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第三章
身代わり濃姫(66)
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その夜――竹千代も駿府の今川館に与えられた部屋で、吉法師と一年あまり過ごした里のことを思い出していた。
(もうあれから三年も経つのですね……)
今川家の人質として駿府へ向かう道中で織田の者たちに襲われ、竹千代の身柄は尾張のとある場所へと移された。
念の為にと目隠しをされてそこへ連れて行かれたので、竹千代は今もってあの場所がどこにあるのかを知らない。
しかしあの場所が、織田家にとってとても重要な場所であることは、当時六歳の竹千代にもすぐに理解できた。
そこには老若男女、さまざまな者たちが住んでいたが、ある特殊な仕事をする者たちの集う場所でもあったのだ。
いわゆる裏の仕事……もっと分かりやすくいえば織田家の汚れ仕事を一手に引き受ける忍びたちの集まる場所……それがあの里の正体だった。
もちろん、里の者たちは竹千代の目にはそうしたものは見せないように十分に配慮はしていたものの、一年あまりも住んでいれば、おおよそのことは想像がつく。
館の中に入っているように言われても、外から聞こえる悲鳴までを消すことはできないし、時折死体が運び出されるのも、竹千代は目撃している。
松平家にも忍びはおり、彼らの仕事も、当時の竹千代はおおよそ理解していたから、なおさら里の者たちが何をしているのかということは、すぐに想像がついたのかもしれない。
里の長はまだ若く、当時二十歳にもなっていなかったが、竹千代はその目を見ただけで、彼がいかに多くの地獄を見てきたのかを悟った。
なぜそんな若さで長になったのかと、竹千代は素朴な疑問をその彼、周防蔵ノ介に聞いてみたことがある。
返ってきた答えは、実に分かりやすいものだった。
『長であった父が死亡し、その後、長の座を継いだ母も同様に死亡したから』というものだった。
そうした教訓からか、蔵ノ介は自分が里の外に出ることは基本的にせず、双子の弟である藤ノ助を手足のように使い、里の外の情報を得ているのだと笑っていた。
その話を聞いた竹千代は、蔵ノ介が基本的に里の外に出ない……出ることができないのは、当主の信秀の意向によるものかもしれないと思ったのだった。
ただ、蔵ノ介は自分の立ち場を理解して受け入れていたから、自分の境遇に対して不満などを抱いている様子は微塵も感じられなかった。
ともあれ、竹千代は、そんな里で一年あまりの時間を過ごした。
里にはちょうど同じ時期ぐらいに預けられた、織田家の嫡男である信長もいた。
当時の彼はまだ成人しておらず、吉法師と呼ばれていた。
竹千代の目から見た吉法師は、この里での生活に表面上は甘んじてはいるけれども、内心では納得していないようにも見えた。
吉法師は里の子たちと一緒にいることは少なく、時間があれば竹千代に構ってくれた。
日がな一日、大してすることもなく、書物を読んだり里の中を散歩することぐらいしかなかった竹千代にとって、吉法師の存在はありがたく、また心強い存在でもあった。
竹千代が母を思い出して泣いたときも、吉法師は『いつか必ず母上に会わせてやる』と言い、竹千代のことを抱きしめてくれた。
そんなふうに人に接してもらえた経験は初めてだったので、竹千代は少し戸惑う気持ちも覚えたが、吉法師の心が本物であることも伝わってきて、彼に対する心からの信頼の気持ちが生まれた瞬間となったのだった。
吉法師は竹千代の前では自分の本心を吐露することもあった。
六つも年下の自分が、吉法師に対して何か励ましたり、意見を言ったりするような立ち場ではないと思いつつも、吉法師は率直な意見を竹千代に求めてくるので、竹千代もそれに応える形で自分の意見を伝えたりした。
そのたびに吉法師は、六つの子どもの意見としてではなく、一人の対等な人間の意見として、竹千代の言葉を聞いていたのをよく覚えている。
たとえば、ある日の夕暮れ、黄昏に染まる稲穂を眺めながら、竹千代はふとした疑問を吉法師にぶつけた。
「吉法師殿は、どうして他の里の子らと遊ばないのですか?」
もうこの里へ来てから幾月か経っているのに、竹千代は吉法師が里の子たちと遊んでいるところを見たことがなかった。
吉法師は話をすると面白いし、きっと自分とは違って、同じ年頃の子たちともすぐに仲良くなれるだろうと竹千代は考えていたので、それがいつまで経っても、吉法師に自分以外の仲の良い相手ができないのが不思議だったのだ。
