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第二章
身代わり濃姫(46)
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翌日の村木砦での戦は、戦意喪失による敵兵の投降が相次いだため、ほとんど戦の体を成していなかった。
前日の敗戦も影響していたのだろうし、織田軍が全兵を配置し、その数に圧倒されたということもあったのだと思われる。
やがて、敵の総大将も投降してきたため、戦は終了した。
信長は総大将の首のみを求め、他の将兵たちの行動についてはすべて不問にするとの通達を出した。
そして、村木砦の事後処理をすべて緒川城の城主、水野金吾に任せると、自身は全軍を率いてそのまま寺本城へと向かった。
寺本城の兵たちのほとんどは、村木砦の戦いに駆り出されていたということもあって、城の制圧にはさほどの時間と手間はかからなかった。
ほぼ無血開城に近い状態で、信長たちは今回の遠征の目的であった寺本城を奪還した。
「では光秀。後のことは頼んだぞ」
「……はい……承知しました……」
寺本城での事後処理をすべて任され……いや、押しつけられた光秀は、引きつった笑みを浮かべつつも承諾した。
信長は半分の兵を寺本城の事後処理のために残し、残り半分を率いてあっという間に清洲へと引き上げていった。
「またしばらく眠れぬ日々が続くのですね……」
まるで嵐のように去って行った信長の残した軌跡をぼんやりと見つめながら、光秀は諦めたようにため息をつく。
どうせこうなることだろうと光秀は予想はしていたということもあったし、清洲城の防衛のことも考えれば、信長が一日も早く帰還することで、不穏な企みを抱く者たちを牽制することもできる。
だが、清洲を出発してからここまでがあまりにも怒濤の日々すぎたため、光秀の目の下にははっきりとした隈ができていた。
「とりあえず……仕事をするとしましょうか……」
戦に勝ったという感慨をに浸る余裕すらなく、光秀は戦後の処理に当たるのだった。
信長が戻ってくると聞かされた美夜は、早く城門まで迎えに行きたい気持ちを堪えつつ、到着までの時間を自分の部屋で過ごしていた。
(まだ夕方にもなっていないもの。戻ってくるのは夜っていっても、夜中になるかもしれないし……)
早くから城内や城門をうろうろして甘音に手間をかけさせるのも悪いと思い、美夜は信長の到着の報せが来るまで、部屋でおとなしくしていることにしたのだった。
「信長様のお帰りが待ち遠しゅうございますね」
美夜の心の中を見透かしたように、各務野が笑う。
「そうね……こんなに離れてたのって、結婚してから初めてかもだし……」
信長の清洲攻めの時でさえ、離れていたのは丸一日だった。
予定していたよりも大幅に早い帰還とはとはいえ、今回は六日も離れていたのだ。
ほぼ一日に一度の報告で、信長がまだ生きていると聞くたびに安堵してはいたが、それでも実際に生きて帰ってくると聞くまでは、気持ちがずっと張り詰めている状態だった。
「でも、信長様は予定よりも随分と早くお帰りです」
各務野の言葉に、美夜は微笑んで頷いた。
「そうね。それはすごく嬉しい」
「しっかし予定より四日も早いって、どんな戦をしてきたんだ、吉法師は……」
甘音は各務野が入れてくれたお茶を飲みながら、片手に清洲の城下で仕入れてきたという饅頭を手にして、交互に味わっている。
最初は各務野もその行儀の荒さに顔をしかめることもあったが、美夜が『好きにさせてあげて』と言っているので、今はもう気にもしていないようだった。
それよりも、武芸に秀でた者が美夜に付き添ってくれることの心強さのほうが、各務野の中では大きいようにみえる。
「戦勝の話はもう伝わってるから、清洲城下はすっかりお祭り騒ぎだったぜ。この饅頭も半額とか言って、安くなってたし」
「そ、そうなんだ……」
(この時代にも半額セールなんてものがあるのね……)
城の中にいては、城下の町の賑やかさまでは分からない。
美夜は甘音が買ってきてくれた饅頭を口に入れながら、信長と一緒に城下の町を歩いた日のことを思い出した。
(結局……デートらしいデートって……あれっきりしてないな……)
あの時買ってもらった髪飾りを、美夜は今日もつけていた。
