身代わり濃姫~若き織田信長と高校生ヒロインが、結婚してから恋に落ちる物語~

梵天丸

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第二章

身代わり濃姫(43)

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 その日の払暁ふつぎょう、信長は荒れ狂う海をにらみ付けていた。
 光秀がそばに来ていることも気づかないほどだったので、彼は少し遠慮がちに声をかけた。
「信長様、今日はやめておきますか? 船頭せんどうたちは今日だけはした方が良いと言っておりますが」
 光秀の言葉を聞いても、信長はしばらくじっと海を睨み付けていたが、やがて口を開いた。
「いや、今日出発する。皆に出航の支度を指示せよ」
「かなり危険な航海になるかと思われますが」
「だからこそだ。こんな日に海を渡って大軍がやって来るとは向こうも思わぬだろう」
「それはそうですが」
「それに、清洲きよすを長く留守にするわけにもいかぬ。これを好機と狙ってくる輩も、いるであろうからな」
「ええ、今清洲を奪われてしまえば、元も子もありませんからね」
「そういうことだ。指示を頼む、光秀」
「はい。承知いたしました」
 信長の意思を確認して、光秀は頷き、信長の前から下がる。
 信長が毅然きぜんとして今日の出陣の指示を出したことに、光秀は内心で安堵していた。
 光秀もまた、今日でなくてはならないという気持ちであったからだ。
 ただ、自分から進言するには、あまりにも酷な海の状況だったので、信長が決断するかどうかということに対して、光秀は多少の危惧を抱いていた。
 そもそも、この策も攻める城も、すべて光秀が考案したものだ。
 この策のもっとも重要なところは、敵に気づかれる前に、海を越えて大軍を目的の場所へと到着させることにある。
(ここで決断できぬ主ならば、とても天下を狙うことはできまい……)
 光秀はそう考えていたが、やはり信長は信長だった。
 船はある程度頑丈なものを用意してはあるものの、犠牲が出ないとは言い切れない。
 ただ、日にちをずらして安全に航海したとして、敵にこちらの動きが悟られてしまえば、もっと多くの犠牲が出る可能性が高い。
 そして、清洲を留守にする時間が延びれば、清洲での犠牲も、勘定に入れなければならないことになる。
 そこまで光秀が丁寧に説明しなかったのは、ある意味で信長を試していたところもあったということだった。
(この戦で勝てば、尾張おわり平定へいていも手の届く範囲になりますからね)
 天下統一をめざす過程の中で、尾張の平定はまだその始まりに過ぎない。
 けれども、それは光秀にとっても、そして信長にとっても、大きな一歩になることは間違いなかった。

 光秀が去って行っても、信長はまだ海を睨み付けていた。
(たぶん……この戦いで多くの者が死ぬだろう……皆、織田のために、俺のために死んでいく……)
 それが分かっていても、前に進まなければならないのは、彼が織田という大名家の嫡子ちゃくしであり、今が戦国時代だからだ。
 彼が生き残るためにも、そして織田家につかえる者たちが生き残るためにも、戦いは避けて通れない。
 しかし、戦というものはそういうものだと分かってはいても、信長は決して慣れることはできなかった。
 口に出してそれを言うことは彼の立場上、決して許されないことではあるが。
(だが、死ぬ者の数を減らすことはできるはずだ。そのためには戦に勝たねばならぬ。勝って俺が生き残ることが、もっとも死ぬ者の数を減らすための方法……)
 たとえ戦に勝ったとしても、信長が討たれれば、その後の家中の者たちの悲劇は目に見えている。
 今、信長についてるということは、信長にもしものことがあった時に敵対することになる信行とは対岸にいるということ。
 信長が死ねば、信行が織田の跡取りとなる。
 そうなったら、今信長に仕えている者たちは皆、功名はおろか、日々の生活すらままならない状況になるに違いない。
 織田の嫡子である自分を正しく支持してくれている者たちを、信長は路頭に迷わせるわけにはいかなかった。
(それに俺は美夜に必ず戻ると約束した。この戦……俺は絶対に負けるわけにはいかぬ)
 一人でも多くの者を生かし、自分も生きて返ること……それが今の信長に科せられた役割だと改めて確認する。
 そこを見失えば、感情に流され、判断を誤る。
「信長様、出航の準備が整いました」
「よし、皆覚悟して乗り込め! 船は揺れるぞ!」
 信長が号令すると、数千の兵たちが一斉に、この日のために急遽建造された船に分かれて乗り込んでいく。
 船は数十隻にもなり、大波に揺られながら知多半島を東へと進んでいった――。