最初は人見知りもあるのだろうかと考えていたが、ここまで長くその状態が続くということは、吉法師の中に何らかの信条のようなものがあるのかもしれない……と、竹千代は興味がわいた。
だから、質問を投げかけてみたのだが。
しかし、吉法師から返ってきた返答は、竹千代の予想していたものとはまったく違っていた。
「正直に言うて……どう接して良いのか分からぬのだ……」
途方に暮れたようにそう告げてくる吉法師の言葉に、竹千代もどう答えれば良いのか分からなかった。
「どう接して良いのか分からない……」
竹千代はとりあえず吉法師の言葉を復唱した。
吉法師は頷いて、自分の心情をさらに吐露していく。
「これまで俺の周りにいた者たちは、俺が話しかけに行かなくとも、勝手に寄ってきていた。だが、ここの者たちは自ら俺に話しかけてこぬばかりか、俺を避けているようなところがある……そんな態度を取られたのは初めてだから、どう接して良いのか分からない……」
吉法師の言っていることはどうやら本音のようで、竹千代は意外な気持ちで彼の横顔を見つめた。
「でも吉法師殿は、私には話しかけてきてくれました」
「それは俺がそなたに興味を抱いたという理由がひとつ。そして、そなたが俺を拒絶することなく受け入れてくれたことが二つ目の理由だ」
「なるほど……」
要するに、この里の子たちは吉法師を特別扱いしておらず、自分たちと馬が合いそうな者たちだけで仲良くしているので、自然と異分子的な信長は排除されてしまっている……ということなのだろうか。
確かに竹千代も、この里の子たちから話しかけられたことはほとんどなかった。
竹千代がこの里で会話をするのは、大人か吉法師だけだ。
「実は俺は、生まれて初めて悩んでおるのかもしれぬ」
吉法師はそんな自分の本心まで、六つの子どもである竹千代に打ち明けた。
「悩んでいるとは、この里の子たちにどう接すれば良いのかということを、悩んでいるのですか?」
「そうだ。そなたはどう思う、竹千代?」
「え? わ、私ですか……そうですね……」
六つの子どもに大真面目に意見を聞いてくる吉法師に戸惑いを感じつつも、竹千代は必死に考えた。
「あの、これは私の意見ですが、何事も追いかけすぎれば逃げてしまうと思います。幸せもそうですし、人もそうではないでしょうか」
「では、追いかけずにどうやって仲良くなるのだ」
「吉法師殿が私に話しかけてくれたように、ある程度追いかける努力は必要と思います。でも、そうした努力をしても、仲良くなれる者もいれば、仲良くなれぬ者もいると割り切ることも必要ではないでしょうか」
「ふむ……」
「この世の中には手に入れることができるものもあれば、できないものもある……それと同じことと思います」
竹千代の言葉を、吉法師は渋面を作って受け止め、そして整理しているようだった。
「なるほどな。それがそなたの考えか」
「はい。私はそもそも友達などいたことがないですから、参考にはならないかもしれませんが」
「いや、参考になった。……というか、俺はそなたの友達ではないのか?」
吉法師にじっと顔を見つめて問われ、竹千代は驚いてしまった。
「え? 私を吉法師殿の友達にしていただけるのですか?」
「俺はそう思うていたのだが……そなたが嫌なら、別に友達でなくとも良い」
吉法師のその言葉に、竹千代は慌てて首を横に振った。
「嫌ではありません。もちろん、私も吉法師殿と許されるのなら友達になりたいと思いっています」
「許すも許さぬもあるまい。すでに俺はそなたを友達と思うておるのだから」
吉法師がそう言って笑うので、竹千代も笑みが零れた。
「では、私にとっての初めての友達は、吉法師殿ということになるのですね」
「そうだ。……それにしても、そなたにとって俺が初めての友達か。ふむ……悪くはないな」
「はい、悪くはないです。というか、とても嬉しいです」
竹千代が、生まれて初めての友達を得た日……それは、今もって忘れることのできない思い出の日のひとつでもあった。
……あれから三年の日々が過ぎ、竹千代はあの尾張の里からこの駿府へと移った。
駿府での生活は、里にいた時以上に自由がなく、竹千代は身の回りの世話をする者を除いて、松平家の者たちとの一切の接触を禁じられている。
松平家の者たちと最後に話をしたのは、竹千代が尾張からこの駿府へと移されるその直前のことだった。
