上 下
66 / 109
第三章

身代わり濃姫(65)

しおりを挟む
 その日も信長が寝室に戻ったのは夜半を過ぎてからのことだった。
 きっともう美夜みやは眠っていると思ったのだが……。
「まだ起きていたのか……」
 眠っていると思い込んでいた美夜が起きていたので、信長は驚いてしまう。
「はい。何となく眠れなくて……」
 すでに各所で戦が始まっており、信長が城にいるとはいえ、城内の空気は殺気立っている。
 だから美夜が落ち着くことができないのも無理はないだろうと信長は思った。
「すまぬな。もう少し辛抱してくれ……」
 信長はそう告げて、美夜の肩を抱き寄せる。
「いえ……あの、私が眠れなかったのは、今日各務野かがみのに教えてもらった和歌がとても素敵だったので、それが頭に残っていて……だから、戦のこととは何も関係がないです」
 戦と何も関係ない……とは言い切れない部分もあったのだろうが、あまり信長に心配をかけてはいけないと美夜は考えたのだろう……そう信長は思い、美夜の話に乗ってみた。
「ほう、どのような和歌なのだ?」
「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」
 美夜が覚えたばかりの和歌をすらんずると、信長が笑った。
 この歌は有名な後朝きぬぎぬの歌で、あなたと会うためなら命さえ惜しくないと思っていたけれど、いざこうして会ってしまうと、少しでも長く生きたいと思うようになりました……という意味がある。
「藤原義孝の歌だな。俺も昔、覚えた記憶がある」
「昔って……そんな昔にこんな恋の歌を覚えていたんですか?」
 美夜が本気で驚くので、信長は逆に問い返してみた。
「何が不思議か?」
「いえ……その……信長様はとてもおませな子どもだったんだなと思って……」
「馬鹿を言え。覚えたくて覚えたわけではない。覚えさせられたのだ。俺とて覚えるなら兵法や軍略のひとつでも余計に覚えたかったが、そういう教養も身につけよとの父上の方針だったからな……」
 信長がそう言うと、美夜はようやく合点がてんがいったようだった。
「そうだったんですね。お勉強ということなら理解できます」
「そうだ。俺が好き好んでそんな和歌を選んで覚えるとでも思うておるのか?」
「いえ……思いませんけど……」
 少し怯み気味の美夜に、信長は笑った。
「だが、今となれば、確かにその歌の意味がよく分かる。不思議なものだな」
「私も……すごく分かります。信長様に対して、何度もこんな気持ちになりましたから」
「俺もだ……戦に出るたびに、そういう気持ちになる……」
 信長はそう言って微笑むと、美夜に軽く唇を重ねてくる。
 その感触に、美夜はいつもと違うものを感じたようだった。
「あの、信長様……もしかして、今日は何か良いことがあったのですか?」
 美夜に問われた信長は、素直に頷いた。
「そうだな、あった。懐かしい友人から久しぶりに手紙をもらったのだ」
「そうなんですか。それは良かったですね」
 美夜はそれ以上深く聞いては来なかったが、信長は何となく竹千代の話をしたい気持ちになった。
「そなたがまだ眠くないのであれば、寝物語として、その友人の話をしようか」
「はい、聞かせていただけるのなら、ぜひ」
 美夜がそう答えると、信長は布団に潜り込んで美夜の身体を抱き寄せた。
「友人の名は竹千代たけちよという」
「竹千代……」
 どこかで聞いたことがある名だと思ったが、美夜の日本史知識ではそれを思い出すことはできなさそうだった。
「俺が竹千代と出会ったのは、あやつが六つの時だ。俺もちょうどその頃、里に入れられたばかりで、外の世界が恋しい時期だったから、父上から紹介された竹千代とはすぐに仲良くなった」
「そのとき信長様はおいくつだったんですか?」
「俺は十二だな」
 十二歳と六歳といえば、小学校の六年生と一年生だな……と美夜は頭の中で思った。
 しかし二人とも、小学生の年齢の頃にはすでに過酷な環境を強いられていたのだと思うと、美夜は何ともいえない気持ちになる。
 信長は話を続けた。
「俺と竹千代は年は離れていたが、竹千代は妙に大人びた子どもで、子どもと話をしているという感じはまったくしなかった」
「六つの子がそんなに大人びているというのも……何だか気の毒ですね」
「そうだな。俺もそうだったが、周りが子どものままではいさせてくれないという事情もあったのだろうと思う」
 信長はさらに竹千代との思い出を美夜に語って聞かせながら、当時のことを思い出していった……。

