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第三章
身代わり濃姫(64)
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藤吉郎は竹千代が捕らわれている駿河国、駿府城……通称今川館に潜り込むことに成功していた。
ここは今川領内のど真ん中に位置し、万が一にも信長の手の者がここに潜り込んだと知れることなどがあれば、当然のことながら生きて帰ることはできない。
しかし、藤吉郎に限っていえば、二年もの間潜伏し、正体を知られることのなかった自信もあり、下手を踏みさえしなければ大丈夫であろうと本人は楽観視している。
そして現在は、当主の義元が逝去した直後ということもあり、領地内……そして館内は慌ただしい雰囲気が漂っていた。
そこへ御用商人の使いに変装した子どもが一人紛れ込んだところで、怪しむような余裕のある大人が少ないという、藤吉郎にとっては良い条件が揃っている。
藤吉郎はかつてよりも余裕のある気持ちで、竹千代の姿を探した。
(確か……竹千代様のおられる建物はこの辺りだったような……)
以前と同じ建物に竹千代がいるとは限らないが、ひとまず藤吉郎は最後に竹千代との接触に成功した場所を目指した。
……と、その時、目の前から今川家の家臣が歩いてきたので、藤吉郎はその場に平伏して彼らが通り過ぎるのを待つ。
「子ども、見ない顔だな」
頭の上から声が降ってきたが、藤吉郎は落ち着いて答える。
「城下にあります稲葉彦八の反物の店よりお使いで参りました。奥方様の侍女様へのお届け物でございます」
「そうか、ご苦労」
声はかけられてしまったものの、どうやら藤吉郎は疑われることはなかったようだ。
女性ものの雑貨や反物などに男の家臣たちは疎い者が多く、藤吉郎の見た目が子どもであることもあって、こういう口実を使えばだいたい怪しまれないというのを彼は心得ていた。
もちろん、城下に稲葉彦八の反物屋は確かに存在するので、なおさら疑いようもなかったのだろう。
家臣たちが完全に遠ざかったのを確認して、藤吉郎はさらに廊下を進んでいく。
(あ……いらっしゃった……)
その先の庭に、藤吉郎は竹千代の姿を見つけた。
前回に接触したのが一年ほど前だから、竹千代の背丈も少し伸び、顔も以前よりは大人びた印象がある。
もちろん、自分も一年分の成長はしているはずだが、きっと竹千代が見れば分かってもらえるだろうという自信はあった。
藤吉郎が近づいていくと、竹千代もすぐに気づき、頷いて視線で庭の隅のほうを見る。
そこには木が重なって、こちらからは死角になる場所があった。
そこで待ち合わせようということだと藤吉郎は思い、頷いていったん廊下を通り過ぎていく。
そして、周囲に誰もいないのを確認すると、藤吉郎は庭を大回りして、竹千代が指定したその場所へとたどり着いた。
「お久しぶりでござりまする、竹千代様」
藤吉郎が深々と頭を下げると、竹千代はいかにも利発そうな瞳を彼に向け、微笑んだ。
「お久しぶりですね、日吉丸。きっと貴方が来てくれるだろうと私は思っていましたよ」
「実は私、日吉丸から木下藤吉郎へと名を改めましてござりまする」
「木下藤吉郎……分かりました。覚えておきます」
「はい。殿の指示により参じました。これを竹千代様へと」
藤吉郎は信長から預かってきた書状を、竹千代に手渡す。
さほど長くない書状を読み終えると、竹千代はその繊細な面を引き締める。
「信秀殿のことは聞いておりました。突然お亡くなりになられ、信長殿が家督を継がれたと」
「はい。左様でござりまする」
「そのような大変な中、私のことを気遣ってくださり、信長殿には感謝しかありません」
「殿は今回の件を耳にした後、すぐに私に竹千代様の元へ行くように命じられました」
藤吉郎の言葉に頷いて、竹千代は口を開く。