だからもう、二年近くも竹千代は松平家から隔離され続けている……。
(あの頃はまだ父上が生きておられました……でも、今は父上も亡く、松平家の者たちはいったいどうしているのでしょうか……)
松平家の忍びですら、この今川館に近づくことができていないのだから、織田家の忍びである木下藤吉郎が今日を含め、竹千代と幾度かの接触に成功しているのは、まさに奇跡ともいえるのだろうし、それだけ藤吉郎が忍びとしての能力に優れているということもいえるだろう。
あの里の出身の忍びたちが藤吉郎のように優れた者たちばかりだとしたら、織田家は今後も勢力を拡大し続けることが可能なはずだ。
もちろん、この好機に尾張の今川勢を駆逐し、尾張を平定することも――。
(無事に私が家督を継ぐことができれば、織田を見習って、松平家も忍びを本格的に育てる必要があるでしょう……)
ともあれ、この駿府での生活は、里でのある意味でのびのびとした生活に比べると窮屈きわまりなく、さすがに辛抱強い竹千代も、時折憂うような気持ちになることがある。
それは里にいた頃のように、信長のような者が傍にいないという理由も、大いにあるに違いない。
(友達の存在というのは、とても大きいものなのですね……)
吉法師はこの三年の間に成人して織田信長となり、十六で織田家の家督を継いだ。
結婚もしたと聞いている。
(信長殿が結婚……少し想像ができませんが、きっと信長殿なら、奥方を大切になさる気がします)
信長の本当の優しさを知る竹千代には、不器用ながらも妻を慈しもうとする信長の姿が、その目に見えるようだった。
(信長殿が当主となられたのなら……織田家も安泰でしょうし)
信秀が死に、信長が家督を継いだと聞いたとき、竹千代は素直にそう思ったものだった。
信秀は主に謀略によって織田家の勢力を拡大し、信長はその鋭い感性と、不思議と人を惹きつけてやまない人間的な魅力によって、織田家を率いていくのだろうと竹千代は以前から考えていた。
どちらが良くてどちらが悪いなどと竹千代は思わない。
ただ、信秀が謀略者であったことがこれまでの織田家に幸いし、そして信長が感性の豊かな若者であることが、今後の織田家に幸いするであろうと竹千代は考えている。
(私も信長殿に負けてはいられません。いよいよ父上の跡を継ぎ、松平家を背負って行かなくてはならない時が来ました……)
竹千代はそう思い、西のほうに視線を向ける。
藤吉郎に託した書状は、無事に本多忠真に届くだろうか……。
(もうあれから三年も経つのですね……)
今川家の人質として駿府へ向かう道中で織田の者たちに襲われ、竹千代の身柄は尾張のとある場所へと移された。
念の為にと目隠しをされてそこへ連れて行かれたので、竹千代は今もってあの場所がどこにあるのかを知らない。
しかしあの場所が、織田家にとってとても重要な場所であることは、当時六歳の竹千代にもすぐに理解できた。
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いわゆる裏の仕事……もっと分かりやすくいえば織田家の汚れ仕事を一手に引き受ける忍びたちの集まる場所……それがあの里の正体だった。
もちろん、里の者たちは竹千代の目にはそうしたものは見せないように十分に配慮はしていたものの、一年あまりも住んでいれば、おおよそのことは想像がつく。
館の中に入っているように言われても、外から聞こえる悲鳴までを消すことはできないし、時折死体が運び出されるのも、竹千代は目撃している。
松平家にも忍びはおり、彼らの仕事も、当時の竹千代はおおよそ理解していたから、なおさら里の者たちが何をしているのかということは、すぐに想像がついたのかもしれない。
里の長はまだ若く、当時二十歳にもなっていなかったが、竹千代はその目を見ただけで、彼がいかに多くの地獄を見てきたのかを悟った。
なぜそんな若さで長になったのかと、竹千代は素朴な疑問をその彼、周防蔵ノ介に聞いてみたことがある。
返ってきた答えは、実に分かりやすいものだった。
『長であった父が死亡し、その後、長の座を継いだ母も同様に死亡したから』というものだった。
そうした教訓からか、蔵ノ介は自分が里の外に出ることは基本的にせず、双子の弟である藤ノ助を手足のように使い、里の外の情報を得ているのだと笑っていた。
その話を聞いた竹千代は、蔵ノ介が基本的に里の外に出ない……出ることができないのは、当主の信秀の意向によるものかもしれないと思ったのだった。