この髪飾りは、大切な日にだけつけようと思っていたのに、結局ほとんど毎日つけているので、各務野に呆れられてしまっている。
(このお饅頭……ちゃんと美味しい……)
この時代に、こんなにちゃんとした饅頭が売られていることに、美夜は少し驚いた。
気持ちがそわそわして饅頭どころではないと思いつつも、出されるとつい食べてしまうのは、甘い物好きの女子の性なのかもしれない。
(信長様が本当に無事に帰ってくる……)
そう考えると、この六日間味気なかった食べ物の味も、ひときわ美味しく感じられるから不思議だ。
そんなふうにのんびりとお茶を飲みながら過ごしていると……。
「信長様、ご帰城――!!」
廊下からそんな声が聞こえて、美夜は思わず立ちあがっていた。
「え? 嘘だろ? まだ夕方だぜ?」
美夜の足は自然と動いて部屋を出ていた。
騒がしい声がするほうへと、美夜は駆けだして行く。
この先に信長がいる……。
廊下を城の外へ向かって走っていると、信長の姿が見えた。
美夜を見つけた信長が、真っ直ぐに駆け寄ってくる。
その腕に抱きしめられた時の安堵感は、これまでに経験したことのないものだった。
(本当に……信長様がいる……)
その温もりや、抱きしめてくれる力の強さが、美夜にこれが信長であることをようやく実感させてくれた。
「約束通り、そなたの笑顔を見に帰ってきたぞ」
信長は笑ってそう言ったが、美夜はそれどころではなかった。
これまで必死に強がって堪えていたものが崩れ、涙があふれ出して止まらなくなってしまう。
泣いている顔を見せれば、信長が困ってしまうと思うのに止められず、美夜はせめて顔を見られないようにと、信長の胸に顔を埋めることしかできなかった。
「心配をかけたな……」
信長はそう優しく囁くと、美夜が泣いていることを咎めたりはせずに、美夜の涙が止まるまで、ただ静かに抱きしめてくれた。
信長と藤吉郎と数名の近習たち以外の兵が清洲城に戻ってきたのは、信長の帰還よりさらに遅れて、外もすっかり暗くなってからのことだった。
途中まで信長は皆と一緒に馬を走らせていたのだが、だんだんその速度が速くなっていき、他の者たちは皆、置き去りにされてしまったのだという。
日頃から信長の馬の乗り方に慣れている近習数名と、もともと馬乗りが得意な藤吉郎だけが、必死に信長と併走し、何とか彼を守り切って清洲城に到着したということだったらしい。
そして今、城内では戦勝の宴が賑やかに開催されているが、美夜は城の奥の静かな部屋で、信長の看病にいそしんでいた。
信長との再会を果たしたそのすぐ後に、彼は倒れてしまい、侍医から風邪と疲労と睡眠不足の診断を受け、今は薬がよく効いて眠っているのだった。
(そりゃ疲れるわよね……)
清洲城まで信長と併走してきた藤吉郎も、城に信長が入ったのを確認して倒れたと聞き、今回の行軍がどれだけ大変なものだったのかを、美夜は思い知らされた気持ちだった。
(こうして看病するのって、信長様がお風呂で溺死しかけた時以来かな……あの時も確か、戦の後だっけ……)
美夜はあの時のことを懐かしく思い出す。
あの時はまだ、信長は美夜の秘密のことについて、何か気づいてはいたかもしれないが、知らない状態だった。
その後に起こったさまざまな出来事や、自分の気持ちの変化を思い起こすと、まだ一年も経っていないのに、まるで何年もこの世界で過ごしてきたかのように錯覚してしまう。
(信長様、今はあの時よりももっと辛そう……)
風呂で溺れたときは、のぼせの症状はあったものの、ぐっすりと眠っている状態だった。
しかし今は熱のせいもあるのだろうが、時折苦しそうに息を喘がせることがあって、美夜は胸が詰まりそうになる。
総大将として数千の兵をまとめ、戦を勝利に導くということは、並の胆力ではとてもできない。
信長も自分の持てる限りのものを出し尽くして戦に挑んだのだろうし、だからこそ、予定よりも四日も早く戻ってくることができたのだろう。
こうして倒れてしまったのは、それだけ無理を重ねたことの代償といえるのかもしれない。
(そういえば……私もこの間、信長様に看病してもらったんだっけ……)
美夜はそんなことも思い出した。
平手政秀の葬儀の後、美夜は風邪で倒れてしまい、目を覚ましたら信長が看病してくれていたので驚いたのだった。
後で各務野に聞いた話によると、信長のほうから、看病させて欲しいから方法を教えて欲しいと伝えて来たらしい。