 竹千代は当時は背も同じ年頃の子たちと比べると低めで、身体つきも華奢きゃしゃだったが、その顔は少しふっくらとしていて愛らしく、まるで女童めわらべのようだと信長は初めて彼を見た時に思った。
「初めまして、吉法師きっぽうし殿。私は松平竹千代と申します。どうやら、今川家の人質から織田家の人質になったようです。しばらくの間、厄介になりますので、よろしくお願いいたします」
 初対面の竹千代の挨拶に、まず信長は面食らった。
 竹千代は六歳という年齢でありながら、自分の状況と立ち場を正確に理解していた。
 父の信秀は竹千代を保護したと言っていたが、実質的に竹千代は織田家の人質扱いで、基本的にその行動に自由は与えられない。
 そもそもこの里に預けられたということ自体が一種の監禁であり、我が父ながら、信秀のやり方に信長はいきどおりも感じていた。
 だが、それが戦国の世を生きていくための処世術なのだといわれたら、信長は父に何も言い返すことはできないだろう。
 信長が未熟なだけで父のやり方が正しいのかもしれないし、逆に父のやり方が非道で、信長の考えが正しいのかもしれない。
 けれども、この頃の信長には、どちらが正しいという判断はまだできなかった。
 ともあれ、初対面の竹千代の言葉で、信長は『この子どもは油断できない相手だぞ』ということをしっかり胸に刻み込んだのだった。

 それから信長は、竹千代を見つけては話しかけたり、面倒を見てやったりした。
 何となく放っておけないという気持ちもあったし、信長自身、竹千代という子どもに興味がわいたというのもあった。
 そして何よりもっとも大きな理由として、信長がこの里にまったく馴染むことができていなかったというものがあった。
 里に来るまでは、友達にも恵まれていたと思うし、皆が自分を慕ってくれていた。
 それは自分が織田家の嫡男ちゃくなんだという理由も多分にあったとは思うが、それでも居心地の悪さを感じたことはなかった。
 だが、この里の子どもたちは、とにかくかわいげのないのが多い。
 信長がかなり譲歩して話しかけてみても、愛想のない返事が返ってくるばかりで、一向に手応えがない。
 しかも信長を特別扱いしないという約束で受け入れているから、たとえ信長のほうから話しかけてみても、遊びの仲間にも入れてもらえなかった。
 自分から声をかけてすら遊んでもらえないことなど、信長は生まれて初めて経験することだった。
 そんなわけで、自然と信長の足は、いつも一人でいることの多い竹千代のほうに向かってしまうというわけだった。
 とはいえ、信長が里に預けられているのは、自身の身を守る術を身につけるためということでもあり、一日の大半は、里の子たちと一緒にさまざまな剣技や体術の稽古だの、特殊な薬の知識だの、兵法の授業だのに費やされるから、信長とて竹千代の相手をできる時間は限られていた。
 竹千代は人質という立ち場であるから、信長のように何か課題を課せられるということはない。
 信長が忙しく剣技の稽古などをしている間、竹千代は本を読んだり、里の中を散策したりして過ごしているようだった。
 この日も竹千代は、信長たちの体術の稽古が終わる夕刻まで、里の中にある田んぼの近くで、植えられたばかりの稲を眺めたり、そこに住む生き物を観察したりして過ごしていた。
 ようやく自由になった信長は、竹千代の姿を見つけて話しかけた。
「竹千代、珍しいものでもおるのか?」
「はい。アメンボがいます」
「アメンボか。それが珍しいのか?」
 信長は思わず首をかしげてしまう。
 アメンボなど、田畑があればどこにでもいるような生き物だ。
 竹千代の住んでいた場所には、田畑がなかったのだろうかと、信長は不思議に思った。
 そんな信長の疑問に応えるように、竹千代は笑った。
「私は城の外に出ることがなかったので、アメンボを見たことがありませんでした。先ほど里の人に、これがアメンボだと教えてもらい、初めてアメンボという生き物を覚えました」
 竹千代のその言葉に、信長はさらに面食らった。
「そなた、城の外に出たことがなかったのか……」
「はい。城の庭には出ることができましたが、アメンボはいませんでしたので」
 信長自身も嫡子ちゃくしということで窮屈さや不自由さを感じることはたびたびあったが、それは竹千代に比べるとまったくましなものだという事を思い知った。
 今は一時的に不自由を強いられているとはいえ、信長のこれまでの日々は、城の外へも勝手に出かけるし、悪童どもを連れて今川の領内にまで足を伸ばすという危険な旅をしたこともある。
 海に行けば漁師たちが船にも乗せてくれるし、さすがに遠出はできなくとも、開放感は味わえた。
 そうした信長がしてきた経験のほとんどを、この子どもはしていないのだと思うと、信長は竹千代が気の毒に思えてきたのだった。
「竹千代、そなた海を見たことがあるか?」
「はい。海は生まれ育った岡崎城の天守から、小さくではありますが、見えましたので」
 竹千代は嬉しそうにそう答えたが、それでは潮の匂いを感じることも、潮風に触れることも、波の上の揺れを体験することもできない。
 本当の海というのを、竹千代はまだ知らないのだ。
「では、俺がいつかそなたを海に連れて行き、船に乗せてやる。海は広くて良いぞ」
 信長がそう告げると、竹千代は本当に嬉しそうに顔をほころばせた。
「ありがとうございます。それはとても楽しみです」
「他にどこか、そなたが行きたいところはないのか?」
 信長はふと思いついて聞いてみた。
 どうせ海に連れて行ってやるなら、竹千代が他に行きたいところにも連れて行ってやろうと考えたのだ。
 気がつくと、竹千代は寂しそうな顔をしていた。
「行きたいところ……ひとつだけあります」
「どこだ?」
刈谷かりやに行きたいです」
 刈谷といえば、三河みかわにある地名だと信長はすぐに気づいたが、そこに何があるかまでは分からなかった。
「刈谷に何があるのだ?」
「母上が……住んでおられるので……」
「そうか、母が……」
 そう言いかけた信長は、竹千代の顔を見てぎょっとした。
 竹千代の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。
 竹千代はただの六つの子どもではない……どこかそんな思い込みが信長の中にはあったのだが、やはり竹千代は六つの子どもでもあったのだと信長はようやく思い知った。
 これまで竹千代の笑った顔しか見たことのなかった信長は、大粒の涙を流しながら泣き出した竹千代を前に、どうして良いか分からなくなった。
 とりあえず信長は、竹千代の小さな身体を抱きしめた。
 そして、こんな約束をしたのだった。
「俺がそなたを母に必ず会わせてやる。すぐには無理かもしれぬが、なるべく早く」
 信長がそう告げると、竹千代はこくりと頷いた。
「はい、ありがとうございます……吉法師殿が会わせてくれるのを、待っています。いつか私は母上にもう一度生きて会うことができるのですね」
「ああ、できる。必ずだ」
「ありがとうございます……」

