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銀鼠の霊薬師 番外編
1 菖蒲
しおりを挟む菖蒲は標的になる男の後を追っていた。
先程、あの男が甘味屋で羊羹を買う時に出した財布は、ずっしりと重そうだった。
あれを持っていけば、兵助に文句は言われないだろう。今日は殴られずに済みそうだ。
──失敗出来ない。
小道を歩く標的の臙脂色の背中を見つめながら、菖蒲はその時を窺っていた。
男の向かう先は人通りの多い大通りのようだ。
菖蒲は好機だと先に大通りに出て、男が姿を表すのを待つ事にした。ひしめき合う人々の隙間から、小道を凝視する。この仕事は人通りが多ければ多い程やりやすい。
──来た‼
ふらりと黒い癖毛の頭が見えた。
長身の男は、人混みの中でも結構目立つ。そして、運良くこちらに向かって歩いて来ていた。
初めて真正面から見たその男は、細い目に貼り付けたような笑みを浮かべている。
「…………」
不気味な男だと菖蒲は感じた。
止めようか?
あの男には何だか危険な空気を感じる。
だが、あの男の財布の中身はかなり魅力的だ。危険を犯す価値は充分ある。
考えてる時間はない。男はどんどん近づいて来ている。
菖蒲は駆けた。
徐々に近づく男の臙脂色の着物を視界の中に捉えながらも、見つめないよう気をつけながら、いかにも急いでいる風を装い走る。
どんっ。
男と身体がぶつかり「ごめんよっ」と顔を見ずに謝罪だけ口にした。
男の視線を背中に感じる。嫌な汗が吹き出た。
追いかけられるかと思ったが、そんな気配は無い。懐にあの男の財布の重みを感じながら、それでも暫く菖蒲は走った。
※
「でかしたぞ菖蒲‼」
その日の夜。
兵助は菖蒲があの男から掠め盗った財布を片手でお手玉のようにぽんぽんと弾ませ、重さを確かめると機嫌良さそうに笑った。
今日は痛い思いをせずに済みそうだ。
菖蒲には両親がいない。父親が作った借金のために、当時三歳だった娘の菖蒲を置いて両親は夜逃げをしたからだ。幼い子供はきっと逃げるのに邪魔だったのだろう。
両親を探し幼い足で町を彷徨っているうちに行き倒れた。その日は特別寒い夜で、菖蒲の小さな身体から容赦なく体温を奪っていく。
その時、そんな菖蒲を見つけたのがこの兵助だった。
彼は両親の知り合いだった。凍えきった菖蒲を抱えて家を訪ねたが、家はもうもぬけの殻。それで、兵助は菖蒲の両親が彼女を捨て、夜逃げをしたんだとすぐに悟った。
それから十二歳になる今まで、ずっとこの男に育てられてきた。
だが、定職にも就かず独り身の兵助はただの親切心で菖蒲を引き取った訳では無かった。
最初にやらされたのは物乞い。
汚いボロ布を着せられ、足元に空の茶碗を置いて同じく乞食の格好をした兵助と道端に座る。すると、優しい人が小銭を投げてくれるのだ。
次に仕込まれたのは掏摸のやり方。
露天や、店先で金払いの良さそうな客や、財布の中身が入ってそうな客を物色し機会を伺い財布を掠め盗る。
罪悪感などは無かった。
それが今の菖蒲の生きる術で、やらないと兵助に手痛い目に合わされる。
一番嫌だったのが、十歳を過ぎた辺りからたまに男の相手をさせられる事だった。結構な金額を稼げるらしく、兵助は子供を好む客を見つけて来ては、菖蒲に夜の相手をさせた。
これだけは、何度回数を重ねても慣れなかった。一度、泣きながら兵助にもう嫌だと懇願したが聞き入れて貰えなかった。が、心做しかそれから頻度は減ったような気がする。
金は兵助の酒や賭博、女遊びに消えていった。
別にそれは構わなかった。日々ちゃんと食べれらて雨風凌げる場所で、冬も凍える事なく眠ることができれば……。
財布を手にした兵助は、鼻歌まじりに出かける用意を始めた。これから色街にでも繰り出すのだろう。
今夜は鼾に悩まされる事も無く、ゆっくり眠れそうだ。
ごそごそと、菖蒲が自分の布団に潜り込んだ時だった。
がらりと引き戸を開ける音がしたかと思うと、兵助の驚く声が聞こえた。
「な、何だお前ぇっ‼」
その声に菖蒲は飛び起きる。そして「あ」と思わず声が出た。
臙脂色の着物に肩まで伸びた癖のある黒髪、今日自分が財布を掏った男がそこに立っていたからだ。
「人の財布盗っておいて、それは無いんじゃない?」
男は一歩家の中へと足を踏み入れた。身長のためか、少し頭を低くし中に入る。
彼の言葉に兵助はハッと菖蒲を見る。菖蒲は布団の上で、青い顔をして座り込んでいる。
後を付けられていた? そんな気配は微塵も感じなかった。それを一番警戒している自分が気づかない筈が無い。
危険な人物に手を出してしまったと気づく。
男の腰に差した日本刀に視線を落とし、背中に冷たいものを感じた。
「何か事情があっての事なら、見逃してあげようと思ったんだけど……五体満足な大人が、子供に掏摸をさせているとはねえ」
「ひぃっ。こ、これは返すからっ‼命だけは勘弁してくれっ」
男の腰に差す刀に怖気づいた兵助は、懐にしまっていた財布を震える手で差し出した。
その財布を男は無言で受け取ると、外にひょこっと顔を出し「役人さん、こっち」と外に居るであろう人物に声をかけた。
すると、ばたばたと狭い家に役人の格好をした男たちが押し掛ける。
そして、あっという間に兵助を後ろ手に縛り上げた。
「ご協力感謝します」
役人の一人が、男に頭を下げると彼は肩を竦めて薄く笑う。
「いや、礼はいいよ。報酬さえちゃんと貰えれば」
男はそう言うと、菖蒲に一瞥もくれる事なくさっさと出ていく。
「子供はどうしましょう?」
「この男に無理やりやらされていたんだろう? これからは真っ当に生きていくさ」
役人達はそう言うと、縛り上げられ項垂れる兵助を連れ出ていった。
布団の上でその一部始終を見ていた菖蒲は、急に不安に襲われる。
兵助が居なくなれば、自分はどうなる?
これからは独りで生きて行かなければならない。
兵助は良い保護者とは言えなかったが、少なくとも住む場所を提供してくれた。契約していた兵助が居なくなったと分かれば、大家はすぐにでも菖蒲を追い出すだろう。
子供ひとり、どうやって住む場所を探せばいいのか……その術を自分は知らない。
今は秋。
徐々に気温も低くなっていく。寒空の中、野宿なんて下手したら死んでしまう。
ぞわりとした。
眼の前に闇が広がっていく錯覚に陥り、不安で身体が竦んだ。
気づけば菖蒲は走り出していた。
臙脂色の着物の男を追って……。
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