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第三章

身代わり濃姫(58)

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 雪春たちがどうやら堺にいるらしいと聞いた藤ノ助は、すぐに坂本をって堺へ向かった。
 しらせとともに届いた雪春が作ったものらしいという女性物の髪飾りを手がかりに、身内を装いながら藤ノ助は雪春たちの居所を探した。
 そしてそれは堺に到着したその日に見つけることができたのだが……。
(あれは……)
 藤ノ助は建物の影に身を潜める。
 先ほど商店主から場所を聞き出してきた雪春たちの長屋の近くに、数名の侍の姿が見えた。
 それらの侍たちに、藤ノ助は見覚えがあった。
(確か……斉藤家の……)
 藤ノ助は以前に帰蝶きちょうのことについて調べるため、ひと月ほど斉藤家に潜り込んでいた期間があったため、その侍たちの顔を知っていた。
 向こうもひょっとすると藤ノ助の顔に見覚えがあるかもしれないが、藤ノ助は今、その当時とは姿も印象も変えた変装をしているため、おそらく気づかれる心配はほぼないだろう。
(まさか、彼らも雪春殿の居場所を突き止めたのだろうか……)
 万が一の時には暗殺という手段も考えつつ、藤ノ助は彼らの様子をうかがった。
 どうやら彼らは正確に雪春たちの居場所を特定できている様子はなく、この周辺をしらみつぶしに探しているといった様子だった。
 そして雪春は、その侍たちの様子をじっと見つめる少年の姿を見つけた。
(あれは……ひょっとして……)
 藤ノ助が得ている情報によると、雪春は侍女の律とその弟と一緒に身を隠している可能性が高いということだった。
 弟の年齢は、律が十五という情報があるから、それより年下であることしか分からない。
 藤ノ助はその少年が、侍たちを用心深く伺う様子を見ながら、おそらくこれが律の弟の牛丸であろうと当たりを付けた。
 少年は侍たちが長屋からいったん離れていくのを確認してから、自身のへと入っていった。

「ただいま戻りました。外にちょっと怪しい人がいたんですけど……」
「お邪魔します」
「えっ?」
 背後から突然聞こえた声に牛丸が驚いて振り返ると、そこには見知らぬ怪しい男が立っていた。
「うわあぁぁっ! だ、誰ですか!?」
 珍しく牛丸が慌てた声を上げて飛び退くと、部屋で作業をしていた雪春も立ちあがった。
「牛丸! その男から離れろ!」
 雪春はそう叫ぶと、普段は手にすることのない護身用の刀を手に取った。
「あの……私は怪しい者ではなく……」
「すみません、すごく怪しい人にしか見えません!」
 牛丸はそう言うと、怪しい男から離れて雪春の背後に隠れた。
 律も雪春の背後に隠れ、怪しい男を見つめている。
 怪しい男は肩をすくめ、静かに告げてくる。
「桂木雪春殿……でしょうか?」
 男の口から自分のフルネームが出たことに雪春は驚き、そしてはっとした。
 この世界で自分のフルネームを知りうる人物は一人しかいない。
「もしかして……美夜みやの?」
 雪春が問うと、男はこくりと頷いた。
 美夜の関係者というのなら、この男は信長の家臣か何かなのだろうと雪春は思い、警戒を少し解く。
「あまり詳しく説明している時間はありません。外に斉藤家の者がうろついていました。この周囲の長屋を一軒一軒探し始めているようです。ここが見つかるのも時間の問題でしょう」
「斉藤家の……」
「はい。あの様子では、とくに宛てがあるわけでもないが、ひとまず貴方がたがいそうな場所を探して回っているという感じでしたが、こちらに近づきつつあるのは間違いありません」
 つまり、当てずっぽうではあるが、その当てずっぽうが当たりそうになっているという状態なのか、と雪春は理解した。
「彼らをどうにかする方法もなくはないですが、斉藤家と余計なもめ事を作るわけにもいかない事情がこちらにもありますので……」
「織田家と斉藤家は今のところ同盟関係にあるから、ということか」
 雪春が言うと、男は頷いた。
「信長様より貴方がたを無事に保護して帰蝶様の元へ……清洲きよすへお連れするように命じられています。ひとまずこの堺に身を隠すてがあるので、そこまで一緒に来ていただけますか?」
 ここにいても斉藤家の者たちに見つかるだけだというのなら、この男についていくしかないのだろう……雪春はそう考え、頷いた。
 
