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平蜘蛛と姫――歪んだ愛(15)
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枕元でぽちゃりぽちゃりと水音がする。
今夜も久秀は可那を抱き、そして今はその事後だった。久秀はいつものように、可那の体を拭っている。
城中、城外ともに騒がしくなりつつあるというのに、久秀の様子はいつもと変わりなかった。可那に対しても、信長の上洛や義秋のことについては、まだ何も言ってこない。
可那自身から聞こうと思ったことも何度かあったが、その前に久秀のほうから話があるものだと考えていた。けれども、今日まで彼はこの件について、可那に一言もない。
(何を考えているのかしら……)
目を細め、うっとりと可那の肌に視線を落としながら、丁寧に水で濡らした布で清めている。そのあまりにもいつもと変わらない様子に、可那は少し苛立った。
「どうして……そんなに平気な顔をしていられるの?」
「何がですか?」
久秀は可那の手首から肩にかけて拭いながら、首をかしげる。とぼけているのだろうか……。
「お義兄さまに退位を迫る使者が織田家から来ているのでしょう?」
「ええ、もう何度も」
「それなのに……そんなに落ち着いていて大丈夫なの?」
可那は苛立ちを堪えながら、久秀に聞く。久秀は笑みを称え、手を止めずに答えた。
「慌てても仕方がありませんからね」
「それは……自信があるから? 信長を上洛させない方法でもあるの?」
「さあ……それはあるとは言い切れませんね。織田信長はうつけ殿だという評判ですが、これまで宣言したことはすべてやり遂げています。私の目から見ると、近年稀に見る逸材のようですね」
「じゃあ……信長が上洛してくるのは間違いないと?」
「おそらく、上洛するでしょうね。それも圧倒的な力で」
久秀はまた桶の中で布を洗っている。ぽちゃりぽちゃりと静かな水音が響いている。
「そ、それで……勝算は?」
「ないわけではありませんが……難しいでしょうね」
それではほとんど勝てないと宣言しているようなものだ。
「お義兄さまは……大丈夫なのかしら。退位はともかくとして、信長が命まで狙わないという保障はないのでしょう?」
可那がもっとも恐れているのはそれだった。
義栄はもともと将軍職に望んで就いたわけじゃない。だからそれを返上するのはまったく問題がない。
ただ、信長が義栄に将軍職を返上させてそれでよしとしてくれるかどうかが問題だった。
三好家は最後まで義栄を守ってくれるのだろうか……。
「まあ……今度こそは三好も危ういかもしれませんね」
「危ういかもしれないって……だったら、お義兄さまはどうなるの?」
可那は思わず声を荒げていた。
三好が義栄を守りきれなくなったら、一体どうすればいいのか……。
将軍家には独自の兵がない。幕府が独自に有する兵はごく僅かだ。それだけでは、大名家と戦うことはとうてい出来ない。
久秀は可那の体を拭う手を止めず、今はその足の膝を丁寧に拭っている。
「もう少しで終わります。おとなしくしていてください」
思わず体を浮かせようとした可那を、久秀は微笑んだまま制した。その抗いがたい雰囲気に、可那はおとなしく布団に身を横たえる。
「でも……本当のところはどうなの? 三好はお義兄さまを見捨てて織田になびくつもり?」
「三好の意向はまだはっきりと分かりませんが……おそらく、義栄様を立てて織田を迎え撃つつもりではないでしょうか」
まるで他人事のように久秀は言う。彼も三好の人間ではないのだろうか。しかも三好を影で牛耳って、自分の意のままに操り、これまで義輝を殺し、義栄を四国から引っ張り出してきた……。
可那には久秀の考えていることが分からなくなった。
「お義兄さまを戦に巻き込まないで……!