「もっとゆっくりお話をしたいのは山々なのですが……実はあまり時間がありません。もうじき、今川家の者と面会する時間となっていまして……」
「はい」
「ですが、近いうちに信長殿の指示で藤吉郎が来てくれるはずだと思い、これを用意しておきました」
竹千代はそう言って、二通の書状を藤吉郎に手渡す。
「一通は信長殿に、そしてもう一通は可能であれば、岡崎城の本多忠真という松平家の家臣に渡してもらいたいのです。頼んでもよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんでござりまする。殿に許可をいただきましたならば、私が直接、本多忠真殿にお届けいたしまする」
藤吉郎がそう告げると、竹千代は微笑んだ。
「それを聞いて安堵しました。藤吉郎なら、間違いなく忠真に渡してくれることでしょう。ただ、岡崎城には現在、今川の城代が置かれており、事実上、今川家の支配下にあります。忠真との接触にはくれぐれもお気を付けください」
「はい。承知いたしました。精一杯お役目を果たさせていただきまする。どうぞご安心ください」
「現在の今川家の状況については、信長殿に宛てた書状にすべて書いてあります。私の知る限りのことですが……信長殿ならば、正確に状況を把握してくださることでしょう」
「はい。殿にそのようにお伝えいたしまする」
「久しぶりに藤吉郎に会えて嬉しかったのですが……残念ながら、そろそろ刻限です」
竹千代はそう言って、寂しそうに笑った。
こうして自分の味方である誰かと話をするということも、竹千代にとっては久しぶりのことだったのかもしれないと藤吉郎は思った。
自分よりも五つも年下のこの少年の、過酷な運命を思うと、藤吉郎は胸が締め付けられそうになる。
「竹千代様、我が殿は必ず竹千代様を助けに来られます。どうかもう少しだけご辛抱ください」
「はい。ありがとうございます。もしも私を救ってくださる方がいるとすれば、信長殿しかいないであろうと、私もずっとそんな気がしていたのです」
「竹千代様……」
「私の手足も、耳も、目も、そして口も……すべて枷に繋がれています。でもきっと、もうじき信長殿がこの枷を外してくれるのでしょうね」
「はい、必ず」
藤吉郎が強く頷くと、竹千代は微笑んだ。
「では、信長殿への書状、そして忠真への書状を頼みます。道中、お気を付けて」
竹千代は何事もなかったかのように庭を歩いて戻っていった。
それを確認すると、藤吉郎は再び元の廊下へ戻り、侍女の部屋へは行かずにそのまま館を後にした。
首尾良く竹千代への接触に成功し、書状を預かった藤吉郎は、速やかに駿府を離れ、清洲へと戻った。
そして、信長に復命し、竹千代から預かってきた書状を手渡す。
「よくやった、藤吉郎。遠路ご苦労だったな」
信長がねぎらうと、藤吉郎は恐縮して平伏した。
「いえ、私には馴染みのある場所でござりましたので……それに、今川は現在、私が知る限りでは見たこともないほど混乱していましたから、入り込むのもさほど苦労はありませんでした」
「義元の死の影響か?」
信長に問われて、藤吉郎は頷く。
「はい。それもありますが、それだけではなく、氏真殿が家督を継がれたこと、さらには信行派との同盟も、今川の家臣たちに少なからず動揺を与えているように感じました」
「なるほど」
信長はさっそく藤吉郎から受け取った竹千代の書状を開いて読み始める。
そこには竹千代の人柄を思い起こさせるような達筆で、おそらく信長が人をよこしてくれるであろうことを予測してこの書状を書いている……という書き出しで始まり、今川義元の死に関するさまざまな噂と憶測、竹千代の考えなどが書かれてあった。
そして、今川家の現状、氏真に対する家臣たちの評価、新たな当主である氏真の人柄、その周囲の人間に関すること、氏真と信行が同盟するに至った経緯についても、竹千代の考えが理路整然とまとめられてあった。
「さすが竹千代だな……これを読めば、今川家に何が起こったのかがすべて分かる……」
