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第三章

身代わり濃姫(63)

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 今川家は、三河みかわ遠江とおとうみ駿河するが、そして尾張おわりの一部を支配する大名家で、その規模は織田家に比べて圧倒的に大きい。
 ただ、尾張という一国のみをみれば、織田家が圧倒的に優勢で、尾張の覇権争いという一面だけであれば、美濃とも同盟を組む織田家が優勢のように考えられてきた。
 しかし、織田家が二派に別れ、内部での争いを始めるとなると様相が変わってくる。
 しかもその一派である信行が、今川家と一時的にせよ手を組んだとなれば、信長側の劣勢は明らかだった。
 ただし、それは今川義元よしもとが今川家の当主をしていれば……の話でもあった。
「今川を継いだ氏真うじざねの評判はいまひとつで、この機会に離反を狙っている勢力もいくつかあるようです」
 その報告をするのは、織田家の諜報機関である忍びの里の長でもあり、織田家の家老でもある周防すおう蔵ノ介だった。
 亡くなった今川義元は、駿河の地方豪族に過ぎなかった今川家の勢力を拡大し、たった一代で大名家にまで押し上げた人物でもある。
 つまり、これまでの今川家の隆盛りゅうせいは、すべて義元の功によるものであるというのは、誰の目にも明らかだった。
 その義元が亡くなり、凡庸ぼんよう以下ともいわれる氏真が家督かとくを継いだということは、現状の勢力だけを見れば信長側に不利とも見えるが、見方を変えれば、信行と今川を一気に打倒する好機が訪れたともいえる。
「こちらが勝利の機会を奪おうと考えるなら、その離反組をうまく取り込むことが必要だな」
 信長がそう告げると、光秀が口を開いた。
「美濃の斎藤道三様からも、尾張の平定のための助力は惜しまないとの報せが届いております」
しゅうと殿にこれ以上の借りを作るのはあまり気は進まぬが、この際仕方あるまい。しかし万が一にも美濃に大事があった時は、こちらの状況如何いかんに関わらず、恩を返す覚悟で兵を借りねばならぬな」
 信長が難しい顔をして言うと、光秀はにこりと微笑んだ。
「道三様にとっても、この戦いで信長様に負けてもらっては困る事情があります。貸し借りを気にすることなく、助力を受けても何ら問題はないかと」
 しれっとした顔でそんなことを言う光秀に、信長は思わず苦笑する。
「今のところ、こちらが借りっぱなしの状態だからな。正直、後が怖い」
「信長様が尾張をある程度抑えているということが、道三様にとりましても、美濃の安泰に繋がっているということは事実です。むしろ、信長様が、自分が美濃を守ってやっていると言い張ってみても、道三様は返す言葉がないと思いますよ」
 光秀のその言葉に、信長は肩をすくめた。
「俺はそなたが時折、とんでもない悪党のように見えるぞ」
「悪党になって戦に勝てるのなら、それで構わないと考えておりますから」
「確かにそなたの言うとおりだ。戦は勝たねば何もならぬ。すべては勝ってから考えれば良いか……宗久むねひさ
 と、信長が呼ぶと、一人の近習きんじゅうが短く返事をした。
「そなたに寺本城の守りを任せる。那古野なごや城、緒川おがわ城と連携し、今川の勢力から寺本城を守れ」
「かしこまりました」
 松永宗久は、帰蝶が美濃へ里帰りする際に負傷し、佐々木信親のぶちかとともに一命を取り留めた、まだ若い近習だった。
 しかし、臆する様子もなく、信長の主命しゅめいを受けた。
「それから長秀、そなたには緒川城の守りを」
「え? 私がですか?」
 これまで特に目立った活躍の場がなかった丹羽長秀にわながひでは、驚きと困惑の表情を浮かべた。
 もっと目立つような活躍をし、信長の覚えも良い近習は他にもいるはずなのに、と、長秀のその顔は言いたいようだった。
「そなたのこれまでの功績を判断してのことだ。緒川城には水野金吾もおる。金吾と俺の橋渡しをしつつ、戦をしっかり身体で学んで来るが良い」
「は、はい、しかと承りました」
 どうやら今回の役目は、長秀に戦の現場での学びをさせるためでもあるのだと理解し、長秀は恐縮しつつも身を引き締めた。