あの時は信行のことがあったすぐ後で、信長は美夜に対してきつく当たったことを酷く後悔していたから、その罪滅ぼしと考えてくれていたのかもしれない。
額に当てた布を触ってみると、先ほど変えたばかりなのに、もう熱くなっている。
美夜はその布をとり、水桶で水に濡らして冷やし、再び信長の額に乗せた。
……と、その時、信長の腕が動いて、美夜の手を掴んだ。
信長を見てみると、目を開けていた。
「信長様? 起きていらっしゃったのですか?」
「今、起きたところだ……」
美夜の手を掴んだまま、信長は視線を向けて微笑んだ。
「良かった……もう泣いておらぬな……」
先ほどのことを言われ、美夜は申し訳ない気持ちになる。
美夜が泣くことは、信長にとってもっとも困ることだということを理解していたのに、止められなかった。
「すみません……ちゃんと約束通りに笑顔で出迎えようと思っていたんですけど……」
予想以上に信長の帰還が早かったこともあり、気持ちの準備がまったくできなかったという理由も、あったのかもしれない。
「いや……心細い思いをさせたのは分かっているから……気にしなくていい……」
「信長様……」
信長の優しい言葉に、美夜はまた胸がいっぱいになってくるのを感じたが、こみ上げてくるものは何とか堪えた。
病人を心配させるような真似は、したくなかった。
信長はまだ熱が高いせいか、少し苦しげな様子だ。
「とりあえず、寝てください。お医者様からも、絶対安静にさせるようにって言われていますから」
「そうだな……ここを出発してからは、ほとんど眠っていなかったからな……」
美夜の手を握りしめる信長の手は、とても熱い。
普段は寝込むというようなことがほとんどない人だから、今はいつもと違って、少し頼りなくも見える。
でもそうした姿を自分には見せてくれるのだと思うと、美夜は少し不謹慎ながらも、嬉しい気持ちにもなった。
「せっかく戻ってきたのに、そなたを抱いてやることもできぬとはな……」
信長が本当に悔しそうに言ので、美夜は思わず苦笑した。
「そんなことに気を遣わなくていいですから、さっさと寝てください。そもそも、戦で疲れて帰ってきたばかりの人に、抱いてもらおうなんて考えていません」
美夜がきっぱりとそう言うと、信長は拗ねたような顔をする。
「相変わらず、かわいげのない……」
「すみません、かわいげって何ですか? 私には理解できない言葉のようです」
「まったく……」
けだるそうに信長が言ったかと思うと、予想を超える強い力で身体が引き寄せられ、抱きしめられた。
「の、信長様……っ……」
すぐに信長は美夜に唇を重ねてくる。
(熱があるせいか……信長様の唇まで熱い……)
久しぶりの接吻に、美夜は喜びと興奮を感じつつも、信長の身体のことを考えると、早く離れたほうが良いように感じ、自分から離れようとしたのだが。
「まだ終わっておらぬ……」
信長は怒ったように言うと、再び強引に美夜の身体を抱き寄せ、先ほどよりも乱暴に唇を重ねてきた。
開いた唇の隙間から信長の舌がが入ってくると、美夜も諦めたようにそれを自分の舌で受け止めた。
舌と舌を絡め合う深い接吻を繰り返しながら、美夜はようやく信長が戻ってきたのだという実感がわいてくるのを感じた。
長い接吻を終えると、信長はそのまま美夜の身体を抱きしめる。
「今夜はこれが精一杯だ……」
「信長様が無事に戻ってきてくださっただけで、私は十分です……そして、今は信長様に早く寝て欲しいと心から思っています……」
「そうだな……あまりそなたに心配をかけるのも、俺の本意ではない……」
反省したようにそんなことを言う信長に、美夜は微笑んだ。
「元気になられたら、私のことを抱いてくださいね」
「ああ……分かった……」
信長は笑って、美夜の身体を抱きしめる手に、ぎゅっと力を込めた。
「そなたは抱き心地が良いな……」
「そ、そうですか?」
「ああ……このまま寝たい気持ちだ……」
「信長様がそうしたいなら……それでも構いませんけど……」
「なら……このまま寝る……」
信長はまた眠りに落ちていったようだった。
(やっぱり……こうして見ていると、普通の十六歳の男の子よね……)
信長に抱きしめられ、その顔を間近で見つめながら、美夜は思う。
眠っているときの信長の顔は無防備で、そして無垢で、少し幼く見える。
(でも、この信長様も嫌いじゃないかも……)
おそらく、この世の中で、美夜しか見ることのできないあどけない寝顔……。