ただ、蔵ノ介は自分の立ち場を理解して受け入れていたから、自分の境遇に対して不満などを抱いている様子は微塵も感じられなかった。
ともあれ、竹千代は、そんな里で一年あまりの時間を過ごした。
里にはちょうど同じ時期ぐらいに預けられた、織田家の嫡男である信長もいた。
当時の彼はまだ成人しておらず、吉法師と呼ばれていた。
竹千代の目から見た吉法師は、この里での生活に表面上は甘んじてはいるけれども、内心では納得していないようにも見えた。
吉法師は里の子たちと一緒にいることは少なく、時間があれば竹千代に構ってくれた。
日がな一日、大してすることもなく、書物を読んだり里の中を散歩することぐらいしかなかった竹千代にとって、吉法師の存在はありがたく、また心強い存在でもあった。
竹千代が母を思い出して泣いたときも、吉法師は『いつか必ず母上に会わせてやる』と言い、竹千代のことを抱きしめてくれた。
そんなふうに人に接してもらえた経験は初めてだったので、竹千代は少し戸惑う気持ちも覚えたが、吉法師の心が本物であることも伝わってきて、彼に対する心からの信頼の気持ちが生まれた瞬間となったのだった。
吉法師は竹千代の前では自分の本心を吐露することもあった。
六つも年下の自分が、吉法師に対して何か励ましたり、意見を言ったりするような立ち場ではないと思いつつも、吉法師は率直な意見を竹千代に求めてくるので、竹千代もそれに応える形で自分の意見を伝えたりした。
そのたびに吉法師は、六つの子どもの意見としてではなく、一人の対等な人間の意見として、竹千代の言葉を聞いていたのをよく覚えている。
たとえば、ある日の夕暮れ、黄昏に染まる稲穂を眺めながら、竹千代はふとした疑問を吉法師にぶつけた。
「吉法師殿は、どうして他の里の子らと遊ばないのですか?」
もうこの里へ来てから幾月か経っているのに、竹千代は吉法師が里の子たちと遊んでいるところを見たことがなかった。
吉法師は話をすると面白いし、きっと自分とは違って、同じ年頃の子たちともすぐに仲良くなれるだろうと竹千代は考えていたので、それがいつまで経っても、吉法師に自分以外の仲の良い相手ができないのが不思議だったのだ。
最初は人見知りもあるのだろうかと考えていたが、ここまで長くその状態が続くということは、吉法師の中に何らかの信条のようなものがあるのかもしれない……と、竹千代は興味がわいた。
だから、質問を投げかけてみたのだが。
しかし、吉法師から返ってきた返答は、竹千代の予想していたものとはまったく違っていた。
「正直に言うて……どう接して良いのか分からぬのだ……」
途方に暮れたようにそう告げてくる吉法師の言葉に、竹千代もどう答えれば良いのか分からなかった。
「どう接して良いのか分からない……」
竹千代はとりあえず吉法師の言葉を復唱した。
吉法師は頷いて、自分の心情をさらに吐露していく。
「これまで俺の周りにいた者たちは、俺が話しかけに行かなくとも、勝手に寄ってきていた。だが、ここの者たちは自ら俺に話しかけてこぬばかりか、俺を避けているようなところがある……そんな態度を取られたのは初めてだから、どう接して良いのか分からない……」
吉法師の言っていることはどうやら本音のようで、竹千代は意外な気持ちで彼の横顔を見つめた。
「でも吉法師殿は、私には話しかけてきてくれました」
「それは俺がそなたに興味を抱いたという理由がひとつ。そして、そなたが俺を拒絶することなく受け入れてくれたことが二つ目の理由だ」
「なるほど……」
要するに、この里の子たちは吉法師を特別扱いしておらず、自分たちと馬が合いそうな者たちだけで仲良くしているので、自然と異分子的な信長は排除されてしまっている……ということなのだろうか。
確かに竹千代も、この里の子たちから話しかけられたことはほとんどなかった。
竹千代がこの里で会話をするのは、大人か吉法師だけだ。
「実は俺は、生まれて初めて悩んでおるのかもしれぬ」
吉法師はそんな自分の本心まで、六つの子どもである竹千代に打ち明けた。
「悩んでいるとは、この里の子たちにどう接すれば良いのかということを、悩んでいるのですか?」
「そうだ。そなたはどう思う、竹千代?」
「え? わ、私ですか……そうですね……」
六つの子どもに大真面目に意見を聞いてくる吉法師に戸惑いを感じつつも、竹千代は必死に考えた。
「あの、これは私の意見ですが、何事も追いかけすぎれば逃げてしまうと思います。幸せもそうですし、人もそうではないでしょうか」
「では、追いかけずにどうやって仲良くなるのだ」