可那はまた声を荒げていた。
それが可那のもっとも恐れていたことだ。
「おとなしくしていてください。動くときちんと手入れが出来ません」
「そんなことよりも、私にはお義兄さまのことのほうが大事なの!」
「動かないでくださいと言っています」
有無を言わさぬ目で見据えられ、可那は仕方なく身を横たえる。
「三好の意向はともかくとして、私には義栄様を守らなくてはならない理由があります」
久秀は静かに続けた。
「織田の上洛を防ぐ手立ても、義栄様の退位を防ぐ手立てもおそらくありませんが、義栄様を守る方法はいくつか考えてあります」
「その言葉……信じていいのね?」
可那が聞くと、久秀はやんわりと微笑んだ。
「私にとってこの世に二つ大切なものがあります。それが何か分かりますか?」
問いかけられて戸惑いつつも、可那は考える。彼にとって大切なもの。一つは平蜘蛛。そしてもう一つは……。
「平蜘蛛と……将軍?」
可那が答えると、久秀はくすくすと笑い出した。
一つは平蜘蛛で間違いないはずだ。そしてもうひとつは彼の立場を守るために、義栄ではなくとも将軍というものが必要だと可那は考えてみたのだが、違ったのだろうか……。
きょとんとする可那に、久秀は微笑みかける。
「平蜘蛛はあっていますが、将軍は違います」
「違うんだ……」
可那にとってはそれはとても意外なことだった。
「じゃあ、三好家内での権力?」
「それも違います」
だったら一体本当に何なのだろう……。
首を傾げてしまった可那に、久秀は答える。
「貴方ですよ」
「え……?」
驚いたように見つめる可那をよそ目に、久秀はその手を持ち上げ、もう片方の手の肩から肘にかけて丁寧に布で清めている。
(久秀の大切なものの一つが……私……?)
可那にはどういうことだか分からなかったし、信じられなかった。まさか久秀の大切なものとして、自分が上げられるとは。
平蜘蛛は分かる。彼が並々ならぬ執着を見せ、大切にしているものだと知っている。だけど可那のことは、確かに執着しているようには見えるが、ただ単に欲望のはけ口として考えているのではなかったのだろうか。
(まさか……彼が私のことを特別に思ってくれている……とか?)
そういう気配を感じなかったわけではない。たとえば、摂津の富田城でいつの間にか可那の布団に潜り込んでいたときとか。
もしも可那の体だけが目当てなのだったら、眠っている可那を起こしてすることをしてしまっていたに違いない。それをしなかったのは、ただ単に可那の傍にいたいという気持ちがあったから……?
(久秀は私の傍だとよく眠れるから布団に潜り込んだとか言っていたけど……)
可那は混乱しつつも、久秀を見る。その視線に気づいた久秀が、可那の手を掲げるようにしながら、うっとりと目を細めた。
「平蜘蛛と同等に大切なものが出来るとは思いませんでした」
可那はぞくりと背筋が粟立つのを感じた。
違う。そうじゃない。久秀は可那に思いを寄せているとか、そういう意味で大切だと言っているわけじゃない。
久秀は人間としての可那ではなく、器として可那の体を気に入っているに過ぎないのだろう。ものに異常な執着を示す久秀らしいことだ。
恋とか愛とか、そういう類のものではまったくない。
可那は背筋が震えるとともに、多少の落胆も感じた。ひょっとして……と思ってしまった自分が恥ずかしい。
「ですから、貴方を引き繋いでおくためにも義栄様には生きていてもらわねば困ります。たとえ将軍でなくなったとしても」
「そう……」
「私はどうにかして義栄様を生かすための方法を考え続けていますよ。そうでなければ、貴方の所有権を失ってしまいますからね」
「…………」
とりあえず、義栄のことは久秀に任せておけば良いだろう。彼の言葉はある意味でとても信じられる。平蜘蛛と同等に可那の『体』が大切だというのなら、それを守るために出来る限りの策は講じてくれるはずだ。
「さあ、終わりました。着物を着ましょう」
着ましょう……といっても、すべては久秀がやってくれる。最初のうちは自分で着たいと言ったけど、まったく取り合ってもらえなかった。下帯から肌襦袢まで、すべてを着せ終えて、久秀の可那に対する手入れは終わるようなのだ。
手馴れた手つきで下帯をつけ、胸にさらしを巻き、襦袢をつけさせると、久秀は満足そうに微笑んだ。
「本当に……何があってもお義兄さまのことは守ってくれるのね?」
