平蜘蛛と姫――歪んだ愛

梵天丸

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平蜘蛛と姫――歪んだ愛(19)

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 そして、その約束の三日後、久秀はまだ戻ってこない。戻ってくる気配もない。
 信貴山と多聞山を行き来する伝令の言葉によれば、三好、筒井の両軍が一斉攻撃を仕掛けてきており、撤退も出来ない状態なのだという。
(いくら丈夫で守りに強いお城でも……攻撃され続ければ危険なはず……)
 久秀はおそらく、城の限界も心得ているはずだ。だからあの時、はっきりと三日後には、と可那に告げたのだと思う。
 それなのに、三日経ってもまだ撤退できていない。悪い予感しかしなかった。
「ね、ねえ、可那……ひ、久秀は……大丈夫……だよね?」
 どうやら義栄も久英のことを心配しているようだった。もしかすると、可那の不安が義栄にまで伝わってしまったのかもしれない。
「ええ、もちろん大丈夫です。お義兄さま、心配はいりません。可那は久秀殿が必ず戻るという言質を頂いています。彼は約束を違える人ではありません。必ず戻ってきますよ」
 可那がそう言うと、義栄は少し安堵したように微笑んだ。
 しかし、可那の内心は穏やかではなかった。今義栄に言い聞かせた言葉だって、自分自身に言い聞かせているようなものだった。
 信貴山城にほとんどの敵兵が結集していることもあって、多聞山城は日々平和なものだった。久秀が早くに可那と義栄をこちらに移したのは正解だったといえるだろう。おかげで義栄は、久秀の心配をしつつも、落ち着いた生活を続けることが出来ている。
(お願い……早く無事に戻ってきて……)
 可那は祈るような気持ちで信貴山の方角を見つめる。けれども、その日もまた、久秀が帰ってくることはなかった。

 それから二日後。まだ久秀は戻らない。
 伝令の話によると、やはり戦況が逼迫しているので、撤退がままならないのだという。
 伝令の顔にも疲れが見え始めていた。
 彼らも命がけで状況を報せてきている。
 万が一の場合には、この多聞山の軍兵を信貴山へ向かわせることになっている。しかし、その指示はまだ久秀からは出ていないのだという。
 多くの兵に守られているおかげで、可那と義栄の安全は保障されている。ただ、もしもそのせいで、久秀らが撤退できないのだとしたら、こちらは疎かになっても構わないから、援護に向かって欲しいと可那は思う。
 でも、ただ思うだけだ。
 可那には戦術に関する知識もないし、戦を指揮した経験もない。だから、口を挟むことは出来なかった。
 出来ることといえば、これまでと同様、久秀が無事に戻ってくることを祈るだけだった。

 その翌日、多聞山を守る兵の半数に対して、ようやく援軍要請が来た。今のこの状況なら、多聞山の兵が半数になったところで、問題はなさそうだ。それよりも、一刻も早く彼らに久秀のもとへ向かって欲しいと思った。
 久秀は多聞山の兵の半数を移動させるに当たって、可那に手紙をよこしていた。
 そこには万が一の場合の逃走の手順が書かれてあった。
 万が一にも、信貴山を包囲する敵兵が、この多聞山城を取り囲んだ場合のことを、久秀は心配しているようだった。
 その万が一が起こった場合は、速やかに久秀の手の者の指示に従い、城を脱して逃げるようにという指示が手紙には事細かに書かれてある。
 すでにその場合に付き添う者もきめ、逃走先への手配もすでに済んでいるのだという。
 久秀の相変わらずの手回しのよさに感心しつつも、彼が最悪の事態を想定していることに、可那は少し驚いた。
(私が考えている以上に……状況は良くないのかも……)
 可那の不安がいちだんと大きくなった。
(どうか援軍が無事に彼を連れて帰ってきてくれますように……)

