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第二章

身代わり濃姫(45)

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 織田軍と村木砦むらきとりでの間には、材木をかき集めて作られた奇妙な柵が横に長く設けられていた。
 いったいそれが何のためのものなのか、村木砦に待機する今川軍の兵たちにはよく分からなかった。
 だから、長い柵を指さして、今川の兵たちは口々に揶揄していた。
「あんな柵で俺たちを防御するつもりか?」
「織田の総大将は阿呆あほうか」
「尾張の大うつけと聞いておるぞ」
 この時、今川の兵たちはまだ笑い合える余裕があった。
 それは、信長たちの戦略も、そして正確な兵の数も把握していないからこその余裕だといえるだろう。
 信長はこの戦場に、すべての兵を連れてきてはいなかった。
 上陸時が荒天だったこともあり、今川の側もそのことは把握できていない。
 おそらく、この先に起こる凄惨な結果を知っていたなら、彼らは皆、笑うよりも先に逃げ出していただろう。
 いよいよ戦が開戦すると、今川の兵たちはさらに首をかしげざるを得なかった。
 織田軍の動きがどうも妙だ。
 こちらへ攻撃を仕掛けてきたかと思うと、あまり粘ろうとはせずにあっさりと引き返す。
 こちらが優勢なのには違いないのだろうが、どうにも手応えがなかった。
 今川の指揮官は最初のうちは慎重になっていたが、だんだん余裕が出てきた。
 気がつけば、織田軍が布陣するかなり深いところまで、今川軍は進軍してきた。
「どうしますか? やはり相手は少なそうですし、一気にやってしまえば勝てそうな気はしますが」
「いや、もう少し待て。何か方策を考えているのかもしれぬ」
 指揮官はさらに慎重に様子を見守ったが、やはり織田軍の動きは精彩を欠いているようにみえた。
 ようやくしびれを切らした指揮官が一斉突撃の指示を出したときに、奇妙な柵の意味を彼らは初めて知ることになった。
 柵に近づいた兵たちが、ばたばたと倒れていく。
 周囲に広がる火薬の匂いで、それが鉄砲によるものだと今川の兵たちは気づいた。
 だが、まさか数百の数の鉄砲があるなどとの予測まではできず、兵たちはとにかく突撃の命令のまま柵に近づこうとする。
 射程距離に入った兵たちは次々に鉄砲の弾に撃たれ、倒れていった。
 一方的ともいえる殺戮が続き、今川の指揮官がようやく事態の異常に気づいて撤退の合図を出したときには、兵の数は半数にまで減っていた。