そんな信長の寝顔を見ているうちに、美夜もいつの間にか眠ってしまっていたようだった。
前日の敗戦も影響していたのだろうし、織田軍が全兵を配置し、その数に圧倒されたということもあったのだと思われる。
やがて、敵の総大将も投降してきたため、戦は終了した。
信長は総大将の首のみを求め、他の将兵たちの行動についてはすべて不問にするとの通達を出した。
そして、村木砦の事後処理をすべて緒川城の城主、水野金吾に任せると、自身は全軍を率いてそのまま寺本城へと向かった。
寺本城の兵たちのほとんどは、村木砦の戦いに駆り出されていたということもあって、城の制圧にはさほどの時間と手間はかからなかった。
ほぼ無血開城に近い状態で、信長たちは今回の遠征の目的であった寺本城を奪還した。
「では光秀。後のことは頼んだぞ」
「……はい……承知しました……」
寺本城での事後処理をすべて任され……いや、押しつけられた光秀は、引きつった笑みを浮かべつつも承諾した。
信長は半分の兵を寺本城の事後処理のために残し、残り半分を率いてあっという間に清洲へと引き上げていった。
「またしばらく眠れぬ日々が続くのですね……」
まるで嵐のように去って行った信長の残した軌跡をぼんやりと見つめながら、光秀は諦めたようにため息をつく。
どうせこうなることだろうと光秀は予想はしていたということもあったし、清洲城の防衛のことも考えれば、信長が一日も早く帰還することで、不穏な企みを抱く者たちを牽制することもできる。
だが、清洲を出発してからここまでがあまりにも怒濤の日々すぎたため、光秀の目の下にははっきりとした隈ができていた。
「とりあえず……仕事をするとしましょうか……」
戦に勝ったという感慨をに浸る余裕すらなく、光秀は戦後の処理に当たるのだった。
信長が戻ってくると聞かされた美夜は、早く城門まで迎えに行きたい気持ちを堪えつつ、到着までの時間を自分の部屋で過ごしていた。
(まだ夕方にもなっていないもの。戻ってくるのは夜っていっても、夜中になるかもしれないし……)
早くから城内や城門をうろうろして甘音に手間をかけさせるのも悪いと思い、美夜は信長の到着の報せが来るまで、部屋でおとなしくしていることにしたのだった。
「信長様のお帰りが待ち遠しゅうございますね」
美夜の心の中を見透かしたように、各務野が笑う。
「そうね……こんなに離れてたのって、結婚してから初めてかもだし……」
信長の清洲攻めの時でさえ、離れていたのは丸一日だった。
予定していたよりも大幅に早い帰還とはとはいえ、今回は六日も離れていたのだ。
ほぼ一日に一度の報告で、信長がまだ生きていると聞くたびに安堵してはいたが、それでも実際に生きて帰ってくると聞くまでは、気持ちがずっと張り詰めている状態だった。
「でも、信長様は予定よりも随分と早くお帰りです」
各務野の言葉に、美夜は微笑んで頷いた。
「そうね。それはすごく嬉しい」
「しっかし予定より四日も早いって、どんな戦をしてきたんだ、吉法師は……」
甘音は各務野が入れてくれたお茶を飲みながら、片手に清洲の城下で仕入れてきたという饅頭を手にして、交互に味わっている。
最初は各務野もその行儀の荒さに顔をしかめることもあったが、美夜が『好きにさせてあげて』と言っているので、今はもう気にもしていないようだった。
それよりも、武芸に秀でた者が美夜に付き添ってくれることの心強さのほうが、各務野の中では大きいようにみえる。
「戦勝の話はもう伝わってるから、清洲城下はすっかりお祭り騒ぎだったぜ。この饅頭も半額とか言って、安くなってたし」
「そ、そうなんだ……」
(この時代にも半額セールなんてものがあるのね……)
城の中にいては、城下の町の賑やかさまでは分からない。
美夜は甘音が買ってきてくれた饅頭を口に入れながら、信長と一緒に城下の町を歩いた日のことを思い出した。
(結局……デートらしいデートって……あれっきりしてないな……)
あの時買ってもらった髪飾りを、美夜は今日もつけていた。
この髪飾りは、大切な日にだけつけようと思っていたのに、結局ほとんど毎日つけているので、各務野に呆れられてしまっている。
(このお饅頭……ちゃんと美味しい……)
この時代に、こんなにちゃんとした饅頭が売られていることに、美夜は少し驚いた。