 雪春たちは、藤ノ助の案内で、その身を隠すことができる場所へと向かっている。
 最初は警戒していた牛丸も、すぐに藤ノ助への警戒心を解いたようだった。
「この抜け道を知っているということは、藤ノ助さんは堺に住んでおられたことがあるのですか?」
 地元の者しか知らないような抜け道を、迷うことなく歩く藤ノ助に、牛丸は興味津々の様子で聞いた。
「いえ。先ほどのあの長屋を探しているうちに覚えました」
「えっ? じゃあ、たった一度通っただけで覚えたのですか?」
「はい」
「すごい……」
 藤ノ助は口数は少ないものの、無愛想というわけでもなく、牛丸の良い話し相手になっていた。
 しばらく藤ノ助について歩いていると、律が少し遅れ始めた。
 雪春が歩を止め、その顔をのぞき込むと、真冬の寒さの中だというのに、汗をかいているのが分かった。
「律、大丈夫か?」
「はい……大丈夫です。少し……疲れただけで……」
 少し疲れただけ……にはとても見えそうにないと雪春は思った。
「牛丸、この荷物を少し持ってくれるか?」
「はい、義兄上」
 牛丸に自分の持っていた荷物を預け、雪春はその場にしゃがんだ。
「律、俺の背中に」
「でも……大丈夫です。歩けますから……」
「無理はしないでくれ。腹の子のことも心配だから」
「はい……分かりました」
 雪春にそう言われて、律は遠慮がちに雪春の背に負ぶさった。
「目的の場所まではあと少しです。到着したら医術の心得のある者を呼びますので」
 藤ノ助はそう言うと、再び歩き始める。