 信長は本陣ほんじんからその様子を見ていたが、撤退していく敵の様子を見て自軍の兵たちにも撤退を命じた。
「ひとまず今回の策は成功したようですね」
 光秀の言葉に、信長も頷いた。
「しかし、残り半分の兵にはこの策は使えまい。後は力で押し切るしかない」
「はい。ですが、半分をこちらはほとんど無傷で削り終えることができましたから、想定していたよりも有利に戦いを進めることができるはずです」
「そうだな。まあ、戦う前に降伏してくれるのがもっともありがたいが、向こうもそう簡単に降ってくることはしまい」
 しかし、心理的な側面からいっても、今日勝利したということは大きい。
 おそらくこの戦は勝てるであろうと信長は確信した。
「やはりこれからの戦は鉄砲だということが、今回の戦でよく分かった。それがもっとも大きな収穫だ」
 今回の戦に鉄砲を使えないかと提案したのは信長だった。
 それを伝えたとき、光秀は少し驚いたような顔をしたものの、すぐに策を練り直し、この地形で有効な、鉄砲を使った戦術を考えて提案した。
 さらにそれを信長とともに練り直したのが今回の作戦だった。
「次回はもう少し長く戦える策を考えねばならぬな」
「はい。今回の結果をよく検討して、さらに効率の良い策を練り直してみます」
「残りは千といったところか。こちらも明日は全兵を投入して一気に片を付ける」
「承知いたしました。そのように指示を出してきます」
 一礼して光秀が下がると、信長は軽く息を吐いた。
(今川の者らはさぞ俺が憎いであろうな……)
 正々堂々とした戦いを好む者たちからすれば、まるでだまし討ちのような鉄砲を使った策は、許しがたいものかもしれない。
 しかし、いくら正々堂々と戦ったところで、戦は勝たねば意味がない。
 そして信長には明確な予感があった。
 これからは鉄砲が戦の戦術として重要視されるようになるだろうと。
 信長がやらなくても、いずれ誰かがやる。
 ならば、真っ先にそれをやってやろうと考えたのだ。
「殿、お茶をお持ちしました」
「ああ、藤吉郎か。ご苦労」
「いえ。あの、犬千代いぬちよがそこに参っておりますが、呼んできてもよろしゅうございますか?」
 藤吉郎が遠慮がちに聞いてくるので、信長は笑った。
「呼んでこい。あやつももうたっぷりと反省し終えた頃であろう」
「はい! ではすぐに呼んで参りまする!」
 藤吉郎は満面の笑みを浮かべ、軽々とした足取りで駆けだして行った。
(藤吉郎は仲間想いの良いやつだな……)
 信長は藤吉郎の様子を微笑ましく思った。
 昨日信長は、犬千代を一切傍には近づけず、声もかけなかった。
 今日の戦では小姓たちは全員後方支援に回してあるから、当然、本陣にいる信長と会話する機会はない。
 丸一日以上も無視されているような状態では、さすがにあの犬千代も反省しただろうと信長は思い、少しおかしくなってきた。
「信長様、昨日は本当に申し訳ありませんでした!」
 かなり灸が効いたとみえて、犬千代はこれまでに見たことがないほどの殊勝しゅしょうな顔で、信長に謝罪した。
「もう良い。そなたの命が助かって良かった。藤吉郎に感謝するように」
「はい! ありがとうございます!」
 どうやら自分は許されたのだと理解して、犬千代の顔にもいつもの笑顔が戻った。
「まあ、そなたに俺は一度命を救われておるからな」
「あ……お風呂でのことですか?」
 その時の様子をまた聞きでしか知らない藤吉郎が、すぐに察して信長に聞いた。
「そうだ。戦で疲れておったせいで、風呂で眠ってしまったのだが……そこからの記憶がない……」
 犬千代もまた、その時の様子を思い出して苦笑する。
「あの時は本当に肝が冷えました。信長様がお風呂から出た痕跡がないのに、中を覗いてみたら、信長様の姿がないのですから……」
「それはびっくりするでしょうね……」
 犬千代はこくこくと頷く。
「そして、湯船を見てさらに驚きました。信長様が沈んでおられたので……」
 犬千代の言葉を聞いて、藤吉郎は目を丸くする。
「それはまた……大変な経験をされたのですね……」
「はい。それで慌てて信長様のお身体を引き上げたのですが、生きているのか死んでいるのか分からず、とりあえず大声をあげて人を呼んだのです。だから城中、大騒ぎになってしまって……」
 信長も当時を思い出して、ばつが悪そうな顔をした。
帰蝶きちょうは最初、俺が死んだと聞かされたらしい……」
 信長は、目を覚ますと美夜みやに看病をされていたことを思い出した。
 そして、自分が風呂で溺れかけたという事実を聞かされたことよりも、美夜が泣き出してしまったことに慌てた。
「それは帰蝶様も身が凍えるような思いをなされたのでしょうね……」
「ああ……さすがに俺も反省した」
(反省――!?)
 二人は同時に同じことを思った。
 藤吉郎も犬千代も、まるで奇妙なものでも見たような顔をしているので、信長が怪訝そうな顔をする。
「ん? どうした?」
 二人は慌てて同時に首を横に振った。
「え、いえ……何でもありません」
「はい、何でもないです」
(やはり、帰蝶様が関わるときだけ、信長様は皆の知っている信長様ではなくなるのですね)
 藤吉郎はそう思い、微笑ましさと同時に、少しの危うさも感じたのだった。

 慌ただしく将兵たちに明日の戦の指示をだしながら、光秀は雪春のことを思い出していた。
(雪春殿は、いずれ信長様が鉄砲を使った戦術を確立すると断言していました。そして、それは現実のものとなりました)
 その話を初めて雪春から聞いたときは、光秀は信じられない気持ちだった。
 ただ、光秀自身も、雪春の話を聞いてから、鉄砲を戦で効率的に使うにはどうすれば良いのかということを常に考えてはいた。
 しかし、まさかこんなに早く信長のほうから提案してくるとは思いもしなかったのだ。
(気がつけば、戦に使えるほどの鉄砲も集めてしまわれていたし、その使い手の育成もされていた……)
 信長はかなり以前から、鉄砲を戦に用いることを考えていたに違いないと光秀は確信していた。
(そういえば、雪春殿は鷺山さぎやま城を出られたということですが、いったい今はどこにおられるのやら……)
 その報告は光秀もすでに道三から聞いている。
 現状、道三も雪春たちの行方を把握することはできていないのだという。
 美濃のほうから光秀には、『雪春と面識のある光秀に何らかの連絡がいくかもしれぬから、その時はすぐに道三にもしらせるように』と言われている。
 もちろん情報があれば光秀も報せるつもりではあるが、生憎とまったくそうした情報のあては、今のところ光秀にはなかった。
(できればまた、雪春殿とゆっくり話すことができる日が来れば良いのですが……)
 雪春は鷺山城で光秀に、『信長も光秀も、ともに天下の統一をほぼ手中に収めるところまでのぼりつめるだろう』と言った。
 しかし、天下を統一したとは言わなかった。
 いったい何が原因で、自分と信長は天下を取ることができなかったのか……。
 次に雪春に会った時は、ぜひその話を聞いてみたいと、光秀は思うのだった。