気持ちがそわそわして饅頭どころではないと思いつつも、出されるとつい食べてしまうのは、甘い物好きの女子の性なのかもしれない。
(信長様が本当に無事に帰ってくる……)
そう考えると、この六日間味気なかった食べ物の味も、ひときわ美味しく感じられるから不思議だ。
そんなふうにのんびりとお茶を飲みながら過ごしていると……。
「信長様、ご帰城――!!」
廊下からそんな声が聞こえて、美夜は思わず立ちあがっていた。
「え? 嘘だろ? まだ夕方だぜ?」
美夜の足は自然と動いて部屋を出ていた。
騒がしい声がするほうへと、美夜は駆けだして行く。
この先に信長がいる……。
廊下を城の外へ向かって走っていると、信長の姿が見えた。
美夜を見つけた信長が、真っ直ぐに駆け寄ってくる。
その腕に抱きしめられた時の安堵感は、これまでに経験したことのないものだった。
(本当に……信長様がいる……)
その温もりや、抱きしめてくれる力の強さが、美夜にこれが信長であることをようやく実感させてくれた。
「約束通り、そなたの笑顔を見に帰ってきたぞ」
信長は笑ってそう言ったが、美夜はそれどころではなかった。
これまで必死に強がって堪えていたものが崩れ、涙があふれ出して止まらなくなってしまう。
泣いている顔を見せれば、信長が困ってしまうと思うのに止められず、美夜はせめて顔を見られないようにと、信長の胸に顔を埋めることしかできなかった。
「心配をかけたな……」
信長はそう優しく囁くと、美夜が泣いていることを咎めたりはせずに、美夜の涙が止まるまで、ただ静かに抱きしめてくれた。
信長と藤吉郎と数名の近習たち以外の兵が清洲城に戻ってきたのは、信長の帰還よりさらに遅れて、外もすっかり暗くなってからのことだった。
途中まで信長は皆と一緒に馬を走らせていたのだが、だんだんその速度が速くなっていき、他の者たちは皆、置き去りにされてしまったのだという。
日頃から信長の馬の乗り方に慣れている近習数名と、もともと馬乗りが得意な藤吉郎だけが、必死に信長と併走し、何とか彼を守り切って清洲城に到着したということだったらしい。
そして今、城内では戦勝の宴が賑やかに開催されているが、美夜は城の奥の静かな部屋で、信長の看病にいそしんでいた。
信長との再会を果たしたそのすぐ後に、彼は倒れてしまい、侍医から風邪と疲労と睡眠不足の診断を受け、今は薬がよく効いて眠っているのだった。
(そりゃ疲れるわよね……)
清洲城まで信長と併走してきた藤吉郎も、城に信長が入ったのを確認して倒れたと聞き、今回の行軍がどれだけ大変なものだったのかを、美夜は思い知らされた気持ちだった。
(こうして看病するのって、信長様がお風呂で溺死しかけた時以来かな……あの時も確か、戦の後だっけ……)
美夜はあの時のことを懐かしく思い出す。
あの時はまだ、信長は美夜の秘密のことについて、何か気づいてはいたかもしれないが、知らない状態だった。
その後に起こったさまざまな出来事や、自分の気持ちの変化を思い起こすと、まだ一年も経っていないのに、まるで何年もこの世界で過ごしてきたかのように錯覚してしまう。
(信長様、今はあの時よりももっと辛そう……)
風呂で溺れたときは、のぼせの症状はあったものの、ぐっすりと眠っている状態だった。
しかし今は熱のせいもあるのだろうが、時折苦しそうに息を喘がせることがあって、美夜は胸が詰まりそうになる。
総大将として数千の兵をまとめ、戦を勝利に導くということは、並の胆力ではとてもできない。
信長も自分の持てる限りのものを出し尽くして戦に挑んだのだろうし、だからこそ、予定よりも四日も早く戻ってくることができたのだろう。
こうして倒れてしまったのは、それだけ無理を重ねたことの代償といえるのかもしれない。
(そういえば……私もこの間、信長様に看病してもらったんだっけ……)
美夜はそんなことも思い出した。
平手政秀の葬儀の後、美夜は風邪で倒れてしまい、目を覚ましたら信長が看病してくれていたので驚いたのだった。
後で各務野に聞いた話によると、信長のほうから、看病させて欲しいから方法を教えて欲しいと伝えて来たらしい。
あの時は信行のことがあったすぐ後で、信長は美夜に対してきつく当たったことを酷く後悔していたから、その罪滅ぼしと考えてくれていたのかもしれない。
額に当てた布を触ってみると、先ほど変えたばかりなのに、もう熱くなっている。