 やがて到着したのは、堺の港の近くにある茶屋の二階だった。
 一階は船乗りたちが利用する茶屋になっており、二階の一部屋が、清洲城に出入りする商人の正之助しょうのすけが、商用で堺へ来たときのために借りている部屋だった。
 一部屋といっても、かなり広く、買い付けた商品を置いておくための倉庫としても使っているのだろうと思われるような、ある意味で殺風景な部屋だった。
 その部屋に布団を敷き、雪春は律を寝かせた。
 律の顔色は悪く、呼吸も乱れている。
 藤ノ助は雪春たちをこの部屋に案内してすぐに医術の心得があるという者を呼びに行ったが、それが戻ってくるのが遅く感じられるほどに、雪春は律の容態が気がかりだった。
 律の今の様子は、これまでの悪阻つわりで寝込んでいたのとは、少し様子が違うようにも感じられる。
 牛丸が手桶にいれた水の中に手ぬぐいをひたし、律の額に乗せる。
 苦しげな律の様子を見ていると、雪春はこれまでの罰が当たったのだろうかと感じてしまう。
 美夜のために他のすべては犠牲になっても良いと考え、行動してしまっていた自分への罰……。
「律……」
 律の手を、雪春は祈るような気持ちで握りしめた。
(俺の命は持っていてくれて構わない……でも、律と腹の子の命だけは……)
 神というものの存在を雪春は信じてはいなかったが、それでも何か奇跡を起こす存在があるのなら、仏でも悪魔でも何でも良いからすがりたい気持ちだった。
 その一方で、自分がこんなふうに美夜以外の誰かのことを真剣に考えているということが、不思議だ……と頭のどこかで冷静に考えている雪春もいる。
 ただ、この目の前のふたつの命を、自分の命を引き替えにしても良いから守りたいという気持ちは、雪春の中には確かにあるのだった。
 やがて藤ノ助が一人の男を連れて戻ってきた。
 年の頃は三十代後半から四十代前半ぐらいに見え、ぱっと見は何か用心棒などの荒事でも仕事にしているのかと思うような感じで、とても医師には見えない。
「ほら、出た出た。邪魔だからみんな出て行け」
 養源ようげんというその男は面倒くさそうに部屋から雪春たちを追い出し、律の診察を行った。
 やがて数十分ほどして、雪春たちも部屋に入ることを許された。
「とりあえず腹の子は今のところ無事のようだ。だが、しばらくは安静にしておかねぇと、どうなってもしらねぇぞ」
「養源先生、清洲への旅は無理ですか?」
 藤ノ助が聞くと、養源はぎろりと彼をにらみ付ける。
阿呆あほか。安静って今言ったところだろうが」
「すみません……しかし、信長様に報告しなければなりませんので、どの程度安静にしていれば良いのか教えていただけると……」
「ひと月もすりゃ、体調も腹も落ち着いてくる。今すぐには無理だ」
 養源がきっぱりそう言うと、律が遠慮がちに口を開いた。
「あの……雪春様だけでも……清洲に行って……妹様にお会いになって来られては……」
 律の言葉に、雪春は首を横に振った。
「律がこんな状態なのに、置いていけるわけがない。これまでだって美夜は待ってくれた。あとひと月ぐらい、きっと待ってくれるだろう」
「雪春様……」
 本当は心細かったのだろう……律は少し安堵あんどしたような表情で、雪春を見つめた。
「藤ノ助殿、厚かましい願いかもしれないが、律の具合が落ち着くまで、ここにいさせてもらうことは可能だろうか?」
 雪春が言うと、藤ノ助は頷いた。
「それは問題ありません。安全な場所に貴方がたがおられることを、信長様も望んでおられます」
 藤ノ助の言葉を聞き、養源は思い出したように言った。
「信長……吉法師きっぽうしか。やつは元気にしてるのか?」
「はい。先日、信秀様が亡くなられ、信長様が家督を継がれました」
「信秀が死んだか……信長もこれからが大変そうだな」
「そうですね。尾張おわりも落ち着きませんし」
「尾張なんぞ、さっさとたいらげちまえと信長に伝えておけ」
「はい、そのようにお伝えしておきます」
 藤ノ助の返事に、養源は笑う。
「返事が来たら、ぜひ聞かせてくれ」
「承知いたしました」
「また三日後に様子を見に来る。もしまたそれまでに容態が悪くなるようなことがあったら呼んでくれ。じゃあな」
 養源はそう告げると、どすどすと足音を立てながら部屋を出て行った。
 今の二人の会話を聞いていると、養源はあのような格好をして市井しせいの者ではあるが、信長とも、そしてその父の信秀とも浅からぬ関係にあるのではないかと雪春は思った。
 そして先ほどの二人の会話を改めて思い出し、雪春ははっとした。
「藤ノ助殿、信秀殿が亡くなられ、信長殿が家督を継がれたというのは本当なのでしょうか?」
 雪春が問うと、藤ノ助は頷いた。
「はい。年の瀬のことだったそうです。私もずっと尾張を離れていましたので、年が明けてから聞いた話ですが……」
「では、今の織田家の当主は……」
「はい、信長様です」
 ……ということは、美夜は織田家の嫡男ちゃくなんの嫁ではなく、当主の嫁となったということだ、と雪春は理解した。
 美夜は十六だが、信長も確か同じ十六だったはずだ。
 十六の夫婦が、織田家を背負っていかなければならないというのは、かなり大変なことだろうと雪春にも想像がつく。
(せめて美夜の傍にいれば、俺も何らかの支えになることができるのだろうが……ひとまず律の容態が落ち着くまでは……)
 本当は今すぐにでも清洲に行きたいという気持ちがこみ上げてきたが、それを雪春はぐっと飲み込んだ。
 以前の自分であれば、美夜よりも他の誰かを優先することなど、考えられもしなかったが。
「藤ノ助殿……その、妹夫婦は仲良くやっているのだろうか?」
 この質問に、蔵ノ介は特に考え込んだりすることもなくすぐ頷いた。
「私の目には、とても仲がよろしいように見えます」
 藤ノ助の率直な答えを聞き、雪春は笑った。
「そうか。なら安心だ。美夜にあとひと月待って欲しいと伝えてもらえるだろうか? 美夜ならきっと、俺の気持ちを理解してくれると思う……」
「はい、承知いたしました。すぐに信長様に報せを送らなければなりませんので、一緒にお伝えします。報せは明後日には信長様のもとへ届くでしょう」
「そうか、よろしく頼む」
 こうして雪春たち保護の一報は、尾張の信長の元へと届けられたのだった。
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