 丹羽長秀はまだ十七の若者であったが、これまでの戦の中で、他の者が気づかないような異変に気づいて信長に報告したり、与えられた仕事を着実に果たす真面目さなど、目立ちはしないものの、将としての資質を信長は認めていた。
 信長はこのほかにも、十八、十九の若い近習たちに、重要な役割を与えていった。
 蔵ノ介や明智光秀などの一部の者たちの活躍だけでは、今後の先は見えていると信長は常々考えており、積極的に若い者を育てていくための、今回の戦は良い機会だった。
 信長が大役を命じたがために彼らが命を落とす可能性もあるが、命をやりとりするほどの戦を経験しなければ、将としての成長はないと信長は考えている。
 それに若いといっても、自分よりも年上の者が多く、十六の自分が何とか織田家をまとめているのだから、彼らもその程度の仕事はできると楽観視しているところもあった。
 また、若者ばかりでなく、古参の将たちにも攻め、守りの両面で重要な役割を与えていく。
 その均衡はいつも絶妙で、信長の采配に対して不満が出ることはほとんどなかった。
「今後の動きについては、敵の出方も見ながら決めていくことになる。すでに戦は始まっているも同然だ。各自、与えられた役目を果たせ」
 その日の軍議はそれで散会し、移動を命じられた者たちは速やかに準備を整えて城をっていった。

 軍議を終えた信長は場所を変え、蔵ノ介や光秀など、現在の織田家の中核ともいえる者たちだけを集め、さらに今後の方針について詰めていった。
 この部屋は、許可された者しか近づくことができない構造になっており、密談のために使われることが多い。
「藤吉郎からの報告はまだだな」
 信長が問うと、蔵ノ介は頷いた。
「そうですね。今頃ようやく今川の城に着いた頃ではないでしょうか」
「うまく竹千代たけちよと会えると良いのだがな」
 信長が少し心配そうに言うと、蔵ノ介は笑った。
「藤吉郎なら、うまくやるでしょう」
 蔵ノ介の言葉に、信長は頷く。
「かつて竹千代に必ず母と会わせてやると約束したが、未だ果たせていない。今度の戦で勝って、会わせてやりたいな」
「竹千代殿は、緒川城の城主、水野金吾殿の甥に当たるのでしたか?」
 事情をにわかにしか知らない光秀が聞いてくる。
「そうだ。竹千代の母親は水野金吾の姉だ。もともと水野家は今川家に従属していたが、途中で織田に寝返ったために、竹千代の母は今川方についていた夫に離縁された。だから竹千代は三歳の頃に母と生き別れておる」
「なるほど。信長様はその竹千代殿と面識がおありなのですね」
「ああ、一年あまり、一緒に過ごしたからな……」
 信長は少し懐かしいものでも見るように、目を細める。
 竹千代が六歳の時、今川方へ人質として預けられそうになったのを父の信秀が奪い、忍びの里に連れてきた。
 ちょうど信長も忍びの里に預けられている期間でもあったので、年の離れた弟のように、竹千代を可愛がっていた思い出がある。
 竹千代は年の割に大人びた子どもで、生まれたときから嫡子ちゃくしとして育てられたという共通点があったという理由もあるのかもしれないが、年が離れており、性格もまるで正反対なのに信長とは馬が合った。
 里から出ることもできず、仲の良かった小姓や近習たちとも引き離された信長にとって、竹千代はある意味で癒やし的な存在でもあった。
 当時六歳の竹千代は、信長にとっては本来であれば庇護すべき存在であったはずなのだが、気がつけば自分の弱音を竹千代に聞いてもらっていたりした記憶もある。
 それぐらい、六歳の竹千代は子どもらしくないしっかりとした子どもだった。
 そんな竹千代が、一度だけ母を思って泣いたことがあった。
 信長はその時、いつか必ず母に会わせてやると竹千代に約束したのだった。
 しかし、その後、織田家が今川家との戦で敗れたことが原因で、人質交換の約定やくじょうが交わされ、今川方にいる織田家の人質と引き替えに、竹千代は今川方に連れて行かれてしまったのだった。
 それから三年……。
 竹千代の父、松平広忠まつだいらひろただは家臣の謀反むほんによってたれ、本来であれば竹千代が継ぐはずであった三河の岡崎城は現在、竹千代が幼年だということを理由に、今川方の支配下に置かれている。
