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小咄

身代わり濃姫(小咄)~信長様にマジで恋する五秒前~

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※この物語は、22話で那古野なごや城から清洲きよす城への引っ越しが終わった後、二人で城下を歩く前の時間軸の話になります。

 那古野城から清洲城へ移ってきてほどなく、信長は美夜みやを部屋から連れ出した。
 新しい城での仕事が忙しくて寝る間もないはずの信長がやって来たので美夜は驚いていたのだが、部屋から連れ出されてさらに驚いた。
 昼間にこんなところにいて、しかも自分を連れ出したりして、時間は大丈夫なのだろうか、仕事は大丈夫なのだろうかと思ってしまう。
「どこへ行くんですか、信長様?」
 美夜が聞くと、信長は足を止めずに答える。
「気分転換だ」
 そう笑って信長は美夜の手を引き、天守てんしゅの一角に向かった。
(天守の中って……初めて入るかも……)
 美夜たちが住んでいるのは、天守から少し離れた場所にある建物で、普段は天守を見上げて生活をしている。
 見張りのいる天守の入り口を入ると、信長はどんどん階段を上っていく。
 ここは下に見張りの兵がいただけで、階段の途中ではほとんど誰も見かけることがなかった。
 階段は上に上がるほどに急になってきて、さすがに信長も上る速度を緩めてくれた。
 美夜の着物では、さっさと上りたくてもなかなか上れないからだ。
(こういう時……着物って不便よね……)
 美夜のいた時代の服装なら、こんな急な階段でも、特に苦もなく上れるはずなのに。
 どうやら信長は天守の頂上に向かっていたようで、さらに急になった階段を上るときは、美夜の手を引いて身体を引き上げてくれた。
 天守の頂上らしきところは、倉庫のようなたたずまいで、格子窓から外の光と風が入ってくる、とても心地の良い場所だった。
 ただ、天上はとても低くて、背の高い男なら頭を打ってしまいそうなほどだ。
「こちらへ来てみよ」
 信長が美夜を格子窓のほうへ手招きする。
「ここから海が見える」
「海……」
 美夜はその懐かしい言葉を聞き、目を見開いた。
 信長が格子窓の格子を外してくれると、少し遠くではあるが、確かに海が見えた。
「俺が子どもの頃、父上がこの城を所有していた事があったのだが、ここが俺の気に入りの場所だった」
「そうなんですね……」
 少し上の空で美夜は答えながら、久しぶりに眺める海の景色に見とれた。
(懐かしい……)
 美夜は両親や兄と一緒に海へ行ったときのことを思いだした。
 美夜の育ての両親はとても忙しい人だったのに、少し休みが取れると、いろんなところへ連れて行ってくれた。
 そんな中でも、海は特に多かったかもしれない。
 近いところでは湘南や茅ヶ崎、遠くは沖縄や和歌山、そしてハワイにも連れて行ってもらったことがある。
 兄は美夜より十歳も年上だから、どこへ行くにも兄妹というよりは、完全に保護者状態だった。
 兄妹喧嘩をした覚えはほとんどないが、育ての両親と同様に、優しくしてもらった記憶は山のように残っている……。
(お父さんやお母さん……心配しているだろうな……それに兄様は大丈夫かしら……)
 家族のことが懐かしく思い出され、美夜は胸が締め付けられそうになる。
 いつか元の世界へ帰ると決めてはいるものの、未だにどうすれば帰ることができるのか、その方法はまったく掴めない。
「なっ、なぜ泣く!?」
 信長が驚いたような声を上げたので、美夜ははっとした。
 確かに目のあたりが熱くなって、触れてみると、涙がこぼれ落ちてしまっていた。
「ご、ごめんなさい……悲しいとかじゃなくて、すごく懐かしくて……だから、あの……心配しないでください……」
 信長に心配をかけまいとして言った言葉だったが、信長は怪訝けげんそうな顔をしていた。
「懐かしい? そなた山で育ったのではなかったのか?」
 美夜はしまったと思ったが、もう口から出てしまった言葉を戻すことはできない。
「あ、あの……お、お父様に昔……連れて行ってもらったことがあって……その……」
 苦しい理由を作ってみたものの……信長は信じてくれるだろうか……。
 美濃の山城やまじろに籠もる斎藤道三が、娘を海に連れて行くことなどあり得ない気はしたものの、美夜としてはそう言い張るしか仕方がない。
 美夜は鼓動が脈打つのを感じながら、信長の返事を待った。
「そうか。しゅうと殿に連れて行ってもらったのか」
「は、はい……」
 信長は何か言いたげな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
 どうやら信長は美夜の言葉をとりあえずは信じれてくれたようだった。
(気を付けなくちゃ……私はもう海を懐かしいとか思ってもいけないんだから……)
 美夜はそう自分に言い聞かせながら、涙をぬぐう。
「俺はそなたが泣くのを見るのは苦手なのだ……」
 信長はそう言って、包み込むようにして美夜を抱きしめる。
「あの……信長様……もう大丈夫ですから……」
 美夜はそう言ったが、信長はさらに強く美夜の身体を抱きしめてきた。
「故郷が恋しいか?」
 故郷は恋しい。美濃ではなくて、本当の故郷が。兄と……そして父と母と一緒に暮らした家が、本当に恋しかった。
 でも、それは信長に告げることはできないことだった。
「時々……恋しくなるときはあります」
「そうか……」
「でも、もう大丈夫です。心配をかけてすみませんでした」
 美夜はそう告げて笑うと、そっと信長の身体から離れた。
 信長のことが好きだから、信長にこれ以上心配をかけたくないという気持ちもあったし、自分や兄の身を守るためにも、これ以上余計な疑いを持たれては困るという警戒心も同じぐらいあった。
 どちらも本当に美夜の中にある気持ちで、本来なら二つの気持ちは同居してはいけない種類のものなのだと思う。
 時々自分の心が左右に引き裂かれそうな感覚を、美夜は覚えることがあった。
 信長のことを好きだという気持ちだけなら、もっと気持ちは楽かもしれない。
 逆に、信長に対して好意はまったくなく、余計な疑いを持たれては困るという気持ちだけだったとしたら、さらに気持ちは楽だろう。
 二つの気持ちが同居してしまっているから、こんなにも苦しい……。
(私……ずるいのかな……それとも、これは仕方のないことなのかな……)
帰蝶きちょう……」
 名前を呼ばれて顔を上げると、そこに信長が唇を重ねてきた。
 美夜は目を閉じ、信長の背中に腕を回して彼の接吻を受け入れた。
 信長に心配をかけたくないという気持ち、信長に疑われては困るという警戒心、二つの気持ちを同居させながら――。
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