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第三章
身代わり濃姫(59)
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清洲城にその一報が届いた時、信長は軍議を中断させて美夜の元へやって来た。
ちょうど休憩を挟もうかという頃合いでもあったこともあったのだが、少しでも早く美夜に報せてやりたいという信長の気持ちも強かったようだ。
「美夜、藤ノ助が兄上の居所を突き止めたぞ」
信長がそう告げると、美夜は当然のことながら驚いたような声を上げて駆け寄ってきた。
「えっ……本当ですか!」
信長は頷いて、さらに言葉を続ける。
「ああ、本当だ。だが、身重の侍女の具合が良くないらしい。清洲へ来るのは早くてひと月後になるそうだ」
信長の言葉を聞き、美夜の顔が曇った。
「あの……赤ちゃん、大丈夫なんでしょうか?」
「父上の知り合いで医術に長けた者が堺にいるのだが、その男が診てくれているらしい。だから心配はいらないとは思うが……」
「そうですか……お医者様が診てくれているのなら、少しは安心ですね」
「この報告を二日前に藤ノ助が書いた時点では、安静にしておれば大丈夫だということになっているようだ」
信長は言葉を選びながら、できるだけ正確な情報を美夜に伝えようとする。
美夜がいた時代のように、メールや電話でその瞬間の情報が伝わるようなことはないから、少しもどかしい気持ちはある。
けれども、ひとまず兄は無事で、侍女も無事で、その様子を見守ってくれる医者がいるということは、美夜としてはもう安堵して待つしかないということなのだろうとも思った。
「いろいろと本当にありがとうございます。こちらへ来るのは、お腹の赤ちゃんが安定してからのほうが良いと私も思います」
「念の為、堺に何人か人を送って藤ノ助の補助に当たらせる。兄上たちには当面、今いる場所にいてもらうが、侍女の……兄上の奥方の容態が落ち着けば、もっと安全な場所へ移ってもらうことになると思う」
「はい……本当に何から何までありがとうございます」
「いや、時間がかかってすまなかった。藤ノ助の報告によれば、斉藤家の者たちも堺までやって来ておったようで、間一髪というところだったらしい」
「そうなんですか……藤ノ助さんが間に合って良かったです」
「そうだな。もし間に合っていなければ、あやつは腹を切るところであっただろう」
その信長の言葉が冗談などではないということは、美夜にも分かる。
この時代の主命というものは、それほど重いものだと、美夜もつい先日、思い知ったばかりなのだから。
信長は美夜の両肩に手を乗せ、決意を秘めたように伝えてくる。
「美夜、俺はこのひと月の間に信行との決着をつける」
「え? そ、それはさすがに無茶なのでは……」
思わず美夜はそう言ってしまった。
たったひと月で、これまで何年にもわたって積み重なってきた問題を解決するのは、とても無茶だという気がしたからだ。
信長は笑って首を横に振る。
「いや、無茶ではない。たとえ時間をかけても、こちらもあちらも疲弊するだけというのが目に見えておる。今は信行についている者たちでも、今後俺の助けとなる者もおろう。長引かせるのは、織田家の今後にとっても良くない」
信長の言葉を聞いて、美夜は彼の考えが少し理解できた。
「はい……それは確かにそうかもしれません」
「そなたの兄上を迎えるに当たっても、いつ戦場となるか分からぬ城では、安心して奥方も子を産むことができまい。だからすべてひと月で終わらせる」
信長は信長なりの考えがあって、信行との争いをひと月で終わらせるつもりなのだということは分かったが、このところ戦が続いているということもあり、美夜はやはり少し不安だった。
しかし、信行とはすでに事実上の臨戦態勢に入っていることもあり、確かに信長が言うように、長引かせるのは得策ではないのだろうとも思う。
「信長様、私は……私のできることで信長様をお手伝いします。私のできることなんて、知れていると思いますけど。でも、私にできることがあれば、何でも言ってください」
美夜が真剣にそう言うと、信長は美夜の身体を抱きしめてくる。