美夜はその布をとり、水桶で水に濡らして冷やし、再び信長の額に乗せた。
……と、その時、信長の腕が動いて、美夜の手を掴んだ。
信長を見てみると、目を開けていた。
「信長様? 起きていらっしゃったのですか?」
「今、起きたところだ……」
美夜の手を掴んだまま、信長は視線を向けて微笑んだ。
「良かった……もう泣いておらぬな……」
先ほどのことを言われ、美夜は申し訳ない気持ちになる。
美夜が泣くことは、信長にとってもっとも困ることだということを理解していたのに、止められなかった。
「すみません……ちゃんと約束通りに笑顔で出迎えようと思っていたんですけど……」
予想以上に信長の帰還が早かったこともあり、気持ちの準備がまったくできなかったという理由も、あったのかもしれない。
「いや……心細い思いをさせたのは分かっているから……気にしなくていい……」
「信長様……」
信長の優しい言葉に、美夜はまた胸がいっぱいになってくるのを感じたが、こみ上げてくるものは何とか堪えた。
病人を心配させるような真似は、したくなかった。
信長はまだ熱が高いせいか、少し苦しげな様子だ。
「とりあえず、寝てください。お医者様からも、絶対安静にさせるようにって言われていますから」
「そうだな……ここを出発してからは、ほとんど眠っていなかったからな……」
美夜の手を握りしめる信長の手は、とても熱い。
普段は寝込むというようなことがほとんどない人だから、今はいつもと違って、少し頼りなくも見える。
でもそうした姿を自分には見せてくれるのだと思うと、美夜は少し不謹慎ながらも、嬉しい気持ちにもなった。
「せっかく戻ってきたのに、そなたを抱いてやることもできぬとはな……」
信長が本当に悔しそうに言ので、美夜は思わず苦笑した。
「そんなことに気を遣わなくていいですから、さっさと寝てください。そもそも、戦で疲れて帰ってきたばかりの人に、抱いてもらおうなんて考えていません」
美夜がきっぱりとそう言うと、信長は拗ねたような顔をする。
「相変わらず、かわいげのない……」
「すみません、かわいげって何ですか? 私には理解できない言葉のようです」
「まったく……」
けだるそうに信長が言ったかと思うと、予想を超える強い力で身体が引き寄せられ、抱きしめられた。
「の、信長様……っ……」
すぐに信長は美夜に唇を重ねてくる。
(熱があるせいか……信長様の唇まで熱い……)
久しぶりの接吻に、美夜は喜びと興奮を感じつつも、信長の身体のことを考えると、早く離れたほうが良いように感じ、自分から離れようとしたのだが。
「まだ終わっておらぬ……」
信長は怒ったように言うと、再び強引に美夜の身体を抱き寄せ、先ほどよりも乱暴に唇を重ねてきた。
開いた唇の隙間から信長の舌がが入ってくると、美夜も諦めたようにそれを自分の舌で受け止めた。
舌と舌を絡め合う深い接吻を繰り返しながら、美夜はようやく信長が戻ってきたのだという実感がわいてくるのを感じた。
長い接吻を終えると、信長はそのまま美夜の身体を抱きしめる。
「今夜はこれが精一杯だ……」
「信長様が無事に戻ってきてくださっただけで、私は十分です……そして、今は信長様に早く寝て欲しいと心から思っています……」
「そうだな……あまりそなたに心配をかけるのも、俺の本意ではない……」
反省したようにそんなことを言う信長に、美夜は微笑んだ。
「元気になられたら、私のことを抱いてくださいね」
「ああ……分かった……」
信長は笑って、美夜の身体を抱きしめる手に、ぎゅっと力を込めた。
「そなたは抱き心地が良いな……」
「そ、そうですか?」
「ああ……このまま寝たい気持ちだ……」
「信長様がそうしたいなら……それでも構いませんけど……」
「なら……このまま寝る……」
信長はまた眠りに落ちていったようだった。
(やっぱり……こうして見ていると、普通の十六歳の男の子よね……)
信長に抱きしめられ、その顔を間近で見つめながら、美夜は思う。
眠っているときの信長の顔は無防備で、そして無垢で、少し幼く見える。
(でも、この信長様も嫌いじゃないかも……)
おそらく、この世の中で、美夜しか見ることのできないあどけない寝顔……。
そんな信長の寝顔を見ているうちに、美夜もいつの間にか眠ってしまっていたようだった。
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