 結局、久秀が戻ってきたのは、可那らが信貴山を降りてから七日後のことだった。
 戻ってきた他の兵や馬の状態を見ても、かなり苛烈な戦だったことが分かる。
「遅くなってすみません。予想以上に手間取ってしまいました」
 可那の顔を見るなり、久秀はばつが悪そうに謝罪した。
「ううん……無事に帰ってきてくれて本当に良かった……」
 可那は目頭が熱くなるのを感じた。
 本当に帰ってきた。
 ちゃんと無事で帰ってきた。
「ひ、久秀……お、お帰りなさい」
「義栄様、私が留守の間、この城と可那姫様をお守りくださってありがとうございました」
 久秀が丁寧に礼をとると、義栄はちょっと誇らしげに笑った。
 そういえば、義栄はこの七日の間、ずっと可那の傍にいてくれた。特に言葉をかけることもなく、付き添っていてくれた。義栄はずっと可那を守っていてくれたのかもしれない。
「お義兄さま、ありがとうございました」
 可那も久秀に習って礼を言うと、義栄はさらに恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「で、でも……ひ、久秀が……も、もし無事に帰ってきてくれなかったら……ど、どうしていいか……わ、分からなかった……」
 義栄の正直なその言葉に、久秀の顔が思わず綻んだ。
「必ず帰ってくるつもりでしたよ。ただ、少し手間取ってしまいましたけど。可那姫様とも約束しましたしね」
 自分の名が出てきて、可那はちょっと顔を赤くする。
「敵が思った以上にやる気だったのと、後はあまりこちらの被害を出したくなかったので。時間をかけすぎることになってしまいました」
「そうだったの……」
「最終的には、多聞山の兵と信貴山の兵とで挟撃を仕掛け、敵を一時的に撤退させました。その隙にようやくこちらも撤退を開始することが出来たのです」
「良かった……多聞山の兵は数が足りなくなったから応援を頼んだっていうわけじゃなかったのね」
「ええ。兵を出来る限り多く生かすために、きてもらった援軍です。おかげでこちらの兵の被害は最小限に済みました。貴重な戦力を、こんなところで無駄に失うわけには行きませんからね」
 久秀はそう言って自信たっぷりに微笑んで見せた。

 久秀はすぐに湯を使って戦場の汚れを落としに行ったようだった。可那は自分の部屋に戻った。ひょっとすると、彼がやってくるかもしれないと思ったからだ。
 もう何日も触れられていない。
 しばらく待っていると、予想とおり、湯を使った後の久秀が、すっかり涼しげな顔をして可那の寝所へとやって来た。
「さすがに最後の三日間は風呂に入る余裕すらありませんでしたからね」
 それを聞いただけで、どれだけ戦闘が激しかったかが想像できそうだった。
「でも……本当に無事でよかった……」
 また瞳を潤ませる可那を、久秀が長い手を伸ばして抱き寄せる。
「あぁ……この香り。久しぶりだ……」
 久秀はわざと鼻を鳴らすようにして、可那の匂いをかいでいる。可那も事前に湯を使って念入りに体の手入れをしていたが、そんな間近で匂いをかがれると心配になってしまう。
「あ、あの……っ……」
 慌てる可那を抱き上げ、久秀は布団の上にその体をそっとおろした。
 そして可那に掛け布団をかけると、その横に潜り込んでくる。
「ここのところ、まともに寝ていないので、さすがに今日は体力が持ちそうにありません。このまま休んでも良いですか?」
「も、もちろん……」
 可那はそう答えたが、内心で少しがっかりしている自分にも気づいて驚いた。
(まさか私……期待していたの……?)
 そんな可那の胸の動揺に気づいたかのように、久秀は布団の中でくすりと笑う。
「もしかして……体が疼いて我慢がなりませんか?」
「そ、そんなことはありませんっ……」
「本当に?」
「ほ、本当に決まってるでしょ」
 可那は気分を害したように言ったが、久秀のほうはまったく信じていないようだった。
「心配しなくても、また明日から可愛がってあげますよ。七日も貴方に触れられなかったのですから……」
 そう囁く久秀の顔は、少し眠たげな様子だった。
 普段は有り余るほどの体力を持つ彼も、今回の戦ではかなり疲弊してしまったようだ。確かにこれは早く休ませたほうが良いだろう。
「余計なことを言ってないで、早く寝たらどう? 疲れているんでしょう?」
「ええ……そうですね。疲れました……もうこんなのは二度と御免ですね……貴方がこんなに近くにいるのに……何も……出来ないなんて……」
 最後のほうは何を言っているのか聞き取りにくいぐらいか細い声になっていた。もう久秀は深い眠りの中に入ってしまったらしい。小さな寝息が聞こえてくる。
(こうして隣で眠ってる姿を見るのって、久しぶり……)
 かつて富田城でそういうことがあったのを、可那は懐かしく思い出した。あの時は可那が眠っているうちにいつの間にか久秀が布団に潜り込んで、隣で眠っていた。
 あの時も思ったが、眠っている久秀というのは、普段よりもずっと幼く見えてしまう。
(眠っていると……何だか可愛い……)
 そう思いかけて、可那ははっとする。いくら心の声でも、大人の男性に向かって可愛いは失礼だろう。でも、普段は何を考えているのか分からないような久秀でも、本当に寝顔は驚くほど無垢に見えるのだ。
 可那がそっとその顔に触れてみても、久秀は起きる気配を見せなかった。よほど疲れているのだろう。
 可那はしばらく隣で横になりながら、久秀の寝顔を見つめた。朝まで見つめていても、見飽きることがなさそうだった。
 けれども、実際には可那はいつの間にか眠っていて、起きたときにはもう久秀の姿は布団の中にはなかった。