「何度も言わせるな。俺はそなたがこうしてここにいるから戦えるのだ。そなたの存在自体が、俺の力になっておる……」
「信長様……」
(そういえば、後もうひとつ、片付けておかなければならない問題があったな……)
……と、美夜を抱きしめながら、信長はそのことを考えた。
美夜の部屋を出た信長は、さっそくそのもうひとつ片付けておかなければならないことを片付けることにした。
「呼び出してすまなかったな」
信長がそう告げると、呼び出された男……明智光秀が一礼する。
「いえ。こうしてわざわざ人払いをされたということは、何か大事でも?」
「そうだな。俺にとってもそなたにとっても大事だと思うが」
「……何でしょうか?」
「そなた、俺に隠していることがあるであろう?」
信長に問われた光秀は、いくつか心当たりを思いついたが、とりあえずとぼけてみることにした。
「いったい何のことか分かりかねますが」
光秀の予想通りのとぼけた返答に、信長も一応は苦笑してみせる。
「まあ……そなたの立ち場もあるから言いづらいとは思うが……帰蝶のことだ」
「なるほど」
「俺と帰蝶の間に、すでに隠していることは何もない」
信長がそう告げると、光秀はすべて理解したようだった。
「ひょっとして、雪春殿のことでしょうか?」
光秀はさりげなく自分が隠していたことを暴露した。
「そうだ。藤ノ助が見つけた。だが、それを斎藤道三には報告しないでもらいたい」
「承知しました」
「あっさりと承知するのだな」
信長が笑うと、光秀も微笑んで答える。
「私が今お仕えしているのは、道三様ではなく信長様です。信長様の不利になるようなことはいたしません」
「まあ、そなたならそう言うてくれるであろうと思ったから、伝えたのだがな。じきに帰蝶の兄上とその家族を清洲に迎える事になると思う。その時にあまり窮屈な思いをしてもらいたくないという理由もある……」
「私が事情を知らないとなると、雪春殿を閉じ込めておく必要が出てきてしまいますからね……それはあまりに気の毒です」
「そうだ。ある程度の行動の制限はあるにしても、あまり窮屈さを感じるようなことがあっては申し訳ない。ただでさえ、鷺山城では長い間、窮屈な思いをされてきたのであろうし」
光秀が、雪春の存在を知っているのと知らないのとでは、清洲に来たときの彼らの扱いがまるで異なってくる。
もしも雪春らと面識のある光秀に、彼らの存在を隠すようなことになれば、その行動はかなり制限されてしまうだろう。
市井の者たちのように自由にとまでは行かなくても、ある程度の自由な行動を、雪春たちには与えてやりたいと信長は考えていた。
「それは理解できます。雪春殿の鷺山城での暮らしは、とても快適とは言いがたいものでしたでしょうし」
「帰蝶の兄上と面識のあるそなたがそれを理解してくれているのなら安心だ。兄上らがこちらへ来られた際には、何かと力になってやってもらえるとありがたい」
光秀はその言葉に頷きつつ、では信長はもう美夜から未来の世界の話を、自分と同じように聞いたのだろうかと、ふとそんな好奇心に近い疑問がわいてきた。
「ひとつお聞きしたいのですが、信長様は帰蝶様が未来の世界から来られたということもすでにご存知で、それを信じられておられるのでしょうか?」
「まあ……奇天烈な話だとは思うたが、俺は彼女のことを信じておるからな」
「その……信長様は未来でご自身がどのように伝えられているか、帰蝶様にお聞きになられたことは?」
光秀の問いかけを、信長は即座に否定した。
「そんなことは聞いたことがない。だいだい、未来から来た帰蝶と俺が出会って結ばれておるのだから、帰蝶の知っている未来もすでに変わっているはずであろう。たとえ聞いたとしても宛てにはならぬだろうし、そもそも俺は決められた未来を生きるなどまっぴらだ」
「なるほど。信長様はそうお考えなのですね」
光秀がそう納得していると、今度は信長のほうから聞いてくる。
「そなたは、帰蝶や兄上にそうしたことを聞いたことがあるのか?」
「私は雪春殿に聞きました。もちろん、信長様のことも聞きましたが、信長様がそうしたお考えでしたら、黙っておきます」
「そうだな。その話はそなたの胸の中にしまっておくがよい。俺には興味のない話だ」
「はい。承知しました」
「それで、だ、光秀。ここからが本題だ」