信長は感嘆するように言い、書状を傍にいた蔵ノ介に手渡した。
それを読み終えた蔵ノ介も、信長と同じ感想を抱いたようだった。
書状はさらに明智光秀、藤吉郎にも回される。
「ここに書かれてあることが事実だとすれば、実にくだらないことが発端で、今川家は傾いていくということになるのでしょうね」
明智光秀の言葉に、信長も頷く。
「そうだな……だが、家が傾くのは、だいたいがくだらない理由がきっかけだ」
「確かに、そうかもしれません」
竹千代からの書状の内容をまとめると……。
まず、今回の今川義元の死について、今川家家中では、嫡子の氏真によって毒殺されたのではないかという噂がまことしやかに広がっており、義元の死体を見たものは、あれは病死ではなく毒によるものだと証言する者の存在もあることから、毒殺説はあながち間違いではないかもしれないと竹千代の推測も含めて書かれてあった。
義元と氏真の親子関係は、つい最近まではさほど悪いものではなかったらしい。
ただ、最近になって氏真が唐突に織田家……それも信行派との同盟の話を持ち出したという話を困惑したように語っていた義元の言葉を幾人かの家臣が聞いており、毒殺の理由にはこれが当てはまるのではないかということ。
さらに、氏真と信行の繋がりについては、三月ほど前にとある女が氏真の側室に入り、大変にその女を氏真が気に入っているのだが、それが信行の繋がりの者ではないかという噂が、信行派との同盟の話が出てから広がっているということだった。
真偽のほどについては不明だが、その側室の女の身元はよく分かっておらず、いつの間にか氏真が見つけてきた、ということだった。
幾人もいる側室の一人ということもあり、詳しい身元調査などは行われなかったようだが、氏真が唐突に信行派との同盟の話を持ち出してきたのは、この女が側室に入ってからという証言を、竹千代はすでに複数聞いているらしい。
それらのことをつなぎ合わせると、信行と繋がりのある女にそそのかされて氏真は父に信行側との同盟を迫り、断られたので毒殺し、家督を奪って強引に信行との同盟を取り付けた……という話になるのではないかと竹千代は見ているようだった。
一代で今川の隆盛を築いた今川義元の死の真相は、竹千代の書状に書かれてあることが真実であるのだとしたら、確かに実にくだらない……と信長は思いつつも、自分もいつそうしたくだらない理由で殺されかもしれないのだと、改めて自戒をこめ、胸に刻みつける。
「竹千代様は、太原雪斎が接触してくることがあるかもしれないと書いておられましたが」
蔵ノ介の言葉に信長は頷く。
「太原雪斎……今川義元になくてはならない存在だったが、氏真を……今川家を見限る可能性があるということか」
太原雪斎は、今川義元の一代で今川家を戦国大名にまで押し上げた最大の功労者であり、義元の右腕……そして義元の師匠でもあった人物だ。
竹千代は書状の中で、その雪斎が信長に何らかの形で接触してくる可能性を指摘している。
そして、もしも接触してきたら、竹千代のことは気にせず、彼を受け入れることも勧めていた。
きっと彼は信長の力になるであろう……竹千代はそう考えているようだった。
書状についての話がひと段落ついたのを見計らい、藤吉郎がもう一通の書状を差し出して指をついた。
「信長様、実は私は竹千代様からもう一通の書状を預かってござります。これは岡崎城の本多忠真という家臣に密かに渡してもらいたいと預かったものでござりますが、よろしければ、これをお届けする役目、私にお与えいただけないでしょうか?」
藤吉郎の言葉に、信長はすぐに頷いた。
「もちろん、そなたが行くが良い。というか、そなた以外に適任はおらぬであろう。竹千代の思いを、届けてやってくれ」
「はい、ありがとう存じます。では、私はさっそく三河に参りまする。できるだけ早く、この書状をお届けしたいと考えておりますので」