 それから数日経っても、久秀は可那に触れようとしなかった。
 翌日には寝所に来るのではないかと思っていたが、その翌日も、さらにその翌日も、久秀は可那の部屋には来なかった。
 どうやら久秀は休む暇もなく、政務を再開しているようだった。
 主には書状を書いている時間が長いようだったが、どこかの使者と会っていることもある。また使いに出したものが帰ってくると、人払いをしてその話を時間をかけて聞いていたりした。
(そんなに忙しいのかしら……?)
 可那は時折、久秀の様子を伺ったりしてみるが、確かに忙しそうな様子だった。書状を書いていたかと思うと、来客があり、来客が帰ったかと思うと、また机に向かって書状を書いている。
 それは早朝から深夜まで続いているようだった。
 そして、久秀が城へ戻ってから、十日ほど過ぎた。久秀は相変わらず忙しそうで、最初の夜以来、可那の部屋を訪れたことは一度もない。
(何だかもやもやする……)
 体のどの部分がもやもやするかといえば、腹の底の底辺り、両足の合間のある部分だ。可那は自分が今何を望んでいるのか、よく理解している。
 久秀が多忙なのは、見ているだけで分かる。大きな戦の後だったのだから、その事後の処理も必要だろうし、信貴山城を取られてしまったのだから、それに対する対処も必要だろう。
 それは分かっているのだけれども。
「はぁ……」
「ど、どうしたの、可那?」
 ため息が思いのほか大きくなってしまったせいか、傍にいた義栄が怪訝そうな顔をして見つめている。
「あ、いえ、何でもないです……」
「さ、最近の久秀って、な、何だか忙しそうだよね……」
 義栄の言葉に可那は心臓をどきりとさせる。まるで自分の考えていたこと知っているかのようだ。
「そ、そうですね……」
「で、でも、約束したとおり、ちゃんと生きて帰ってきてくれたから。や、やっぱり久秀は、す、すごいよね……」
「え、ええ……」
 どうやら義栄は可那の考えていることを見抜いていたわけではないようだ。義栄自身も寂しい気持ちがあるのだろう。
 可那が放っておかれるぐらいだから、義栄との接触もそれほど多くないに違いない。
「戦の処理が終わるまでは、もうしばらくかかるかもしれませんね」
「う、うん……ぼ、僕も何かて、手伝えたらいいんだけど……」
「お義兄さまがそう思ってくださるだけで、久秀は嬉しいと思いますよ」
「そ、そうかな? じゃ、じゃあ、頭の中だけで、ひ、久秀を手伝うことにするよ」
 その頭の中だけで、という義栄の言葉が微笑ましくて、可那は思わず笑ってしまう。こうして笑ったのも、久しぶりな気がする。
「や、やっぱり、か、可那は笑っているほうが、い、いいよ」
「ありがとう、お義兄さま。お義兄さまのおかげで、久しぶりに笑えました」
「じゃ、じゃあ、か、可那がもっと笑えるように、な、何かまた、か、考えておくよ」
「はい。楽しみに待っていますね」
 こうして義栄と他愛もない話をしながら笑い合えるのは、戦がないからだ。
(いつかこの国から戦がなくなればいいのに……)
 可那は心からそう思った。義栄のためにも、そして、久秀のためにも。

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