そろそろ本題が終わる頃合いだと思っていた時に本題を切り出され、光秀は少し驚きつつも平静を装いなながら答える。
「はい、何でしょうか?」
「そなたがこれまで帰蝶のことについて俺に黙ってきたことは不問にする。その代わりに、ひと月で信行と決着をつけるための方策を考えて提示せよ。期限は三日後だ」
「は……?」
「それですべて帳消しだ。なかなか良い条件であろう?」
信長はそう言って不敵な笑みを浮かべる。
さすがに光秀は動揺した。
「は、はい……で、ですが、本気でひと月でと? 本気で三日後が期限と……?」
「どちらも本気だ。後で蔵ノ介から届いた信行側の最新の情報を藤吉郎に届けさせる。そこまではしてやるから、後はそなたが何とかするが良い」
信長はそう告げると、呆然と立ち尽くす光秀に背を向け、立ち去って行った。
(本気ですか……信行派との決着をひと月で……しかもその方策を三日で出せと……)
しかし光秀に選択肢はなかった。
帰蝶のことを黙っていたことを不問にする代わりにやれと言われれば、光秀としては断ることなどできるはずもなかった。
(もしかして……私を過労死でもさせようと企んでいるのでしょうか、あの人は……)
光秀がそんな疑いを抱いたのは、無理もない話かもしれなかった。
――時間は少しだけ巻き戻る。
律の顔色は昨日に比べると随分と良くなってきたが、それでもまだ、今日一日は布団の上で過ごしている。
「律、具合はどうだ?」
土間のいろりでこしらえた粥を手渡しながら、雪春は律の様子をうかがう。
「はい、今日は大丈夫です。心配かけてすみません、雪春様……それに、ご飯まで作っていただいて……」
雪春に料理ができるなどということを、律は初めて知り、意外な思いで彼が作った粥を受け取った。
ここに来るまでの間は、料理は自分か牛丸がしていたから、雪春にそうした機会がなかっただけなのかもしれないが。
「いや、律にはずっと無理をさせっぱなしだったからな……俺のほうこそ悪かった」
「いえ、こうして雪春様と一緒にいられることが、私の幸せなんです。だから……」
「律……」
「このおかゆ、とても美味しいです、雪春様」
おかゆをさじですくって食べ、律は笑った。
「それなら良かった。昔、妹が寝込んだ時によく作ってやっていたのだが、その経験が生きたな」
自分とは違い、妹の美夜は身体が弱いところがあって、風邪がはやり出す冬などは、よく寝込むことがあった。
それが両親が不在の時に重なることも多く、そうした時に、雪春は美夜に粥を作ってやったりしていたのだった。
「そういえば、牛丸の姿が見えないみたいですけど……」
粥を口にしながら、律は部屋を見回した。
「どこかへ出かけているのだろう。藤ノ助殿からあと数日はあまり外には出ないようにと言われているから、そう遠くには行っていないと思うが……」
「お水でもくみにいったんでしょうか」
「そうだな。そうかもしれない。まあ、牛丸はあまり顔を知られていないから、近所を出歩くぐらいなら問題ないと思うが」
「そうですね」
律は笑って、雪春が作ってくれた粥を口に入れた。
二人がそんな話をしていたとき、牛丸は昨日まで住んでいた長屋の近くまでやって来ていた。
毎日のように品物を買ってもらっていた商店の店主や商人たちに挨拶をしたいと考えたからだった。
(明日もまた来ますって言ったのに行かなかったら、心配させてしまうかもしれませんし……)
牛丸は律儀にもそんなことを考え、いつもの道を通って、店が建ち並ぶ通りへとやって来たのだが。
「おう、牛丸。ちょうど良かった。このお侍さんたちがお前のことを探しているようなんだが」
馴染みの店主が笑って、牛丸に手を振る。
その傍には、昨日見かけた侍たちの姿があった。
牛丸は顔を知らないが、藤ノ助が斉藤家の者と言っていたから、きっとそうなんだろう。
牛丸は心臓がどくどくとするのを必死に抑えながら、店主や侍たちに背を向け、駆けだした。
「おい、待て!」
「逃がすな、追いかけろ!」
怒号のような声が背後で聞こえたから、きっと自分は追いかけられているのだろう……そう思いながら、牛丸は振り返ることなく必死に走った。
(どうしよう……こんなところまで出てきてしまったから……私のせいで姉上や義兄上、藤ノ助さんに迷惑がかかってしまったら……)