(きっと竹千代の心中は複雑であろうな……)
 信長の父、信秀も、幾度か密使を送って竹千代に接触し、その身を解放するために動いていたようだが、未だにそれは叶っていない。
 現在の竹千代は九歳ではあるが、自分が九つの頃を思い出せば、さまざまに自立した考えも芽生え始めていた頃だ。そのうえに信長の知る竹千代は、通常の九歳の子どもとはまったく異なる。
 あれほどさとい彼が人質の立ち場に甘んじていられるはずはない……そう信長は思っている。
 それに、事実上の当主である竹千代がいながら今川家に支配されているという今の現状は、松平家にとっても黙っていられるものではないはずだ。
 今川義元が亡き今、この機会に松平家の家臣たちは、竹千代を表に立て、松平家の再興を考え始めているに違いない……その信長の意見は、蔵ノ介とも一致している。
 そこで、まずは当の竹千代と面識のある藤吉郎が、直接彼のいる場所へと趣き、接触を図ることになったのだった。
 藤吉郎は二年ほど今川領内に潜伏して活動していたこともあり、信秀の密命を帯びて何度か竹千代との接触に成功しているのだという。
「藤吉郎からの連絡を待ちつつ、こちらはこちらで当初の作戦を進めていく。光秀には俺の名代として美濃へ行き、斎藤道三から可能な限りの兵を借りてきてもらいたい」
「承知いたしました。おそらく、道三様も出し惜しみはなさらないと思われますので」
「いずれにしても、当初の予定の通り、戦はなるべく早く集結させる必要がある。もたもたしていては、日和見ひよりみの者たちが表向きの情勢だけを見て信行に付く可能性があるからな。道三の力も借りつつ、速やかに信行の力をいでいく。そして、今川とも決着をつけ、尾張を平定へいていする――」
 信長がそう告げると、集まった者たちは静かに頷いた。

 結局、この日も信長の予定がすべて終わったのは、夜半もとうに過ぎ、明け方に近い時間だった。
美夜みやはもう寝ておるであろうな……)
 起きていてはかえって心配になってしまうので、寝ていてくれるほうが安堵あんどできるのだが、たまに信長は美夜が寝ているのを起こしてしまうことがあった。
 だから、あえて寝室には戻らず、別の部屋で仮眠を取って仕事に戻る……ということもできたのだが、今日は僅かでも美夜の顔が見たいという気持ちが信長の中でまさってしまった。
(さすがにこの時間に起こすのはまずいな……気を付けなければ……)
 信長はそっと寝室に入ると、美夜が眠っているのを確認し、起こさないように気を付けながら、布団の中に潜り込む。
 どうやら無事に起こさずに済んだようで、信長はほっと息を吐いた。
 今回の戦では、しばらく信長自身が戦場に行くことはないが、状況を見据えながらいずれ戦場に出て行くことになる。
 そうなったらこの寝顔もまた見ることができなくなるのかと思うと、信長は眠るのを忘れて、美夜の寝顔を見てしまう。
(もしもそなたと出会っていなければ……俺は今頃どうしていたのであろうな……)
 織田家の嫡子といえども、結婚を自由に決めることができるわけではない。
 たまたま、父の選んだ結婚相手が帰蝶きちょうであり、その帰蝶が死んだので、帰蝶とうり二つの美夜が身代わりとして信長の元に嫁いできた。そして、美夜と信長は出会った。
 偶然というにはあまりにも偶然が重なりすぎ、もはや奇跡といっても良い巡り合わせで、自分と美夜は出会ったのだと信長は考えている。
 信長は自分の他の者たちとは異なる気質を理解しているが、それを誰もが受け入れることができるとは限らない。
 もしも結婚したのが別の相手だったとしたら、信長はその相手から受け入れられず、孤独を感じていた可能性もある。
 信長が今孤独を感じずに済むのは、美夜が妻であるからであって、美夜以外の者と結婚していた可能性を、信長はもはや想像することができなかった。
 信長はそっと手を伸ばし、美夜の手に触れる。
 その温もりが伝わってきて、先ほどまでさえていた頭が、急速に眠りのほうに傾いていくのを感じ、信長は目を閉じた。
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