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第三章

身代わり濃姫(52)

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 いきなり城門が中から閉じられたとき、佐々木信親ささきのぶちかは何が起こったのかよく分からなかった。
 信親と、外で待機する帰蝶きちょうを護衛するはずだった兵たちが取り残され、今もまだ城門は固く閉じたままだ。
 信親もさすがに最初は少し焦りを覚えたものの、今はもう頭を切り換え、次にどう動くべきかを考えていた。
 城門を閉じたということは、中にいる者たちは、信親のことを敵とみなしたということなのだろう。
 だが、信親はこのまま諦めて引き下がるつもりはさらさらなかった。
 城内に残る兵はそれほど多くはないということを、先ほどまで城に出入りしていた信親は知っているからだ。しかも戦慣れした猛者もさの多くは現在、戦後処理の続く寺本城と、信長のいる末森城のどちらかにいる。
 だから、こちらの手駒をすべてぶつければ、信親が城を落とせないというわけではないということは、戦をこれまで何度か経験してきた信親には分かる。
 ただ、信親の目的は帰蝶の身柄の確保のみだから、城を完全に落とさずとも、帰蝶の身柄さえ奪うことができれば、それ以上の戦いはせずに引き上げればいい。
 信親はそう考えて、今もまだここを動かずにいる。
 今は、本来であれば帰蝶の身柄を確保後に使う予定だった雑兵ぞうひょうたちを、この場へ呼び集めている最中だった。
 その雑兵たちの兵力を合わせれば、ほどなく城の門を開けること、そして城内の制圧は可能だろう。
(その後はもう、御台所みだいどころ様のご判断に任せるしかないが……)
 自分に与えられた任務は帰蝶の身柄を確保して御台所……つまり土田御前どたごぜんの元へ運ぶということだけで、そこから先に関して信親は何も聞かされてはいない。
 しかし、信長の廃嫡はいちゃくを考える土田御前にとって、帰蝶は利用価値が高いということだけは分かる。
(何しろ殿は、帰蝶様に心底惚れておられる……俺が土田御前様に心惹かれるのと同じぐらいに……)
 そういう信長の気持ちに気づき、それを土田御前に報告したのもまた信親だった。
 だからこそ信親は、土田御前のために、何としても帰蝶の身柄を確保しなければならない。
(それがあの時、死ぬこともできなかった俺の役目だ……俺の生きる意味だ……)
 信親はあの日の早朝、この城門から清洲きよすったときのことを思い出す。
 あの襲撃の時、信親は土田御前のために命を捧げるつもりだった。彼女の願いを叶えるためならば、生きて帰るつもりなど、まったくなかった。
 だから、自分が土田御前より金を受け取って手配した雑兵たちと戦う間も、他の近習きんじゅうたちと同じように、命をかえりみることなく戦うことができたのだった。
 そして信親は、帰蝶の美濃行きに同行し、最後まで精一杯戦った信長の忠臣として死ぬはずだったのだ。
 信親の死後は、土田御前にも、そしてその愛すべき信行にも疑惑の目を向けさせることなく、信長の名誉を貶め、精神的にも打撃を与え、織田家の家督かとくは信行のものとなる……はずだった。
 しかし、その予定が狂った。
 結局、信親が目を覚ましてみれば、帰蝶を奪うことはできず、信親も死ぬことはできず、信親は土田御前のために何の役にも立たなかったのだと知った。
 信親は土田御前のもとへ復命ふくめいし、再度帰蝶の身柄を確保するようにと告げられた。
(我が殿を裏切ってまで、あの人の願いを叶えたいと思うようになるなど、三年前のあの日まで考えたこともなかったな……)
 信親は自分の運命を変えた土田御前との出会いの日を思い出した。

 それは信親が十九になったばかりの頃だった。
 縁談の話もまとまりかけていたその時期に、母が昔つかえていたという土田御前が、唐突に佐々木家にやって来たのだった。
 母はかつて土田御前の侍女をしており、父と結婚して以降も文のやりとりなどはしていたらしい。
 しかし、土田御前の訪問に困ったのは義父の永益ながますだった。
 息子である信親は信長の傍近くに仕える近習であり、信秀に仕える永益も、信行派には荷担せず、信長支持を貫いていた。
 だから、永益は土田御前の訪問を心配した。
 信長と信行の不仲が表面化し始めている時に、信長の廃嫡をたびたび口にする土田御前が家にやって来たなどと知られれば、息子も自分もあらぬ疑いをかけられてしまうかもしれない。
