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第三章

身代わり濃姫(50)

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 蔵ノ介の言葉を美夜みやは何とか理解しようとする。
 城門を閉めたということは、この城に危機が迫っているということでもあるのだろう。
 そして、その危機を作っているのが、城門の外にいる人間……つまり、信親のぶちかだということなのだろうか……。
「あの……蔵ノ介さん、今ってもしかして、すごく危険な状態なんですか?」
 美夜が不安になって聞いてみると、蔵ノ介は頷いた。
「危険といえば、危険です。ただ、城を落とすにはそれなりの準備と人数が必要です。そういう意味では、当面は安全ともいえます」
 蔵ノ介がそう答えれば、甘音あまねも笑う。
「ま、城には大量の備蓄もあるし。籠城ろうじょうしてりゃ、そのうち吉法師きっぽうしたちも戻ってくるだろうからな。問題はたぶん、それからだ」
 本当の問題は信長たちが戻って来てから……でも、とりあえず今の状況は美夜たちだけでしのがなければならないということなのだろうか。
「その……謀反むほんの者って……もしかして信親殿のことなんでしょうか?」
 確かめたくないと思うことだったが、理解しておく必要があると思って美夜が聞くと、蔵ノ介は再び頷いた。
「実は佐々木信親殿に関しては内偵ないてい中だったのです」
「内偵って……いったい何の疑いの?」
帰蝶きちょう様たちが美濃へ向かう途中に襲われた件のです」
 蔵ノ介の言葉に、美夜はまた驚いてしまう。
「でも、あの時信親殿は私たちと一緒にいて、敵と戦い、瀕死の重傷を負っています。あの人があの襲撃に関連しているとはとても思えませんが……」
 美夜にとって信親は、あの襲撃の時に命を賭して自分たちを逃がしてくれた恩人でもある。
 それに信親は信長の信頼する近習きんじゅうの一人だ。
 彼が裏切ることなどありえないと思いたいし、信長のためにも絶対にそんなことはあってほしくない。
 だけど、美夜の脳裏には、彼に対するこれまでの小さな違和感が浮かんできた。
 ひとつは美夜が天守に一人でいたときに、話しかけてきたことだ。甘音はあの時、普通は余計な誤解を避けるためにも、信長の正室である美夜が一人でいる時に、信親のような者は自分から話しかけることはしないと言っていたことを思い出した。
 あの時甘音は『信親は少し抜けているところがあるから』とその行動に理解を示していたようだが、もしもあれが、単にうっかりしていたなどという理由ではなく意図的なものなのだとしたら――。
 そしてもうひとつは、先ほどの少し強い出発への催促だった。信長の命もあるから催促をするのは分かるが、予想よりもそれが強かった気が、今となってはしてしまう。
「信親殿が、あの襲撃に関与しながらなぜあれだけの負傷をしたのかということに関しては、彼がそもそも生き残るつもりがなかったと考えれば、辻褄つじつまはあいます。さすがに運ばれてきたときのあの状態では助からないだろうと私も思いましたから」
 信親があの凄惨せいさんとも思える襲撃を知りながら美濃行きに同行したというのは、たとえ生き残るつもりが彼になかったのだとしても、美夜にはちょっと理解しづらい話だった。
「つまり、信親殿は最初から死ぬ覚悟であの襲撃をくわだてたということですか?」
「企てたのが信親殿かどうかははっきりしていません。ですが、彼の漏らした情報によって、襲撃が企まれたということは、ほぼ間違いないと考えられます」
「でも信親殿はどうしてそんなことを……」
「それは信親殿に直接聞くしかないでしょうが……彼の周辺を調べているうちに、いろいろと推測できることは見えてきました」
「それを……私にも教えてもらえますか?」
 美夜が聞くと、蔵ノ介は頷いた。
「実は信親殿のご実家である佐々木家に、信行様との繋がりがあることが判明しました」
「信親殿の実家と信行殿が……」
「はい。これは今回の内偵で、初めて明らかになった事実です」
 これまで信親の実家がノーマークだったのは、信親が信長の信頼する近習の一人だったということがあるのかもしれないと美夜は思った。
「信親殿の父である佐々木永益ささきながます殿は、今も表だって信行様を支持してはいません。ただ、永益殿の御正室がたびたび土田御前どたごぜん様に呼ばれ、そのもとを訪れているのが確認されています。永益殿の御正室は、かつて土田御前の侍女でした」
「や、ややこしいのね……」
 美夜は必死になって頭の中を整理する。