「それは無理ですな」
 呪術師の文観もんかんに即答に近い形で返答され、道三は顔をしかめる。
「おぬしの呪術でもどうにもならぬのか?」
「帰蝶様の時にあの娘をぶことができたのは、帰蝶様のご遺体があったからです。あの男の遺体があるのならともかく、何もないでは喚ぶことはできません」
 道三が文観を呼び出して聞いているのは、行方知れずになった美夜の兄、雪春を呼び戻す方法だった。
 しかしどうやら、文観には、帰蝶の時のような奇策はないらしい。
「ふむ……では、あの男を捜すための何か良い方策はないか?」
 道三は文観への問いを変えてみる。
「何かあの男が使っていたものなどがあれば、おおよその位置を調べることはできますが、しかし、かなり曖昧な情報しか得られぬ可能性もあります」
「それでも構わぬ。やってみろ」
 道三は家臣に命じて、雪春の部屋に残っていたものを持ってこさせた。
 文観はしばらくの間、それらのものに触れたり、考え事をするように目を閉じたりしていたが、やがてため息を吐き出した。
「残っている思念が薄すぎて、あまりはっきりしたことは分かりませんでした。ただ、港がえました」
「港か。どこの港か特定はできるのか? 西か、東か」
「申し訳ありませんが、そこまでは」
「まあ、良い。それしか情報がないのであれば、ひとまず港を中心に探していくしかあるまい」
 そう言ってため息をつく道三に、文観は首をかしげる。
「しかし、信長と私の喚んだ帰蝶は仲むつまじくやっているのでしょう? その兄をそこまで目くじら立てて探す必要もないのでは?」
「万が一ということもある」
 道三の言葉に、文観は苦笑する。
「まあ、それはそうでしょうね」
「おぬしも何か分かれば、わしに報せよ」
「はい。承知いたしました。では、私はこれで……」
 文観はそう告げると、すっと煙が消えるように静かに立ち去って行った。
「相変わらず、不気味な男よ」
 道三もこうして文観を呼び出すことはできるものの、いつでもというわけではなかった。
 そもそも彼の正体も、どこに住んでいるのかも、道三はよくは知らない。
 そして、もっとも不可解なのは、彼の年齢についてだった。
(儂がまだ若い頃に初めてうた時から、あの男の見た目はほとんど変わっておらぬ……)
 もしも見た目の通りの年齢なのだとしたら、今もまだ生きていることが不思議であるし、あの当時に道三と同じぐらいの年齢なのだとしたら、年齢の割にあまりにも老け込んでいたということになる。
 道三が文観と初めて出会ったのは、道三が法連坊ほうれんぼうと名乗り、京の寺で僧侶をしていた頃のことだった。
 文観は道三を見るなり、『あなたに僧侶は向きませんな』と言ってきた。
 道三は何か感じるものがあり、あっさり還俗げんぞくして油問屋の娘を娶り、商人となった。
 その後、しばらくしてまた文観と出会う機会があり、『あなたに商人は向きませんな』と言われ、『では何なら向くのだ?』と問うと『武士におなりなさい。貴方は美濃を手に入れることができる』と言われた。
 その後は文観の言ったとおりになった。
 道三自身が、自分に暗示をかけていたようなものだったのかもしれないが、ともかく道三は文観の言った通り、美濃を手に入れた。
 しかし、番狂わせが起こった。
 隣国である尾張おわりの織田信秀が、意外なほどに美濃を脅かしてきた。
 信秀との度重なる戦で、大国であるはずの美濃が疲弊し始めた。
 道三は危惧を抱き、一人娘である帰蝶を、信秀の長男である信長に嫁がせることにした。
 それで万事は解決したと思ったが、帰蝶はいた男と心中し、亡き者となってしまった。
 ここで帰蝶を嫁がせることができないとなると、織田家のみならず、他の隣国への示しもつかない。
 それどころか、怒った信秀がいったいどのような手に出てくるのかという不安もあった。
 他の娘をやろうにも、信秀はしつこいほどに帰蝶を求めてきたし、帰蝶の顔もすでに見られている。
 道三は窮し、文観を呼び出して相談した。
 帰蝶の遺体があるのなら、何とかなるという話を信じ、道三は帰蝶の遺体を掘り起こさせた。
 そして、帰蝶とうり二つの娘を喚び出させることに成功したのだった。
 しかし、喚び出されてやってきたのは、娘だけではなかった。
 その兄もともにここへ喚ばれてきてしまったのだ。
 ただ、兄が共に喚ばれたことは、悪いことばかりではなかった。
 兄がいたおかげで娘はおとなしく信長のもとへ嫁ぎ、今も尾張と美濃の関係は良好のままになっている。
 そして、今の道三が恐れているのは、もしも兄がここにいないということが分かれば、あの肝の据わった娘が信長に何か言い出さないとも限らない、ということだった。
(やはり探し出さねばならぬな……)
 道三はそう考え、事情を知る家臣たちを呼び集め、各地の港を集中的に捜索するように命じた。
(文観は儂に、美濃を手に入れるだろうと言った。そして、その通りに手に入れた。しかし、その後の話は聞いていなかったな……)
 道三は、ふとそんなことを考えたのだった。
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