 ただ、一度の訪問ならば、妻がかつて侍女をしていたこともあるから、許されるであろうと永益はこの時考えていた。
 しかしその後、自分の息子と土田御前が、まさかそんな関係になるとは、永益は想像もしなかっただろう。
 当時、たまたま家にいた信親は、自分の主である信長を公然と忌み嫌う土田御前がどのような姿形をしているのかに興味を抱き、そっと襖の影からのぞいてみた。
 そして、そのあまりの美しさに言葉を失ったのだった。
 人妻とはとても思えないほどに若々しく、そして同世代の女たちにはない落ち着きと、妖しいまでの色気が同居する、信親がこれまでに見たことのないような雰囲気の女性だった。
 すっかり我を忘れて見とれてしまっていた信親は、土田御前と目が合ってしまい、盗み見ていたことがばれてしまったが、土田御前は気を悪くしたり怒ったりはせず、信親を部屋に招き入れた。
 もちろん、その時は義母も同席していたから、ただ単に世間話だけをして土田御前は帰っていった。
 その後、信親は義母から行儀の悪さを酷く叱られたが、何を言われたのか覚えていないほどに上の空になっていたことだけは覚えている。
 それから数日して、信親の元に土田御前から文が届けられた。
 その文字の美しさを見ているうちに、信親は彼女のこの世のものとも思えぬ美しい姿を思い出し、身体の中心が熱くなってくるのを感じた。
 さらに文の内容が、信親の身体をたぎらせた。
 驚くことに、土田御前は、信親との密会を希望してきたのだ。
 それがどれだけ危険なことなのか、知らない信親ではなかったが、自分の想いと欲求を抑えることができなかった。
 信親は一方的に婚約者との婚約を破棄し、土田御前と会い、そのまま身体の関係を持った。
 その後も、信親と土田御前は、城下の町のとある屋敷で密会を続け、逢瀬おうせを重ねた。
 もちろん、自分がやっていることは、長年仕える主である信長はもとより、その父であり織田家の当主である信秀をも欺く行為であることは重々承知していた。
 それでも、信親は逢瀬を止めることができなかった。
 信親の裏切りは、信長や信秀に知られることはなかったが、義父永益の知るところとなってしまった。
 義父にはさんざんいさめられたものの、信親は行動を改めようとはしなかった。
 いや、もはや改めることができなかったといったほうが正しいのかもしれない。
 信親は血の繋がりのない父である永益をそれなりに尊敬もしていたし、育ててもらった恩も人並みに感じていた。
 それでも、その義父をも窮地に追い込むであろう自分の行動を、信親は改めることはできなかった。
 もはや身も心も、すべてを土田御前に奪われてしまっており、手遅れだったのだと、今となって信親は思う。
 困り果てた永益が頼ったのが、信親の実の父親である平手政秀ひらてまさひでだった。
 信親はすでに、実は平手政秀の子であるという自分の出自を知っており、政秀と父子としての対面も果たしていた。
 話を聞いた政秀は、佐々木家を訪れては信親に土田御前との逢瀬をやめるように切々と説いたが、それでも信親は土田御前との交わりをやめようとしなかった。
 息子の気持ちを変えることは無理だと考えたのだろうか……政秀は今度はその相手である土田御前の元を密かに訪れ、信親をこれ以上巻き込まないで欲しいと訴えたのだった。
 その訪問が幾度かに及んだために人目に付き、政秀は信長から信行との関わりを疑われることになってしまうのだが……。
 そして、平手政秀は息子の不義のために死んだ。
(父上は俺を改心させたかったのだろうな……)
 実の父である政秀の自害について、信親はそう受け止めている。
 一命を取り留めた信親がある程度回復してきた時、信長は養生のために信親にいとまを与えた。
 それで信親は実家へ帰っていたのだが、その時に政秀はやって来た。
 帰蝶の美濃行きの日程を漏らしたのは信親であると、政秀は確信していたようだった。
 すべてを信長に伝え、謝罪せよと政秀は信親に迫ってきた。自分も一緒に腹を切るから、とまで政秀は信親に言ってきたのだった。
 しかし、信親はそれを拒んだ。
 これまでも信親は、再三の政秀の忠告にも従わず、身も心もすべて土田御前に捧げてきた。そして、最後に命まで捧げたつもりだったのに、生き残ってしまった。
 この世で結ばれぬ運命ならば、せめて彼女のために死ぬことが自分にできることだと考えていたのに、それすらできなかった。