頭の中はいろんなことを考えていたが、とにかく牛丸は必死に走り続けた。
ちょうど休憩を挟もうかという頃合いでもあったこともあったのだが、少しでも早く美夜に報せてやりたいという信長の気持ちも強かったようだ。
「美夜、藤ノ助が兄上の居所を突き止めたぞ」
信長がそう告げると、美夜は当然のことながら驚いたような声を上げて駆け寄ってきた。
「えっ……本当ですか!」
信長は頷いて、さらに言葉を続ける。
「ああ、本当だ。だが、身重の侍女の具合が良くないらしい。清洲へ来るのは早くてひと月後になるそうだ」
信長の言葉を聞き、美夜の顔が曇った。
「あの……赤ちゃん、大丈夫なんでしょうか?」
「父上の知り合いで医術に長けた者が堺にいるのだが、その男が診てくれているらしい。だから心配はいらないとは思うが……」
「そうですか……お医者様が診てくれているのなら、少しは安心ですね」
「この報告を二日前に藤ノ助が書いた時点では、安静にしておれば大丈夫だということになっているようだ」
信長は言葉を選びながら、できるだけ正確な情報を美夜に伝えようとする。
美夜がいた時代のように、メールや電話でその瞬間の情報が伝わるようなことはないから、少しもどかしい気持ちはある。
けれども、ひとまず兄は無事で、侍女も無事で、その様子を見守ってくれる医者がいるということは、美夜としてはもう安堵して待つしかないということなのだろうとも思った。
「いろいろと本当にありがとうございます。こちらへ来るのは、お腹の赤ちゃんが安定してからのほうが良いと私も思います」
「念の為、堺に何人か人を送って藤ノ助の補助に当たらせる。兄上たちには当面、今いる場所にいてもらうが、侍女の……兄上の奥方の容態が落ち着けば、もっと安全な場所へ移ってもらうことになると思う」
「はい……本当に何から何までありがとうございます」
「いや、時間がかかってすまなかった。藤ノ助の報告によれば、斉藤家の者たちも堺までやって来ておったようで、間一髪というところだったらしい」
「そうなんですか……藤ノ助さんが間に合って良かったです」
「そうだな。もし間に合っていなければ、あやつは腹を切るところであっただろう」
その信長の言葉が冗談などではないということは、美夜にも分かる。
この時代の主命というものは、それほど重いものだと、美夜もつい先日、思い知ったばかりなのだから。
信長は美夜の両肩に手を乗せ、決意を秘めたように伝えてくる。
「美夜、俺はこのひと月の間に信行との決着をつける」
「え? そ、それはさすがに無茶なのでは……」
思わず美夜はそう言ってしまった。
たったひと月で、これまで何年にもわたって積み重なってきた問題を解決するのは、とても無茶だという気がしたからだ。
信長は笑って首を横に振る。
「いや、無茶ではない。たとえ時間をかけても、こちらもあちらも疲弊するだけというのが目に見えておる。今は信行についている者たちでも、今後俺の助けとなる者もおろう。長引かせるのは、織田家の今後にとっても良くない」
信長の言葉を聞いて、美夜は彼の考えが少し理解できた。
「はい……それは確かにそうかもしれません」
「そなたの兄上を迎えるに当たっても、いつ戦場となるか分からぬ城では、安心して奥方も子を産むことができまい。だからすべてひと月で終わらせる」
信長は信長なりの考えがあって、信行との争いをひと月で終わらせるつもりなのだということは分かったが、このところ戦が続いているということもあり、美夜はやはり少し不安だった。
しかし、信行とはすでに事実上の臨戦態勢に入っていることもあり、確かに信長が言うように、長引かせるのは得策ではないのだろうとも思う。
「信長様、私は……私のできることで信長様をお手伝いします。私のできることなんて、知れていると思いますけど。でも、私にできることがあれば、何でも言ってください」
美夜が真剣にそう言うと、信長は美夜の身体を抱きしめてくる。
「何度も言わせるな。俺はそなたがこうしてここにいるから戦えるのだ。そなたの存在自体が、俺の力になっておる……」
「信長様……」
(そういえば、後もうひとつ、片付けておかなければならない問題があったな……)
……と、美夜を抱きしめながら、信長はそのことを考えた。