「うむ。行け。そして、織田にできることがあれば、何でも言うように忠真に伝えるが良い」
「はい。かしこまりました」
こうして、清洲に戻ってきたばかりだというのに、藤吉郎は休む間もなくすぐに三河に向けて出発したのだった。
ここは今川領内のど真ん中に位置し、万が一にも信長の手の者がここに潜り込んだと知れることなどがあれば、当然のことながら生きて帰ることはできない。
しかし、藤吉郎に限っていえば、二年もの間潜伏し、正体を知られることのなかった自信もあり、下手を踏みさえしなければ大丈夫であろうと本人は楽観視している。
そして現在は、当主の義元が逝去した直後ということもあり、領地内……そして館内は慌ただしい雰囲気が漂っていた。
そこへ御用商人の使いに変装した子どもが一人紛れ込んだところで、怪しむような余裕のある大人が少ないという、藤吉郎にとっては良い条件が揃っている。
藤吉郎はかつてよりも余裕のある気持ちで、竹千代の姿を探した。
(確か……竹千代様のおられる建物はこの辺りだったような……)
以前と同じ建物に竹千代がいるとは限らないが、ひとまず藤吉郎は最後に竹千代との接触に成功した場所を目指した。
……と、その時、目の前から今川家の家臣が歩いてきたので、藤吉郎はその場に平伏して彼らが通り過ぎるのを待つ。
「子ども、見ない顔だな」
頭の上から声が降ってきたが、藤吉郎は落ち着いて答える。
「城下にあります稲葉彦八の反物の店よりお使いで参りました。奥方様の侍女様へのお届け物でございます」
「そうか、ご苦労」
声はかけられてしまったものの、どうやら藤吉郎は疑われることはなかったようだ。
女性ものの雑貨や反物などに男の家臣たちは疎い者が多く、藤吉郎の見た目が子どもであることもあって、こういう口実を使えばだいたい怪しまれないというのを彼は心得ていた。
もちろん、城下に稲葉彦八の反物屋は確かに存在するので、なおさら疑いようもなかったのだろう。
家臣たちが完全に遠ざかったのを確認して、藤吉郎はさらに廊下を進んでいく。
(あ……いらっしゃった……)
その先の庭に、藤吉郎は竹千代の姿を見つけた。
前回に接触したのが一年ほど前だから、竹千代の背丈も少し伸び、顔も以前よりは大人びた印象がある。
もちろん、自分も一年分の成長はしているはずだが、きっと竹千代が見れば分かってもらえるだろうという自信はあった。
藤吉郎が近づいていくと、竹千代もすぐに気づき、頷いて視線で庭の隅のほうを見る。
そこには木が重なって、こちらからは死角になる場所があった。
そこで待ち合わせようということだと藤吉郎は思い、頷いていったん廊下を通り過ぎていく。
そして、周囲に誰もいないのを確認すると、藤吉郎は庭を大回りして、竹千代が指定したその場所へとたどり着いた。
「お久しぶりでござりまする、竹千代様」
藤吉郎が深々と頭を下げると、竹千代はいかにも利発そうな瞳を彼に向け、微笑んだ。
「お久しぶりですね、日吉丸。きっと貴方が来てくれるだろうと私は思っていましたよ」
「実は私、日吉丸から木下藤吉郎へと名を改めましてござりまする」
「木下藤吉郎……分かりました。覚えておきます」
「はい。殿の指示により参じました。これを竹千代様へと」
藤吉郎は信長から預かってきた書状を、竹千代に手渡す。
さほど長くない書状を読み終えると、竹千代はその繊細な面を引き締める。
「信秀殿のことは聞いておりました。突然お亡くなりになられ、信長殿が家督を継がれたと」
「はい。左様でござりまする」
「そのような大変な中、私のことを気遣ってくださり、信長殿には感謝しかありません」
「殿は今回の件を耳にした後、すぐに私に竹千代様の元へ行くように命じられました」
藤吉郎の言葉に頷いて、竹千代は口を開く。
「もっとゆっくりお話をしたいのは山々なのですが……実はあまり時間がありません。もうじき、今川家の者と面会する時間となっていまして……」
「はい」
