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第三章

身代わり濃姫(55)

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 清洲きよす城の戦が終わった翌日、信長はかなり慌ただしい時間を過ごしていた。
 前日信長は、末森城に使いを出し、信行の身柄を確保するように命じたが、当然のごとくそれは拒絶された。
 そのため、信行側との本格的な戦に向けての軍議が一日のうちに幾度も開かれ、とりあえず当面の方針については固まったようだった。
 捕らえた信行の兵たちの多くは、いったい自分たちが何のために駆り出されたのかよく分かっていない者も多かったようで、清洲城を攻めるのも、不届き者が城内にいるから程度の話しか聞かされていなかったらしい。
 命令権のあるごく一部の者を除いて信行の兵を解放し、末森城へ戻るもこのまま清洲に残るも好きにしろと信長は告げた。
 その結果、半数は清洲に残って信長への忠誠を誓い、残りの半分は末森城の信行の元へと帰っていった。
 信親のぶちかと一部の者は里に送られ、取り調べを受けている。
 信親は今のところ、黙秘を続けているのだという。
 他の信行配下の者たちからは有力な情報を引き出すことはできず、今のところ、信親の背後関係は、正確にはまだ明らかになってはいない。
 そんな慌ただしい一日を終えて信長が寝室にやって来たのは、もう夜半を過ぎていて、美夜みやはうとうととしかけていた時だった。
 美夜が起き上がろうとすると、信長がそれを押しとどめる。
「良い。疲れているであろうから、そのまま眠っておれ」
「ありがとうございます……でも、ちょっと目が覚めたみたいです」
 美夜は目をこすりながらも起き上がった。
 昨日の戦の疲れもあり、眠気は強かったが、それ以上に信長とゆっくり話をしたいという気持ちがあった。
 昨夜は互いに疲れていて、二人ともろくに話をする暇もなく眠ってしまったこともあり、美夜は、今夜は信長の話を聞きたいと思っていた。
 末森城で何があったのか、そして信親とはどうなったのか……。
 きっと信長が誰にも話せずに抱え込んでしまっていることがあるはずだと美夜は感じていた。
「信長様がまだ眠くないなら、お茶でも入れてきましょうか?」
 美夜がそう言うと、信長は笑った。
「そうだな。もらおうか」
「はい。少し待っていてくださいね」
 美夜は立ちあがっていそいそと部屋を出て茶の支度をし、再び部屋に戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 信長に茶を手渡して、美夜は自分も茶の入った湯飲みで手を温めた。
 何だかこうして二人で向かい合ってお茶を飲んでいると、ようやく普通の夫婦という気がしてくる。
 美夜の描く普通の夫婦像が自分の両親だから仕方がないのかもしれないが、普段の美夜と信長は普通の夫婦像とはまったくかけ離れていて、自分たちの関係がいったい何なのか分からなくなってしまうことがよくあった。
 信長は織田家という膨大な組織をとりまとめる立ち場であり、城の主でもあり、美夜はその妻ではあるが、有事ともなれば、信長の代わりに城の主となることもある。
 そんな二人が、そもそも普通の夫婦のような生活を送ることなどできるはずもないのだろうが……。
(でも、いつか、戦もなくなって、こんなふうに毎日少しでも一緒にお茶を飲めるような時が来るといいな……)
 ……と、美夜は最近考えるようになった。
 信長の力がある程度大きくなり、戦をする必要がなくなれば、そんな日が来るかもしれない。
(天下統一……)
 たぶん、この戦国時代の戦をすべてなくすには、誰かが天下を統一するしかないのだろうと美夜も思う。
 そして、その誰かに一番近いのは、史実を知る美夜からすれば、おそらく信長のはずなのだ。
「寒いから、あったかいお茶が嬉しいですね」
 美夜がそう声をかけると、信長も笑って頷いた。
「そうだな。そなたの入れてくれる茶は特に美味いからな」
「普通に入れたお茶ですよ。誰が入れても、あまり変わらないと思いますけど」
「俺にとっては、そなたが俺のために入れてくれたというだけで、どんな馳走よりも美味い」
 たかだかお茶を入れたぐらいでべた褒めされてしまい、美夜はかえって恥ずかしくなってしまう。
 それが信長らしいと思いつつも、なかなか慣れることができなかった。
「何かもっと気の利いたお料理でも作ることができればいいんですけど……こっちでは材料も調味料も調理道具も何もかも違いすぎて……」
「そなたは元の世界では料理もしておったのか?」
 信長に問われて、美夜は頷いた。
「両親は仕事で家にいないことが多い人たちだったので、私と兄が二人で留守番をすることも多かったんです。私が小さい頃は兄が料理を作ってくれたりしてくれていましたが、ある程度の年齢になってからは私が作っていました」