 それから三年……信長はまだあの時の約束を果たすことができていない。
 それだけが信長の気がかりだった。
「信長様は昔から信長様だったんですね」
 信長の話を聞いた美夜が、そんな感想を言った。
「それはどういう意味だ?」
「とても優しくて……思いが深いというか……うまく言えませんけれど、その時の竹千代さんはとても嬉しかったと思います。どんなに嫌なことや我慢しなくちゃいけないことがあっても、辛抱できるって思えるぐらい、嬉しかったんじゃないかなって……」
「だと良いのだがな……そろそろあの約束もかなえてやらねばならぬ。少し竹千代を待たせすぎておるからな……」
「竹千代さん……お母様に早く会えると良いですね」
「そうだな……」
 竹千代の母がまだ健在であるということは知っている。
 後は彼の身を今川家の束縛から解放し、会わせてやるだけだった。
「またひとつ信長様のことを知ることができて、嬉しかったです。話してくれてありがとうございます」
「俺もそなたに話すことができて良かった。さて、そろそろ眠ろう」
 美夜の顔が眠気をもよおしているのを感じ、信長はそう提案した。
「そうですね。少し眠くなってきました」
「俺もだ。珍しく眠い」
「おやすみなさい、信長様……良い夢を……」
 目を閉じた瞬間には、美夜はもう眠りに落ちてしまったようだった。
(今宵は久しぶりに良い夢がみられそうだな……)
 その寝顔を見つめながら、そっと美夜の手に触れ、信長も目を閉じた。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

日本列島、時震により転移す!

黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

パンツを拾わされた男の子の災難?

ミクリ21
恋愛
パンツを拾わされた男の子の話。

特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった

なるとし
ファンタジー
 鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。  特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。  武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。  だけど、その母と娘二人は、    とおおおおんでもないヤンデレだった…… 第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。

処理中です...