「ですが、近いうちに信長殿の指示で藤吉郎が来てくれるはずだと思い、これを用意しておきました」
竹千代はそう言って、二通の書状を藤吉郎に手渡す。
「一通は信長殿に、そしてもう一通は可能であれば、岡崎城の本多忠真という松平家の家臣に渡してもらいたいのです。頼んでもよろしいでしょうか?」
「はい、もちろんでござりまする。殿に許可をいただきましたならば、私が直接、本多忠真殿にお届けいたしまする」
藤吉郎がそう告げると、竹千代は微笑んだ。
「それを聞いて安堵しました。藤吉郎なら、間違いなく忠真に渡してくれることでしょう。ただ、岡崎城には現在、今川の城代が置かれており、事実上、今川家の支配下にあります。忠真との接触にはくれぐれもお気を付けください」
「はい。承知いたしました。精一杯お役目を果たさせていただきまする。どうぞご安心ください」
「現在の今川家の状況については、信長殿に宛てた書状にすべて書いてあります。私の知る限りのことですが……信長殿ならば、正確に状況を把握してくださることでしょう」
「はい。殿にそのようにお伝えいたしまする」
「久しぶりに藤吉郎に会えて嬉しかったのですが……残念ながら、そろそろ刻限です」
竹千代はそう言って、寂しそうに笑った。
こうして自分の味方である誰かと話をするということも、竹千代にとっては久しぶりのことだったのかもしれないと藤吉郎は思った。
自分よりも五つも年下のこの少年の、過酷な運命を思うと、藤吉郎は胸が締め付けられそうになる。
「竹千代様、我が殿は必ず竹千代様を助けに来られます。どうかもう少しだけご辛抱ください」
「はい。ありがとうございます。もしも私を救ってくださる方がいるとすれば、信長殿しかいないであろうと、私もずっとそんな気がしていたのです」
「竹千代様……」
「私の手足も、耳も、目も、そして口も……すべて枷に繋がれています。でもきっと、もうじき信長殿がこの枷を外してくれるのでしょうね」
「はい、必ず」
藤吉郎が強く頷くと、竹千代は微笑んだ。
「では、信長殿への書状、そして忠真への書状を頼みます。道中、お気を付けて」
竹千代は何事もなかったかのように庭を歩いて戻っていった。
それを確認すると、藤吉郎は再び元の廊下へ戻り、侍女の部屋へは行かずにそのまま館を後にした。
首尾良く竹千代への接触に成功し、書状を預かった藤吉郎は、速やかに駿府を離れ、清洲へと戻った。
そして、信長に復命し、竹千代から預かってきた書状を手渡す。
「よくやった、藤吉郎。遠路ご苦労だったな」
信長がねぎらうと、藤吉郎は恐縮して平伏した。
「いえ、私には馴染みのある場所でござりましたので……それに、今川は現在、私が知る限りでは見たこともないほど混乱していましたから、入り込むのもさほど苦労はありませんでした」
「義元の死の影響か?」
信長に問われて、藤吉郎は頷く。
「はい。それもありますが、それだけではなく、氏真殿が家督を継がれたこと、さらには信行派との同盟も、今川の家臣たちに少なからず動揺を与えているように感じました」
「なるほど」
信長はさっそく藤吉郎から受け取った竹千代の書状を開いて読み始める。
そこには竹千代の人柄を思い起こさせるような達筆で、おそらく信長が人をよこしてくれるであろうことを予測してこの書状を書いている……という書き出しで始まり、今川義元の死に関するさまざまな噂と憶測、竹千代の考えなどが書かれてあった。
そして、今川家の現状、氏真に対する家臣たちの評価、新たな当主である氏真の人柄、その周囲の人間に関すること、氏真と信行が同盟するに至った経緯についても、竹千代の考えが理路整然とまとめられてあった。
「さすが竹千代だな……これを読めば、今川家に何が起こったのかがすべて分かる……」
信長は感嘆するように言い、書状を傍にいた蔵ノ介に手渡した。
それを読み終えた蔵ノ介も、信長と同じ感想を抱いたようだった。
書状はさらに明智光秀、藤吉郎にも回される。