「そうか……いつかそなたの料理も食べてみたいものだな」
 そういえば、美夜は信長に料理を作ったことがないことを思い出した。
「信長様が食べてくれるのなら、こちらの料理も勉強して作れるように頑張ります」
「うむ、それは楽しみだ」
 信長が本当に嬉しそうにそう言ってくれたので、美夜は本気でこの世界の料理の勉強もしようと思った。
(そうだわ……私の話ばかりしてちゃ駄目じゃない……)
 信長が聞き上手なところがあるので、美夜はつい自分ばかりしゃべっていたことに気づいて反省した。
「あの……信長様、いろいろありましたけど、大丈夫でしたか?」
 唐突かと思ったが、美夜がそう話を向けると、信長は苦笑した。
「そうだな……確かにいろいろあった……」
「そうですよね……」
 寺本城の戦が落ち着いたかと思えば、すぐに信長の父、信秀の死があり、その葬儀の段取りのために信長が清洲を不在にしている間に、彼の家臣が裏切って、清洲城が攻められて……。
 これがこの数日の間にすべて起こっていることだと考えると、信長としてはいろいろあったというしかないのだろうが、そのいろいろのひとつひとつは、信長にとってはずしりと重いものばかりだったはずだ。
「父上の葬儀はもうない。信行とは戦になるだろう」
「はい……」
 そのことは、甘音あまねから詳しく聞かされているから、美夜ももう知っていた。
 信長は末森城に信行を捕らえるようにと使者を送ったが、信行側は使者を城に入れることもせず、信行の身柄を引き渡すことを拒否してきたのだという。
 それはつまり、信長の宣戦布告を受けるという返事でもある。
 織田家家中を二つに割っての戦が始まるということは、もう信秀の葬儀どころの話ではなくなってくるということだ。
「戦が落ち着いたらそなたをどこかへ連れて行ってやりたいと考えていたのに、また先になってしまいそうだ」
 信長がそんなことを言うので、美夜は申し訳ない気持ちになってしまう。
「そんなこと気にしないでください。ただでさえ信長様は大変なのに、私のことで気をつかわないでほしいです……」
「俺は常にそなたのことを考えている。考えるなと言うのは、俺に息をするのをやめろと言っているのと同じことだ」
「そんな無茶な理由……」
「無茶ではない。それが真実だ。だから、俺に気遣うななどとは言うな。俺が息をしなくなったらどうする?」
「それは困りますけど……でも……」
 信長の独特の言い回しに、美夜はどう答えて良いか分からなくなってしまう。
「俺はそなたのことをいつも考えているのに、何もしてやれていない。兄上もまだ見つからぬままだしな」
 信長はそんなことまで気にしてくれているのかと思うと、美夜はさらに申し訳ない気持ちになってしまう。
「そのことも気にしないでください。探してくださっているだけで十分です。藤ノ助さんだって、本当は信長様の傍にいたほうが良いのに、兄様を探すために遠くへ行ってしまって……」
 美夜がそう言うと、信長は思い出したように告げてくる。
「ああ、そうだ。そなたに藤ノ助のことを伝えておらなかったな。藤ノ助は今、坂本におるらしい」
「坂本……」
比叡山ひえいざんのあるところだ。分かるか?」
「はい。比叡山は聞いたことがあります」
「京のめぼしいところは探し尽くしたが、兄上は見つからなかったようだ。今後は京の周囲を探してみるということで、ひとまず坂本へ行ったらしい」
 しかし、その坂本というところにも、兄がいるとは限らず、藤ノ助はまさに雲をつかむようなことを繰り返していることになる。
「やっぱり……長引いてしまいそうですね……」
「まだひと月も経っておらぬ。兄上と一緒におるはずの侍女は身重ゆえ、動きは取りづらいだろう。その間に藤ノ助なら見つけることができるはずだ」
 美夜を安堵あんどさせるためか、信長はそう言った。
「そうですね。本当にありがとうございます。っていうか、気がついたら、私の話ばかりじゃないですか。今夜は信長様の話を聞こうと思っていたのに……」
 また信長に乗せられて、自分のことばかり話してしまっていたことに、美夜は気づいた。
「俺も今夜はそなたの話を聞こうと思うておったのだ。ちょうど良いではないか」
「良くありません。信長様も話をしてください」
「俺の話など、夜眠る前に聞くようなものではないぞ。夢見が悪くなる」
「そういうお話こそ、ちゃんとして欲しいです」
 美夜がそう告げると、信長は美夜を手招きした。
 そしてやって来た美夜を自分の膝の上に座らせると、信長は背後から抱きしめてくる。
 信長の顔は見えないが、きっとこのほうが信長は話しやすいのだろうと美夜は思った。
「では、ひとつだけ、今までそなたに話していなかったことを話そう」
「はい……」
「俺が子どもの頃に傍にいた小姓に弥五郎やごろうという名の者がいた。年は俺よりも六つ上だった」
「信長様はその時おいくつだったのですか?」
「確か八歳だな」