 要するに、表だっては永益も信親も信行に関わってはいないが、その妻のみが信行の母である土田御前と親しい仲にあるということになる、ということなのだろうか。だから、ひいては信行との繋がりも疑われる、と。
「信長様の廃嫡はいちゃくに関してもっとも固執こしゅうされておられるのは、信行様よりはむしろ土田御前様だと私は考えています。信行様には……言葉は悪いですが、おそらくそれだけの才覚はないかと思われます」
 蔵ノ介のその言葉を、美夜は何となく理解できる気がした。
 信行は自分に対してたいそうな自信を持ってはいるようだが、いつもどこかで詰めが甘いと感じてしまうところがある。
 確かに見た目は美しく、その態度も、おとなしくさえしていれば、信長よりは十倍も二十倍も行儀良く見え、当主には信行こそ相応しいと思う者がいても不思議ではないだろう。
 けれども、信行自身の力で織田家の中にある『信行派』とも呼ばれる派閥をまとめあげることができるとはとうてい思えない……ということは、何となく美夜も感じていた。
 そこには母親である土田御前の思惑や、信行をかついで織田家を自分たちの思い通りに動かしたい周囲の家臣たちの意思などがあり、そうしたものが『信行派』をまとめあげているといっても良いだろう。
「確かに……その話を聞けば、信親殿には信長様を裏切る理由があるようにも思えますけど……」
 どうやら蔵ノ介の中では、あの襲撃の首謀者は信行であると断定して話を進めているようだと美夜は感じた。
 その点に関しても、美夜は理解できる気がした。
 信行ならば……そして、信行を信長の代わりに当主として押し上げたい『信行派』の者たちならば、信長の正室である自分を襲うことには理由があるように思える。
 もしもあそこで『帰蝶きちょう』が傷ついたり死んだりしていたら、それを預かる信長は体面を失うし、何より美濃の斎藤道三を敵に回してしまう可能性もある。
 信長の廃嫡ということも、現実味を帯びてくるだろう。
「信親殿があの襲撃に何らかの関わりがあるのではと私が考える理由の二つ目には、信親殿の出自の問題があります」
「信親殿の出自?」
「はい。実は信親殿は亡くなられた平手政秀ひらてまさひで殿と市井しせいの女性との間に生まれた子なのです」
「政秀殿の子……」
 美夜が呟くと、蔵ノ介はさらに言葉を続けた。
「ただ、政秀殿は自分の子として正式な認知はしておられず、まだ信親殿が赤子の頃に、織田家の家臣の一人である佐々木永益殿のもとへ養子に出されました。だからこの事実も、今回の内偵を開始して初めて明らかになったことでした」
「だとしたら、政秀殿の自害も、もしかすると信親殿に何らかの関わりがあると考えられるのでしょうか?」
 美夜が聞くと、蔵ノ介はそうですね……と答えてさらに続ける。
「この件でもっとも謎だったのは、政秀殿がなぜ自害されたのかということでした。いくら調べても、その理由が見当たらない。当然、政秀殿にあの襲撃を企むこともできませんでした。しかし、もし政秀殿が信親殿の裏切りを知っていたとしたら……そして、一命を取り留めた信親殿が、さらなる行動を起こそうとしていることに気づいたなら……政秀殿の突然の自害にも理由が生まれます」
「つまり……信親殿をかばったということ……?」
「それもあるかもしれませんし、今回は自分が責任を取るから、もう余計なことするなという意思表示の可能性もあります。政秀殿が亡くなられていますから、本当のところは誰にも知るよしのないことではありますが」
 しかし、とりあえずあの襲撃と政秀の自害に関しては、これで結びつくということにはなる。
「そして、私が信親殿があの襲撃に関わっておられたと確信したのは、今日の裏切りです。信長様は帰蝶様を迎えに行けなどという命令は出しておりません」
「え? そうなの?」
 美夜が驚いて声を上げると、隣にいた甘音が頷いた。
「あたしもおかしいと思ったんだ。吉法師なら、どんなに自分の立ち場が悪くなっても、帰蝶をわざわざ危険な場所に呼んだりするわけねーだろーし」
 甘音の言葉を引き取って、蔵ノ介はさらに続ける。
「信長様から私に与えられた主命しゅめいは、できるだけ早く清洲きよす城に戻り、帰蝶様をお守りすることでした。そして、その主命は取り消されておりません。帰蝶様をお呼びになるのであれば、まずは私の主命を信長様は取り消されるはずです。だから、私への主命を取り消すよりも先に、信長様が信親殿に帰蝶様を迎えに行けなどという命令を出すはずがないのです」
 蔵ノ介が断言すると、甘音もまた頷いた。
「だから、信親があたしに兄者に伝えに行けって言った時点で、変だと思ったんだよ。吉法師なら、直接誰かに頼むなりして兄者に伝えるだろうからな」