 天守の格子窓の隙間からも、寒風が容赦なく入ってきて、美夜は腕で風邪をよけながら、何とか窓に近づこうとする。
「か、風が……すごい……しかも寒い……」
 美夜はその風に吹き飛ばされないように気をつけながら、ようやく格子窓のそばにたどり着き、外を見た。
 美夜がいるのは、もっと暖かい時期に、信長に連れてきてもらったことのある天守閣の上のほうにある場所だ。
 天気の良い昼間には、ここから海が見えたのだが……今日はまだ夜明け前で外は暗く、景色はとても望めそうにない。
 清洲に来て、夜に寝る間もないほど忙しい時だったのに、信長が美夜をここへ連れてきてくれた日のことを思い出す。
(あの時はまだ、信長様は私のことを帰蝶きちょうと呼んでいたのよね……)
 そんな懐かしく、少し胸の痛くなるような日々も、もう遠い昔のことのようにも感じられてしまう。
 信長はいつも美夜のことを気遣ってくれる。
 美夜も信長ほどに彼を気遣いたいと思っても、なかなか及ぶものではなかった。
 それぐらい、美夜はいつも信長の気遣いに驚かされてしまう。
「信長様……今頃船の上かしら……」
 蔵ノ介の話によると、予定の通りに進めば、信長は今日、船に乗って目的の緒川おがわ城へと向かうらしい。
 しかし、外の天候はまるで嵐のようで、恐ろしいほどの風が吹いている。
 美夜は天守の窓から海の方角を、祈るような気持ちで見つめる。
「信長様がご心配ですか?」
 ふいに声をかけられ、驚いて振り返ると、一人の男が立っていた。
 それは先日の襲撃で負傷し、一命をとりとめた近習きんじゅうの一人で、確か、名を佐々木信親ささきのぶちかといった。
 彼は信長が幼少の頃から傍に仕え、いろんな悪さも一緒にした仲のようだったが、信親自身は他の近習たちと比べても、少しおとなしめの性格のようだった。
 今も遠慮がちに笑みを浮かべながら、少し離れたところから声をかけてきている。
 その控えめな信親の性格は信長にも気に入られているようで、彼が意識を回復したと知ったとき、信長が本当に嬉しそうだったのを美夜はよく覚えている。
 忍びの里に運ばれてきたときの彼は瀕死の重傷だったが、今は普通の生活ができるまで回復してきたようだ。
 しかし彼はまだ傷の回復途中でもあるということで、今回の戦への参加は許されなかったようだ。
「はい。こんな天候ですから、大丈夫かなと思って……」
 美夜はそう答えて、少し窓から離れる。
 あまりにも風が強すぎて、彼の声が聞こえないかもしれないと考えたからだ。
「でも、殿は大丈夫ですよ。悪運だけは強い御方ですから」
 信親がそう言って笑うので、美夜もつられて笑った。
甘音あまねもそんなことを言っていました。もう傷の具合は大丈夫なんですか?」
「はい。おかげさまで。今回の戦にも参加したかったのですが、殿からまだ駄目だと……」
「もしかして、信親殿も船を見に?」
「ええ。そろそろ出航した頃かと思いましたので、こうして天守までのぼってきてしまいました」
「私と同じですね。私も……何だかじっとしていられなくて……でも、暗くて何も見えませんでした」
「そうでしょうね。分かってはいたのですが、どうしても気になってしまって……」
 信親は苦笑しつつ、窓の外を見て、そして肩をすくめた。
 まだ外は暗いままで、海はおろか、草木の影すら判別しづらい。
 負傷したもう一人の近習は、松永宗久まつながむねひさといい、信親よりも早く回復したため、今回の戦に参加している。
 だから、信親が戦の様子を気にするのは、当然のことだろうと美夜は思った。
 しかし、瀕死の重傷から奇跡的に助かっても、また命の危険にさらされる戦に出て行く……それがこの時代に生まれた武士の生き方なのだとは分かっていても、美夜はやはり気の毒にと思ってしまう。
 勇んで戦に出て行った者たちも、そして負傷のために戦に出て行くことが許されず、せめて船を見ようとここへやって来た信親のことも、気の毒だと思ってしまうのだ。
 そう思うことが相手に対して失礼であることは美夜も十分に承知しているから、決して口に出すことはないのだけれども。
「帰蝶、ここにいたのか」
 気がつくと、甘音もまた天守までのぼってきていた。
 早朝ということもあったし、美夜は甘音に黙ってここまで来てしまっていたことを思い出した。
 城の中とはいえ、護衛である甘音を置いてけぼりにしてしまったのは、さすがにまずかったかもしれない。
「ごめんなさい。ここなら特に危険もないかなと思って」
「まあ、そりゃそうだけど……って、あんた確か……」
 甘音はようやく傍に立つ信親の姿に気づいたようだった。
「その節は里のほうでお世話になりました」