 そのことに信親は最初失望したものの、こうして奇跡的に命が助かった以上、この命は土田御前のためにあるものと自分は考えていると、信親は自分の想いをすべて正直に政秀に伝えた。
 その翌日に、政秀は自害した。
 すべての罪は自分にあるとの遺書を残して……。
 さすがにそれを聞いたときは、信親はそれなりに衝撃を受け、落ち込みもした。
 実の父である政秀を殺したのは、息子である信親自身だという自覚もある。
 信親は養父を裏切り、実の父を裏切り、そして主をも裏切った。
 もはや土田御前以外の者ならば、今の信親は誰も裏切ってしまうだろうという自信すらある……。
(殿を裏切ることだって、あの日までは考えたこともなかったのに……)
 信親は、初めて信長と出会った日のことを思い出す。
 信親が信長に仕えるようになったのは、十三の頃のことだった。
 小姓こしょうの一人として、吉法師きっぽうしと呼ばれていた当時八歳だった信長と出会った。
 少し変わった子どもだな、と信親は自分も子どもながらにそう感じたのを覚えている。
 その当時から、信長は他の同じ年頃の子どもたちとは雰囲気がまるで違っていた。
 ひとつ年下の弟の信行ともまったく異なっていた。
 すべてにおいて、常識というものでものを考えず、自分の頭の中で一から組み立てて、俺にとってはこれが正しい、これは正しくないと判断するような、子どもらしくない子どもだった。
 けれども、信親にはそんな信長が理解できるような気がしていた。
 自分なら理解できるという根拠のない自信のようなものもあった。
 そして、信長もそんな自分を重宝してくれた。
 信親が成人する折りには、この『信親』という名を考え、与えてくれたのも信長だった。
 彼が里に預けられていた一時期以外は、信親はずっと信長の傍にいた。
 主として尊敬もしていたし、身分を超えた友情のようなものさえも感じていた。
 けれども、そんなものさえあっさりと裏切らせてしまうほどに、土田御前への想いは強かったということなのだろう。
 土田御前に何か頼まれれば、それが信長の近習という自分の立ち場からすればどんなに卑劣なことであれ、やり遂げ、彼女を喜ばせたいと思ってしまう。
 これまでに一度も迷いがなかったといえば嘘になる。
 少なくともあの美濃行きまでは、自分の中には罪悪感と土田御前への想いが入り乱れて、気がおかしくなりそうになることも何度もあった。
 けれども、瀕死の重傷を負ってなおかつ生き延びてしまったとき、信親の中で何かが生まれたという感覚があった。
 そして、実父の政秀の死によって、さらにその感覚は明確になった。
(もうこれは俺の人生ではない……)
 佐々木信親という人間は、やはりあの襲撃の時に一度死んだのだという気持ちになってきた。
 そして、今度は完全に土田御前のものとなるために、生まれ変わったのだと――。
 土田御前の夫である信秀が死んだ今、もう信親にとって最大の障害はなくなった。
 今回のことがうまくいけば、土田御前は自分をずっと側に置いてくれると約束してくれた。
 今の信親には、以前にはないものがある。
 それは生への執着だった。
 今度は生き残って、側に置いてくれるという土田御前に仕え、彼女のためだけに残りの人生をまっとうしたい――それが信親が生まれて初めて抱いた夢でもあった。
 だから何があっても帰蝶の身柄を確保し、土田御前の元へ連れて行く必要が、信親にはある――。
(しかし、あと一歩というところだったのに……あの忍びが余計なことをしたから……)
 信親は憎らしい少女の顔を思い出した。
 おそらく、城門を閉めさせたのは、甘音あまねとかいう里からやって来た忍びの仕業に違いない。
 ずっと信親に対して不遜ふそんな態度をとり続けていた生意気な女忍び。
(だが、こちらには御台所様より預かった資金で雇った雑兵たちが多数いる。それを知らないから、あの女忍びはこんなふざけた真似ができるのだろう)
 蔵ノ介がすでに清洲城内にいることを、信親はまだ知らない。
「全員そろったら、城を攻める。準備をするように皆に伝えてくれ」
 土田御前から預かった信行の兵が四百、近辺から金で集めた雑兵が五百、これが信親の手駒のすべてだったが、ほとんど守り手もおらず、戦の準備すら整えていない城に対しては十分に効力があるだろう。
(御台所様……吉報をお待ちください……)
 今度こそ、彼女の願いを叶えるために、信親は自身の持てる力をすべて出し切ろうと考えた。
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