美夜の部屋を出た信長は、さっそくそのもうひとつ片付けておかなければならないことを片付けることにした。
「呼び出してすまなかったな」
信長がそう告げると、呼び出された男……明智光秀が一礼する。
「いえ。こうしてわざわざ人払いをされたということは、何か大事でも?」
「そうだな。俺にとってもそなたにとっても大事だと思うが」
「……何でしょうか?」
「そなた、俺に隠していることがあるであろう?」
信長に問われた光秀は、いくつか心当たりを思いついたが、とりあえずとぼけてみることにした。
「いったい何のことか分かりかねますが」
光秀の予想通りのとぼけた返答に、信長も一応は苦笑してみせる。
「まあ……そなたの立ち場もあるから言いづらいとは思うが……帰蝶のことだ」
「なるほど」
「俺と帰蝶の間に、すでに隠していることは何もない」
信長がそう告げると、光秀はすべて理解したようだった。
「ひょっとして、雪春殿のことでしょうか?」
光秀はさりげなく自分が隠していたことを暴露した。
「そうだ。藤ノ助が見つけた。だが、それを斎藤道三には報告しないでもらいたい」
「承知しました」
「あっさりと承知するのだな」
信長が笑うと、光秀も微笑んで答える。
「私が今お仕えしているのは、道三様ではなく信長様です。信長様の不利になるようなことはいたしません」
「まあ、そなたならそう言うてくれるであろうと思ったから、伝えたのだがな。じきに帰蝶の兄上とその家族を清洲に迎える事になると思う。その時にあまり窮屈な思いをしてもらいたくないという理由もある……」
「私が事情を知らないとなると、雪春殿を閉じ込めておく必要が出てきてしまいますからね……それはあまりに気の毒です」
「そうだ。ある程度の行動の制限はあるにしても、あまり窮屈さを感じるようなことがあっては申し訳ない。ただでさえ、鷺山城では長い間、窮屈な思いをされてきたのであろうし」
光秀が、雪春の存在を知っているのと知らないのとでは、清洲に来たときの彼らの扱いがまるで異なってくる。
もしも雪春らと面識のある光秀に、彼らの存在を隠すようなことになれば、その行動はかなり制限されてしまうだろう。
市井の者たちのように自由にとまでは行かなくても、ある程度の自由な行動を、雪春たちには与えてやりたいと信長は考えていた。
「それは理解できます。雪春殿の鷺山城での暮らしは、とても快適とは言いがたいものでしたでしょうし」
「帰蝶の兄上と面識のあるそなたがそれを理解してくれているのなら安心だ。兄上らがこちらへ来られた際には、何かと力になってやってもらえるとありがたい」
光秀はその言葉に頷きつつ、では信長はもう美夜から未来の世界の話を、自分と同じように聞いたのだろうかと、ふとそんな好奇心に近い疑問がわいてきた。
「ひとつお聞きしたいのですが、信長様は帰蝶様が未来の世界から来られたということもすでにご存知で、それを信じられておられるのでしょうか?」
「まあ……奇天烈な話だとは思うたが、俺は彼女のことを信じておるからな」
「その……信長様は未来でご自身がどのように伝えられているか、帰蝶様にお聞きになられたことは?」
光秀の問いかけを、信長は即座に否定した。
「そんなことは聞いたことがない。だいだい、未来から来た帰蝶と俺が出会って結ばれておるのだから、帰蝶の知っている未来もすでに変わっているはずであろう。たとえ聞いたとしても宛てにはならぬだろうし、そもそも俺は決められた未来を生きるなどまっぴらだ」
「なるほど。信長様はそうお考えなのですね」
光秀がそう納得していると、今度は信長のほうから聞いてくる。
「そなたは、帰蝶や兄上にそうしたことを聞いたことがあるのか?」
「私は雪春殿に聞きました。もちろん、信長様のことも聞きましたが、信長様がそうしたお考えでしたら、黙っておきます」
「そうだな。その話はそなたの胸の中にしまっておくがよい。俺には興味のない話だ」
「はい。承知しました」
「それで、だ、光秀。ここからが本題だ」
そろそろ本題が終わる頃合いだと思っていた時に本題を切り出され、光秀は少し驚きつつも平静を装いなながら答える。
「はい、何でしょうか?」