「その弥五郎さんが……どうかしたんですか?」
「息が詰まりそうになった時に、俺はよく城から抜け出していたのだが、その時に、必ず弥五郎は俺の後をつけてきていた」
「それは心配なさって、ついてきただけなのではないですか?」
「どうだろうな。あまりそういう感じでもなかった。でも、いつもついてくるくせに、声をかけたりはしてこぬのだ、あやつは。たとえ皆が俺のことを探していても、俺のいる場所を知りながら、教えたりはしなかった」
「ちょっと変わった方だったんですか?」
「確かに、変わっておるだろうな。俺も変なやつだと思っておった」
「それで……その弥五郎さんとはどうなったのですか?」
「あるとき、何か考えでも変わったのか、弥五郎は俺が昼寝してるところへやって来た。俺は驚いたふりをして、なぜここが分かったのかと聞いた。するとあやつは『何となく分かりました』などと返してきたのだ」
「弥五郎さんは、信長様が後をつけられていることに気づいていないと思っていたのではないですか?」
「まあ、たぶんそうだろうな」
 信長の話の着地点が美夜には見えなかったが、今の信長はこの話をしたいのだろうと思った。
「だから俺は弥五郎に、この俺しか知らないこの場所に入る権利をくれてやると言ってやった」
「それで、弥五郎さんは何と言われたのですか?」
「ありがたき幸せだと」
「何だか子どもらしくないやりとりですね」
「そうだな……あやつは子どもらしくない子どもだった」
 きっと、そう言う信長も、子どもらしくない子どもだったのだろうと美夜は思ったが、それは口には出さなかった。
 生まれたときから織田家を継ぐ人間として育てられたのだから、普通の子どもでいられるはずがない。
 ましてや、甘音に聞いた里での話などを思い出すと、信長の子ども時代は相当に過酷なものだったのではないかと思う。
「俺には弥五郎が、とても危うく見えたのだ。だから、こやつは守ってやらねばならぬと感じた」
「危うく……? どうしてですか?」
「弥五郎は、まるで浮き草のようなところがあった」
「浮き草?」
足下あしもとがまったく定まっていない。流されれば、自分の身が危うくなってていることに気づいても、どこまでも流されてしまいそうなそんな危うさを、俺は弥五郎に感じた」
「でも、子どもだとまだ自意識も少ないから、そういうこともあるのではないでしょうか?」
「確かにそうかもしれぬが、あやつのそれは、度を超していたのだ。誰かが縄ででも繋いでおいてやらないと、とんでもないところまで流れていくやつだぞと俺は子どもながらに思った。だから俺は弥五郎をその時からいつも連れて歩くようにした」
「信長様が縄を付けて流れないようにしていたんですね」
「そうだな……」
 信長はそう告げてから、少し沈黙した。
 何かを思いだしているのかもしれないと美夜は感じた。
「ただ……俺はずっとあやつの傍にはいてやれなかった。十二の時に里に預けられたからな」
「そう……でしたね……」
 美夜はとりあえず相づちを打ったが、里での話を美夜は信長の口からまだほとんど聞いたことはなかった。
「俺は弥五郎の縄を外さなくてはならなくなった。心配ではあったが、俺には俺の役目があったからな……」
「それで……弥五郎さんはその後大丈夫だったんですか?」
 美夜が聞くと、信長はまた少し沈黙した。
 そして、少し堅い声が背後から降ってきた。
「……俺は近いうちに弥五郎の処刑を命じなければならぬ」
 処刑……という言葉を聞いて、美夜ははっとした。
「もしかして……弥五郎さんは……」
「そうだ。佐々木信親だ。十四の時に里から戻った俺は、弥五郎……信親を再び側に置き、縄を繋ぎなおした気になっておった。しかし、あやつはすでにもう、俺の手の届かないところまで流されてしまっていたようだな……」
「そう……だったんですね……」
 美夜は何を言って良いのか分からず、信長の腕をぎゅっと抱きしめた。
(信長様の背負っているものは、あまりにも大きすぎる……)
 美夜は改めてそのことを知った気がして、胸が締め付けられそうになる。
「この話をしたのは、そなたが初めてだ」
「話してくださって、ありがとうございます」
「眠る前に聞く話ではなかっただろう?」
「いいえ。聞いて良かったと思いますし、これからも信長様にはたくさん話して欲しいです」
 美夜はきっぱりとそう伝えた。
 信長は美夜に話したことで、ほんのわずかでも気持ちが楽になっただろうか。
 信長の重荷を一緒に引き受けるには自分はあまりにも頼りなさ過ぎて、美夜は途方とほうに暮れそうになることがある。
(私は……信長様のために何ができるんだろう……)
 美夜は背後を振り返り、信長の唇に接吻をした。
 すぐに信長の身体がおおかぶさってきたので、美夜は両手でその身体を抱きしめながら、信長を受け入れていった。
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