「な、なるほど……じゃあ、甘音もあの時点で信親殿のことを疑っていたのね」
 そんなことに今さらながらに気づき、美夜は自分がとても鈍感なのではないかと落ち込んでしまいそうになる。
「まー……疑ってはいたけど……あたしじゃ、判断つかねーからさ。正直に言って、あたしにはちょっと手に負えないと思った。だから、すぐに兄者に確認しに行かねーとって考えたんだ」
「そうだったのね……ありがとう、甘音。甘音のおかげで、命拾いしたかも……」
 あの時の甘音にそんな葛藤があったことなど、美夜は想像もしなかった。
 早く信長のもとへ向かわなくてはと、気持ちがいていたせいもあるかもしれないが。
「まあ、兄者があたしのあげた狼煙のろしに気づいてすぐに里を出てくれたみたいで、半分も行かないうちにばったり出会って合流できたのも良かったかな」
「だから、戻ってくるのが早かったのね」
「そーゆーこと」
 甘音は少しだけ得意げに胸を張った。
「まあ、今回は甘音の判断が正しかったでしょう。贅沢を言えば、狼煙だけあげて帰蝶様の傍にいてくれるのが、もっとも良い方策だったのでしょうけど」
「そ……それは後になってちょっと思ったけど……でも、これはとてもあたしには対処できそうにない問題だし、早く兄者に報せないとって思って気が焦ってたんだ!」
「でも、結果的に一番良いことになったんだから、甘音は正しいことをしてくれたんだと思う。ありがとう」
 美夜が改めて礼を言うと、甘音はちょっと照れくさそうに笑った。
 美夜はふと、信長のことが気になった。
「信長様はこのことを知っておられるのですか? その……信親殿があの襲撃に関わっているかもしれないということを」
 美夜が聞くと、蔵ノ介は頷いた。
「もちろん、お伝えしました。主の意向を聞かず、勝手に内偵はできませんから」
「……ということは、信長様も納得されて、信親殿の内偵をしていたということなんでしょうか?」
「はい」
 きっぱりとそう答える蔵ノ介の言葉が、美夜にはどこか遠くでこだましているように聞こえた。
(ずっと信じて側に置いていた人に裏切られているかもしれないなんて……信長様はいったいどんな気持ちだったんだろう……)
 信長はこれまで、信頼できる者を慎重に選んで自分の傍に置いてきたはずだった。
 その中に裏切り者がいたなどと信長は知って、いったいどれほど傷ついただろう……。
 美夜は信長が驚くほどに繊細なところがあることも知っている。
 きっと、信親の裏切りの可能性を聞き、信長は酷く傷ついたに違いない。
 でも、美夜の前では、まったくそんなそぶりを見せることもなかったのだ。
 内偵中ということもあるから、美夜に余計な心配をかけないでおこうという気持ちが信長の中にはあったのだろうと美夜は思った。
「蔵ノ介さん、私はこれからどうすればいいですか?」
「相手の出方次第ですが、信長様へはすでにしらせを飛ばしています。じきに信長様が戻って来られるはずですので、それまで城を守ることです」
「お城を守る……でも、相手が何もしてこない可能性もありますよね?」
「ありますが、もしも事前にある程度の規模の兵を集めていれば、戦を仕掛けてくる可能性もまったくないとはいえません。相手もこの城の仕組みを知り尽くしていますから」
 確かに、城の仕組みを知り尽くしていれば、準備が完全に整っていなくても、戦を仕掛けてくる可能性はあるのだろう。
「蔵ノ介さん、お城を守るために、私にできることはありますか?」
 美夜の言葉に、蔵ノ介は頷いた。
「信長様がおられない以上、この清洲城の城主は、宰領さいりょうを任されておられる帰蝶様になります。形式的とはいえ、城に残った者たちに指示をだしていただく必要があります。それはたかが形式ですが、その主命によって、有事ゆうじとなれば城の者たちは皆、命を捨てます。その覚悟でおのぞみください」
 蔵ノ介の言葉に、美夜は気持ちが引き締まるのを感じた。
 信長はいつもこんな気持ちで戦に臨んでいたのかもしれない……と、美夜はわずかばかりではあるが、理解できた気がした。
「分かりました」
「城の者たちへの具体的な指示は私が出しますので、帰蝶様は主命として、命をして城を守れと毅然きぜんと伝えていただくだけで大丈夫です」
「はい」
 信長の代わりに主命を伝える……戦になるかも知れないこの状況で。
 それは美夜にとっては荷が勝つものではあったが、信長の妻として、彼の城を守るためにできることは何でもしようと美夜は思った。
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