可那が念のために聞くと、久秀は頷いた。
「先ほども申し上げたとおり、あなたを引き止めておくための大切な道具ですから。信長には義栄様に一指も触れさせはしません」
「分かった。私も貴方がお義兄さまを守ってくれる限り、貴方の道具であることを誓うわ」
「貴方が物分りの良い道具でよかった。さあ、もう遅い。休みましょう」
自信に満ちた久秀の微笑を見て、可那は少し安堵もした。
城内の動揺を見ても、最近の長逸の顔色を見ても、織田信長という人物はこれまで三好一族が敵対してきた者たちとはまるで格が違うようだった。その勢いのままに義栄が傷つけられることだけは、絶対に避けなければならない。
けれども、久秀がああも自信たっぷりに言うのだから、義栄の安全は間違いのないところなのだろう。それにしても、久秀はどんな方法で信長に対抗しようとしているんだろうか……。
今夜も久秀は可那を抱き、そして今はその事後だった。久秀はいつものように、可那の体を拭っている。
城中、城外ともに騒がしくなりつつあるというのに、久秀の様子はいつもと変わりなかった。可那に対しても、信長の上洛や義秋のことについては、まだ何も言ってこない。
可那自身から聞こうと思ったことも何度かあったが、その前に久秀のほうから話があるものだと考えていた。けれども、今日まで彼はこの件について、可那に一言もない。
(何を考えているのかしら……)
目を細め、うっとりと可那の肌に視線を落としながら、丁寧に水で濡らした布で清めている。そのあまりにもいつもと変わらない様子に、可那は少し苛立った。
「どうして……そんなに平気な顔をしていられるの?」
「何がですか?」
久秀は可那の手首から肩にかけて拭いながら、首をかしげる。とぼけているのだろうか……。
「お義兄さまに退位を迫る使者が織田家から来ているのでしょう?」
「ええ、もう何度も」
「それなのに……そんなに落ち着いていて大丈夫なの?」
可那は苛立ちを堪えながら、久秀に聞く。久秀は笑みを称え、手を止めずに答えた。
「慌てても仕方がありませんからね」
「それは……自信があるから? 信長を上洛させない方法でもあるの?」
「さあ……それはあるとは言い切れませんね。織田信長はうつけ殿だという評判ですが、これまで宣言したことはすべてやり遂げています。私の目から見ると、近年稀に見る逸材のようですね」
「じゃあ……信長が上洛してくるのは間違いないと?」
「おそらく、上洛するでしょうね。それも圧倒的な力で」
久秀はまた桶の中で布を洗っている。ぽちゃりぽちゃりと静かな水音が響いている。
「そ、それで……勝算は?」
「ないわけではありませんが……難しいでしょうね」
それではほとんど勝てないと宣言しているようなものだ。
「お義兄さまは……大丈夫なのかしら。退位はともかくとして、信長が命まで狙わないという保障はないのでしょう?」
可那がもっとも恐れているのはそれだった。
義栄はもともと将軍職に望んで就いたわけじゃない。だからそれを返上するのはまったく問題がない。
ただ、信長が義栄に将軍職を返上させてそれでよしとしてくれるかどうかが問題だった。
三好家は最後まで義栄を守ってくれるのだろうか……。
「まあ……今度こそは三好も危ういかもしれませんね」
「危ういかもしれないって……だったら、お義兄さまはどうなるの?」
可那は思わず声を荒げていた。
三好が義栄を守りきれなくなったら、一体どうすればいいのか……。
将軍家には独自の兵がない。幕府が独自に有する兵はごく僅かだ。それだけでは、大名家と戦うことはとうてい出来ない。
久秀は可那の体を拭う手を止めず、今はその足の膝を丁寧に拭っている。
「もう少しで終わります。おとなしくしていてください」
思わず体を浮かせようとした可那を、久秀は微笑んだまま制した。その抗いがたい雰囲気に、可那はおとなしく布団に身を横たえる。
「でも……本当のところはどうなの? 三好はお義兄さまを見捨てて織田になびくつもり?」
「三好の意向はまだはっきりと分かりませんが……おそらく、義栄様を立てて織田を迎え撃つつもりではないでしょうか」
まるで他人事のように久秀は言う。彼も三好の人間ではないのだろうか。しかも三好を影で牛耳って、自分の意のままに操り、これまで義輝を殺し、義栄を四国から引っ張り出してきた……。
可那には久秀の考えていることが分からなくなった。
「お義兄さまを戦に巻き込まないで……!