「吉法師殿が私に話しかけてくれたように、ある程度追いかける努力は必要と思います。でも、そうした努力をしても、仲良くなれる者もいれば、仲良くなれぬ者もいると割り切ることも必要ではないでしょうか」
「ふむ……」
「この世の中には手に入れることができるものもあれば、できないものもある……それと同じことと思います」
竹千代の言葉を、吉法師は渋面を作って受け止め、そして整理しているようだった。
「なるほどな。それがそなたの考えか」
「はい。私はそもそも友達などいたことがないですから、参考にはならないかもしれませんが」
「いや、参考になった。……というか、俺はそなたの友達ではないのか?」
吉法師にじっと顔を見つめて問われ、竹千代は驚いてしまった。
「え? 私を吉法師殿の友達にしていただけるのですか?」
「俺はそう思うていたのだが……そなたが嫌なら、別に友達でなくとも良い」
吉法師のその言葉に、竹千代は慌てて首を横に振った。
「嫌ではありません。もちろん、私も吉法師殿と許されるのなら友達になりたいと思いっています」
「許すも許さぬもあるまい。すでに俺はそなたを友達と思うておるのだから」
吉法師がそう言って笑うので、竹千代も笑みが零れた。
「では、私にとっての初めての友達は、吉法師殿ということになるのですね」
「そうだ。……それにしても、そなたにとって俺が初めての友達か。ふむ……悪くはないな」
「はい、悪くはないです。というか、とても嬉しいです」
竹千代が、生まれて初めての友達を得た日……それは、今もって忘れることのできない思い出の日のひとつでもあった。
……あれから三年の日々が過ぎ、竹千代はあの尾張の里からこの駿府へと移った。
駿府での生活は、里にいた時以上に自由がなく、竹千代は身の回りの世話をする者を除いて、松平家の者たちとの一切の接触を禁じられている。
松平家の者たちと最後に話をしたのは、竹千代が尾張からこの駿府へと移されるその直前のことだった。
だからもう、二年近くも竹千代は松平家から隔離され続けている……。
(あの頃はまだ父上が生きておられました……でも、今は父上も亡く、松平家の者たちはいったいどうしているのでしょうか……)
松平家の忍びですら、この今川館に近づくことができていないのだから、織田家の忍びである木下藤吉郎が今日を含め、竹千代と幾度かの接触に成功しているのは、まさに奇跡ともいえるのだろうし、それだけ藤吉郎が忍びとしての能力に優れているということもいえるだろう。
あの里の出身の忍びたちが藤吉郎のように優れた者たちばかりだとしたら、織田家は今後も勢力を拡大し続けることが可能なはずだ。
もちろん、この好機に尾張の今川勢を駆逐し、尾張を平定することも――。
(無事に私が家督を継ぐことができれば、織田を見習って、松平家も忍びを本格的に育てる必要があるでしょう……)
ともあれ、この駿府での生活は、里でのある意味でのびのびとした生活に比べると窮屈きわまりなく、さすがに辛抱強い竹千代も、時折憂うような気持ちになることがある。
それは里にいた頃のように、信長のような者が傍にいないという理由も、大いにあるに違いない。
(友達の存在というのは、とても大きいものなのですね……)
吉法師はこの三年の間に成人して織田信長となり、十六で織田家の家督を継いだ。
結婚もしたと聞いている。
(信長殿が結婚……少し想像ができませんが、きっと信長殿なら、奥方を大切になさる気がします)
信長の本当の優しさを知る竹千代には、不器用ながらも妻を慈しもうとする信長の姿が、その目に見えるようだった。
(信長殿が当主となられたのなら……織田家も安泰でしょうし)
信秀が死に、信長が家督を継いだと聞いたとき、竹千代は素直にそう思ったものだった。
信秀は主に謀略によって織田家の勢力を拡大し、信長はその鋭い感性と、不思議と人を惹きつけてやまない人間的な魅力によって、織田家を率いていくのだろうと竹千代は以前から考えていた。
どちらが良くてどちらが悪いなどと竹千代は思わない。
ただ、信秀が謀略者であったことがこれまでの織田家に幸いし、そして信長が感性の豊かな若者であることが、今後の織田家に幸いするであろうと竹千代は考えている。
(私も信長殿に負けてはいられません。いよいよ父上の跡を継ぎ、松平家を背負って行かなくてはならない時が来ました……)
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