「そなたがこれまで帰蝶のことについて俺に黙ってきたことは不問にする。その代わりに、ひと月で信行と決着をつけるための方策を考えて提示せよ。期限は三日後だ」
「は……?」
「それですべて帳消しだ。なかなか良い条件であろう?」
信長はそう言って不敵な笑みを浮かべる。
さすがに光秀は動揺した。
「は、はい……で、ですが、本気でひと月でと? 本気で三日後が期限と……?」
「どちらも本気だ。後で蔵ノ介から届いた信行側の最新の情報を藤吉郎に届けさせる。そこまではしてやるから、後はそなたが何とかするが良い」
信長はそう告げると、呆然と立ち尽くす光秀に背を向け、立ち去って行った。
(本気ですか……信行派との決着をひと月で……しかもその方策を三日で出せと……)
しかし光秀に選択肢はなかった。
帰蝶のことを黙っていたことを不問にする代わりにやれと言われれば、光秀としては断ることなどできるはずもなかった。
(もしかして……私を過労死でもさせようと企んでいるのでしょうか、あの人は……)
光秀がそんな疑いを抱いたのは、無理もない話かもしれなかった。
――時間は少しだけ巻き戻る。
律の顔色は昨日に比べると随分と良くなってきたが、それでもまだ、今日一日は布団の上で過ごしている。
「律、具合はどうだ?」
土間のいろりでこしらえた粥を手渡しながら、雪春は律の様子をうかがう。
「はい、今日は大丈夫です。心配かけてすみません、雪春様……それに、ご飯まで作っていただいて……」
雪春に料理ができるなどということを、律は初めて知り、意外な思いで彼が作った粥を受け取った。
ここに来るまでの間は、料理は自分か牛丸がしていたから、雪春にそうした機会がなかっただけなのかもしれないが。
「いや、律にはずっと無理をさせっぱなしだったからな……俺のほうこそ悪かった」
「いえ、こうして雪春様と一緒にいられることが、私の幸せなんです。だから……」
「律……」
「このおかゆ、とても美味しいです、雪春様」
おかゆをさじですくって食べ、律は笑った。
「それなら良かった。昔、妹が寝込んだ時によく作ってやっていたのだが、その経験が生きたな」
自分とは違い、妹の美夜は身体が弱いところがあって、風邪がはやり出す冬などは、よく寝込むことがあった。
それが両親が不在の時に重なることも多く、そうした時に、雪春は美夜に粥を作ってやったりしていたのだった。
「そういえば、牛丸の姿が見えないみたいですけど……」
粥を口にしながら、律は部屋を見回した。
「どこかへ出かけているのだろう。藤ノ助殿からあと数日はあまり外には出ないようにと言われているから、そう遠くには行っていないと思うが……」
「お水でもくみにいったんでしょうか」
「そうだな。そうかもしれない。まあ、牛丸はあまり顔を知られていないから、近所を出歩くぐらいなら問題ないと思うが」
「そうですね」
律は笑って、雪春が作ってくれた粥を口に入れた。
二人がそんな話をしていたとき、牛丸は昨日まで住んでいた長屋の近くまでやって来ていた。
毎日のように品物を買ってもらっていた商店の店主や商人たちに挨拶をしたいと考えたからだった。
(明日もまた来ますって言ったのに行かなかったら、心配させてしまうかもしれませんし……)
牛丸は律儀にもそんなことを考え、いつもの道を通って、店が建ち並ぶ通りへとやって来たのだが。
「おう、牛丸。ちょうど良かった。このお侍さんたちがお前のことを探しているようなんだが」
馴染みの店主が笑って、牛丸に手を振る。
その傍には、昨日見かけた侍たちの姿があった。
牛丸は顔を知らないが、藤ノ助が斉藤家の者と言っていたから、きっとそうなんだろう。
牛丸は心臓がどくどくとするのを必死に抑えながら、店主や侍たちに背を向け、駆けだした。
「おい、待て!」
「逃がすな、追いかけろ!」
怒号のような声が背後で聞こえたから、きっと自分は追いかけられているのだろう……そう思いながら、牛丸は振り返ることなく必死に走った。
(どうしよう……こんなところまで出てきてしまったから……私のせいで姉上や義兄上、藤ノ助さんに迷惑がかかってしまったら……)
頭の中はいろんなことを考えていたが、とにかく牛丸は必死に走り続けた。
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