可那はまた声を荒げていた。
それが可那のもっとも恐れていたことだ。
「おとなしくしていてください。動くときちんと手入れが出来ません」
「そんなことよりも、私にはお義兄さまのことのほうが大事なの!」
「動かないでくださいと言っています」
有無を言わさぬ目で見据えられ、可那は仕方なく身を横たえる。
「三好の意向はともかくとして、私には義栄様を守らなくてはならない理由があります」
久秀は静かに続けた。
「織田の上洛を防ぐ手立ても、義栄様の退位を防ぐ手立てもおそらくありませんが、義栄様を守る方法はいくつか考えてあります」
「その言葉……信じていいのね?」
可那が聞くと、久秀はやんわりと微笑んだ。
「私にとってこの世に二つ大切なものがあります。それが何か分かりますか?」
問いかけられて戸惑いつつも、可那は考える。彼にとって大切なもの。一つは平蜘蛛。そしてもう一つは……。
「平蜘蛛と……将軍?」
可那が答えると、久秀はくすくすと笑い出した。
一つは平蜘蛛で間違いないはずだ。そしてもうひとつは彼の立場を守るために、義栄ではなくとも将軍というものが必要だと可那は考えてみたのだが、違ったのだろうか……。
きょとんとする可那に、久秀は微笑みかける。
「平蜘蛛はあっていますが、将軍は違います」
「違うんだ……」
可那にとってはそれはとても意外なことだった。
「じゃあ、三好家内での権力?」
「それも違います」
だったら一体本当に何なのだろう……。
首を傾げてしまった可那に、久秀は答える。
「貴方ですよ」
「え……?」
驚いたように見つめる可那をよそ目に、久秀はその手を持ち上げ、もう片方の手の肩から肘にかけて丁寧に布で清めている。
(久秀の大切なものの一つが……私……?)
可那にはどういうことだか分からなかったし、信じられなかった。まさか久秀の大切なものとして、自分が上げられるとは。
平蜘蛛は分かる。彼が並々ならぬ執着を見せ、大切にしているものだと知っている。だけど可那のことは、確かに執着しているようには見えるが、ただ単に欲望のはけ口として考えているのではなかったのだろうか。
(まさか……彼が私のことを特別に思ってくれている……とか?)
そういう気配を感じなかったわけではない。たとえば、摂津の富田城でいつの間にか可那の布団に潜り込んでいたときとか。
もしも可那の体だけが目当てなのだったら、眠っている可那を起こしてすることをしてしまっていたに違いない。それをしなかったのは、ただ単に可那の傍にいたいという気持ちがあったから……?
(久秀は私の傍だとよく眠れるから布団に潜り込んだとか言っていたけど……)
可那は混乱しつつも、久秀を見る。その視線に気づいた久秀が、可那の手を掲げるようにしながら、うっとりと目を細めた。
「平蜘蛛と同等に大切なものが出来るとは思いませんでした」
可那はぞくりと背筋が粟立つのを感じた。
違う。そうじゃない。久秀は可那に思いを寄せているとか、そういう意味で大切だと言っているわけじゃない。
久秀は人間としての可那ではなく、器として可那の体を気に入っているに過ぎないのだろう。ものに異常な執着を示す久秀らしいことだ。
恋とか愛とか、そういう類のものではまったくない。
可那は背筋が震えるとともに、多少の落胆も感じた。ひょっとして……と思ってしまった自分が恥ずかしい。
「ですから、貴方を引き繋いでおくためにも義栄様には生きていてもらわねば困ります。たとえ将軍でなくなったとしても」
「そう……」
「私はどうにかして義栄様を生かすための方法を考え続けていますよ。そうでなければ、貴方の所有権を失ってしまいますからね」
「…………」
とりあえず、義栄のことは久秀に任せておけば良いだろう。彼の言葉はある意味でとても信じられる。平蜘蛛と同等に可那の『体』が大切だというのなら、それを守るために出来る限りの策は講じてくれるはずだ。
「さあ、終わりました。着物を着ましょう」
着ましょう……といっても、すべては久秀がやってくれる。最初のうちは自分で着たいと言ったけど、まったく取り合ってもらえなかった。下帯から肌襦袢まで、すべてを着せ終えて、久秀の可那に対する手入れは終わるようなのだ。
手馴れた手つきで下帯をつけ、胸にさらしを巻き、襦袢をつけさせると、久秀は満足そうに微笑んだ。
「本当に……何があってもお義兄さまのことは守ってくれるのね?」
可那が念のために聞くと、久秀は頷いた。
「先ほども申し上げたとおり、あなたを引き止めておくための大切な道具ですから。信長には義栄様に一指も触れさせはしません」
「分かった。私も貴方がお義兄さまを守ってくれる限り、貴方の道具であることを誓うわ」
「貴方が物分りの良い道具でよかった。さあ、もう遅い。休みましょう」
自信に満ちた久秀の微笑を見て、可那は少し安堵もした。
城内の動揺を見ても、最近の長逸の顔色を見ても、織田信長という人物はこれまで三好一族が敵対してきた者たちとはまるで格が違うようだった。その勢いのままに義栄が傷つけられることだけは、絶対に避けなければならない。
けれども、久秀がああも自信たっぷりに言うのだから、義栄の安全は間違いのないところなのだろう。それにしても、久秀はどんな方法で信長に対抗しようとしているんだろうか……。
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