げてくる。
「竹千代様からの書状、確かに受け取った。礼を言う」
 忠真は少しかすれた声で、藤吉郎にそう告げた。
「いえ。私もお役目を無事に果たすことができて安堵あんどいたしました」
 竹千代の書状を読み終えた忠真は、改めて藤吉郎を見てくる。
「竹千代様はご健勝であらせられたであろうか?」
 心配するように問うてくる忠真に、藤吉郎は微笑んだ。
「はい。おせいが少し伸びられて、顔も少し大人びたように感じられました」
「だろうな。もう竹千代様も九歳だ。あれから二年……成長もしておられよう……」
「はい。お身体は健康そうに見えましたし、受け答えもしっかりしておられました。私の九つの頃と比べましても、竹千代様はとてもご立派だと思います」
「そうであろう……そうであろう……竹千代様はそういう御方なのだ……」
 竹千代からの書状を見た後というだけあって、忠真の心は高揚しているようだった。
 しかし藤吉郎は主から頼まれた言づてを伝える必要もあった。
 藤吉郎は忠真の様子を伺いながら、遠慮がちに口を開く。
「あの……もうひとつよろしいでしょうか?」
「何であろうか?」
「我が主、織田信長様より忠真殿に、織田にできることがあれば、何でも言うようにと言づてを預かってきてござります」
 藤吉郎がそう伝えると、忠真はようやく思い至ったような顔をする。
「そうか……それはありがたい。実は竹千代様からの書状にも、信長殿を信用して助力を乞うようにと書かれてあった。竹千代様を救出するために、ぜひ、こちらからも協力を頼みたい」
「はい。では、清洲に戻りまして、殿にそうお伝えいたしまする」
「しかし織田も今は大変ではないのか?」
 織田家が二派に分裂して争っていることを、忠真は気遣っているのだろうと藤吉郎は理解した。
「はい。ですが、信長様はこの機会に織田家も……そして尾張も統一するおつもりでいらっしゃるようでござりまする」
 藤吉郎がそう告げると、忠真は笑う。
「なるほど。確かに好機とみれば好機かもしれんな」
 忠真の言葉に藤吉郎は頷いた。
「松平家の方々は竹千代様の救出のために、そして我ら織田家は尾張の統一のために、両家が力を合わせて戦うことは可能だと存じまする」
「うむ、確かに藤吉郎殿の言うとおりだ。我々は織田のために力を貸そう。そして、織田も我々のために力を貸してもらいたい」
「はい。殿ももちろんそのつもりでござりまする」
 無事に両家の今後の協力について約束を取り付けることができ、藤吉郎はようやく安堵した。
「それで、今後の連絡手段についてなのですが、どうすればよろしいでしょうか?」
「こちらから連絡をする際には、服部半蔵はっとりはんぞうという者を使いに出す。この者は信頼のおける忍びゆえ、何でも伝えてもらって構わないと信長殿にお伝えくだされ」
「かしこまりました。では、清洲に戻りましてそのように殿にお伝えいたしまする」
 竹千代の書状を手渡し、松平家との橋渡しを無事に終えた藤吉郎は、岡崎城を出ると、そのまま清洲への帰路についたのだった。

 緒川おがわ城に、海から小舟に乗って珍客がやって来たのは、信長の主命により丹羽長秀にわながひでが緒川城の守りに着任して五日目のことだった。
 珍客は自分のことを太原雪斎たいげんせっさいと名乗っているのだという。
「太原雪斎といえば、今川家の重鎮の名と同じですが……」
 長秀がそう言うと、緒川城の城主、水野金吾もいぶかしげな顔をして頷いた。
 太原雪斎ほどの人物が、供も連れずに一人で敵城にやって来ることなどがあるのだろうか……というのが、長秀と金吾の疑問だった。
「仮にもし本物の太原雪斎だとしたら、亡命してきたということなのだろうか……」
「分かりません。とりあえず話をしてみる必要がありそうですから、まずは私が接触してみましょう」
 太原雪斎を名乗る男が、もしも何か不穏な目的のために緒川城を訪れたのだとしたら、城主の金吾に何かあっては大変だ。
 長秀はそう判断し、自らがその男と接触することにしたのだった。

 城門前にたたずむその初老の男を見ても、長秀は彼が本物の太原雪斎かどうかをはかりかねた。
 確かに、年齢や剃髪ていはつしていることなども含めて、太原雪斎である条件は満たしているようではあるものの、その身なりはまるで野伏のぶせのようであり、とても今川家の重鎮じゅうちんとは見えない。
 だが、身なりがそうであるからといって、この男が必ずしも太原雪斎ではないとも言い切れないと長秀は思った。
 まずは相手の言うことをきちんと聞いてみることが必要だろう……そう長秀は判断した。
「貴殿が太原雪斎殿でしょうか?」
 長秀はひとまず彼を太原雪斎として扱い、礼を尽くしながら接してみることにした。
 もしも彼が偽物である場合は、話をしているうちにボロがでるだろうし、そのボロを見過ごさないようにするのが長秀の役目でもある。
「いかにも。拙僧が太原雪斎でござる」
 声には威厳がある。
 しかし、声だけで彼が太原雪斎だと判断することは、当然のことながらできない。
「貴殿はなぜ、この城を訪ねてこられたのでしょう?」
「織田信長公にお会いしたい。ただそれだけの目的のためでござる」
「信長様に……またそれはなぜ? 今川家の重臣でもある貴方にとっては、信長様は敵ではないのですか?」
「かつては敵であったかもしれぬ。しかし、今は敵ではないかもしれぬ。それを確かめるためにお会いしたいのだ」
 奇妙なことを言う……と長秀は思った。
 彼の言うことをそのまま受け止めるなら、信長に会って味方となることももちろんあるだろうが、場合によっては敵となる可能性もあると取ることもできる。
(信長様にとって、どうするのが最善か……)
 長秀は短い間に思案した。
 このまま門前払いをすることもできるが、彼が本当に太原雪斎であった場合、そして、信長への臣従を誓う可能性があるのなら、ここでこの人物を追い返してしまっては織田家にとっては大変な損失となってしまう。
 長秀も太原雪斎の今川家における数々の功績についてはよく知っている。
 おそらく太原雪斎のような才能は、これからの織田家にとって必要なものに違いない。
 そして今この目の前の人物を、太原雪斎でないと言い切れる自信は、長秀にはなかった。
「申し訳ありませんが、私やこの城にいる者たちには、貴殿の処遇を決めることができません」
「そうでござろうな」
「はい。ですから、我が主、信長様に判断を委ねたいと思いますが、信長様からの返答があるまでの間、貴殿にはこの城に滞在願えるでしょうか。ただし、信長様の判断があるまで、我々としては貴殿を味方とも敵とも判断できませんから、武器はすべて預からせていただき、貴殿の身柄は我々の監視下に置かせていただきます。その条件でいかがでしょうか?」
 この条件をのまずに立ち去るというのなら仕方がないと長秀は腹をくくったのだが、太原雪斎を名乗る男は、自分の身につけた武器をすべて外して地面に落とした。
「これで良いのだな?」
「はい、それで結構です。しばらくの間ご不便をおかけいたしますが、ご容赦ください」
「敵城に乗り込むのだから、この程度のことは覚悟してござる。気にする必要はない」
 こうして太原雪斎を名乗る男は緒川城に入り、長秀はすぐに信長へしらせを送ったのだった。
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