 信親もすぐに甘音の顔を見て、彼女が里の人間であったことを思い出したようだった。
「すっかり元気みてーだな」
 甘音が笑うと、信親も笑みを返す。
「はい。おかげさまで。次の戦には出してもらえるように、身体を整えているところです」
「男は戦にでれなきゃ肩身がせまいもんなー」
「ええ、本当にその通りで」
 信親は苦笑しつつ、頭をかく。
 甘音のこの物の言い方に腹を立てないのも、信親の柔和な性格のおかげもあるのだろうと美夜は思った。
 甘音は男に対しても、年上の人間に対しても、物の言い方に容赦がないので、相手によっては怒り出したりしてしまうこともあるのだ。
 でも、だからこそ、今の美夜にとって甘音は、何でも率直に言ってくれる貴重な存在でもあるのだった。
「では、私はこのまま道場で鍛錬をしてこようと思いますので、これで失礼します」
 そう言って、信親は天守の階段を降りていった。
 それを確認してから、甘音はとても何か言いたげな顔で美夜のことをじぃっと見てくる。
「え? な、なに?」
「帰蝶さー……」
「う、うん。何かな?」
 何だか不穏な空気を感じて、美夜は少し緊張してしまう。
「もうちょっと自覚持てよな」
「え? な、何のこと?」
「さっきのあれ、吉法師きっぽうしに見られたら、ただじゃすまねーぞ」
「ど、どうして?」
「あんた吉法師の正室なんだから、朝っぱらから男と二人でいるんじゃねーってことだよ」
「で、でも、別に少し立ち話をしていただけだし……」
 美夜がそう返すと、甘音は盛大にため息をつく。
「吉法師は嫉妬深いって、一昨日言ったばかりじゃねーか!」
 確かにそれは覚えているし、昨日も思い知らされたばかりではあるが、それは蔵ノ介や藤ノ助に対して、ということではなかったのだろうか……と美夜は思った。
「信親殿は信長様とも小さい頃から仲が良かったみたいだし、そういう心配はないんじゃないのかな……」
「そういう問題じゃねーよ。あんたは考えが甘すぎる!」
「そう……かな……」
「とりあえずさ、男と二人きりになるような場面はなるべく作らないこと!」
「わ、分かったわ。でも、さっきのは信親殿のほうから声をかけてきてくれたから……そういう場合はどうすればいいのかな……」
 美夜がそう言うと、甘音はちょっと首をかしげてから言ってくる。
「普通は声とかかけねーもんだと思うけど、あの信親って男、ちょっと抜けてそうだからなー。まあ、そういうことだったら、さっさと自分から離れるとかしたほうが良いと思うぜ」
「うん、そうだね。分かった。気をつける」
「あたしが傍にいりゃ、男と二人きりになる心配もねーから、そんな気遣いも少なくて済むだろうけど。あたしに声もかけずに帰蝶は出かけるもんなー」
 苦情を言われて、美夜は縮こまるしかなかった。
「ごめんなさい……まだ朝も早いし、寝てたら悪いかなと思って」
「それ気ぃ遣うとこ間違えてる。あたしがいりゃたとえ帰蝶が男と一緒にいようが何の問題もないんだ。けど、帰蝶が一人でいたせいで、とばっちり食らう人間が出ることのほうが、悪いと思わねー?」
 確かに、すべて甘音の言う通り過ぎて、美夜は頭が上がらない。
「そ、そうだね……うん、これからは本当に気をつけます」
「ま、分かってくれりゃいい。吉法師もすぐかっとなるけど後で後悔するやつだからさ。帰蝶のほうが気をつけてやってくれれば助かる」
「わかったわ」
 甘音の言葉を聞いて、美夜はさらに自分を反省した。
 甘音は何も、信長のとばっちりを食らう人間の心配をして美夜に忠告しているわけではない。
 信長自身の気持ちや性格も考えて、忠告してくれているのだ。
 確かに、信長は美夜のこととなると感情が一気に爆発してしまうことがある。
 そして、後でそのことを酷く後悔したりもするのだ。
 同じようなことを美夜は兄の雪春でも経験しているから分かる。
 そうならないようにできる方法があるのなら、できるだけその方法をとるのが、相手に対する思いやりというものだろう。
 先ほどの場合も、甘音が言うように、たとえ信親に愛想の悪い女だと思われても、美夜が一人であったわけだから立ち話などせずにすぐに立ち去るべきだった。
「ありがとう、甘音。私、いろいろ抜けていたわね」
「抜けてるのは、人のこといえねーけど。まあ、吉法師のことに関して、帰蝶がちょっと……いや、かなり鈍感だってことは確かかもな」
「うん、本当に気をつける。また気づいたことがあったら、遠慮なく言ってね」
「ああ、分かった。んじゃ、腹減ったし、戻ろうぜ」
「そうだね。ご飯だね」
 二人は笑い合って、天守の階段を降りていった。
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