「ここに書かれてあることが事実だとすれば、実にくだらないことが発端で、今川家は傾いていくということになるのでしょうね」
明智光秀の言葉に、信長も頷く。
「そうだな……だが、家が傾くのは、だいたいがくだらない理由がきっかけだ」
「確かに、そうかもしれません」
竹千代からの書状の内容をまとめると……。
まず、今回の今川義元の死について、今川家家中では、嫡子の氏真によって毒殺されたのではないかという噂がまことしやかに広がっており、義元の死体を見たものは、あれは病死ではなく毒によるものだと証言する者の存在もあることから、毒殺説はあながち間違いではないかもしれないと竹千代の推測も含めて書かれてあった。
義元と氏真の親子関係は、つい最近まではさほど悪いものではなかったらしい。
ただ、最近になって氏真が唐突に織田家……それも信行派との同盟の話を持ち出したという話を困惑したように語っていた義元の言葉を幾人かの家臣が聞いており、毒殺の理由にはこれが当てはまるのではないかということ。
さらに、氏真と信行の繋がりについては、三月ほど前にとある女が氏真の側室に入り、大変にその女を氏真が気に入っているのだが、それが信行の繋がりの者ではないかという噂が、信行派との同盟の話が出てから広がっているということだった。
真偽のほどについては不明だが、その側室の女の身元はよく分かっておらず、いつの間にか氏真が見つけてきた、ということだった。
幾人もいる側室の一人ということもあり、詳しい身元調査などは行われなかったようだが、氏真が唐突に信行派との同盟の話を持ち出してきたのは、この女が側室に入ってからという証言を、竹千代はすでに複数聞いているらしい。
それらのことをつなぎ合わせると、信行と繋がりのある女にそそのかされて氏真は父に信行側との同盟を迫り、断られたので毒殺し、家督を奪って強引に信行との同盟を取り付けた……という話になるのではないかと竹千代は見ているようだった。
一代で今川の隆盛を築いた今川義元の死の真相は、竹千代の書状に書かれてあることが真実であるのだとしたら、確かに実にくだらない……と信長は思いつつも、自分もいつそうしたくだらない理由で殺されかもしれないのだと、改めて自戒をこめ、胸に刻みつける。
「竹千代様は、太原雪斎が接触してくることがあるかもしれないと書いておられましたが」
蔵ノ介の言葉に信長は頷く。
「太原雪斎……今川義元になくてはならない存在だったが、氏真を……今川家を見限る可能性があるということか」
太原雪斎は、今川義元の一代で今川家を戦国大名にまで押し上げた最大の功労者であり、義元の右腕……そして義元の師匠でもあった人物だ。
竹千代は書状の中で、その雪斎が信長に何らかの形で接触してくる可能性を指摘している。
そして、もしも接触してきたら、竹千代のことは気にせず、彼を受け入れることも勧めていた。
きっと彼は信長の力になるであろう……竹千代はそう考えているようだった。
書状についての話がひと段落ついたのを見計らい、藤吉郎がもう一通の書状を差し出して指をついた。
「信長様、実は私は竹千代様からもう一通の書状を預かってござります。これは岡崎城の本多忠真という家臣に密かに渡してもらいたいと預かったものでござりますが、よろしければ、これをお届けする役目、私にお与えいただけないでしょうか?」
藤吉郎の言葉に、信長はすぐに頷いた。
「もちろん、そなたが行くが良い。というか、そなた以外に適任はおらぬであろう。竹千代の思いを、届けてやってくれ」
「はい、ありがとう存じます。では、私はさっそく三河に参りまする。できるだけ早く、この書状をお届けしたいと考えておりますので」
「うむ。行け。そして、織田にできることがあれば、何でも言うように忠真に伝えるが良い」
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